ホントつき

「僕のことウソつきって呼ばないで!ホントつきって呼んで!!」

宇賀神少年は小さい頃、そう心の中で叫んでいました。

 

宇賀神先生の能力は、一言では言い表せないほど多岐に渡ります。

氣と呼ばれる力で人様の病苦を取り除いたり、

お加持の力と先生の人生経験から導き出されたアドバイスとで人生の苦難を解決に導いたり、

霊視により見えざるものの世界のことについてお答えしたり。

そしてこれらの能力の原点ともいうべき特異な才能の一つが、「ホントつき」です。

 

「ウソつき」という言葉がございますね。

文字通り、ウソをつく人のことです。

そして「ホントつき」とは、初めはウソをつくのですが、やがてそのウソがホントになる(実現してしまう)力を持っている人のことを表わします。

はい、もちろん宇賀神先生の造語ですよ(^-^)

そして宇賀神先生は、ホントつきです。

 

宇賀神先生は子供の頃から夢見がちでした。

いえいえ、これではちょっと言葉を取り繕いすぎです。

宇賀神先生は夢見がちなんていう可愛いものではなく、異常児と烙印を押された小学校・中学校時代は、

「宇賀神!夢は寝てから見ろ!]

と、毎度のように学校の先生に注意されるくらい、目を開けたままボーっとして、周りの景色も眺めつつ同時に頭の中の夢の世界も見ていたという、素晴らしすぎるイメージ力をお持ちでした。

(詳しくは「イメージの力」をお読みくださいませ♥)

結果としてそれが後の瞑想力(という言い方が適切かどうかは分かりませんが)につながったり、霊視につながったりするのですから、人生何がどう生きてくるのかは分かりませんね。

 

そしてそんな風に目を開けながら見た夢でずっと見ていた映像が、あるいはその場で口から出まかせで言ったことが、後に実現していたなんてことも、実は結構たくさんあるのです。

 

たとえば、とても長い時間をかけて実現したことで申しますと、さっきご紹介した記事の、英語の授業のときのことです。

その当時の英語の先生のお名前は、門脇先生とおっしゃいました。

そして生徒たちがつけたあだ名は「ワンスモア門脇」。

と申しますのも、その門脇先生が生徒たちに英語を読ませるときに、

「はい、この文章を読んで、ワンスモア(もう一度)!」

と、よくおっしゃっていたからだそうです。

先生の口ぐせをあだ名にするのは、子供にはよくある話ですね。

 

さて、そのワンスモア門脇先生が当時中学生でいらした宇賀神少年に授業で質問なさいますと、学校の授業に到底ついて行けてなかった宇賀神少年は、いつも答えられませんでした。

そんなとき門脇先生は必ずこうおっしゃたそうです。

「あのな、宇賀神が将来大人になるころには、英語はもっと必要になっているぞ。外国に行く機会も増えるだろう。そんなときに英語ができないと不自由だぞ。」

だから勉強しなさい、と先生は宇賀神少年の身を案じておっしゃりたかったのでしょう。

 

ところが宇賀神少年はめげずにこう言いました。

「大丈夫です、先生。僕が大人になって外国に行くときは、僕専用の通訳を連れて行きますから、なんの問題もありません。」

するとワンスモア門脇先生は、

「チッチッチ、君のその学力じゃ、将来専用の通訳なんて雇える身分じゃないよ。」

と、おっしゃいました。

そう考えられるのも当然ですよね。

 

ところが・・・ごめんなさい、門脇先生。

先生が宇賀神少年の将来を案じてそんな風におっしゃってくださったのはありがたいのですが、大人になった宇賀神先生は、今、「専用の通訳」を手に入れられました。

はい、私のことです。

 

と申しましても通訳できるというほどの英語力でもないのですが、とにかく私は英語は大好きなのです。

なんでしょう、音(発音)なのかな?文法なのかな?

よくこのブログを書くときにも、大好きな「アイアンマン」や「ターミネーター・ジェネシス」などをアマゾンプライムでBGM代わりに聞きながら書くぐらい、英語の音は大好きなのです。

 

そして今年の秋に、実はとっても嬉しいことにアメリカに旅行に行くことになったのですが、宇賀神先生がこのワンスモア門脇先生のことを思い出されては、

「ほら、わしはやっぱり『ホントつき』だろ。」

とおっしゃっています。

 

中学校時代にペロッと口から出まかせで言ったことが、半世紀を過ぎてたしかに実現しました。

専用の通訳(私)を連れて、英語の本場、アメリカに旅行するという特典までついて。

あるいは、それは口から出まかせではなく、本気だったのでしょうか?

だとしましたら、昭和30年代当時の宇賀神少年は何を根拠にそんなことを言ったのでしょうねぇ。

根拠なんて、果てしなく無さそうですよね。

少なくとも私には何ひとつ見出せません。

 

やはり、ホントつき。

 

宇賀神先生の感覚では、

「今の段階では実現していないから人はウソって言うけど、でもいずれ必ず実現するから、それはホント。だから僕はウソつきじゃなく、ホントつき。」

だそうです。

だから心の中で「僕のことウソつきって呼ばないで!」って小さい頃からずーっと抵抗していたのですとか。

このホントつきの素質は、物心ついたときからすでに持っておられたのですって。

うーん、何と申せばよいのやら。

周りの大人達は大変だったでしょうねぇ。

今は私が大変ですよ(T-T)

ウソがホントになるまでは、超がつくほど凡人のワタクシといたしましては、振り回されてるという表現がぴったりの毎日でございます(ToT)

 

まあともかく、このことなどは半世紀以上もたってから実現しましたが、もっと短いスパンで起こることもしょっちゅうです。

いずれ再び東京に仕事にいくようになるよ、ということも、もうその数年前からホントをついて(予言して)おられました。

 

もっと近くで申しますと、あるとき梅田の繁華街にございますルクアでエレベーターに乗ろうと待っておりますと、一機目に到着したエレベーターは満員で、とても乗れませんでした。

繁華街でしかもすごく混む時間帯だから仕方がないよね、などと言っておりますと、ご機嫌に酔っぱらった宇賀神先生が、

「次に来るエレベーターは空っぽ!」

と嬉しそうに叫ばれるのです。

「またまたぁ、そんなこと言って、混む時間帯の繁華街やでー。」

と私が言うが早いか、次に到着してチーンと開いたエレベーターの中には誰一人乗っておられませんでした。

周りの人達も一同うわぁっと歓声をあげました。

まるでマンガのような宇賀神先生の日常と人生。

そのスリルとワクワク感は、ハリウッド映画のアイアンマンにも匹敵いたします。

お陰様でタイクツいたしません( ̄∇ ̄)

(ですがしょっちゅうハラハラいたします。)

 

hontotsuki
このときのホントは?

ちなみに、きっとこのときの宇賀神先生の心の中のホントは、「僕はワインを3杯飲ませてもらえる♥」だったのでしょうね!

果たして宇賀神先生の神通力の成果やいかに!?v(^-^)v

 

さて、宇賀神先生は今度はどんな楽しいホントをついてくださるのでしょうかねぇ。

あっ、そうそう、宇賀神先生がずーっとずーっと前からついてるホントで、まだ実現していないのがあるのですよね。

「わしは一生に一度は宝くじに当たる♥」っていうのが。

これは半世紀も待たなくていいですから!

何なら一生に一度ではなく、二度でも三度でも大歓迎ですから!!

エレベーターがすぐ来たみたいに、早くホントになぁーれ♥♥♥

 

合掌

過去を克服しなくてもいいのだとしたら。

よく、「過去を克服する」という言葉を聞きますね。

自分にとってつらいことが過去にあり、そのことが頭から離れず、同じような出来事があったときに同じようにつまづいたり、また、その過去の出来事のせいで人生が前に進めない気がする、というときに。

私自身、人生の中で少々つらいこともいくつかございましたが、でも必ずしも過去は克服しなくてもいいんだ、と思っております。

そもそも、何故自分自身の大切な人生の一部に対して(例えそれが自分にとって好ましくないものだとしましても)、勝たないといけないのでしょうか。

それよりももっと軽やかで温かい道がある、ということを宇賀神先生に教えていただいた出来事がございました。

 

今までも何度かお伝えいたしましたが、宇賀神先生の子供の頃(小学校以降くらいから)は、お家がとても貧乏でした。

もちろん戦後の昭和30年頃のことですから日本国中・総貧乏な時代でしたが、宇賀神先生のお家も小学校に給食代を払えないくらいの貧乏さ加減でした。

それがいいのか悪いのか分かりませんが、もっと小さい幼稚園の頃は先生のお父様の事業も成功していて、裕福な暮らしをしておられてからの一転、事業が失敗して貧乏暮らしとなられたものですから、やはりその落差は子供心にも余計につらかったことと思われます。

 

そんな貧乏な時代を過ごしたのが、宇都宮と仙台でした。

宇賀神先生は小さい頃、宇都宮と仙台を何年かごとに行き来するように暮らしておられましたが、仙台では二十人町と呼ばれていたところに住んでおられました。

二十人町は仙台駅からすぐのところで、その近くに榴岡公園(つつじがおかこうえん)という結構大きな公園があり、そこは今でも枝垂桜の名所になっております。

公園にはひと目で見渡せないほどの桜が植えられており、それらが全て枝垂桜で、私も一度だけ開花の時期に間に合って行くことができましたが、吉野桜とはまた違う独特の美しさが漂っておりました。

先生も小さい頃はその公園でよく遊んだのですって。

 

大人になり今の仕事を始められ大阪に住むようになられてからは、仙台へは定期的に出張で行くようになられました。

その際に宿泊しますのが、榴岡公園からすぐ近くの小さなビジネスホテルで、つまり宇賀神先生が子供の頃に住んでいた家のすぐ近くになります。

一度、そのホテルのロビーでコーヒーを楽しむ先生のお写真をご紹介したこともごさいますね。

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朝のコーヒー

もともとは有名な旅館だったそうですが、時代とともに今のビジネスホテルのスタイルになられ、小ざっぱりとしていて、先生もとても好きなホテルです。

 

そして大人になった宇賀神先生は、ご自身の夢を叶えられ、一度は世間でよく言われております「成功」を手に入れられました。

自身の持つ不思議な能力を使い、それで生活に余るほどのお金を稼ぎ、ついには念願のお寺を建て、宗教法人も設立なさいました。

 

ところが波乱万丈としか言いようのない宇賀神先生の人生です、ただでは済みませんでした。

 

54歳のときに胃潰瘍で倒れられたのをきっかけに、鬱になり、片目の視力を失い、離婚とともにお金も家も明け渡し、お寺(宗教法人)は残ったものの多くの信用も失い、当時とても鬱のひどかった先生は「全てを失った」という思いに囚われておられました。

その鬱の真っただ中でも仕事だけは何とか懸命に続けておられた先生は、仙台への出張も文字通り必死の思いで行っておられました。

そして、泊まっておられたのは、やはりその榴岡公園近くのホテルです。

 

鬱がひどかった当時の仙台出張の際、宇賀神先生が必ずしておられたことがございました。

それはホテルに泊まった翌朝、ご自身が小さい頃住んでおられた家の跡地に行き(現在は空き地になっていました)、その場所にしばらく立ち、自分自身に言い聞かせておられたことです。

「ここ(ここに住んでいた貧乏な時代)には絶対に戻りたくない。」

と。

 

この場所には戻りたくない。

あのつらかった貧乏時代に戻りたくない。

絶対に戻らない。

鬱を治す。

全てを取り戻す。

 

そう、ご自身に言い聞かせておられたそうです。

 

鬱という病気は不思議ですね。

こんなに明るく元気で、踏まれても踏まれてもめげない雑草のような生き力のある宇賀神先生が、あの当時は泣きながら日々を生きておられました。

そして自分を奮い立たせるために、つらい時代だったと記憶していた昔の家の場所に毎回行っておられたのです。

お陰様で高度成長期時代に生まれ、両親に大切に育てられました私には到底心底は理解できないような、貧乏の苦しみを二度と味わいたくないという、泣くような思いだったのでしょう。

 

そして数年たち、自力で鬱から回復して元気になられ、仕事もご自身の満足からはいまだほど遠いとはいえ、何とか再び「幸せだ」と思える人生を取り戻されました。

もちろんその中には綾野さんという可愛いお嫁ちゃんとの結婚、という要素も大きいかと思われます♥(誰も言ってくれないから自分で言ってみました(^-^;)スミマセン)

 

そんなある日、仙台に出張に行っておられた宇賀神先生から、朝に電話がかかってきました。

ホテルをチェックアウトして、歩きながら電話をしてきてくれました。

そしてしみじみと、こんなことを話されたのです。

 

「綾野さん、わしは今日、初めて気づいたよ。

今まで自分が子供の頃、この近くに住んでいたときは貧乏で嫌な時代、嫌なところだと思っていた。

それが今日、ホテルを出たら榴岡公園から鳥の鳴き声がいっぱい聞こえてきて、緑がいっぱい見えて。

こんな天国みたいないいところに住んでいたんだって、初めて気づいたよ。」

 

と、とても穏やかで幸せそうな声で話されました。

 

「天国みたいないいところだった。」

 

それは、「絶対ここ(この時代)には戻りたくない」という思いとは、正反対のようです。

あんなに嫌って、二度と戻りたくないという思いで見つめていたところは、実は天国のように美しいところだったと気づいた、とおっしゃいました。

私は涙が出そうでしたねぇ。

 

何だかそれが「過去を克服する」という在り方よりも、さらに幸せな在り方(生き方)のように思えました。

克服というよりは、穏やかなまなざしで見つめる、と表現できますでしょうか。

 

私が尊敬するマザーテレサは素晴らしいお言葉(詩)をたくさん残しておられますが、その中の一節に、

「もし私たちの心に静けさが欲しいのなら、

まなざしに静けさを保つことです。

あなたの両方の目で

もっとよく祈れるようになりましょう。」

というのがございます。

 

もしも自分自身のつらい過去でさえ静けさを保ったまなざしで見つめられたのなら、それは克服するよりも軽やかで穏やかな方法で、素晴らしい祈りになるのかも知れません。

そしてそれはきっと、天にも届くような気がいたします。

 

昨日から今日まで(あっ、日づけが変わって昨日になってしまいました。)宇賀神先生は仙台出張に行っておられ、先程帰ってこられました。

おかえり♥

また楽しい土産話でも聞かせてくれるでしょうか。

 

合掌

目を閉じて鑑賞する展覧会

目を閉じて鑑賞する展覧会があるなんて、思いもよりませんでした。

 

4月20日に、東京国立博物館のこちらの展覧会に行ってきました。(ずいぶん昔の日づけ!)

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東寺展

東寺さんって、本家本元のお寺は京都にあるから大阪の方が近いし、何もわざわざ東京で行かなくても・・・と、思わなくもないのですが。

それでも国宝の、例の素晴らしすぎる密教法具にもう一度会いたくて、また、どんな風に曼荼羅の世界が展示されているのかが見たくて、行ってきました。

(以前に東寺さんで密教法具に初めて出会ったときのお話はこちら!

⇒「密厳国土」)

 

もちろんお大師さんが唐から持ち帰られた密教法具は文句なしに素晴らしかったのですが、私にとりまして今回一番驚いた出会いは、曼荼羅(まんだら)でした。

曼荼羅とは、密教における佛さまの世界観を表した絵画で、金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)の2種類ございます。

ご参考までに、東寺展で買い求めましたポストカードでご紹介いたします♥

少々不鮮明なのはお許しくださいませ。

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曼荼羅

普通はこの2種類の曼荼羅を左右に並べて飾るのですが、正直、「これが佛さまの世界を表すのですよ」と言われましてもよく分かりませんでした。

四角く区切った中に大日如来さまを中心としてたくさんの佛さまが描かれており、またこれがこの佛さまで、などと説明されたものもございますが、よく見る実際の世界地図のように、「これが佛さまの御国の世界地図です」と言われましても「密教ではこんな風に表現しているのだなぁ(よく分からないけど)」という程度の感覚でした。

 

ところが今回の展覧会で、「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」の、壇の簡単な模型が展示されておりました。

後七日御修法とは、東寺さんで鎮護国家(ちんごこっか)のために、つまり国全体の平和を願って7日間に渡りご祈祷する壮大なお祈りの儀式のことを指します。

東寺さんで一番偉い方を含めて、何人もの高僧の方達でお祈りするのだそうです。

その際、大きな大きな曼荼羅を前にかかげ、その前に壇(儀式のための道具を色々並べます)を設え、お祈りなさるようです。

今回はその模型、と申しましてもとても大きなもの、が展示されてありました。

 

私の背丈よりも大きな曼荼羅が、壇の前に掲げられてあります。

そしてその手前にございます壇は、2m四方はあるような大きなもので、簡単に佛具などが並べられてありました。

もちろん展覧会ではプリントの曼荼羅でしたが、その曼荼羅と壇を前に立ちましたとき、不思議な感覚を覚えました。

 

「ああ、この曼荼羅が宇宙ですっていわれても仕方がないよな。」

という感覚が自然に沸き起こったのです。

つまり、まるで天体図を見るように、銀河の配置図でも見るかのように、「曼荼羅が宇宙(佛さまの世界)の様子を表しているんだ」と思ってしまったのです。

そしてさらに、「宇宙の地図(曼荼羅)は、そのまま宇宙そのものなんだ」とまで思ってしまいました。

自分でも不思議でした。

頭で理解したのではありません。

曼荼羅が表現している佛さまの世界観は複雑すぎて難しすぎて、どこの部分がどこの佛さまの御国で、などとは記憶できておりません。

ですが、感覚が、「私は今、宇宙(地図)を見ている。」と、思ってしまいました。

今までこれが佛さまの世界地図ですよ、と言われましても「ふーん」としか思えなかったものが、「そうやんな!」としか思えなくなりました。

 

サレンダー(降参)としか言いようがありませんでした。

 

「はい、これは宇宙地図です、これは宇宙そのものです。」と降参してしまいました。

理屈ではなく頭ではなく、心や感覚が先に理解してしまったような感じでした。

「いやもう、そうとしか思えない」と。

そして、だからこそきっと、御修法で「宇宙にお願い」するからこそ、「宇宙が願いを叶えてくれる」のかぁ、と、一人納得してしまいました。

 

曼荼羅なんて、そのよさは全然よく分からない、絵画としても別に部屋に飾りたいとも思えない(失礼!)、佛さまの世界を表しているなんて思えない、と思っておりましたのに。

なのに「降参!」と思ってしまいました。

 

そう、あれは本当に宇宙を表した図なのです。

あれは本当に、宇宙そのものなのです。

 

この感覚に出会えたのは、嬉しかったですねぇ。

 

そしてまた、今回は残念ながら国宝の曼荼羅(9世紀のもの)の展示期間には合いませんでしたが、それより3世紀ほど新しい1191年に描かれました、大きな大きな金剛界曼荼羅(本物)を見ることができました。

もちろんそれでも800年以上も前のものですから、ほとんど色ははげ落ちてしまっていて、わずかに一部の佛さま達が茶色くすすけたように残っているだけでした。

佛さまのお姿が鮮明に見えるわけではございません。

茶色のボヤけた人型の名残が一部分見えている、というような感じでした。

 

ところが、これがまたすごかったのです。

 

大昔の曼荼羅、何メートル四方でしょうか、大きな博物館の天井近くまであるような、大きな大きなものでした。

その前に立ちますと、ふわぁぁっと、溢れる光のようなものが全身に流れ込んできました。

とっても気持ちがよかったのです。

そうですね、例えて申しますなら、白熱球のような暖色の光です。

柔らかな明かりが温かみ(温度)をともなって曼荼羅から溢れ出ている、というような感覚でした。

 

「ここに立つとめっちゃ気持ちいいー。」

と思いました。

 

なので、その曼荼羅の前にずーっとずーっと立っておりました。

しかも目をつぶって。

もちろん、博物館の照明もございますが、それとは別の、その曼荼羅から溢れてくる光の感覚が、目をつぶっていた方が心地よく感じられたからです。

曼荼羅がこんなにも素晴らしいものだったなんて。(今更!?)

 

私にとりまして今回の展覧会は、曼荼羅に対する新しい感覚との出会いでした。

とても幸せでした。

 

 

本当はこの東寺展の開催中にこのことを書きたかったのですが、残念ながら6月2日に終わっていて、間に合いませんでした。

じつはこの1か月以上は、ずうっと風邪を引いておりました。

「今年の風邪は長いですよー。」

と、何人かの方からお聞きしていましたが、ほんっとうーに長かったです(T-T)

もともと一時期は咳喘息を発症し、これまた宇賀神先生に治していただいた経緯もございますためか、咳がなかなか止まりませんでした。

しかも風邪を引き始めた翌日から、仙台への出張と霊地聖地参拝を兼ねて、東北まで運転してしまったのです。

お陰で早期に治る機会を逃してしまい、大阪を出発して石川県を越えるあたりから、熱が出てしまいました。

発熱しながらハンドルを握ったのは生まれて初めてです。

去年の年末から今年の初めにかけての九州旅行といい、この1年は健康の当たり年のようです。

この勢いで宝くじに当たるんじゃないかと心ひそかに期待しております。

 

またまた綾野さんはお腹が痛くなったのでは、と、もしかしたらご心配くださっていた方々、長いことブログも更新せず申し訳ありませんでした。

お陰様でお腹の方は、お薬をいただき、また宇賀神先生にお加持いただき、お正月以来ずっと無事に過ごしております。

ご安心くださいませ。

いつもありがとうございます。

宝くじが当たりましたら、ぜひ一緒にどんちゃんパーティーをしましょうね♥

ご参加ご予定の方は、ご予約リストにお名前をご記入のうえ、今しばらくお待ちくださいませ。

私も曼荼羅を飾り、「宇宙にお願い」することに致します―!

(宝くじの前に健康を祈願しなさいよ、と言われそう?)

 

合掌

桜を愛でることもまた、祈りです。

今日は宇賀神先生が突然、「今日の夜に雨が降って桜が散るから、最後の夜桜を見に行こう。」と言いだしまして。

よりによってめちゃくちゃ寒い日に、お弁当(とお酒)を持って、近所の公園に桜を見に行きました。

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夜桜2019年

 

急きょ作った、詰めただけのお弁当。

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お弁当

お弁当の中身は、父が釣り、両親が共同作業で作ってくれた「大アジのフライ」と「玉ねぎのフライ」、先生が和えたお刺身の漬け、豆の塩茹で、宝塚のK様が手作りして下さった「ぬた」と「豚肉と白菜の炊いたん」。

私が作りましたのはソーセージとほうれん草の炒め物だけ。

ですが先生が「お義父さんお義母さんとKさんと綾野ちゃんの愛が詰まってる♥」と、ご満悦でした。

 

また、寒空の下いただいた温かいきつねうどん!は、めちゃくちゃ美味しかったです。

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きつねうどんも美味しかった!

寒すぎてダウンのコートと帽子もかぶっています。

 

 

山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)という言葉がございますね。

いつものことながら佛教の考え方は深遠すぎて、この言葉ひとつとりましても色々な賢い人達が色々な解釈をなさっておられます。

「山も川も草も木も、命あるもの全てに仏性がある」や、

「自然に仏性があるというよりは、自然の中に悟りへ至る真理を見いだすという意味なのでは」だとか、

色々おっしゃっています。

どれも素敵な解釈ですね。

 

私には佛教的な解釈でいうとどれが正しいのかなど、難しいことはよく分かりません。

この言葉でさえ、今の今まで「さんせんそうぼくしつうぶつ」とだけ覚えており、ブログで書くにあたって改めて「ちゃんと書かないと」とググってみて、「仏」でなく「仏性」だったんだーとか、自分の知識が微妙に違ったのを知ったくらいですから。

ですが、この言葉をぼんやりとながらも知っていて、こうして美しい桜の下で穏やかな時間を過ごしておりますと、頭上で揺れる桜の花に佛さま、あるいは神さまなのかな?、を見いださずにはおれません。

以前に「SPIRITUAL(スピリチュアル)は案外身近なところに。」でもお伝えしましたが、やはりきっと、そこかしこに、神さま佛さまはいらっしゃるのですよ。

あるいは、春の宵の氣そのものに、神さま佛さまを感じます。

春の氣(昨日は優しい春の夜でした。)」に書いたことも、私にとりましては同じような感覚です。

 

そして、桜の中に佛さまを見いだせるということは、自分自身の中にも佛さまを見いだせるのです。

 

こうして桜の花を愛でることもまた、祈りです。

 

桜の花に、「綺麗やなぁ。咲いてくれてありがとう。」と心で話しかけますと、ゆらゆらと揺れてまるで喜んでいるようでした。

 

私はお酒はよう飲めませんが、「春の氣」に心地よく酔い、桜の中に佛を見、また春の宵に神気を感じ、宇賀神先生と幸せなひと時を過ごせました。

桜と春の夜にお礼を言って、公園をあとにしました。

 

wishing-you-were-here
Dear C&C, Wishing you were here.

 

合掌

あの世からの霊界通信byお伝さんと宇賀神法 その3

お伝さんと宇賀神先生。

実のおばあちゃんと孫にあたります。

 

多分ですが、お伝さんは、宇賀神先生がお生まれになったときには、すでにお亡くなりになっています。

先生のお父様とお母様が結婚なさったときのお写真には、すでにお伝さんの姿はありませんでした。

宇賀神先生のお父様のお父様と、お兄様お姉様(とその配偶者)だけが写っておられます。

本来でしたらお父様のお母様、つまりお伝さんが座られる位置には、お姉様が座っておいでです。

なにぶん昔のことで、また宇賀神先生もはっきりとご両親にお聞きしたわけではございませんので、詳しいことは分かりません。

ですが、先生がお生まれになったときには、どうやらお伝さんは亡くなっておられたようです。

 

にもかかわらず、宇賀神先生はそのお会いしたこともない実のおばあ様と「お話」なさいました。

まあ、ここらへんのことになりますと、もう信じたい人だけ信じてやってくださいませ。

「そんな霊界通信みたいなのあるわけないやん!」と思われる方は、おとぎ話でも見るようなおつもりでお読みくださいませね。

もちろん、宇賀神先生や私にとりましては、実話です。

 

お伝さんのお堂ですが、宇賀神先生が中学生の頃、お堂の外からご覧になられたときには中が真っ黒にすすけていて、どなたをご本尊としてお祀りしているのかなど、よく見えなかったそうです。

「シルエットとか、何か特徴的なことを覚えてないのん?」

とお聞きしましても、

「仏像らしきものが何体もあったけど、よく見えなかった。」

と。

 

何体も祀られてはいたそうです。

どなたがご本尊だったかは分からないのですが、にもかかわらず、お伝さんが「宇賀神法」をなさっていたであろうことは、宇賀神先生は「ご存じ」なのです。

 

この、「分かる」や、「知っている」という感覚は独特なのですが、誰に教えられずとも、なぜか初めから知っています。

その感覚が起きますのは、例えば前世からの記憶だったり、血の中に流れるご先祖さんからの記憶だったりします。

また、ときにはあの世からの通信だったり、神さまや佛さまからのお言葉だったりします。

問いを発したと同時に、答えを知っています。

答えはどこから来るんだろうと思うのですが、それは外から来たようでありながら、自分の中から来ています。

不思議な感覚ですね。

では、以下はお伝さんからお聞きしたお話です。

 

栃木県には日光がございます。

日光には「日光山輪王寺」がございまして、そこは天台宗のお寺さんです。

その時代には山伏さんもそこかしこにおられ、やはりお伝さんのいらっしゃる鹿沼のあたりは日光山輪王寺さんの流れを汲む山伏さんが多くいらしたようです。

つまり天台宗の影響を色濃く受けておられる山伏さんです。

そして、現代ではかなりマイナーになっておりますが、天台宗には神様の宇賀神さまを賛嘆するお経がございます。

 

山伏さん達はその土地の家々をまわり、托鉢をしておられましたが、あるときお伝さんは一人の山伏さんから、「あんたの家の名前は、尊い神さまの名前なんだよ。」とお聞きします。

お伝さんは宇賀神というのは本当の神さまの名前でもある、と知ったのです。

そしてその神さまの霊験あらたかなのを知り、また、その神さまをご本尊としてお祀りして加持祈祷を行う「行(ぎょう)」、つまり「宇賀神法」があることを知ります。

 

その山伏さんはそれなりの功力をお持ちで、それに魅せられたのでしょうか、お伝さんは家の敷地内にお堂を建てられました。

山伏さんがそこで宇賀神家のために宇賀神法を含む色々な行法を行えるように。

山伏さん、つまり、行者さんは、そこで宇賀神家の商売繁昌のために加持祈祷を行われました。

 

そしていつしか、

その宇賀神法を、お伝さんは山伏さんから習われて、ご自身でも執り行うようになられました。

お伝さんがお堂の中で何やら不思議な行をなさるにつれ、保血散の売り上げが伸び、現金収入を得て、宇賀神家はますます福しくなっていきました。

 

その宇賀神法を執り行う際に、どうやら(その当時でも高価だった)お酒を使われていたようです。

今現在の上野の寛永寺さんの弁天堂前の宇賀神さまの像のところにも、「浴酒月の法」と書かれてありましたが、どうやらそれを真似たような行をなさっていたようです。

正式な僧(尼僧)となり行を習われたわけではありませんから、全くの本式ではなかったようですが、やはりそこは宇賀神先生のおばあ様ですもの。

真似事のような行法でも、なぜか効験が起きて、どんどん宇賀神家は裕福になっていきました。

 

今の宇賀神先生の「女行者」版のお伝さん、いつの間にかご近所の奥さん方が信者さんとなられ、取り巻きとなられたようです。

もともと霊感めいたものをお持ちだったお伝さんは、宇賀神法をなさるにつれ、不思議なことを言い当てたり、ちょっとしたご利益も授けられるような力がついてこられたのでしょうね。

 

それにまた何より、宇賀神法で使った後のお酒のお裾分けを信者さん達もらって帰られたのです。

お酒は嗜好品(贅沢品)ですもの。

まして当時は日本全体がそんなに裕福ではなかった時代です。

しかも宇賀神家の方々はあまりお酒に強くなく、毎日そんなにたくさんお酒は必要ではありませんでした。

自分達が飲みもしない贅沢品(お酒)を、宇賀神さまをお祀りする行に使い、その神さまの「お下がり」を信者さん達にお福分けなさっていました。

 

お酒をもらって帰られた信者さんの旦那さん達も初めは「うちのカアチャンはお伝さんに変に入れあげて・・・」と思われたものの、美味しいお酒をタダでたくさんもらえるものですから、イヤな顔をなさらなくなり、いつしか黙認。

そうして、ついに年に1〜2度のお伊勢さん参りへのお伝さんの「脱走」についていかれても、やはり黙認なさったのですね。

旅費も全てお伝さん(というより宇賀神家のお金)のおごりで、お土産も贅沢なほどたくさん買ってもらって帰られたようですし。

 

こうしてお伝さんは、家の繁栄の為なのか家人をかえりみないのか分からない信仰を続けられました。

ですがお伝さんがその不思議なご祈祷を続けるにつれ、ますます宇賀神家が裕福になったことだけは、まぎれもない事実でした。

 

宇賀神先生はお父様から、お伝さんが宇賀神法をなさっていたとお聞きしたわけではございません。

お伝さん以外の宇賀神家の人々は先生のお父様も含めて、宇賀神法などとは縁遠い人生を送られましたから、先生は詳しいことをお父様やご親戚などからお聞きしたことはないのです。

ですが、先生ご自身が氣や神さま佛さまといった世界に興味を持たれ、色々を勉強なさるにつれ必然的に宇賀神法にたどりつかれたとき、先生にはその「印(いん)」の記憶がございました。

知らないはずの記憶です。

 

よく一般的な本などにはご真言や印が書かれておりましても「以下、秘伝」「以下、口伝」などと書かれており、肝心なところは説明されていなかったりします。

やはり密教の密教たるゆえんですよね。

「秘密の教え」なのです。

よく「甕(かめ)の水を移すように」と例えられますが、師匠から弟子へと口移しで直接伝えられていくべき教えなのです。

そしてその教えは、伝えるべき者には伝えなくてはなりませんが、伝えてはならない者に伝えることは許されません。

 

あるいはもしかしたら前世の記憶なのかも知れませんが、多分には、宇賀神先生が「以下、秘伝」の部分をはじめから知っておられたのは、お伝さんが血の記憶の中で伝えてこられたのだと思っておいでです。

もしかしたらその秘伝の部分は、正式な天台宗の作法ではないかも知れません。

ですが、それが宇賀神先生あるいはかつての宇賀神本家とって、あるいはお伝さんの生きていらした当時の鹿沼のあたりの、土着の信仰に近い形で古い古い歴史のなか伝えられてきた秘伝の作法であると、先生は確信しておられます。

 

不思議なものですね。

 

お伝さんと宇賀神先生。

彼女の生前には会ったこともない、おばあちゃんと孫。

 

宇賀神先生はお伝さんと同じように宇賀神さまという神さまに出会われ、宇賀神さまをお祀りする宇賀神法に出会われ、神さまや佛さまとのご縁の色濃い人生を送られています。

血のなせる業だけではなく、やはり「霊統」を引き継いでおられるのでしょうね。

お伝さんも今の宇賀神先生をあの世からご覧になり、喜んでおられるでしょうか。

 

お伝さん、やはり霊感は強くていらしたようです。

宇賀神先生のお父様は、第二次世界大戦も終わりに近づいた頃に35歳で徴兵されました。

その頃、35歳という(高)年齢で徴兵された人々は南方の激しい戦地に送られ、生きて帰ることは難しいと噂されていました。

ところがお伝さんは、

「吉は死なねェから大丈夫だ。」

と、予言なさいました。(先生のお父様は吉次郎と言います。)

お父様はお伝さんの予言をとても心強く思われたのですって。

 

宇賀神先生の女行者版のお伝さん。

もしかしたら先生以上におっかない?ハチャメチャな?お人だったのでしょうね。

せめてお写真だけでもお会いしたかったです。

 

合掌

「お伝さん」と宇賀神法 その2

  1. さて、宇賀神家に多大な現金収入をもたらすようになったその「保血散」の売掛金が鹿沼の郵便局に届く日のことです。

源三郎さんが郵便局に為替(売掛金)が届いたかどうか尋ねますと・・・

「あっ、為替でしたら届きましたが、さきほどお伝さんが来て、受け取られましたよ。」

と、答えられました。

 

「しまったーーー!!またやられた!!!」

 

その当時のお金で五百圓(500円)。

今に換算しますと、どのくらいの金額になるのでしょうか、私にはちょっと想像もつかないのですが・・・。

とにかく保血散の売掛金が届く日に、お伝さんはいつの間にやら家を抜け出し郵便局に為替(お金)を受け取りにいき、それを全額持ってドロンするのです。

 

いったい、どこへ?

 

それは、当時の人なら一生に一度は行きたかった「お伊勢さん」へ。

しかも、自分のお弟子さん(信者さん)5~6人を引き連れて行かれました。

しかも、2週間ほども!

 

時代は、今のように新幹線でひとっ飛びに旅行できる平成の世ではありません。

「まず人力車で鹿沼の駅まで行き」、東武電車に乗って行くような時代です。

 

人力車ですって。

私は博物館か観光地でしか見たことありませんね。

宇賀神本家は裕福な家でしたので、当時はまだ小作人と呼ばれた人から、「ねぇや」(今でいうお女中さん)、人力車の車夫までいらっしゃったそうです。

 

宇賀神先生のおばあ様のお伝さん、郵便局から500円という大金を持ち出し、5~6人のお弟子さん達とともに、お伊勢さん参りに行かれました。

しかもそれは、一生に一度ではなく、「年に一度か二度」を、何年にも渡ってやってのけたのですって。

たぶん明治の終わり頃か、あるいは大正くらいから、昭和になってすぐくらいの時代までなさったそうです。

 

宇賀神先生のお父様(お伝さんの子供にあたります)が大正3年のお生まれで、すぐ上のお姉様が明治45年のお生まれです。

その上にさらにお二人の子供さんがいらしたようですが、

「お伝さんはそんな小さな子供を放っておいて、お伊勢さん参りに行ったの?」

と宇賀神先生に尋ねますと、

「家には子守りや家事をしてくれるねぇやも何人かいたから、何の問題もなかったんだろ。」

ですって。

お抱えのお女中さん(兼ベビーシッター)が何人も・・・。

さすが裕福な「ええ氏」は違いますね。

 

そしてその500円という金額、今の時代に換算しますと一体いくらくらいなのでしょうか?

そのお金は、6~7人の大人が2週間近く、栃木県の鹿沼から三重県のお伊勢さんまで旅をし、豪遊できる(お参りして遊んでお土産を買って帰って来られる)くらいの金額なんですって。

しかも、今の時代のようにお得な新幹線のエクスプレス予約(←東京出張のときに使ってます♥)も無い時代です。

しかもしかも、お伊勢さんでは御師(おし)と呼ばれる、今でいうところのツアーコンダクター兼ツアーガイドさんも雇っておられました。

つきっきりの専用ガイドさん付き × 7人 × 明治~昭和初期の時代 × 鹿沼~伊勢の2週間の豪遊旅、の旅費やいかに。

 

そんな大金を鮮やかすぎる素早さでお伝さんに持ち逃げされた源三郎さんの怒りたるや。

「伝のヤツ、帰ってきたら手討ちにする!!!」

と、日本刀を振り回し、それはそれは大変な怒りようだったそうです。

 

宇賀神先生が中学生のときに初めてお父様に連れられて、その鹿沼の宇賀神本家に行かれたことがあるそうです。

そのときお父様が、柱につけられた3つの傷を指さして、

「あれが源三郎さんが振り回した刀で傷つけた刀傷だ。」

と、教えてくださったのですって。

 

なんちゅう家や( ̄∇ ̄;)

 

ですが、まあ、お伝さんは本当には「お手討ち」にはならなかったのでしょうね。

だって何回も何回もそうやってお金を持ち逃げしてはお弟子さんを引き連れてお伊勢さんにお参りに行き(豪遊し)、帰って来られたんですもの。

源三郎さんも悔しがって刀を振り回されるくらいでしたら、売掛金をお伝さんが受け取らないよう、何とか手を打てなかったのかと思わなくもありませんが・・・。

 

それに、お伝さんは生涯、離縁もされませんでした。

現代に比べまして、とてつもなく女性の権利(人権)の低かった時代です。

まして家のお金である、そんな大金を勝手に持ち出して、よく家を追い出されませんでしたね。

 

宇賀神先生も不思議に思い、お伝さんに「お聞き」したことがあるそうです。

もちろんお伝さんは、宇賀神先生が生まれられる前にはお亡くなりになっていて、先生はお顔もご存じありませんが、まあ、つまり、先生はあの世にいらっしゃるお伝さんにお聞きしたそうです。

宇賀神先生いわく、お伝さんは、

「なあに、ひと芝居打ってやったのさ。

ご祈祷して神がかりになってバッタリ倒れた後、むっくり起き上がり、さも恐ろし気な声で

『我は宇賀の神である。

この女は依代(よりしろ)にもらった!

この女をこの家から追い出してみろ、この家がどうなるか分かっているだろうな!!』

ってな。」

と、おっしゃったのですとか。

 

・・・アンビリーバブル(ToT)

 

たしかに、先程も申し上げたように女性の権利が今よりもっと無い時代で、まして信仰の自由も難しいような時代だったのでしょう。

そしてたしかに、古来より依代や巫女、つまり神さまなどのお言葉をお聞きするための媒体となるのは、ほとんどの場合女性でした。

そのことを利用して?、ひと芝居打って、ご自身の信心と、お伊勢参りという名の豪遊旅をやってのけるなんて。

 

もちろんこのお伝さんのセリフは、宇賀神先生の霊感でお聞きしたものです。

ですがお伝さんが何年にも渡って多大な保血散の売掛金を持ち逃げし、何人ものお弟子さんを連れてお伊勢さん参りをなさり、2週間豪遊して帰ってこられた、というのは、宇賀神先生がお父様やおば様からお聞きした事実ですから。

あの時代に、離縁もされずに。

たぶん、宇賀神先生がお聞きしたようなそれなりのことをなさらないと、お伝さんの信心(と豪遊旅)を押し通すのは難しかったのでは、とは想像にかたくないと思います。

 

そして、お伝さんは一体、家の敷地内に建てられたお堂でどなたをご本尊に祀り、拝まれていたのでしょうか?

 

それは、宇賀神先生もお父様にお聞きになったことがないそうです。

その中学生のときにお父様に連れられて本家にいったときには、お堂そのものは残っておりましたが、とても中に入れるような状態ではなかったそうです。

「歩くと床板を踏ん抜く(踏み抜く)ような、ボロボロだった。」

のですって。

もちろん中学生当時は、宇賀神先生も宗教的なことにそんなに興味も持たれなかったでしょうし。

 

ただ、外からお堂の中をのぞきますと、中は真っ黒にすすけていたのだそうです。

「たぶん、鍋護摩(なべごま)を焚いたんだろうよ。」

と、宇賀神先生はおっしゃいました。

 

本来でしたらお護摩は正式な壇と火を焚く炉や、それこそ野外では大きな大きなキャンプファイヤーのような四角に組んだ木で火を燃やします。

ですが、民間信仰で山伏さんなどが出先でお護摩を焚かれるときなどは、昔は中華鍋のような形の鉄鍋の中で火を燃やし、炉の代わりにしたそうです。

真言宗にも「風呂敷護摩」と呼ばれるものがあるそうです。

つまり、風呂敷に包んで鍋(炉)を運び、出先でお護摩を焚くという。

 

今にして思えば、お伝さんのお堂の中が真っ黒にすすけていたのは、そういったお護摩を焚いていたのではないか、と宇賀神先生は思っておられます。

いえ、思っているというより、やはりお伝さんから何か伝わってくるものがあるそうです。

 

ということで、やっぱり長くなって参りましたので、次回はそこらへんの、お伝さんからの通信にも少し触れたいと思います。

いやはや、おばあちゃんと孫がどっちも霊能者で、生前会ったこともないでしょうに、70年経った今こうしてあの世とこの世で通信しているなんて。

イヤですヨ、ほんと。

凡人にはついていけませんワ♥( ̄∇ ̄;)

 

合掌

「お伝さん」と宇賀神法 その1

宇賀神法(うがじんぼう)とは、神さまの宇賀神さまをお祀りしてお祈りする、一種の儀式儀礼のことを指します。

神さまの宇賀神さまは今でこそ知る人ぞ知る、というような存在ではいらっしゃいますが、古くから民間信仰のなかで人気が高く、崇められてきた神さまです。

その霊験はあらたかでしたのでしょう。

宇賀神さまも、宇賀神さまを頭の上に乗せられた「宇賀神弁財天さま」にしましても、豊穣や福徳を司る神さまで、今風に申しますと「幸せにお金持ちになりますように!」と願う人々に厚く信仰されていた神さまです。

 

そして、多分に真言宗と天台宗の間の経典に関する問題で?、今現在はややその知名度が低くなられた神さまなのです。

(その理由につきましては後ほど。)

 

さて、宇賀神先生のおばあ様こと「お伝さん」のお話です。

 

もともと宇賀神家は、土豪(どごう)の家だったそうです。

宇賀神先生いわく土豪とは、その土地の有力な地侍(じざむらい)のことだそうです。

先生が幼い頃、本家の宇賀神家に訪ねて行かれたときには、まだその表札に「鹿沼市 下奈良部町(しもならぶまち) 士族」と書かれていたそうです。

士族と申しましても、宇賀神家は正式な藩のお侍ではなく、その土地に昔から住んでいる地侍の家でした。

 

お伝さんが宇賀神家に嫁いで来られる前、明治の初め頃はおろか、もちろん江戸時代にもすでに刀を振り回すような戦もございませんでしたから、地侍と申しましても宇賀神家は広い広い田畑を持ち、当時はまだ小作人と呼ばれた人達を使い、農業に従事しておりました。

その土地ではなかなか裕福な家だったようです。

日本には名字の他に「屋号」というものを持っている家も昔は多かったですが、その本家の宇賀神家の屋号は「油屋」といったそうです。

つまり、油も(なかば商いのような形で)取り扱っている、という家でした。

当時は油はまだまだ高価な時代でしたから、そんな高価な油をたくさん仕入れて周りの人に売ることができるのは、裕福な家の証です。

 

大阪弁では、そんな土地の裕福な家のことを「ええ氏の家」(=いい家柄)と言いますが、全国的にはどうなんでしょう。

と、以前も別のなにかで「大阪弁では・・・」と書いた単語がございましたが、別の大阪人の方に「ボクその言葉知りませんでした(^-^;)」と言われ、もはや大阪弁かどうかすら怪しくなっております。

「ええ氏」、ご理解いただけることを願うばかりです。

 

ともかく、宇賀神本家は奈良部という土地ではええ氏だったようです。

 

そのええ氏の宇賀神さん、あるとき、東京の大学の教授でいらした方を食客としてしばらく家に迎え入れてさしあげていたそうです。

食客とは、もう今ではあまり聞かない言葉ですが、直接知らない人でもご縁を通じてお客様として家に泊めてあげ、ご飯を食べさせ、色々なところに見物に連れていくなど、お世話をしてさしあげるお客様のことを言います。

当時の大学の教授だなんて、よほど超がつくほどのエリートの方だったのでしょうね。

大学そのものができるかできないかの時代ですもの。

それは宇賀神先生のひいおじい様、源三郎さんの時代のことです。

多分、明治の初め頃のことですって。

ちなみに、源三郎さんは江戸時代の天保年間のお生まれです。

 

その教授の方が、しばらく滞在なさった後、帰られる前に

「これだけお世話になったのですから、何かお礼がしたいが、(たとえばお金になるような)いい情報で必要なことはありませんか?」

と、おっしゃってくださったそうです。

 

そのとき、宇賀神先生のひいおじい様の源三郎さんは、

「いやいや、百姓仕事は現金にはならねぇもんだから、何もいらねぇ。」

と、断られたそうです。

当時は、ちょっと言い方が乱暴かも知れませんが、お米がお金でもあったような江戸時代の名残がまだまだ色濃く残っている時代でしたから、裕福な家はイコール現金をたくさん持っている家という単純な図式でもありませんでした。

 

するとその教授、何やら考えられたあと、

「では街に行って、これとこれとこれを買って来てください。」

と、いくつかの材料を買うよう指示なさったそうです。

そして、手に入れたその材料を薬研(やげん)で細かくして分量を測って調合し、ひとつの薬を作られました。

 

その薬は、

「保血散」(ほけつさん)

と名づけられました。

 

そして、保血散は女性の貧血に効く薬として売られました。

当時はまだまだ日本全体が貧しい時代でしたから、栄養失調気味の人も多く、ゆえに今より女性の貧血も多かったようです。

 

その商売を始めた後くらいでしょうか、宇賀神先生のおばあ様の「お伝さん」が、宇賀神家に嫁いでこられました。

お伝さんの旧姓など詳しいことは宇賀神先生もご存じないのですが、とっても変わった人生を送ってらっしゃる宇賀神先生から見ましても「とても変わった人だったよ」と言われる先生のお父様が、さらに「とんでもない人だったよ」と称するような人だったそうです。

 

宇賀神先生の子供の頃もまだその名残はございましたが、当時はよく山伏さんがそこかしこにおられ、今で言う托鉢ですね、家々を廻っておられたそうです。

当然宇賀神本家にも托鉢に来られたのでしょう。

あるときからお伝さんが急に山伏さんに惚れ込まれ、家の敷地内にお堂まで建ててしまわれました。

そして、たびたび山伏さんに来ていただいては護摩を焚いてもらったり、ついにはご自身でもご祈祷の儀式を行われるようになられました。

別に出家なさったわけでも何でもないですのに、自らご祈祷をし始め、驚いたことにいつの間にやら何人かのお弟子さんまでできてしまったそうです。

 

ですが不思議なことに、いえ、不思議でもなんでもなく当然の帰結かも知れませんが、お伝さんの信心が効験あらたかでしたのか、保血散は売れ行きがどんどん良くなり、宇賀神家はますます裕福になっていきました。

宇賀神先生のひいおじい様の源三郎さんが望まれたように、現金収入のあるお金持ちになっていったのです。

だからでしょうか、宇賀神先生がお父様からお聞きした記憶によりますと、あまり家人からはお堂まで建てることは歓迎されなかったようですが、誰もお伝さんのことを止めることはできませんでした。

 

また、さらに、お伝さんには大変困った一面(どころではなく、何面も?)がありました。

宇賀神本家に多大なる現金収入をもたらした保血散ですが、その売上金が郵便局に為替で届く日が近づきますと、お伝さんは何やらそわそわしだすのです。

それを見たお舅さんにあたる源三郎さんもそわそわ、というより、ピリピリ・・・。

 

さて一体、売上金が届く日に何が起こるのでしょうか?

 

長くなって参りましたので、続きはまた明日♥

 

合掌

双子の宇賀神さま?

世にも珍しい?、双子の宇賀神さまの写真をお見せしましょう。

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双子の宇賀神さま

 

この写真は東京の上野にございます、寛永寺さんの不忍池の弁天堂の前で撮影いたしました。

2017年頃から出張で東京へちょくちょく行くようになりましたが、去年2018年の秋に、突然この宇賀神さまの像が境内に祀られるようになりました。

 

宇賀神さま。

名前が、宇賀神先生の姓と同じです。

もちろん先生の姓は本名です。

(短い記事ですが、こちらも見てね!→「宇賀神 龍仙という名前」)

 

宇賀神という名前は関西では珍しいのですが、実は栃木県などではまあまあ知られた名前ではあります。

よくある三文判のハンコにも、ちゃんと標準的に用意されているくらい「宇賀神」の名前は存在しております。

 

そして神さまの宇賀神さまは、今でこそ知る人ぞ知るという感じの神様でいらっしゃいますが、その歴史はかなり古いと思われます。

宇賀神先生がおっしゃっていましたが、古くは縄文時代の土偶のなかに、頭にとぐろを巻いた蛇を載せている人の像があるそうです。

やはり蛇という、人間からしましたら異形の生き物に対する根源的な怖れが洋の東西や古今を問わずにあり、ですからこそ日本を含む世界中でかなり古い時代から蛇が神さまの世界に属するものとして扱われてきたのかなと思われます。

その縄文時代の蛇を頭に乗せた土偶を見たくて、去年の縄文展に行ったのですが、残念ながら展示物のなかにはございませんでした。(→「人生山あり谷ありと言いますが、『谷間の春は花が咲いて』いました。」)

 

現在の宇賀神さまは、とぐろを巻いた蛇の身体の上に、ヒゲを生やしたおじいさんの顔が乗っている形で表されています。

私がいままで見たいくつかの宇賀神像はすべて頭を宇賀神先生のように丸坊主にしておられましたが、ここ上野の新しい宇賀神さまは髪の毛を生やしておられますね。

お顔もどこか幼げで、とても可愛らしい宇賀神さまだと思います。

 

また、以前もご紹介しましたが、この宇賀神さまを頭に乗せた弁天さまがいらっしゃいまして、「宇賀神弁財天」というお名前がつけられたりしておられます。

上野の東京国立博物館で一度「現存する最古の宇賀神弁財天」像として、とても美しい弁天様が展示されており、ほれぼれと拝見しましたが、残念ながら次に伺いましたときは展示されておりませんでした。

よく存じませんが、常設展のほうでも展示物は入れ替わるのでしょうか?

よろしければこちらの記事も見てください。

お写真も載せておりますが、とても美しい宇賀神弁財天さまですよ。

宇賀神弁財天さまと、実は蛇がコワイ宇賀神先生

 

もちろん今でも実際にご本尊さまとして祀られている、宇賀神さまを頭に載せられた弁財天さまもいらっしゃいます。

有名なところでは、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)や、鎌倉の江の島の弁天様がいらっしゃいますね。

 

また、この上野の寛永寺さんの不忍池の弁天さまは、八臂大辯才天尊(はっぴだいべんざいてんそん)さまとお名前がつけられておいででしたが、やはりその頭上にも宇賀神さまをいただいておられました。

お守りを買ったときにいただいたしおりに綺麗に描かれていましたから、ご参考までに載せますね。

絵の下に「本尊 八臂大辯才天尊」と書かれておりますが、字が小さいため見えづらく、申し訳ありません。

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不忍池の弁天様のしおり

 

ちょっとアップにしてみます。

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八臂大辯才天さまの頭上の宇賀神さま

弁天さまの頭の上の鳥居のなかに、宇賀神さまが見えますでしょうか?

 

これらの宇賀神さまの風貌と、宇賀神先生の風貌がどことなく似ているのは偶然なのでしょうか、それとも必然なのでしょうか。

宇賀神先生は長いお髭を生やしておられますが、その理由は主にふたつです。

ひとつ目は、以前にもご紹介しました、宇賀神先生の運命を変えたと言っても過言ではない、偶然出会われた名前も知らない不思議なおじいさんの影響を受けて。

 

こちらの記事です♥

されど顔で運命は決まる その1

されど顔で運命は決まる その2

されど顔で運命は決まる その3

 

そしてもうひとつの理由は、別の人相学上の問題で。(このことにつきましては、またいずれご紹介しますね!)

 

よく、世の中に偶然はないという風に言われておりますが、たしかにそのような一面は感じます。

ですが、あまり何でもかんでも縁や因縁や必然でひっつけてしまうと重たくなりすぎて身動きが取れなくなってしまいそうですから、自分にとりまして都合のよことにかぎり、ほどよく「必然だねぇ」などと納得することにしております。

ちなみに宇賀神先生はこのことを「いい加減(良い加減)♥がいいんだよー。」と言っておられます。

 

ですので私は、宇賀神さまの風貌と宇賀神先生の風貌がどことなく似ておられますのは、やはり宇賀神先生の宇賀神さまとのご縁が人一倍強くていらっしゃるため、と解釈しております。

日本には宇賀神姓をお持ちの方はたくさんいらっしゃいますが、その中のいったいどれほどの人が神さまの宇賀神さまの存在をご存じで、その歴史から、ご真言や印や、その他色々をご存じでしょうか。

 

宇賀神先生は、このことを「霊統」(れいとう)と呼んでおられます。

ご先祖さまから子孫への血のつながりのことを血統と申しますね。

それと同じように、霊的(神的)な縦のつながりを称して霊統と言うのだそうです。

宇賀神先生にとりましてもありがたいことに、ご自身でも、宇賀神さまからの霊統を受け継いでいらっしゃると感じておられるそうです。

強い強いご縁を感じておられます。

 

そしてそれは、実は宇賀神先生のおばあ様の代にも、強く表れていたのですとか。

宇賀神先生の実のおばあ様。

名前を「伝」(でん)とおっしゃったそうです。

 

次回からはそのお伝さんのお話をしていきたいと思います。

まあー、この方も、宇賀神先生と同じくトンデモナイお方だったようです。

やはり血は争えないのかしら。

事実は小説より奇なりと申しますが、宇賀神先生の人生を垣間見ておりますと、うなずかざるを得ませんね。

 

では、次回からもお楽しみに。

お伝えしたいことたくさんあるのですが、なかなか頻繁に更新できず申し訳ありません。

気長に待ってやってくださいませ。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。♥

 

合掌

めでたい富士山をおすそわけ。

先週は金曜日から日曜日まで出張で出ておりました。

偶然にも日程が重なり、金曜日は仙台、翌土曜日と日曜日は東京でお仕事となりました。

しかも、この季節は雪が心配だから早めに東京に入りたいと宇賀神先生がおっしゃいましたので、なんと金曜日の朝一番で大阪→仙台のフライト、日中を仙台で過ごした後、夜にそのまま新幹線で東京に出てきて金曜日から東京で宿泊、という移動スケジュールになってしまいました。

1日のうちに大阪から東北に向かって空を行き、陸で関東に帰ってくるなんていう移動は生まれて初めてでした。

 

なんだかちょっと忙しいビジネスマンのようで?、ドキドキと楽しい旅路でした。

何にドキドキかって、飛行機や新幹線に「乗り遅れないように!」

なにしろ私達は珍道中の常習犯ですから、何かと油断はできません( ̄∇ ̄;)

 

金曜日も朝早くから目覚ましをかけ、行ってまいりましたよ!

私は数年ぶりに飛行機に乗りましたが、ちょっぴり怖かったものの、「快適な空の旅」となりました。

そして運よく富士山まで見ることができました。

日本人のDNAがそうさせるのか?やっぱり富士山が綺麗に見えますと、それだけでもう嬉しくなっちゃいますね!

ということで、今日はどうということはないのですが、「みんなもきっと大好き♥富士山」を、おすそわけ(^-^)

すごくタイミングよく、綺麗に撮れました。

 

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飛行機の窓から、富士山!

ちょっとアップにしてみます。

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富士山を上空より

どうでしょう、飛行機の窓枠とエンジンの間に見えたほんの一瞬のタイミングを逃さず、よく撮れたものだと我ながら満足しております。

 

2019年の初日の出といい、今年は写真をバッチリ撮ることができていて、とっても嬉しいです。

(めでたい初日の出はこちら→「運がいい!(のか悪いのか?)珍道中6~どう考えるかで運命も変わる編~」)

 

ただ、富士山大好きとか言いながら、あれが本当に富士山だったのか?と少々心配でもありました。

だって地図ではないですから、山の上空にこれが富士山ですよ、とは書いていないのです。

日本には本当に山が多く、どれがどれだか正直なところよく分かりません。

星と同じく山(登り)の好きな父でしたら多少は色々と分かったかも知れませんが。

 

本当に、こんなに豊かに山々があるのですよ。

ありがたい国です。

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雪をいただく山々

 

しかも、富士山らしき山を越えてしばらく行きますと、もうひとつ富士山みたいな火口のぽっかり開いた山が見えてきました。

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吾妻小富士

あわてて隣の宇賀神先生を呼び、「あの山は何??」と尋ねますと、

「たぶん吾妻小富士(あづまこふじ)って言う福島県の山かな。」と。

 

吾妻の小さな富士山。

 

なるほど、言い得てますね。

 

そのときふと思い出したことがございます。

よく日本人は富士山のような見事な山がありますと、「ΟΟ富士」と、今回の吾妻小富士のように富士の名を使って「これは富士山のように素晴らしい山だ」と表現いたしますね。

ところが、青森県の岩木山では逆のこと言う、と、お聞きしたことがございました。

つまり、岩木山も美しく雄大な山なのですが、岩木山が「津軽富士」=津軽にある富士山なのではなく、富士山が「駿河岩木」=駿河にある岩木山なのだと。

青森の人の岩木山への愛情を感じて感心いたしました。

その土地の人達の郷土愛には、いつも感動いたしますね。

 

さて、数年ぶりの快適(というよりずっとスマホで写真を撮りまくっていたお上りさん)な空の旅を無事に終え、仙台でのお仕事を終え、夜の東北新幹線に乗ってその日のうちに東京へ。

宇賀神先生も東北新幹線に乗られるのは久しぶりです。

「写真撮って♥」と人に頼んでおきながら、なぜかカメラ目線じゃない先生。

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東北新幹線につっつかれそうよ!

 

宇賀神先生はお若い頃、まだ今の能力に目覚められる前は、職を転々とする今で言うところのワーキングプアでいらっしゃいました。

転々とした最後のお仕事になったのが、コンクリートミキサー車の運転手のお仕事です。

そのお仕事をやめて、めでたく今のお仕事を始められたことは、以前にもお伝えしましたね。

こちらもご覧ください♥

↓↓↓

佛さまから「二足のわらじ」を許されなかったという愛のムチ その1

佛さまから「二足のわらじ」を許されなかったという愛のムチ(別名、不空羂索。) その2

 

宇賀神先生がコンクリートミキサー車を運転なさっていたとき、積み荷のコンクリートを、当時建設中でしたこの東北新幹線の橋げたを作るためにも運んでいらしたそうです。

そのときは、

「この新幹線に乗って東京に仕事に行くなんていう人は、どんな人なんだろう。」

と、きっとまるで自分とは住む世界の違う人のようにぼんやりと思っていたのですって。

 

それが後年、自分がこうしてその新幹線に乗り東京に仕事に行こうとは。

東北新幹線に乗られるときはいつも、あのときの自分の思いを感慨深く思い出されるそうです。

こんなに素晴らしく速い新幹線に乗って、あっという間に東京に着いて、しかもお仕事させていただけるなんて、なんて幸せなんでしょうねぇ。

 

あ、そうそう。

 

今回はさすがにお仕事だったから珍道中な事件はなかったのでしょうかって?

そうですね、ありがたいことにそんなに大きな事件はございませんでした。

 

ただ、仙台から新幹線に乗り、東京のホテルに夜も遅い23時30分頃到着した翌朝、目が覚めると9時53分でした( ̄∇ ̄;)

「あと7分でチェックアウトの時間やーーー!!!」

と、大慌てで飛び起きたことくらいでしょうか。

定刻より20分くらい過ぎてのチェックアウトとなりました。

目覚ましのアラームを止めたのは誰かって?、それはナイショです。

 

あっ・・・今ふたつ目を思い出してしまいました。

2泊目のホテルでは、朝、部屋を出るときにうっかりと部屋の鍵を中に入れたままドアを閉めてしまい・・・オートロックで一度閉めてしまうと開かないドアなのです・・・ここでもフロントの方に「ごめんなさい」したのでした。

 

うーん、今日はめでたい富士山を皆さんにお裾分けしようと思っただけですのに、また自分の恥をさらしてしまう結果となりましたね。

大丈夫。

ドンクサイのが玉にキズ♥

と、めげずに生きております(^-^)

「おめぇさんの頭の中が一番めでてぇな」と言われそう?

 

合掌

「死ぬまで痛いって言わせない。」

「死ぬまで痛いって言わせない。」

宇賀神先生が、私にそう約束してくださいました。

 

始まりは去年2018年の夏(今思い起こせば実は数年前にもございました)、そしてこの年始年末も色々とややこしかった私のお腹ですが、選択した治療方針のもと、今のところ落ち着いて暮らしております。

ご心配をおかけしたままブログもダンマリしていて申し訳ありませんでした。

心と身体の態勢を整えておりました。

今日は私のお腹に関するご報告をさせてください。

 

年始年末のドタバタを経て、今年に入ってから、宇賀神先生のご相談者様で以前に婦人科疾患を患われた方がいらっしゃいましたので、その方にどんな風にお医者さまに行けばいいかお尋ねしました。

その方は宇賀神先生とのおつきあいが私より長い方で、いつも親しくお話してくださいますので、尋ねてみようと思いました。

また、今回の年始年末のこともブログを読んでくださってる娘さんを通じてご存じのようで、お越しになるなり開口一番、

「お正月大変やってんてー?」

と、心配してくださいました。

 

ですのでその方に、救急車で運ばれたときの国立病院に行けばいいのか、もっと以前に一度行ったことのある婦人科の(摘出)手術で全国的にも有名な病院に行けばいいのか、それともまずは近くの婦人科に行けばいいのか、お尋ねしてみました。

ご自身のご経験はどのようでいらしたのかもお尋ねしました。

 

うちの近くにある産婦人科の病院は、実は私自身が生まれた病院なのです。

街の中のお医者さまがお一人でなさっている病院で、私はそこで生まれて、小さい頃も小児科の先生として何度も診ていただいた病院です。

ですが今は先生もお年を召され、診療時間も短くなさっていて、大きな手術とか?は多分もうなさってないように思われます。

 

すると、宇賀神先生のご相談者様は、

「まず行くなら、それは近くの経験豊富な“おじいちゃん先生”がいいよー。」

とおっしゃいました。

「若い人はすぐに切りたがるから!」

とも。

 

すぐ切りたがるって・・・(T-T)

と、ちょっとビビる私。

いえ、もうお尋ねしたときは手術もやむなしかしらとは思っておりましたが、やっぱりお腹を切るなんて怖いのがホンネです。

 

ですが、その方は本当にご親切にご自身のご経験も含めて色々と教えてくださいました。

絶対まずは「経験豊かなおじいちゃん先生がいい!」と。

そして、お話しくださっているあいだずっと、とても私のことを案じてくださっているのを感じられ、本当にありがたいと思いました。

 

ですのでその方のおすすめに従い、まずは私をこの世にとりあげてくださった近くの産婦人科医、T先生のもとを訪ねました。

夏以降の経緯をお話しし、この一連の痛みの原因は何だと思われるのか、どの様な治療方法がいいと思われるのか、お聞きしました。

 

するとT先生は、その痛みはやはり子宮内膜症が原因であると考えられます、とおっしゃいました。

腸との癒着はもちろん内膜症が原因で起こったことですし、痛みも子宮の外に漏れ出た内膜が活発になるときに引き起こされるのです、と。

どうしても婦人科の月経周期によって定期的に子宮内膜が活発になるので、その時期により色々な要因も絡めて痛んでくるようです。

 

ですが、手術も避けられないのだろうかとこわごわお聞きしていますと、

「手術して子宮を摘出したとしても根本的解決にはなりませんよ。」

と、さらりと断言なさいました。

「ええっ。」

と、びっくりする私。

 

だって、子宮を取ってしまえばそもそも月経も起こらなくなり、そうしたら外に漏れ出た内膜とやらも活動しなくなるのでは、と思っておりましたから。

T先生は本当にご丁寧に長い時間をかけて私に説明してくださっていましたが、結局医学的知識のない私には、なぜ摘出手術が根本的解決にはならないのかがよくわかりませんでした。

ただ、T先生がおっしゃるには、私の年齢がもう子供も早急に望むような年齢でないこと、平均的な場合ですと、あと5~6年ほどで閉経を迎える年齢であることを考えますと、低用量ピル(経口避妊薬)を服用し、子宮内膜の活動を抑えて、それにより痛みを抑えてこの5~6年を乗り切ることがよいのでは、とのことでした。

そして閉経を迎えてしまえば、その痛みも徐々に起こらなくなるようです。

 

なぜ子宮摘出手術が根本的解決にはならないのか、いまひとつ芯まで理解できませんでしたが、すごく嬉しかったのが、そのT先生のお話をお聞きしていますと、胸の中の不安の塊が、すーっと溶けていくのを感じられたことでした。

穏やかなT先生のお話しぶりをお聞きしているだけで、心が溶けていきました。

頭より先に心が理解したようでした。

ああ、この先生は、病気の説明をなさっているだけで患者の心まで治してしまわれるのだなぁ、と感じました。

名医の定義は色々とあるでしょうけれど、私をこの世にとりあげてくださったT先生は名医でいらしたんだー!と、本当に嬉しく、内心感動しておりました。

 

そしてもちろん大きな病院に、念のための診察を受けるように再び紹介状を書いてくださいました。

夏に救急車で行くように紹介状を書いて下さった国立病院の、今度は救急のお若い方ではなく婦人科部長の先生に診ていただけるように、と。

その紹介状のためにも血液検査をさせていただきます、とのことでしたので、二つ返事で快諾しますと、何とT先生自ら採血なさるようではありませんか。

えっ、看護婦さんは?・・・おじいちゃん先生が自ら??・・・だ、大丈夫???

と、さっきはあんなに「名医だ!」と思っておりましたのもどこかに吹き飛び、注射の針におびえました。

しかも、採血のための注射器が、単3電池の細さではなく、単2電池くらいあるぶっとい注射器です。

ここは看護婦さんもいらっしゃらないんだー、と内心トホホと思いながらも腕を差し出しますと、何と、全然痛くない・・・。

今まで受けた注射針のなかで、一番痛くない注射でした。

 

やはり名医すぎる♥(T-T)

 

と、ひとり感動しながら、T先生のもとを後にしました。

 

そして後日、国立の病院に行き、婦人科部長の先生の診察を受けました。

そこでは低用量ピルを含めて3つの治療方法を提案してくださいましたが、その中には子宮のみでなく卵巣まで開腹手術で取ってしまうものもありました。

ですが、やはり、

「子宮と卵巣の摘出手術は(子宮内膜症による痛みを取ることの)根本的解決にはなりません。」

とはっきりと断言なさいました。

どうして?、とここでもやはり解決にならない理由は分からず仕舞いでしたが、お忙しい先生に素人相手の医学の講義をお願いするわけにもいかず。

たぶん癒着部分の腸を傷つけないためにも子宮(内膜?)を多く体内に残す形で切除するため?、月経が起きなくなってもその部分が本来の閉経時まで痛みの原因になるのでしょうか?

ただ、二人のお医者さまが手術は根本的解決にはならないと断言なさったのだけが分かりました。

 

ただし国立の先生は、MRIの画像により私の子宮筋腫や腺筋症が大きいのを見られて、根本的解決にはならなくても、一番には手術がいいと思うとおっしゃいました。

ですが、私は、もうT先生のお話をお聞きしたときにすでに治していただいたような気持ちでおりましたから、なるべくなら極端な手段をさけて、一番穏やかな方法である低用量ピルでまずは様子を見てみたい、とお伝えしました。

 

ちなみにこれは後日談ではありますが、国立病院での診察・投薬のあと地元のT先生のところへご報告方々参りますと、詳細な検査結果をご覧になったためか、私の場合くらい大きくなった子宮筋腫および腺筋症は、“身体の健康”の観点から言うと、手術で取った方がいいとは思われます、とおっしゃいました。(この場合は子宮全摘となります。)

ただその手術は癒着の範囲が広いため、難しい手術になる可能性が高いともおっしゃいました。

難しい手術や臓器を失うことのリスクと、子宮(筋腫、腺筋症、および卵巣)切除により得られる健康のリワード。

私の感覚では、まだ今のところ天秤にかけるにはリスクの方が大きすぎるかなぁ。

 

それに、私にはもうひとり内緒の強い味方がいるのです。

 

そう、宇賀神先生です。

 

T先生のお話を宇賀神先生にお伝えして、とりあえずはピルの服用で行きたいとお話ししたとき、宇賀神先生が私にこう約束してくださいました。

 

「綾野が手術しないって決めたなら、死ぬまで痛いって言わせない。

それはわしが引き受ける。」

と。

 

T先生同様、とても穏やかにおっしゃってくださいましたが、とても力強く感じられました。

ああ、この安心感。

私はこの人の、まるで大地のようなこの力強さに魅かれたんだった、と思い出しました。

宇賀神先生も、それこそ今は立派な「おじいちゃん先生」ですが、T先生のお話をお聞きしていたときと同様に、自分が患者ともいうべき立場に立ちますと、あらためて宇賀神先生の力強さを感じました。

 

いつもは、ですね、それは夫婦ですから、しかも若干、カカァ天下どころか鬼嫁天下となりつつあるような!?、いつもはまぁそれなりにお尻に敷いちゃっているわけですよ。

おじいちゃんだし。

毎朝顔を洗った後は決まって眼鏡がないって探されますし。

ダウンのチョッキでさえ、よく表裏逆に着ておられますし。

カンタンな足し算も必ず間違えられますし。

食後すぐに歯を磨かないのも、いつもお嫁ちゃん(鬼)に怒られているわけですよ。

 

ですが、いざこういうときの宇賀神先生は、やっぱり「先生」なのでした。

なんだか、宇賀神先生がついててくださってると思うだけで、根拠はないのですが、奇妙な安心感に包まれます。

「なんか大丈夫な気がする」って。

こんな風な思いを、ご相談者様たちは感じてくださっているのでしょうか。

 

そして1月の後半からこの2月中旬にかけては、実際にもほとんどお腹が痛むことなく過ごせているのでした。

この間には本来痛むはずの月経期間もありましたし、そしてまだ効果の出るほどピルも飲んではいませんのに。

 

もちろん基本的なこと、たとえば夜なるべく早く寝て睡眠時間を充分に取ること、身体を冷やさないこと、ストレスをたくさん作り出さないこと、など、今までよりさらに気をつけております。

身体が示す不調は、初めはとてもささやかなメッセージとして伝えてきますからね。

ちょっと足が冷えてるよ、疲れてるんじゃない?、痛くはなくても重いだるさを感じてない?って。

そのささやかなメッセージを無視せずに、今まで以上にちゃんと聞き取っていこうと思います。

そして後は病院からいただいたお薬と、宇賀神先生と、神さま佛さまにお任せ、です!

 

それでもダメなら、またその時に考えましょう。

「死ぬまで痛いって言わせない。」

と、まるで2度目のプロポーズのように誓ってくださった宇賀神先生がいらっしゃる限り、どうあっても、たとえ万が一また痛くなって手術を受けるような結果になってでさえ、大丈夫だと思えます。

ちょっとヘンな結論かも知れませんが。

その時その時で、最善の手段を選んでいきたいと思います。

 

いつもご心配くださっている方々、本当にありがとうございます。

今まで以上に身体を大事にしてまいります。

「身体が資本」という言葉が身にしみました。

皆さまもどうか、お身体おいといくださいませね。

 

 

では、長い長いご報告も済んだところで(おつきあいありがとうございました!)、本日のオマケを♥

つい昨日、うちの可愛い姪っ子が、食べに行ったレストランでとっても素敵な写真を撮ってくれました。

皆さんご存じですか、SNOWっていうアプリ。

写真をおもしろ可愛く加工してくれるのです。しかも少々顔の美容整形までして!?

その写真が、こちら。

mickey
ミッキーマウスな宇賀神先生

なんて言うか・・・宇賀神先生の「所在無げなミッキーマウス」っぷりが笑えません??

宇賀神先生は酔っぱらわれたときに、よく魔法使いのミッキーマウスのマネをなさるのですが、まさにこの写真がぴったりすぎて。

きっとこのミッキーは「死ぬまで痛いって言わせない」っていう魔法を、私だけでなくみんなにかけてくれるのでしょう♥

 

・・・ってすみません、この所在無げなミッキーの可愛さが理解できるのはこの世で私だけでしょうか?

別の言葉で申しますと、この世的には可愛くないとでも言うのかしら!?

求む、理解者!なのでした♥

 

合掌