運の悪さの補い方 その1

さてさて、先日は私の絶望的なほどのくじ運の悪さを(恥ずかしげもなく)お伝えいたしましたが、今日はそんな運の悪さを少しでも補う方法をシェアしたいと思います。

 

これは宇賀神先生の勉強会でずいぶんと以前に教えていただいた、松下幸之助さんに関する説話です。

松下幸之助さんと言えば、「世界の松下」として有名な松下電器産業さん、今はパナソニックさんの創始者でいらっしゃいますね。

彼は貧しい境遇から身を起こされ、神様と称されるほどの素晴らしい経営者となられました。

その彼の会社が大きく発展するきっかけとなりましたのが、かの有名な二股ソケットの販売です。

 

二股ソケットの売り上げが大きく飛躍したものの、松下さんはもっともっと会社を大きくし、「日本の松下」と言われるようにになりたいと願われたそうです。(後には「世界の」とまでなられましたが。)

そこで、北条さん(この方のお名前は宇賀神先生もウロ覚えです、申し訳ありません。)とおっしゃる人相見のところへ行き、どうすればこの先へ行けるのか尋ねられたそうです。

 

ところが、その人相見は、

「あんたさんの運はここまで来ただけでも充分すぎるくらいで、この先を望んだらあかん。」

というようなことをおっしゃったそうです。

それでも松下さんは、どうしても「日本の松下」と言われるくらいの大きな会社にしたいのです、と、食い下がられました。

すると、

 

「そんなら・・・いいですか、あんたさんの人相でいいところは無いけれど、たったひとつだけ、その『耳』の相がいいですな。

二股ソケットも、『電灯口がひとつしかなくて不便で』という話を『耳に挟んだ』から、売ったというではないですか。

その耳がよろしい。

聞いたことを活かしなさい。

そして、自分のできないことは人にしてもらいなさい。

自分に運がないなら、優秀な人を、頭と運のいい人を雇って、その人達の言うことをよく聞いて、聞いたことを活かしなさい。」

 

こう、おっしゃったそうです。

たしかに、松下さんのお写真を拝見いたしますと、お耳がとても大きくていらっしゃいますね。

その耳で、人の話・大切な情報を聞いて活かすよう、そしてまた、自分に運がこれ以上ないのであれば、いい運を持っている人に助けてもらうようアドバイスをいただいたそうです。

彼にまつわる多くの伝記でも、部下の方を含め人の話にはよく耳を傾けられたと記されておりますから、ご自身の耳を活かされたと申し上げても過言ではないと思います。

 

また、宇賀神先生の以前のお知り合いの方で、松下産業さんのある地方の工場の工場長をなさってた方がおられました。

その方がおっしゃるには、ご自身が入社試験を受けられたとき、最終面接で松下幸之助さんに直々に問われたそうです。

「あなたはご自分で運がいいと思われますか?」と。

その方は、

「はい、いいと思います!

大した大学を出たわけでもないこの私が、こうして松下さん直々に面接していただけるなんて、それだけでもう運がいいと思います!」

と、意気揚々と答えられたそうです。

 

結果は、合格。

そして、後に地方の工場の、工場長にまでなられました。

 

さらに、その工場で新入社員の採用試験を行われるときに、突然わざわざ松下さんが来られて、

「まんのいいのを採りや。」

と、おっしゃったそうです。

 

「まん」とは大阪弁で、「運」と「間(ま:タイミング)」のかけあわせのような単語、とでも申しましょうか。

つまり、「運のいい人を採用しなさい」と、おっしゃったそうです。

 

このことは宇賀神先生が直接その工場長さんからお聞きになったお話ですので、松下さんが「運のいい人に会社の仕事をしてもらう」ことを大事になさったのは、間違いないと思います。

 

ですので、運をよくする方法としましては、

「自分の中の(すでに持っている)いい運や相を活かし、それを伸ばす」こと、

また、

「自分に足りないところは、他の誰か、または何かに補ってもらえばいい」

言いかえるなら、

「得手に帆をあげよ」

ということでしょうか。

 

そのためには、まず、自分自身を振り返るというのはいい方法かもしれません。

自分が今まで何を得意とし、何に関して運がよかったのか、一度じっくり考えてみてください。

先日の「当たり前」の例えではありませんが、本人にとっての当たり前は、案外他の人の当たり前ではないことが多いのです。

せっかく「大当たりが目の前にある」のに、それが本人にとってはごく自然のことなので、幸運なことでも幸運と思わなくなってしまっている、ということが往々にしてあるようです。

 

「思い返せば自分はこれに関することでは結構運よく恵まれてるなー。」「他の人より簡単にこなせてるんじゃないかな。」などと思われる分野がございましたら、そこに磨きをかける、というのは一つの手です。

そして、自分が苦手なことは、今お流行りのアウトソーシング?を思い切ってしてみる。

苦手分野の克服に励むのは、義務教育まででいいのではないでしょうか。(ちょっと乱暴すぎる結論でしょうか?)

 

そう。

それで、ですね。

浅はかなワタクシが思いつきました、すっごくいいアイデアがございまして。

 

先日、私には絶望的なほどくじ運が無いことをお伝えいたしました。

ですが私の姪っ子のMちゃん、あの、似顔絵を描いてくれた子ですね。(本当の奇跡春の氣

Mちゃんは私と正反対で、オソロシイほどくじ運がいいのです。

去年のお誕生日会兼クリスマスパーティーで、義妹が子供たちのために用意したくじ引きがあったのですが、3人の子供たちの中でMちゃんだけは、引いても引いても、何回引いてもちゃーんと自分の欲しいものをゲットするのです。

義妹は一人当たり10個ほどの大量のくじを作ったのですが、その中で1度もハズレなく自分の欲しいものばかりを当てたのはMちゃんだけでした。

私は正直、羨ましさで開いた口がふさがりませんでした。

しかもいつぞや母と行ったお店では、ガラガラ(抽選)で見事10kgのお米を当てたそうですし。

 

そこで、アウトソーシング!

 

いつかMちゃんを連れて梅田の第4ビル、ジャンボ宝くじの特設会場に行き、

「Mちゃん!どれがいい~??( ̄∇ ̄)」

と、宝くじを彼女に選んでもらおうと思います!

 

Mちゃん、いつかきっと行こうね!

当たったらプリキュアのおもちゃと服を買ってあげるから♥

って、でも、その前にまず弟と義妹を説得せねば・・・。

「お姉ちゃん、そんな変なバクチに大事な娘を連れて行かないで」って言われそう?

(T-T)

そこのところもアウトソーシングで「母に頼んで説得してもらう」としてみますか。

私にはくじ運はないけれど、家族運には恵まれていると信じて・・・。

(T-T)(T-T)

 

合掌

「そんなこともあるよ、人生だから。」

宇賀神先生は、人の心をフッと軽くする天才です。(人格伝播力

こう、以前もお伝えしました。

色々な方から色々なご相談をお受けするのですが、何やらかんやら先生がお話しておりますと、

「不安がどこかへ行きました。」とか、

「前に一歩進めそうです。」

と、おっしゃってくださる方達も多くいらっしゃいます。

そんな宇賀神先生が、よく私にも言ってくださるひとことが、こちらです。

 

「そんなこともあるよ、人生だから。」

 

私が何か失敗して、へこんでおりますときに、よくこう言って慰めてくださいます。

このセリフを言われるようなカナシイ出来事がございましたのは、一昨日でした(T-T)

 

一昨日はブログでも書いておりましたように、お稲荷さんの夏祭りでした。

その後の打ち上げに入ったお店で、「大吉」のおみくじを図らずも引いてしまったような巡り合わせに大笑いしたのですが、本来の私は、自分で言うのもなんですが、くじ運・・・あんまりよくないんですよね。

神社などで引くおみくじは大概「小吉」か「末吉」ですし、色々なお店のくじ引きもほとんど当たりません(T-T)

 

宇賀神先生には

「綾野さんには博才(ばくさい・先生いわく、賭け事で勝つ才能)は無いよ。」

と、いつも笑われております。

「無いはずないよー!!(T-T)」

と、むなしく抵抗してはおりますが。

 

さて、そんな博才の無いワタクシが、一昨日の昼間、インターネット上の、「ガチャガチャ」とでも言うのでしょうか、くじ引きみたいなのに挑戦いたしました。

よく買っているネット通販のポイントを使用して、くじ引きをしたのです。

その通販サイトのネットポイントがかなり貯まっていたのですが、そのポイントで交換できる景品で、私が必要なものが何もありませんでした。

いつもポイントを使わないまま期限切れになってしまっていたのですが、一昨日ある商品を購入しようとサイトを見ますと、手持ちのポイントのうち10ポイント使用すると、「1回ガチャ(くじ引き)ができます」と書かれておりました。

私は2154ポイント持っておりました。

トライしようと思えば215回、くじが引けます。

しかも、当たりは500円分のクーポン券だと言うではありませんか。

どうせ使わないポイントですし、ポチっとワンクリックするだけでくじ引きができるのですから、「なぁんだ、簡単じゃないの!」と、やってみることにしました。

 

ところが・・・やってもやっても当たらないのです。

ぽちっ!→残念、はずれ~!

ぽちっ!→またまた残念、はずれ~!

と、何度クリックしても当たりません。

 

はじめは「そのうち当たるでしょ♥」と、トクした気分でポチっておりましたが、

クリックも50回を超えたあたりで気が重くなり、

100回を超えたあたりで「いつ当たるの・・・(T-T)」と泣きそうになり、

150回を越えたときには、もはや執念・・・「ポイント全部使ってでも当ててやるぅー!」と、215回もチャンスがあるなら絶対当たるはずと言い聞かせながら、心は半泣きでポチっておりました。

 

そしてとうとう、

ぽちっ!→→→ポイント不足です!

の表示が・・・!!

 

全ポイント使用し、215回もトライしたのに、一度も当たりませんでした(T-T)

そこまでくじ運悪くなくても・・・ねぇ。

 

我ながら、あまりのナサケナイ結果に撃沈いたしました。

215回も引いて、一度も当たらないなんてあるのでしょうか。

当たるか当たらないかの、2択しかないのですよ?

いえ、ポイントはどうでもいいのですが、片手間とは言え、クリックし続けた時間のムダ使いをしたガッカリ感がつらかったですね。

 

それで、宇賀神先生に

「あんなー、インターネットでくじ引き、215回もしたのに1回も当たらへんかってんー(ToT)!そこまでくじ運悪いなんてー!!」

と、泣きつきました。

 

そしたら先生が半分あきれながらもひと言、

「そんなこともあるよ、人生だから。」

と、ふわぁっと、柔らかい表情でおっしゃいました。

 

身内をこのように褒めるのもなんですが、宇賀神先生の慰めは、たしかに大人の大きな器?心?を感じられますので、よくあるセリフを聞くのでも、先生に言われますと妙に納得してしまいます。

ですが、そのときちょっと、先生から感じられる「人格」のなかに幼い子供がいるのかな、とも思いました。

ママが何か失敗して落ち込んでいるとき、小さい子供が

「ママ、だいじょうぶだよー。」

って慰めてくれたら、その「だいじょうぶ」には何の根拠も理性的な判断もないと分かっていても、

「うん、そうだね。」

と、ほわんとあったかい気持ちとともに元気が出てくるような?

私には子供がおりませんので、あくまでも憧れとともに想像するしかありませんが。

 

とにかく、215回もくじ引きに挑戦してただの一度も(!)当選しなかった私ですが、この宇賀神先生のたったひと言で妙~に元気が出たのでした。

で、その後めげずに夏祭りに出かけ、「知らないうちに大吉を引いてました♥」という結果に。(→前回の「神さまの見た風景」に戻る。)

 

そう言えば以前読んだひすいこたろうさんの本でしたかに、

「“当たり前”は、“大当たり”が“目の前”にあることだよ。」

と、書いてありましたね。

くじ運の悪い私ですが、旦那さんには「大当たり!」で、恵まれたでしょうか。

atarimae
私の「当たり前」

昨日もお稲荷さんの夏祭りの本祭でしたので、お参りいたしました。

門の奥に、大きな菅の輪が見えますでしょうか?

あの中をくぐってお参りいたしました。

 

いつもいつも、宇賀神先生が元気で笑ってくださる「当たり前」に感謝です!

 

合掌

神さまの見た風景

前回、霊能者と言われる人がこの世の終わり(アルマゲドン)のイメージを見てしまうことが往々にして(極まれに?)あり、言うなれば誰もがかかる「はしか」のようなものです、とお伝えしました。

宇賀神先生も過去にその「はしか」にかかった一人で、次回は先生の(恥ずかしい)体験談を書きます、とお伝えしておりました。

ですが、先生が、「わしのこと笑い者にしてくれるなよー。」と、ちょっぴり泣いておられましたので、やめておくことにいたしました(^-^)

ごめんなさい。

 

それでですね、話題を変えまして。

 

7月31日の今日は深江のお稲荷さんの夏祭りでした。(またまたごめんなさい、日付けが変わり、昨日になりました。)

(参照:深江のお稲荷さん黄金色の龍龍の背中神意ためすなかれ春の氣

夏祭りは7月31日と8月1日の2日間です。

宇賀神先生と一緒に、お参りいたしました!

やっぱり雰囲気がいいですね。

お稲荷さんを目指して歩いておりますと、夜の暗がりのなか、ぼうっとお稲荷さんの境内が明るく浮かび上がり、人々のざわめきが聞こえてきて、だんじりの鐘の音とお神楽も聞こえてきて。

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夏祭り
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夏祭りにて

今日は過ごしやすい夜で、夜のお祭りにはとても素晴らしい日でした。

 

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菅の輪(の端っこ)と拝殿をバックに

菅の輪くぐりも、ありました。(写真撮りそこねました。)

 

夏祭りでは、氏子に届けられるはがきを持参いたしますと、拝殿の中に上げていただき、お祓いとお神楽の奉納を受けることができます。

神主さんにお祓いしていただいたあと、笛と太鼓のお神楽の演奏とともに、巫女さんが剣を片手に舞われます。

そして、最後に巫女さんから鈴で祝福を受けます。

とってもありがたいひととき♥

私達も、拝殿にあがらせていただきました。

 

そのお神楽が終わり、他の人達とともに拝殿から降りようと順番待ちをしておりましたとき、ふと、境内の方を見ました。

ちょうど拝殿の上から、眼下に境内を眺める形となりました。

そこで私の見たものは、明るい光で照らされた境内の中、穏やかなざわめきとともに、楽しげにしている人々の姿でした。

 

みんなすごく幸せそう。

 

そう思ったとき、(こう表現するのは不遜かも知れませんが、)私の心に神さまのお心が重なったような気がいたしました。

神さまがとっても喜ばれているのが、全身で分かったのです。

楽しそうに笑う人達をご覧になり、神さまも喜んでおられるんだー・・・。

私は目頭が熱くなりました。

 

なんでこんなに無条件に人々の幸せを望まれるのかなぁ。

 

神さまや佛さまのお心に触れた(と感じた)ときには、いつもそう不思議に思います。

よく、「無条件の愛」とか、言葉や概念としては知っていますが、なかなか実生活の中では難しいもの。

親子や夫婦でさえ、本当に「無条件」でずっといられるのかどうかは、簡単ではないと思います。(えっ、みんなは簡単なの?できないのは私だけ?(T-T))

私だって宇賀神先生に、

「ずっとがんばって働いていてねー。」とか、

「認知症になったらイヤよー。」とか、

「ご飯食べたらすぐに歯を磨いてよねー。」とか、

「お酒飲みすぎるなんて、ありえへん!」とか。

色々条件をつけたくなりますもの(T-T)

 

そんな超がつくほど俗人の私に、「無条件ですべての人々の幸せを願う神さまのお心」が流れ込んできたのです。

頭で理解するのとは違い、一瞬でそのお心に同化するような心持ちと言いますか。

神さまのお心の果てしない広さと温かさを身体中で感じ、同化して私も無条件で人々の幸せを願う感覚となり、また、その瞬間、一番幸せなのは私自身でもありました。

本当にありがたいと、泣きそうになりました。

 

ですが、境内には私の実家のご近所さんもそこかしこにおられ、涙を見られるのはさすがに恥ずかしいですので、ぐっとこらえておりました。

「あんたはんとこの娘さん、夏祭りで泣いてはりましたでー。ダイジョウブでっか?」

とかって両親が後からどなたかに言われたら、ちょっぴりツライじゃないですか。

いつぞやのお祭りでもございました、このパターン。

 

ああー、ですが、今思い出しましても本当に幸せでした。

 

お祭りって、いいなー。

子供も頃は夜店が楽しみなだけでしたけれど。

 

で、夜店ではなく、ありがたくも神さまのお心に触れるという幸せを楽しんだ大人は、その後の打ち上げに。

そうしましたら・・・

daikichi
大吉!

ねぇ、見てみて!このお箸の袋!

「大吉」ですって♥

知らずにおみくじを引いたようなもの、と気づいて宇賀神先生と大笑いしました。

どこのチェーン店かバレてしまいますが( ̄∇ ̄;)

はじめに行こうと思っていたお店がなぜか今日にかぎり臨時休業で、次に選んだお店でしたが、お陰様でさらに幸せになってしまいました。

 

お稲荷さん、いくらなんでも出来すぎですよ♥

 

合掌

アルマゲドン(は、来ないと思うけど。)

今日は、「アルマゲドン説」について、宇賀神先生のお考えを。

この場合のアルマゲドンとは、宗教的な意味を含むものではなく、一般的に日本で言われているような「世界の終わり」とか、「最終戦争」という意味で使わせてください。

 

私が子供の頃は、「1999年のノストラダムスの大予言」説が子供の間でもまことしやかに噂されていましたね。

子供心に、1999年に本当に世界が滅びてしまったら、人生をそんなに生きられないうちに死んでしまうの?と、半信半疑ながらちょっぴり怖かったのを覚えています。

 

それが無事に過ぎますと、今度は確か2012年の、「マヤ暦の終わり」による終末説でしたか。

これはただ単に2012年にマヤ文明で使われていた暦の一巡が終わる、というタイミングなだけたっだのですが。

例えば日本で申しますところの、十二支で子年から始まって12年が巡り、最後の亥年が終わる、というタイミングと同じような暦の一巡の終わりのことなのです。

終わりましたら次は「また初めの子年に戻る」だけなのですが、世間では格好の話題となり、ノストラダムス説に続く終末説ネタにされておりました。

 

つくづく人は「この世が終わる」設定が好きなのかなぁ、と、びっくりしましたね。

次はどんなネタが出てくるのでしょうか。

 

ですが、たしかに、宇賀神先生のようないわゆる霊能者とか、霊感を持っているとか言われる人で、この世の終わりのイメージを見てしまう人達が多くいらっしゃるのも確かなようです。

霊感とは、第6感のさらに子細なもの。

そして、全ての人は(鋭いと鈍いの差はございましても)誰でも第6感を持っているのですから、多くの人が付和雷同してまことしやかに噂される世界の終末を怖がるのも無理はないのかも知れません。

 

宇賀神先生は、

「人が映画のストーリーなどで想像しているような世界の終わりなんて来ないよー。」

と、おっしゃっています。

その根拠は?

「それは、この地球が魂のお修行道場で、まだまだお修行しなきゃいけない魂がいっぱいあって、いちばんお修行できる立場にいるのが人間だから。」

ですって。

 

変な例えかも知れませんが、監獄に入れられている囚人が夢見ることは、

「いつかこの監獄に大火災が起きて、囚人がみな釈放されるような事態になること」

だと宇賀神先生はおっしゃいます。

それと終末説を楽しむ(怖がる)人類は似ている、と。

「いつかこの地球に大災害が起きて、魂がみな解放されるような事態になること」

を夢見ている?

 

ちょっと、なるほどー、と思わなくもないですね。

 

こんなに楽しいお修行の世界はないのではと思うのですが、人は心ではなく、自身でも気づかない魂のどこかで、修行から「解放」されることを望んでいるのでしょうか?

さて。

真偽のほどは分かりませんが、その仮説が正しいとしますと、映画などでもさかんと「世界の終末」を題材にしたストーリーがあり、それを人々が楽しんで見ているというのも、うなずけますかしら。

 

ちなみに、ブルース・ウィリスさん主演のハリウッド映画の「アルマゲドン」は私も大好きです♥

「ターミネーター」シリーズ(特に2とジェニシス!)も大好きですし、アメリカのTVドラマの「ザ・ラスト・シップ」もレンタルビデオ屋さんで借りてまで見てしまってます・・・。

アルマゲドンでは巨大隕石が地球に飛来し、ターミネーターでは核兵器による滅び(審判の日)の後の殺人マシーンとの戦い、また、ザ・ラスト・シップでは致死率の高いウイルスが世界中に蔓延する、という設定でした。

まあ、これはただ単に出演なさっている俳優さんたちが大好きで見ているだけなのですが(^-^)

しかも映画アルマゲドンは宇宙へのロマンですよ♥

ターミネーター2とジェニシスは殺人マシーンとして作られた一体の“機械”の人類への愛の物語と信じています♥

 

ちょっと話が逸れそうなので、戻しますね。

 

また、たしかに、仏弟子のはしくれといたしましては、お釈迦様のおっしゃった「諸行無常」が真実であるとも思っております。

諸行無常とは、すべてのものは常態を保ちえないという意味でしたね。

そして現在の学説では、かつて地球上の覇者でありました恐竜が絶滅したわけは、巨大な隕石の衝突による気候の大変動であるとされております。

確率はすごく低くても、再び宇宙の遥か彼方からやってくる巨大隕石が地球に衝突する可能性もあるのです。

恐竜が絶滅したのですから、人類も何らかの劇的な理由により絶滅する可能性だって、無くはないですね。

 

ですが多分、それは今現在生きている私達が心配するより、遥か先の時代のことなのだと思い(願って?)ます。

そんな遠い未来の劇的な出来事を心配するより、もっと考えたり心配したりしなきゃいけない身近なことがたくさんありますものね。

そしてそれに懸命に対処している人達がたくさんいらっしゃるのも、また事実です。

恐ろしいほどの致死率のウィルスも今現在も確かに地上に存在しますが、WHOや世界中のお医者さま達が懸命に伝染をくい止める努力をしてくださっているお陰で、私達はまだ滅びていません。

有り難いですね。

 

宇賀神先生は、

「霊能者と言われる人達がこの世の終わりのイメージを見てしまうのは、言うなれば誰もがかかる『はしか』のようなもの」

とおっしゃっています。

何を隠そう、40年近く前、その「はしか」に先生ご自身もかかってしまわれました・・・今ですから笑って?告白できますが。

そうですね、次回は先生もかかってしまったその「はしか」の話をいたしましょうか。

終末、おっと、週末はまた出張が入っておりますので、憧れのノマドワーク♥ができましたら、更新いたしますね。

できてなかったら「新幹線で酔ったのねー。」と、お思いくださいませ(^-^;)

 

ですが今、自分でアルマゲドン(終末)説に関することをブログに書いてて、色々想像してしまい、ちょっぴりコワクなってしまいました。

どうか地球が滅びる夢を見ませんように!(T-T)

どうせ見るならかっこいいターミネーターが守ってくれる、楽しい夢を見られますように♥

 

godzilla
宇賀神先生はゴジラ大好き!

 

合掌

本日は私信のみにて。

ずいぶんと長いこと更新しておりませんでした。

ご心配くださった皆様、ありがとうございます!

また、大阪北部地震が起こった日、西日本を中心に豪雨災害が起こった日、私達を案じてご連絡くださった方々、ありがとうございます。

この場を通じて御礼申し上げます。

お陰様で私達の住む地域は大した被害もなく、無事に暮らしております。

つづく災害で被災された方達におかれましては、1日も早く平和な日常が戻られますことをお祈り申し上げております。

 

 

さて、本当に久しぶりのブログで、ちょっとドキドキしております。

更新をお休みしておりましたこの1か月あまり、色々なことがございました。

正直に告白いたしますと、まったく私的なことでずーっとずーっと半年以上自問自答していたことが極限にきたような状態でした。

大げさに申しますと、「自分自身の人生を見つめ直していた」とでも?

 

いえいえ、本当のところはじっと見ているだけで、自問自答する思考能力もございませんので、タヌキ寝入りしておりました。

ウソか本当か知りませんが、タヌキはとてもびっくりするようなことがあるとショックで気絶するんですって?

それが“タヌキ寝入り”の語源なんですとか。

「まるで私のよう!」と思ったことを覚えています。

私は昔から難しい問題に行きあたりますと、タヌキのようにショックで思考がフリーズ(気絶)してしまうのでした(^-^;)

すみません。

 

で、人生の問いに対する答えは出たのか?

いえもう、出たような出ないような。

ですが、どちらにしましても「私は幸せなのねー。」ということが今さらながら分かった気がして、ある日とつぜん「どっちでもいっか♥」と、まさに憑き物が落ちたようにフッと心が軽くなったのでした。

自分の中で、いいと思うものも悪いと思うものもジャッジせず(善悪をつけず)においておき、すべて許して自分自身も許して(ゆるめて)いこうと思いました。

ごちゃごちゃした心の中のことですので何がどう腑に落ちたのかは分かりませんが、許した?受け入れた?ゆるんだ?降参した?、それだけでもう充分な気がしました。

 

ひとつにはオトモダチのほぼいない私ですが、地球の裏側に住む友人が、私が何やら考え込んでいるのを知られて、

We NEVER have ‘the answers’ but ‘the probabilities’.

(訳:答え(正解)なんて永遠に分からない、でも、そうかなー、って思えることでいい。)

と、伝えてくださいました。

その訳、間違ってるよー(T-T)と思われましたらCさん、こっそり教えてくださいね!

何故だか分からないけれどこの言葉は今の私にとってとても大事な気がする、と思い、心の中で何度も唱えておりました。

 

色々なことを感じ、考え(いえ、考えられずにタヌキ寝入りして)、そしてその間、私のことを少ーし心配して何もおっしゃらず見守ってくださる方達のあたたかーいお気持ちをじわじわと感じていて、幸せに復活いたしました(^-^)♥

 

ありがとうございます。

 

ご心配おかけしました。

 

ということで、今日はタイトル通り「私信のみにて」失礼いたします。

ただただ心配かけてごめんなさい、と、ありがとう、をお伝えしたかったのです。

また明日からいつも通りのブログを書いていきます。

お話したいこと、たくさんあります♥(たぶん!)

またお読みいただけますと幸いです。

 

本日のオマケに、ひさびさの宇賀神先生スマイル♥を。

やっぱりグリコのキャラメルにはオマケがないとね?

 

先生お気に入りのカフェオレをいただいたときのことです。

この喫茶店では、ちょっとフランス風に、コーヒーカップではなくカフェオレボウルでカフェオレをいただきます。

温かいコーヒーと牛乳を、自分でまぜまぜします。

cafe-au-lait
カフェオレを自分でまぜまぜ。

 

そのとき、先生がひと言、「せんのきゅうきゅう」と。

 

sen-no-kyukyu
いただきます。

 

一体なんのことかと思いましたら、「千利休を気取って♥」だそうです。

相変わらず・・・( ̄∇ ̄;)

 

sennnokyukyu
せんのきゅうきゅう

 

ま、そうやって幸せそうーな柔らかな笑顔を見られるのが、いちばん当たり前で、いちばん得難く大切な宝物でしょうか?

 

けっこうなお点前で♥

 

合掌

穴禅定 その2

四国霊場の番外寺である慈眼寺さんの穴禅定で、ローソク一本を片手に奥へ奥へと進んでいた時のことです。

私はふと後ろを振り返りました。

一筋の光もささない狭くて細い鍾乳洞の中、私たちのローソクの小さな光が届く範囲の向こう側は、本当に何も見えない真っ暗闇でした。

 

たぶん人間は本能的に暗闇を怖がるのでしょうね。

どこまでが地面で、壁で、天井か、何にも見えない空間を体感しますと、一種の浮遊感のようなものを感じました。

まるで深い水底のように、どちらが上かさえ一瞬分からなくなるような、不思議な浮遊感です。

前回の記事でもお話しました、お経本に書かれております

「無明長夜の闇路」

とは、こんな状態にも似たものなのでしょうかと思いました。

 

修行者はその暗闇(無明長夜の闇路)を、ローソク(佛様の教え)を頼りに進んで行きます。

そのローソクは誰も持ってはくれません。

自分の手で、ローソクを前に捧げ持ちつつ、自分の足で、一歩一歩進んで行くのです。

それはまさに自灯明 法灯明、自らを明かりとなし、佛様の教えを明かりとなして進んでいく、そんな世界観を体感しているような気持ちでした。

 

まあ、ちょっと軽い言い方をするならば、まるでユニバーサルスタジオのよう、とでも言えますでしょうか?

映画の世界にそのまま浸れるユニバーサルスタジオのように、佛教の世界観にそのまま浸れた穴禅定でございました。

 

それに、いくら自分一人の力で歩を進めると申しましても、そこには導いてくださる先人(お大師さんや先達さん)がいてくださり、また、自分の火が消えたときは火を分けてくださる先人(宇賀神先生)がいらっしゃるのです。

なんとも心強い「無明長夜」ではありませんか。

 

穴禅定は、ずっと奥に進んでいきますと、真ん中辺りでしたでしょうか、急にぽっかりと大きな空間が開けます。

何人もの人が一同に会することができるくらい大きな空間です。

そこにはお大師さんの像があり、たくさんのローソクが灯されていて、修行者は先達さんとともにそこで般若心経を一巻唱えます。

 

その後再び岩の裂け目のような穴禅定を奥へと進み、割と出口に近づいてきたときに、「袈裟がけの岩」と呼ばれる所を通りました。

そこでは胸くらいの高さに、まるで壁に取り付けられたフックのような形に岩が出ていて、お大師さんがその岩に袈裟をかけられた、という話になっているそうです。

その袈裟がけの岩に手を置いて、心の中で一つだけお大師さんにお願い事をしてもいいと、先達さんがおっしゃいました。

 

せっかくですから宇賀神先生の後に続いて私も袈裟がけの岩に手を置き、目を瞑って一つのお願いごとをしようとしました。

ですがそのとき、やっぱり

「神さまや佛さまにお参りするときにお願いごとをしない。感謝申し上げるだけ。」

を思い出してしまった“いい子ちゃん”の私は、お大師さんに対して

「お陰様をもちまして皆々幸せに暮らしております。ありがとうございます。」

と、お伝えしました。

 

と申しますよりは、実はいい子ちゃんでも何でもなくて、願い事が多すぎてたった一つだけ選べなかったというのが本音なのですが!?

要は欲張りで優柔不断なだけなのですネ( ̄∇ ̄;)

 

ですが、お大師さんに感謝の言葉をお伝えした途端、ふわぁっと、文字通り、胸のあたりが温かくなりました。

よく嬉しいことが起きたときに「心が温かくなる」と申しますが、本当に心臓を中心とした胸のあたりに温かい温度を感じたのです。

不思議でした。

お大師さんの温かみを、心象ではなく、実際の体感温度として感じられました。

 

お四国さんでは、「同行二人(どうぎょうににん)」と皆さん信じておられます。

つまり、お大師さんと二人連れなのだと。

今から20年ほど前、私が初めてお四国さん巡りをしたときに、700段を超える階段の上にお寺がございます、そのふもとのお茶屋さんが、

「お大師さんが背中を押してくれはるからね。」

と、こともなげにおっしゃったのをとても印象深く覚えております。

不思議でも何でもなく当たり前のこととして、お大師さんは今も生きていらして、修行者の背中を押してくださるのだとさらりとおっしゃいました。

 

信仰というものが、特別な重いものではなく、当たり前のように生活に溶け込んでいるのがお四国さんなんだなぁ。

こんな世界もいいかも知れない。

と、思って、出家してしまった20代のワタクシでございました。

もちろん大前提として宇賀神先生のようになりたいとの憧れはございましたが。

 

ローソクの光だけが頼りの、岩の裂け目のような穴禅定で、色々なことを思い出したり感じたり、とても素晴らしいお修行体験をさせていただきました。

宇賀神先生は、

「かつてお大師さんの身体も触れた岩にわしの身体が触れているのかと思うと、すごく幸せだった。」

と、おっしゃいました。

右と左が分からなくて狭い曲がり角で四苦八苦してらしたのですが、それでもとっても幸せだったんですって♥(参照:穴禅定 その1

よかったねぇ。

 

ちなみに、とても業が深い方は穴禅定の狭い曲がり角で岩に挟まってしまい、どうにもこうにも抜けられなくなるそうです。

そんなときは、修行者全員で般若心経を唱えてあげると抜けられるのですとか。

しかも、業の深すぎる方は、3巻くらい唱えないとダメだそうです。

そんなことにならなくてよかったネ、先生♥

 

1200年ほど前からすでにございました「ユニバーサルスタジオ(体感)型お修行道場」の穴禅定。

機会がございましたら、ぜひ一度ご参加なさってみてください。

お大師さんにお会いなされますことを、心よりお祈り申し上げております。

 

合掌

穴禅定 その1

前回、「自灯明 法灯明」のお話をさせていただきましたときに、「まさに自灯明を体感できる場所がございます。」とご紹介しました。

それがこれからお話します、「穴禅定」(あなぜんじょう)です。

 

四国霊場八十八ヶ所巡りは有名ですね。

お大師さん(弘法大師 空海さま)が制定なさった、四国中をぐるりと巡る八十八ヶ所のお寺のことです。

実はそれにプラスして、二十カ寺のお寺が、「番外寺」とされております。

88+20で、なんと108という煩悩の数になっている、というのは豆知識ですが。

 

さて、この番外寺は何が特徴なのかと申しますと、お大師さんが若かりし頃、まだ唐へ留学僧として渡られる前に、ご自身でお修行なさっていた場所なのです。

宇賀神先生はよく、

「お大師さんの生々しい情熱を感じる」

場所だと、おっしゃっています。

 

ご存じの方も多いとは思われますが、お大師さんは四国は讃岐の国(今の香川県)の国司の家に生まれられ、幼少の頃から神童として将来を期待されていらっしゃいました。

そして、ちょうど平城京から平安京に遷都される頃に、今でいうところの「エリート大学生」として、京の都に上ってこられました。

ところが、いざ大学で勉強を始めてみますと、“出世のための学問”にほとほと嫌気がさし、

「自分の求める学びの道は、ここにはない!」

と、勝手に中退、大学を飛び出してしまわれました。

 

そしてさらに勝手に出家なさり、お国が認めていない「私度僧」となられ、自分は佛道を進むのだ、と、山野をかけ巡り、修行に明け暮れられました。

大阪と奈良の間にございます生駒山などにも、「かつてお大師さんがお修行なさった場所」があるのだそうですが(すみません、私は行ったことがございません)、その四国でのお修行の場所が、二十カ寺のお寺なのですって。

もちろん、それらのお寺以外にもあるでしょうけれど。

まだまだお大師さんが「有名な空海さま」でいらっしゃらなかった頃、無名の私度僧で、佛道(あるいは密教)への燃えるような情熱だけで山野をかけ巡っておられた頃の息吹が、そこでは感じられます。

 

そのお修行の場のひとつである「穴禅定」が、番外寺の三番目のお寺の慈眼寺(じげんじ)さんにございます。

穴禅定は細く狭く、長く続く鍾乳洞で、一筋の太陽光も入ってこない場所で、ローソク一本を頼りに進んで行きます。

 

まず初めに、慈眼寺さんに行きますと、胸くらいの高さの石の棒が間を空けて2本立てられていて、その間を通れないほど太っておられる方は、穴禅定に参加させてもらえません。

それほど、細く狭い場所があるのです。

 

宇賀神先生と私が行った時は、たまたま私達だけで、嬉しいことに貸し切りで穴禅定に参加することができました。

慈眼寺さんが貸してくださる白装束に着替え、靴も何と草鞋(わらじ)に履き替えます。

ちなみに、私は生まれて初めて草鞋なるものを履いたのですが、あれはめちゃくちゃ素晴らしい履物でした!

穴禅定の鍾乳洞まで少し山道を歩いて登るのですが、まず足の底が心地いいのです。

適度なクッションを通して、岩や土の地面をそのまま感じることができます。

しかも、濡れた岩の上もすべりません。

その快適さと機能性にびっくりしました。

マジで一足欲しい( ̄∇ ̄)♥と、思ってしまいました。

(一体どこで履くんだろう。)

 

そして、先達(せんだつ・修行者をガイドしてくださる方)さんに導かれ、山道を登り、まさに巨大な岩の裂け目という表現がぴったりの鍾乳洞に入っていきます。

その時に一本のローソクを手渡され、火を灯し、片手で自分の前に持ちつつ鍾乳洞に入ります。

鍾乳洞は、ほとんどの場所が真正面を向いて歩けないほど狭い空間で、自分達のローソク以外の光は一切なく、真っ暗闇です。

 

その時の参加者は宇賀神先生と私の2人だけでしたが、先達さんは私達をご覧になり、先頭を行く先達さんの次に宇賀神先生、最後に私が続くように、と指示なさいました。

山登りなどでは普通、一番先頭をリーダーが歩き、そのすぐ後ろは体力が弱いなど、一番問題がありそうな人を歩かせます。

どうして先生の方がやっかいで、リーダーのすぐ後を歩いた方がいいって一目見て分かられたのでしょうか( ̄∇ ̄)

長年の勘ってスバラシイ。

そう、宇賀神先生の頭の構造には人様よりも少しひどい偏りがあり、時計と掛け算がよく分からないのと同様、右と左がよく分からなくなるのです。(参照:でこぼこの才能

 

ですので、時にとっても狭い場所にさしかかり、そこは先達さんのご指示通りに身体を動かさなければ通れないところなのですが・・・。

「はい、そこで右ひざを地面につけて」とか、

「お尻を地面に落としたら右に体重を移動させて」、

「左肩を落としてくぐらせて」、

などのご指示に、宇賀神先生はことごとく迷われ、逆をしようとなさいました。

「いやいや、違うって、右やって。」

「それは左足やから。」

などと、私が後ろからいちいち訂正しておりました。

 

いやぁ、よくお修行の場では因縁が出る、などと申しますが、

「人の言うことを聞かない(聞けない)因縁」丸出しの宇賀神先生でございました。

 

もう本当に穴禅定は、鍾乳洞というよりは岩の裂け目をすり抜けていく、というような感覚でした。

細い細い道の曲がり角では、地面に手やお尻をつけて何とか通り抜けるのですから、白装束はドロドロに汚れ、そして時に手に持っていたローソクの火が消えてしまいます。

火が消えた時は、前や後ろの人からもらい火をします。

もちろん電気の照明など一切ない空間。

全員のローソクが消えてしまえば、真っ暗になります。

 

その狭い狭い空間をひたすら進んでいたとき、最後尾にいた私はふと後ろを振り返りました。

すると、私達がもっているローソクの小さな光が届く範囲のその向こうには、真の暗闇が存在していたのです。

何かがいてもいなくても、何にも分からない本当の暗闇。

どこまでが空間でどこからが天井なのか、どこが地面なのか、本当に何も見えませんでした。

 

(その2につづく)

 

合掌

自灯明 法灯明

今日2018年5月29日は満月で、5月の満月は佛教界でもウエサク祭りといわれているのだそうですね。

つい数時間前まで私は知りませんでしたが・・・どんだけ無知なんでしょう(ToT)

お釈迦様にも関わりの深い5月の満月の日、ということで、今日はひとつお釈迦様のお言葉、「自灯明 法灯明」について。

 

自灯明 法灯明(じとうみょう ほうとうみょう)、これは、お釈迦様の遺されたお言葉です。

私も大好きなお言葉です。

意味は、「自らを明かりとなし、佛法を明かりとなして、修行の旅路を歩みなさい」というものです。

 

佛教の世界観では、この世で人生を歩むことは闇路を歩むようなもの、という、ちょっと聞きますとどこか寂しいような怖いような、表現がなされますね。

真言宗の在家さん向けのお経本にも、お大師さんの「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」というご宝号(ごほうごう)を唱える前に、お大師さんに対して

「願わくば無明長夜(むみょうじょうや)の闇路を照らし

二仏中間(にぶつちゅうげん)の我らを導き給え」

と願う一説がございます。

悟りという智慧の目を得ていない私達凡人にとりましては、この世はやっぱり真っ暗闇なのね、ということでしょうか。

 

さて、そのような闇路の世の中を、お釈迦様は二つの明かりを頼りに歩みなさいとおっしゃいました。

「自灯明」と「法灯明」です。

 

まずは「法灯明」のご説明を。

ここでいう法とは、佛法のことです。

つまり、お釈迦様(佛様)の教え、宇宙の真理(法)を頼りにしなさいということです。

ではその真理とはなんでしょう、と尋ねられましても、そんなムズカシーこと私に聞かないで(ToT)って正直申し上げたいですけれど(そんな真理、本当に理解していたら今頃ワタクシはとっくに悟っておりますヨ)。

と、まあ、逃げてばかりもいけませんので。

 

よく言われておりますところでは、代表的なものはお釈迦様の一番初めの3つの悟り(この3つを三法印といいます)、

諸行無常(しょぎょうむじょう)

諸法無我(しょほうむが)

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

これらを発端とする様々な智慧により、心を治めていきます。

 

上記3つは日本ではとても浸透している言葉ですので、今更その意味をお伝えしなくてもいいかとは思われますが、一応。

(と申しますより、私のこのブログより、他のちゃんとした?お坊さんの書いておられるサイトをご覧になられた方が正しい知識を得ていただけるかも知れません(T-T))

 

「諸行無常」は、すべてのものは移り変わり、常態を保ち得ない、ということです。

ン年前に生まれ、今は若く美しいワタクシも!?、やがては年を取り、おばあさんになって、そしていつの日か死に、この世からいなくなります。

 

「諸法無我」は、どんな存在も確固たる実体はない、ということです。

ちょっと難しいですが、たとえばですね。

ここに、このブログを書いております「宇賀神綾野」という人物がおります。

ただいまキーボードを打っている人間ですね。

このキーボードを打っている人間は自分のことを「私」だと思って、確固たる存在としてここにいる、と思っているのですが、実はそうではないんですよ、とお釈迦様はおっしゃっています(多分)。

「私」は、先程の諸行無常のところでも申し上げましたが、常態を保ち得ず、刻一刻と移り変わっている存在で、「この瞬間の私」は「1秒前の私」とも違い、「1秒後の私」とも違う存在です。

しかも、宇賀神先生にとりましては「私」は妻であり、両親にとりましては「私」は娘です。

ある人にとりましては「いい人」かも知れませんし、ある人からは「嫌な人」と思われているかも知れません。

あるいは、昨日までは「仲のよい人」だったかも知れませんが、明日ケンカすれば「悪い人」になります。

「私」をとりまく様々な人々や物事とのご縁の中で、「宇賀神綾野」は形成されていて、しかもそれは刻一刻と移り変わっているのです。

あるようで、無い、確固たる「私」という実体。

それが諸法無我です(多分)。

 

「涅槃寂静」は、涅槃とは悟りの境地を表すそうで、寂静とは悟りにより煩悩が消えて苦がなくなった状態だそうです。

諸行無常や諸法無我の智慧により世の中を見ることができますと、煩悩が消えて、悟りの境地に至るのですとか。

はてさて、そこに到達するのにあと何100万年かかりますやら。

ちょっとしばらくはムリそうです。

 

とにかくですね、これらは佛法、つまり宇宙の真理のほんの一部ではありますが、これら佛法を明かり(法灯明)として頼りにこの闇夜の世界を歩んで行きなさいとお釈迦様はおっしゃっています。

 

そしてもうひとつ。

これが凄いと思うのですが、「自灯明」を頼りに歩んでいきなさい、ともお釈迦様はおっしゃるのです。

自らを明かりとし、と。

これは私の勝手な解釈かも知れませんが、お釈迦様はお釈迦様ご自身(佛様)を崇拝して頼りにしなさいとおっしゃってるんじゃないんですよね。

それぞれが自分自身の心に火をともし、それを頼りにこの闇路を歩んでいきなさいとおっしゃっています。

魂のお修行は、他者に頼るのではなく、自らを頼りとして進んでいくのですって。

 

もちろん現実問題としまして私は宇賀神先生を頼りに生活しておりますが、魂のお修行はまた別の話で、それぞれがそれぞれに歩むしかないそうです。

怖いような、また逆に勇気を得るような心地がいたします。

一人で歩むしかないんだ、という怖さと、歩むしかないということは、私にだって歩んでいけるんだ、という心強さと。

私はこの「自灯明」というお釈迦様のお言葉に、勇気づけられるような心地がいたしますよ。

 

そうそう、その「自灯明」を体感できるお修行の場がお四国さんにございます。

そのご紹介を是非次回に。

私がもう一度行きたいと、ずっと切望しているところです。

 

今日の満月は薄曇りでしたが、見ることができました。

雲の向こうに光っていても、お月さんは綺麗ですね。

太古から人々が太陽や月の美しさに手を合わせてきた気持ちがよく分かりました。

 

合掌

人の思いに国境は無いと。

先日東京に行ったときのことです。

上野駅で、4人連れの外国人のグループの方がいらっしゃいました。

お見受けしたところアジア人ではなく、また、英語やフランス、イタリア語などの、どこかで聞いた言語でもなく、耳慣れない言葉を話しておられました。

 

駅から出ようとホームから1階に降りた宇賀神先生と私に向って、そのうちの一人の女性が英語で「アメ横に行くにはこちらの改札口でいいのですか?」と私に尋ねてこられました。

実はアメ横の場所もよく知らない私は、若かりし頃は東京にも住んだことのある宇賀神先生ならご存じでしょうと、先生に尋ねました。

 

すると先生が、「アメ横ならこっちの改札じゃなく、もう一度ホームに上がって向こう側の階段から降りて改札から出たら、出てすぐのところが商店街の入り口だよ。」と、おっしゃいましたので、そのままその女性にお伝えしました。

「Thank you!」

と、お礼を言われて、その4人連れの方達は私達とは反対の方向へ行かれました。

 

ですが、何だかちょっぴり悪い予感がした私は、改札口まで行ったときに駅員さんに、

「アメ横に行くには、ここではなく向こうの改札口から出るので合ってますか?」

とお尋ねしました。

すると、「いいえ、こちらの改札を出てすぐです。」との答えが!

うっそーん!(ToT)

やっぱり、道が分からないとき、必ず逆方向に行こうとなさる宇賀神先生に尋ねたのが間違いでした!

 

このままじゃ、あの方達は反対側の出口から出て、言葉の通じない外国の土地で道に迷ってしまわれます。

しかも、間違ったことをお教えした私は「ニコニコと親切なフリして大ウソ教えた日本人」ではありませんか!

 

「先生、ちょっとさっきの人達を追っかけてくるわ!!ここで待っててー!」

「分かったー!」

との答えもそこそこに、はしたなく着物でダッシュしました。

まだ改札を出ないでいて~、と願いながら。

 

そして、2階のホームに上がってきょろきょろと探しますと、ありがたいことにまだそこに4人で立ち止まっておられました!

やっぱり、分からなくて迷っておられた感じです。

よかったー!

 

「ごめんなさーい!間違えましたぁー!!」

と、手を振りながら駆け寄りますと、皆さんすごくホッとした、嬉しそうな顔をなさいました。

謝ってから、「やっぱりさっきの改札口なんです!」と、ご説明しますと、すごく喜ばれ、英語を話せない女性の方が、英語を話されたもう一人の女性の方に何やら声をかけられました。

その方がリュックサックを地面に置かれましたので、「いえいえ、今から一緒に改札まで行きましょう。」と、私は申し上げました。

すると、その女性はリュックサックからキーホルダーをひとつ出されて、「これをあなたに。」と、なんとプレゼントしてくださるというのです!

 

そんなー・・・。

私が間違ったことお教えしたからあわてて追いかけただけなのに。

 

辞退しようとそう申し上げたのですが、その4人の方達があまりにも喜んで是非にと差し出されましたので、ありがたく頂戴することにしました。

すると、

「このキーホルダーの中には、ユダヤ教の聖書が入っています。

あなたにたくさんの幸運がくるようにという、お守りです。」

と、おっしゃってくださいました。

 

嬉しい・・・♥

 

たしかに見ますと、キーホルダーの中に本のようなものが入っています。

幸運のお守りですって。

とーっても、嬉しかったです!

 

改札までご一緒しているうちに、その方達がイスラエルからいらしたこと、イスラエルの国は美しいところですよ、などということをお聞きしました。

まだ見たことのない国の美しい景色に思いを馳せ、とても幸せな気持ちになりました。

 

「よい旅を!」

と、言葉をかけ、その方達と改札口を出て別れました。

 

その、いただいたユダヤ教の聖書が入っているというキーホルダーが、こちらです。

keychain
ユダヤ教のお守り

嬉しがって記念撮影なんかしたりして( ̄∇ ̄)

 

お恥ずかしい話、私はユダヤ教のことはよく知りません。

何をよしとし、どんな神さまを崇拝してらっしゃるのか、知りません。

 

ですが、そのユダヤ教のお守りをいただいたとき、ずっと以前にテレビで見たある男性の言葉を思い出しました。

その方はイスラム教を信じている方で、住んでおられる国でシーア派とスンニ派が対立していたのです。

そして、ご自身の息子さんを、反対派の勢力に殺されてしまわれていたのです。

その方がおっしゃるには、息子さんは亡くなる前に、

「お父さん、シーア派とかスンニ派ってなぁに?」と尋ねたことがおありだそうです。

 

「今なら私はこう答えます。

『シーア派もスンニ派も同じだよ。幸せを求める、人の世の悲しみだよ』と。」

その方は、テレビの中で悲しそうに、そうおっしゃっていました。

 

幸せを求める、人の世の悲しみ。

 

息子さんを殺されてしまわれたのに、反対派の信仰を恨むのではなく、

「“同じだよ”と、今なら伝える」と。

とても深く、心に残りました。

 

たしかに、世界中に色んな宗教があり、中には多分、自分の小さな世界しか知らない私からしましたら「それはちょっと受け入れがたいなぁ」と思うような教義もあるのでしょう。

ですが、たとえ教義そのものは理解できなくても、少なくともその神さま(など)を信仰する人の気持ちを理解しようとする人間ではありたいなと思っています。

そのお父様のように、身内を殺されてまでそう思えるかどうかなんて到底分かりませんが(いえいえ、多分ムリ!)、今の時点では、少なくともそう思っています。

 

そして、そのお父様のおっしゃった、「幸せを求める、人の世の悲しみだよ」という言葉を、忘れないでいようと思っています。

ちなみに、キリスト様は「愛」を説かれたそうですし、佛様のお心は「慈悲」なのですねぇ。

「悲」という字が、使われています。

どうしてだと思われますか・・・?

 

異国のお守りをいただいて、ふと、そんなことを思い出したのでした。

遥か海の向こう、大陸の向こうからきたお守り。

間違った道案内をしてしまいあわてて追いかけた私に、喜んでお守りをくださったイスラエルの方の嬉しいお気持ちが込められています。

 

もうそれだけで、とっても幸運でしたよ♥

 

合掌

甘い誘惑。その2

(甘い誘惑。その1のつづき)

三居沢の滝の前で瞑想していた宇賀神先生の目の前に

「我は大日如来なり。我を礼拝(らいはい)せよ。」

というはっきりとした言葉とともに、頭を剃って白衣(僧衣の下に着るもの)を着た、まるでお地蔵さんのような佛さまの影が現れました。

宇賀神先生は思わず頭を下げ、礼拝しようとしました。

 

ちなみに礼拝とは正式には、ひざまづいて額を地面につけ、両手で独特の印を結んで前に差しだし、頭上に佛さまの御足を頂くという、佛さまへの最大の礼をつくすご挨拶の作法です。

 

ところが、ふと、

「あれ?」

と、宇賀神先生は思いました。

そして、その“佛さま”に向って言いました。

「何かおかしいんじゃねーの?」

と。

 

宇賀神先生は続けます。

「大日如来は『無説法』と言われているんじゃなかったか?

宇宙そのものである根本佛(こんぽんぶつ)の大日如来は、いちいち説法して歩かないはずだけど?

・・・さてはお前、大日如来なんかじゃないだろう!」

 

すると、頭を剃った僧形の影がスーッと滝の奥に消え、再び現れた“それ”は、額に丸い鏡のようなものをつけた鉢巻を巻いて、山伏さんのような白装束を着ていました。

宇賀神先生はその瞬間、理解しました。

そして、

「お前はこのお滝場で修行しているうちに滝の上から岩が落ちてきて死んじまった行者崩れだろう!

大日如来のふりをして俺を惑わそうなんざ、一体どういうつもりだ!!」

と、喝破なさいました。

 

すると、再びスーッと姿を消し、今度はそれっきり現れませんでした。

正体を見破られたと思ったのでしょうか。

 

宇賀神先生はその時ひとつのことを理解なさいました。

こうして、人は惑わされるんだ、と。

こうして、不成仏霊は人を惑わすんだ、と。

 

宇賀神先生は常日頃から、

「霊になんか関心を持つんじゃないよ。」

と、おっしゃっています。

「霊はマイナスの存在だからね。」

「だから、プラスの存在の人間に近づき、人間のプラスの氣を取るんだよ。」

「だから、相手にするんじゃないよ。」

と。

 

こうおっしゃるのは、このお滝場での経験がおありだからなのかな、と思います。

 

人には欲があります。

力が欲しい。

お金が欲しい。

地位が欲しい。

名誉が欲しい。

 

その欲に、文字通りの「魔」が差します。

つまり、ときには霊も、人の欲につけ入るのです。

 

お滝場で力を得ようと修行している人に、その同じ場所でお修行に失敗して不成仏霊と成り果てた霊が、まことしやかにありがたい佛さまのフリをして近づいてくるのです。

「お前について、力を貸してやろう。」

と、大概の場合は甘い言葉で、甘い誘惑で、人の欲につけ入るのです。

 

宇賀神先生の霊感は確かで、それが本物の大日如来さまではないと見抜かれました。

でも、それを不成仏霊のウソだと見抜けない人だったら?

力が欲しいという欲につけ込まれ、

「自分は大日如来さまに目をかけられるほど、実はすごい能力を秘めていたんだ!」

と勘違いして。

そう信じてしまって。

その人はどうなると思われますか?

 

そんな風に踊らされた人の末路など、あまり想像したくもありませんが・・・。

宇賀神先生がおっしゃるように、霊が「人間のプラスの氣を欲しがる」のであれば、その人の氣の力も、運氣も、やがては何もかもを吸い取られるでしょう。

それはまるで、寒さで震える人が温かいものにすがって熱を得ようとする時のように、寒い霊(マイナス)は、人の温かい熱(プラス)を奪おうとするのです。

 

「まことしやかに神佛のフリをして近づいてくる霊がいるんですよ。だからあなたの『見た』もの、『聞こえた声』には心をとらわれない方がいいですよ。」

・・・と、つい最近も懇切丁寧に話したのに、聞く耳を持ってくださらなかった人がいました。

このようなお話は、何も宇賀神先生の40年ほど前のこのエピソードに限ったことではないのです。

いっくらでも、今現在でも、腐るほどあります。

私も何人か宇賀神先生のもとにご相談にいらした方達を見ました。

その度に宇賀神先生は

「その声(姿)を信じない方がいいんじゃないかな。それよりもっと人生でやるべき大事なことがあるんじゃないかな。」

と、お伝えしてきたのですが・・・あまり聞いてはいただけませんでしたね。

 

だってやっぱり、

「自分は佛さまに目をかけてもらえた!」

と信じてしまった方は、そのキラキラした喜びに目がくらみ、

「それって佛さまのフリをした、あんまり性質のよくないものだと思いますよ。」

という言葉など、耳に入らないのです。

 

 

それで、このブログのタイトルからも「霊能者」を外すことにしたのです。

「目に見えない世界は、確かにあります。(と、私は信じています。)」

「神さま、佛さまの世界は、本当に素晴らしいです。」

「暗い存在の霊にも、遭遇しました。」

「でもそれは本当にデリケートな世界の話で、本物とウソを見極めるのが難しいです。」

「また、それを利用して、多くの人をだまして搾取しようとする人達もいます。」

「だから、下手にのめりこまない方がいいのです。」

「でも本当に、神さまや佛さまや、氣というものの、素晴らしい世界があるのです。」

「と、以上のことを、私は信じています。」

ということをお伝えしたくて、このブログを始めました。

ですが、一歩間違えれば危うい世界だとも思っておりますので、

「ですのでこのブログも、おとぎ話でも読むように一歩引いたところから楽しんでくださいね♥」

と、お伝えしてきました。

 

それがつい最近も、宇賀神先生も私も「その見えた光には心とらわれない方がいいよ。」とお伝えしたにも関わらず、聞いていただけなかった方がいらっしゃいました。

その人のためを思って、一所懸命お伝えしたつもりだったのに。

これはこれで、「成就しなかったご縁」のひとつだったと諦めるしかないのでしょうか。

私はちょっと悲しかったですが、仕方がないですね。

 

合掌