「運がいい」を数えるだけで、運が良くなる話

これは私の憧れであるギャンブル運!までもが強くなるコツのお話です♥

宇賀神先生のお父様のお友達のことなのですが。

そうですね、昭和30年代の頃の記憶になります。

その方は先生のかすかな記憶によりますと、鈴木さんとおっしゃられました。

先生のお父様がパチンコ屋さんをなさっていたことから、鈴木さんと知り合われました。

(こちらの記事で当時のことを少しご紹介しております。→「Meijiのチョコレート」)

鈴木さんはパチンコのプロ、つまり、パチンコで生計を立てて暮らしておられる方でした。

宇賀神先生のお父様がパチンコ屋さんをやめられた後もお友達づきあいが続いて、お父様は鈴木さんから「パチンコでの勝ち方」を色々教わられたそうです。

パチンコの台の選び方から玉の打ち方(その時代は手でレバーを弾いて一粒ずつパチンコ玉を打つ方式でした)まで、パチンコひとつにとりましてもすごい「技術」が必要なようで、鈴木さんは「お友達の宇賀神さんだから」と、色々と詳しく教えてくださったそうです。

ですが最後に、「パチンコはね、技術も大事だがそれは半分でね、後の半分は運も必要なんだ。」とおっしゃったそうです。

ではどうすればパチンコで勝てるようなギャンブル運が強くなるのでしょうか?

その鈴木さんはギャンブル運の付け方までお父様に教えてくださったのですって。

宇賀神先生が生まれられたのは戦後5年もたっていない頃です。

お父様のお友達である鈴木さんも、第2次世界大戦の際は兵士として南方へ派遣されていました。

パプアニューギニアです。

パプアニューギニアと言えば激戦地中の激戦地、送られた兵士達は相手国の人達だけでなく飢えとも戦わなければならないような状況で、生きて帰ることは絶望的とも言える過酷な戦地でした。

鈴木さんは運悪くそこへ送られました。

そしてさらに運の悪いことに、パプアニューギニアでの戦闘中に肺結核を患われました。

しかも病状は重くなり、肺の一部を切除しなければならないほどの状態となられたそうです。

もちろんと申しますべきか、そのような大変な手術は現地では難しかったのでしょう、鈴木さんは日本に送り返されることになりました。

そして日本で片肺のほとんどと、肋骨や大胸筋までも切除するような大手術を受け、何とか命をとりとめ、そのまま日本で終戦を迎えられました。

肺の手術により一命をとりとめたものの、敗戦後の日本は鈴木さんにとりましては生きるのに過酷な時代でした。

鈴木さんだけではありません、日本中の人にとりまして、過酷な時代でしたね。

普通の人でも大変な時代ですのに、彼には片肺がほぼありません。

呼吸が苦しいのです。

普通の人のように動いただけでも、息が切れます。

そしてたびたび熱を出しては、せっかく見つけた仕事も休まないといけない状態でした。

上役の人からは「給料どろぼう」とまでののしられたそうです。

「何で俺だけこんな目に。」

息苦しい身体を抱えて、彼は運命を恨むような心持ちでした。

パプアニューギニアという激戦地に送られ、結核を患いそのため片肺のほとんどを切除し、呼吸は苦しく胸は痛く、体調も崩してばかり、せっかく見つけた働き口でも休みがちのため「給料どろぼう」とののしられ。

鈴木さんは彼自身の不運さを呪いながら生きながらえておられました。

ところがある日、鈴木さんはどなたかに言われたそうです。

「あんたはね、運の悪さを数えているが、違うよ。運が良かったところを数えてみな。」

と。

その人いわく。

鈴木さんは戦時中、パプアニューギニアに送られました。

パプアニューギニアは、「玉砕」を命じられた激戦地です。

玉砕とは、送られた兵士達は「自ら死んで一秒でもアメリカ軍の進行を食い止めろ」と命令されたのです。

たった一秒でも遅らせるために死ねとは、今の平和な時代に生きる私たちから見れば「そんなバカな」と到底受け入れられないような命令を、南方に送られた兵士達は否応もなく命じられたのです。

ですが鈴木さんは、「幸か不幸か」、結核を病み、パプアニューギニアから送り返されました。

しかも当時、南方への航路では日本の船はよく攻撃されては沈められていたそうです。

幸いにも彼の乗った船は、無事に日本に帰り着きました。

また、宇賀神先生いわく、送り返された港は呉だったのでは、とおっしゃいました。

広島の呉に海軍の港があったそうで、南方から帰国した船は呉についたはずだ、と。

もし彼がそのまま広島の病院にとどまり、そこで肺の切除手術を受けておられたのでしたら、そうですね、もしかしたら原爆に巻き込まれていたかもしれません。

ですが彼は別の場所で手術を受けられ、無事に終戦を迎えられました。

当時、結核という病気は今よりもコントロールされておらず、命に関わる恐ろしい病気でした。

他の人に伝染させないよう、終戦後もしばらくは世間様からの隔離生活を余儀なくされた彼は、隔離病棟(療養所?)にいたおかげでかえって終戦前後に多くの人が体験した飢えをまぬがれました。

働き口も見つけてもらい、最低限の暮らしを送れるだけのお金は継続して得られていたようです。

鈴木さんは「失ったもの」、健康な身体や切除された肺、を見つめ続けて「自分はなんて不運なんだ」と嘆いておられましたが、鈴木さんにアドバイスなさった方は、「自分では気がついていないけれど、もうすでに持っていたもの」、つまり、不幸が重なったように見えて実は一緒にやってきていた幸運を数えなさい、とおっしゃいました。

*パプアニューギニアに兵士として送り込まれたこと

*その地で悲惨な戦争を体験したこと

*肺結核を病んだこと

*その状態があまりにもひどくなり、手術を受けなければ死ぬほどになり、本国に送り返されたこと

*手術により片肺の大部分と、肋骨や大胸筋の一部まで失ったこと

または、

*激戦の地だったパプアニューギニアから送り返されたこと

*敵国からの攻撃をまぬがれて無事に日本に帰り着いたこと

*原爆も空襲も受けることなく終戦を迎えられたこと

*無事に手術を終え、当時は亡くなる人もまだ多かった結核を患いながらも命を拾ったこと

どちらも事実です。

コインの表と裏のように表裏一体で存在しており、ただ、表と裏のどちらを見ようと思うのかは、鈴木さん次第でした。

鈴木さんはその人に「運のよかったことを数えてみな」と言われてから、そのアドバイスを実行なさったそうです。

そうして気がつけば、ギャンブル運だけで生計をたてられるほど、運が強くなられたそうです。

まあ、パチンコで生計をたてることの是非を問うのはさておいて、私は鈴木さんがご自身の運の良さ、ひいては「鈴木さん自身」を信じて生きられるようになられたのがよかったのではと思います。

自分自身を信じるって案外簡単そうで、ときに私のような軟弱な人間にはちょっぴり難しいこともございますから。

あっ。

宇賀神先生にはいっつも簡単でしょうか。

と申しますのも、

「自信は『自分を信じる』って書くんだよ。その根拠は?って聞かれても、根拠もなく自分を信じることを自信って言うんだよ!」

とは先生の口ぐせですから。

いっつも自信たっぷりだもんねぇ。

だから、こけてもこけてもめげないんですねぇ。

だから、なんだかんだで運もいいのでしょうねぇ。

いいことだ♥

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何度ダメって怒られても「めげずに」おかわりをねだる宇賀神先生(先週、伊丹空港にて)

合掌

「ペンちゃんクリック!」にほんブログ村のランキングに参加しはじめました。

やっと、やっとの事でブログランキングの参加を決心しました。

どのカテゴリーのランキングにするか迷いに迷って結局、にほんブログ村の「健康」カテゴリーの中の「心と体」というサブカテゴリーのランキングに参加することに決めました。

宇賀神先生のお仕事の範囲が広いですからね。

体の健康だけでなく、心はもちろん、仕事や人生そのものに関わることや、時には霊的なご相談までも引き受けておられますから、長いあいだ決めかねておりました。

ですが、「心と体」というカテゴリー名を見た瞬間、「イコール、人生のすべて」という言葉がふと思い浮かびましたので、こちらに決めました。

今日以降の更新ページと今までの記事にもひとつずつクリックボタンを設置していこうと思っておりますので、お読みいただけましたらぜひ応援のクリックをお願いいたします。

この、可愛いペンギンのバナー(ボタン)にしましたので、記事の最後にこれを見かけられましたらぜひクリックをお願いいたします♥

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いやぁ、ですが、もともと超がつくほどのアナログ人間のワタクシ、このランキング参加のためのバナー(ボタン)設置にひと苦労もふた苦労もいたしました。

しかも同時にブログ記事を書くためのツールもアップデートしましたら、今までと勝手が違ってしまい、未だにちゃんと把握できておりません。

今日もこれを書くのに四苦八苦。

ワケも分からず触ってるうちに何とか書けましたー!というのが本音でしょうか。

また明日も同じことがちゃんとできるのか不安です(^-^;)

ですが、ひとつひとつできることが増えるのは楽しいですね?

また、これからも少しずつ更新していこうと思っておりますので、お楽しみいただけますと幸いです。

ところでこのペンギンのボタン、可愛いですよね♥

うちのぴーちゃんのようです。(何の鳥を見てもぴーちゃんに見えます。)

ペンギンは飛べません。

ですが、その泳ぐ姿を見た時に、「まるで海の中を飛んでいるかのよう!」と感動いたしました。

飛べないはずのペンギンが飛んでいるかのような可愛いイラストのバナー。

クリックしていただける際は、宇賀神先生がね、

「『ペンちゃんクリック♥』って言って押してください!」

ですって。

相変わらず「嬉しがり」の宇賀神先生でした(^-^)♥

合掌

 

 

***追記***

2024年1月現在、ブログランキングからは退会しました。

下記は、思い出までに残しておきます。

 

 

 

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ありがとうございます♥

「いつも一緒にいる人と、いつもの日常を過ごすあたりまえ」という名の奇跡

またずいぶんとご無沙汰しております。

日本だけでなく世界中でいまだ新型コロナウイルスが猛威をふるっておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

宇賀神先生と私はお陰様で無事に暮らしております。

よくよく考えますとこのブログの最終の更新日が今年の3月になっており、なんと半年以上も更新せずにいたわけですが、光陰矢の如しとはよく言ったものですねぇ(言い訳)。

この半年は新型ウイルスに「感染しない、させない」ようにというのを念頭に置いて必死だったという感じがいたします。

気がつけばもう10月?本当に??というのが本音ですが、一体今年は何をしていたかなぁ、と思いますと、「ただただ一所懸命に、ただただ無事でいられるよう生きた」が私の答えでしょうか。

そして何を一所懸命にしていたかと言いますと、

感染しないように人混みを避けた

手洗い、うがい、マスクの着用をこころがけた

寝る時間を長くとるようにした(1日10時間寝た日もたくさん・・・)

美味しいご飯をたくさん作った

美味しそうなお惣菜をたくさん買って楽チンをした

好きなものを食べた

スイーツも自分に甘く好きなだけ許した

宇賀神先生と仲良く過ごした

両親とも楽しく過ごした

弟は何かと忙しくなかなか会えないけれど、学校が休校になっていたあいだ両親のところに疎開してきていた姪っ子や甥っ子になるべく会いにいった

姪っ子の好きそうなご飯を作っては持っていき、「あやのちゃんのハンバーグがいちばん美味しい!」との最高のほめ言葉をもらった

姪っ子から「あやのちゃんだいすき」と書かれたラブレターを何通ももらった

・・・といったところでしょうか。

いやー、こうしてふり返りましても、「精一杯生きたよな」と我ながら満足しております。

ただひとつ、自分でしようと決めておりました分野の勉強がなかなか進んでおらず、かなりちょっぴりヘコむ時もございますが、おおむね満足です。

え?

「精一杯生きる」「一所懸命生きる」のハードルが低すぎますか??

ですよねー!

私もそう思います(^-^)

ただ、色々なことのハードルが低いと、人生のおトク感が満載ですよ!

この「一所懸命に生きる」や「幸せ」や「奇跡」のハードルが、一般的な水準(なんてあるのかどうか分かりませんが)からしましたら、もしかしたら私はとっても低いのかも知れません。

と申しますのも、「あたりまえの毎日を過ごす」だけで、私にとりましてはもうすでに一所懸命生きていることであり、奇跡のような幸せだと思えるからです。

つまり、私のとりましては、こうして宇賀神先生と笑って一緒にいられるだけで奇跡のようだ、と幸せなのです♥

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お家でお気に入りのテンガロンハットをかぶって

 

south-col-dining
サウスコルさんダイニングにて2020年9月

 

norikura
乗鞍にて2020年9月

よく大きな災害に遭われたりしたときに、それまであたりまえだった日常がじつはあたりまえではなかったんだ、ありがたかったんだと気づいた、と言われます。

お陰様で私はそんなに大きな災害に遭ったことはございませんが、日常があたりまえではなくありがたいものなのだと感じられる感覚が、わりと常にございます。

大きな災害ではありませんでしたが、私の人生がちょっぴりしんどい状況にあったときに、

「自分が今すでに持っているもの(あたりまえのように自分の中や自分の周りに存在するもの)を数えよう。持っていないもの(欲しいもの)ではなく。」

というようなことを書かれた本を読みました。

私がまだ20代の頃でしたが、その文章はちょっとした気づきとなりました。

しんどいときは余計に人様の情けが身にしみるのでしょうか、今まであたりまえのように受けておりました周りの人の優しさにあらためて気づかされていたときでもありましたから。

また大事な人が元気に楽しく生きていることも、あたりまえではなく、本当はありがたいことだったのだと気づかされたときでもありましたから。

それ以来、この「すでに持っていたもののありがたさに気づく」ことの大切さが、私の中に深く根づきました。

あたりまえだったものは本当は、とっても得難い幸せであり、奇跡だったのです。

自分自身でも気づかないまま、いつのまにか手のひらの中にあった、とっても得難い奇跡だったのです。

遅まきながらそのことに気づけた20代後半。

それ以来ずっと、私は結構いつも幸せだったりいたします。

だってもうすでに私には、たくさんの幸せと奇跡がこの手の中に存在するのですから。

若干、かなり?、脳内がお花畑状態とも言えるかもしれません(^-^;)

ですので、こうして宇賀神先生と一緒に毎日笑って過ごせるだけでも本当に幸せだなぁ、と思うのです。

at-cafe
大好きなカフェにて2020年10月

宇賀神先生が元気に生きてらっしゃること、楽しくお仕事してらっしゃること、もう本当にそれだけで幸せです。

この笑顔も可愛いですよね♥(かなりナントカは盲目を自覚。)

そうそう、その宇賀神先生、一昨日から仙台に出張に行っておられます。

今回は台風がきており、直前で飛行機の便を変更してもらったり、一昨日はかなりバタバタいたしました。

ですがちゃんと空港まで行って、相棒のクマちゃんと先生のお見送りをしたんですよ!

先生の乗られた飛行機を背景に記念撮影してきました。

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相棒のクマちゃん、宇賀神先生の乗られた飛行機を背景に

見てください、この哀愁ただようクマちゃんの背中!

先生が乗られた飛行機が通路から切り離され、滑走路に向かうのを見送っています。

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飛行機を見送るクマちゃん

なんて寂しげな背中なんでしょう。

飛行機を見送るワタクシのようです。

そしてついに、宇賀神先生の乗られた飛行機が離陸しました。

(なんとか写真撮れたけど、違う飛行機だったらどうしよう!)

plain3
離陸しました!

そして昨日は、いつも仙台のお世話をしてくださるT様のお陰様で、いつものように無事にお仕事を終えられたようです。

「いつものように」。

ありがたいですよねぇ。

本当に。

「いつものように」「あたりまえ」は私にとりましてはまるで奇跡にようにとってもありがたいものです。

(ひすいこたろうさんの言葉をご紹介したこちらの「そんなこともあるよ、人生だから。」と、「神さまの見た風景」もまたご覧になってくださいね!)

そんな奇跡に囲まれて毎日を生きていられるなんて、私は本当に幸せな人間だ、と思うんですけどねぇ。

(まさにオメデタイ頭なだけかも知れませんが・・・。)

あたりまえ=奇跡、ととらえられるくらい奇跡のハードルを下げて周りを見てみてください。

世界がきっと輝いて見えてきますよ。

そして、いつもの日常を過ごせた日が、一所懸命に生きた素晴らしい一日だった、と満足して思えるようになりますよ。

脳内お花畑になってみたい方はぜひお試しくださいませ♥

今この瞬間から、カンタンに幸せな毎日になること請け合いです。

合掌

不安も強さも、何なら宇宙(仏法)までも、自分の中に見い出すということ。

私は小さい頃は、不安がりでした。

怖がりという日本語はありますが、不安がりという単語があるかどうかは正直知らないのですが、とにかく毎晩漠然とした不安を感じていたのを覚えています。

本当に毎晩でした。

 

毎日まいにち寝るとき、お布団に入った後、母に

「明日何か悪いことが起きる気がする。」

と言いますと母は、

「何にも起これへんよ。」

と言ってくれ、私は安心して眠る、というのが日課だったことを覚えています。

 

大人になった今、そして宇賀神先生と一緒に暮らしだして20年近くたった今、小さい頃のような不安がりではなくなりました。

もちろん先生の根っからの強さ、明るさに救われたのは言うまでもありません。

ただ、仏教を少々かじり、お大師さま(弘法大師 空海さま)のお言葉も少々覚え、私は私の不安の出どころを知りました。

それは、私自身の中でした。

 

不安や恐怖は、どこか外(の事象)からやってくるのではありません。

自分自身の中からやってくるのです。

 

今でしたら、当然の脅威として、世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっています。

かなりの伝染力を持っていて、いまだに世界がその未知のウイルスをコントロール下に置けていない状態です。

そしてそのウイルスのため、世界中の国々が色々な方針を模索し、紆余曲折しながらほぼ鎖国に近い状態を開始したり、かなりの混乱期にあると思います。

そのこと自体は、実際の、現実にある脅威です。

ウイルスに伝染する危険性や、食料の不足や物資の不足も起こり得る可能性、という。

 

ですがそれを恐怖に思うかどうかは、また別問題なのです。

 

またもや私の好きなハリウッド映画のセリフで恐縮なのですが、

「Danger is very real. But fear is your choice.」

「危険はたしかに厳然としてある。だがそれを恐怖に思うかどうかはお前次第だ。」

と言ったものがありました。(少々うろ覚えですが。)

SF映画の中のセリフで、宇宙船が墜落してしまい、英雄である父親が大けがを負って動けなくなり、まだ子供の年齢の息子が一人で恐ろしいモンスターの住む森を駆け抜けて助けを呼びに行かなければならない、というシーンでのセリフでした。

そのモンスターは、人間の恐怖心を察知すると襲い掛かってくる、という性質を持っています。

ですから恐怖心さえ感じなければモンスターからはこちらの存在は見えないのですが、そうは分かっていても、殺されるかも知れない状況下で、恐ろしいと思う心をとめることは容易ではありません。

一人でモンスターと戦わなければならない恐怖におびえる息子に、英雄である父親が先程のセリフを言いました。

「危険はたしかに厳然としてある。だがそれを恐怖に思うかどうかはお前次第だ。」と。

私は「素晴らしいセリフだー!」と感動したと同時に、古今東西の智慧は同じなのだなぁ、と感心したものです。

 

古今東西、すべての心の素晴らしい働きも弱い働きも、外側の事象が原因なのではなく、自分自身の心が生み出している、あるいは自分自身の心の中に見い出しているのだ、という教えが存在します。

 

例えばどこかの国の神話では、神さま達が会議をして、この世で一番大事なものを人間たちが容易と見つけられないようどこに隠そうか、と話し合っていたそうです。

はじめは

「世界で一番高い山の上はどうか。」

という意見が出たり、

「いやいや、世界で一番深い海の底はどうか。」

という意見も出ました。

どんなお宝なのか、とにかく大事な宝物で、それをたやすく人間に見つけてほしくはないそうなのです。

すると、最後にある神さまが、

「それでは人間の心の中はどうか。」

と提案し、他の神さま全員が

「それはいい!そこなら簡単には見つけられないだろう!」

と賛成し、全会一致で世界一大事なものを人間の心の中に隠したそうです。

 

そして、我らがお大師さまは、何なら悟りでさえも遥か遠くにあるのではなく、自らの心の内にある、とおっしゃっています。

有名なお大師さまの般若心経秘鍵に、こう書かれています。

 

「夫れ佛法遥に非ず、心中にして即ち近し。

眞如外に非ず、身を棄てて何んか求めん。」

 

(それぶっぽうはるかにあらず、しんじゅうにしてすなわちちかし。

しんにょほかにあらず、みをすてていずくんかもとめん。)

 

さすがお大師さま・・・うっとりと酔いしれてしまうほど美しすぎる文章です。

私のこの稚拙なブログでご紹介するなんて無礼千万もいいところですね。

どうかお許しを(T-T)

 

つまりお大師さまは、佛法(仏法)、イコール、悟りは、もうすでに自身の心の中にある、とおっしゃっています。

自分の外側の世界のどこを探しても無く、自分の心の中にあるものだとおっしゃっています。

 

そしてその後に続く文章では、

 

「迷悟我れにあれば發心すれば即ち到る。」

(めいごわれにあればほっしんすればすなわちいたる。)

 

迷いも悟りも自分(の中)にあり、悟りに到ろうと思うだけで、たちまちに到っている、

とも。

 

すべてすべて、はじめから、自分の中にあるそうです。

嫌なものがどこかからやって来るのでも、素晴らしいものをどこかへ探しに行かなければならないのでも、ないそうです。

 

いまの世界、あるいは私自身の状況に当てはめるのでしたら、不安がどこかからやってくるのでもなく、愛と平穏をどこかへ探し求めていくのでもないのだそうです。

すべてはじめから、自分の中に存在しています。

それを見い出せるかどうか、あるいは、見い出そうと思えるかどうかも、私次第です。

 

それは、自分の中の不安を無視したり否定したりするというのではありません。

そうではなく、ただ不安があることを認めるだけでいいのです。

不思議なことに、心の中の不安を認めてあげるだけで、その不安が暴走するのが自然に止むことに気づくと思います。

そうやって不安を認めた上で、さらに自分の中に愛や平穏も見い出すことです。

あるいは、愛や平穏があったことを思い出す、と言ってもいいかもしれません。

だって元からあったのに、周りの状況にびっくりして、ただ忘れがちになるだけなのですから。

 

とは申しましても、三つ子の魂百までの例え通り、根っからの不安がりではある私です。

可能な範囲で、できる備えはするつもりです。

食べ物や日用品、少々の現金など、物流が滞る可能性を考えますと、準備せずにはおられません。

幸か不幸か、私達は震災も経験しております。

地震にしましてもウイルスにしましても、何らかの災害に見舞われたときに、毎日の生活を送るのに何が必要になってくるのかを思い出して、無理のない範囲で備えたいと思っております。

 

これは決して脅かすのでも予言でもありませんが、昔から疫病に見舞われたときに地震などの天災も同時にやってくる可能性がある、と言われております。

私達は大阪に住まいしておりますが、東南海地震が30年以内に起こる確率は高まってきています。

「『大地震が来るか来ないか、ではなく、いつ来るか』の問題だと思ってください。」

と、地震学者の方かどなたかが、以前テレビでおっしゃっていた言葉が忘れられません。(やっぱり不安がり。)

もしかしたら、コロナ騒ぎが収束する前に来る可能性だって、否めないのです。

 

ですからこそ、備えを。

 

宇賀神先生と私は車中泊キャンプ旅行もよくしておりますから、何となくキャンプの用意にも似ているな、と思いながら少しずつ備えております。

そして、備えあれば憂いなし、のことわざ通り、ある程度の備えをして、うがい手洗いの励行、人混みにはなるべく行かないなどの自律をしたあとは、今日も枕を高くして寝たいと思います。

もう「明日何か悪いことが起きる気がする」とは、思わなくなりました。

「今日もいい日だったなぁー。明日もきっといいことが起きるなぁー♥」

と、若干欲ボケた思考に包まれて毎晩眠りについております。

 

そして、こういう状況下だからこそ、余計に家族への感謝や愛情を再確認できます。

宇賀神先生には、

「綾野がこうして日々安穏と暮らしていられるのは、先生のお陰やでー♥」

と、ことあるごとに口にしています。

 

そして直接口で伝えるのは少々照れくさいような気がする両親には、メールでちょっぴり書いたり、態度と行為では思いっきり示すようにしています。

あっ、この場を借りて言っとこう!

 

「お父さんお母さん、いつもありがとう♥

お父さんお母さんのお陰で、綾野は幸せに暮らしています!」

 

ひゃっほー( ̄∇ ̄) ←←←やっぱり照れてる。

 

家族といえば、小学校が休校になり、3月のはじめから私の両親のところへ疎開?してきている一番下の姪っ子が、ひな祭りの日に私にお手紙をくれていました。

love-letter
まぁちゃんからのラブレター

今気づきました、私が左下に後から書いた日づけが間違っています。

「2020.3.3」が正しいです。

 

そしてこちらが、その中身です(^-^)

love
手紙の内容は似顔絵でした。

左から、まぁちゃんとまぁちゃんのお兄ちゃん、宇賀神先生、私ですって。

みんなにこにこ笑っていて、先生にはちゃんとお髭まであります!

先生と私は、王様とお姫様のように王冠をかぶっています。

 

そして、「あやのちゃんだいすき」ですって( ̄∇ ̄)♥♥♥

いやもう、世界中に自慢したいこのお手紙。

私もまぁちゃん大好きです♥

このお手紙も私が将来死んだときに棺に入れてもらうべく、宝物のファイルに入れておこうっと。

 

幸いなことに、私達は心の中に何を見い出し、どの部分にフォーカスを当てるか、選ぶことができます。

脅威に対する不安なのか、

平穏であるのか、

家族との生活を守ろうとする強さなのか。

 

まだまだお大師さまのおっしゃる悟りを自分の中に見い出すのは難しいですが、私は少なくとも自分の中に、不安や弱さとともに強さを見い出せるようにはなりました。

もちろん私達を含め、日本国中だけでなく世界中の人々が仕事や生活に対する不安を感じておられるとは思われますが、パンドラの箱の底に希望が残っていたように、心の中に平穏と強さを見つけられますことを願っております。

日本はもともと地震などの天災も多かったからでしょうか。

日本人はしなやかに、強いですもの。

今まで何度だって災害から立ち上がってきました。

その力強さを、血の中にも記憶しているのでしょう。

ただそれを、自分の中から思い出すだけだと思えば、こんなにありがたいことはありませんね。

 

ああ、ですが、ワタクシがたったひとつ怖れていることは、ワタクシのパンドラの箱を開けたとき、最後に残っているものが希望ではなく、深く考えられない単細胞が故のノーテンキさ加減だったらどうしよう、と思わなくもないことでございます。

あり得る・・・と少々悩むフリをしながら今日は床につきたいと思います♥

ノーテンキを自分の中に見い出せる(っていうかそれしか持ってナイ)私に感謝!

 

合掌

生きとし生けるもの、死せるものすべて

ヴィパッサナー瞑想という言葉をお聞きになったことはありますか?

世の中には色々な種類の瞑想があり、ヴィパッサナー瞑想も有名な瞑想のようです。

 

ヴィパッサナー瞑想の最初は、「今ここ」の状態に気づく、というところから始まります。

今、ここ、この瞬間、に集中する瞑想と申しましょうか。

過去を悔やむことや未来に不安を抱くことはどちらも幻にとらわれるのと同じく意味のないことだという考えのもと、今の自分の実際の身体の動きであったり、心の動きであったり、とにかく今の自分の状態に意識を向けるところから始めます。

(解釈が間違っていたらごめんなさい。)

私は以前このヴィパッサナー瞑想で有名な方の本を読んだことがあるのですが、その本の中でヴィパッサナー瞑想の方法のひとつとして、「幸せを願う」という方法が紹介されていました。

 

最初は「私が幸せでありますように」から始まり、

「私の好きな人が幸せでありますように」に続き、

次はなんと「私の嫌いな人が幸せでありますように」、

そして最後は「生きとし生けるものすべてが幸せでありますように」

というように、段々とその対象の範囲を広げて行く方法だったという記憶がございます。

 

素敵な拡大の仕方だなぁ、と思ったことを覚えています。

 

ところがあるとき、ふと、

「生きとし生けるものすべてというなら、もしかしたら『死せるものすべて』にもその祈りの範囲を広げるのは、あってしかるべきかも?」

と思いました。

もちろんそのお祈りは幸せをお祈りすると申しますよりは、感謝であったりご冥福を祈るものであったりするわけですが。

だって私の人生なり生活なりは、先人達のお陰の上に成り立っているのです。

私の大好きな祖父母だけでなく、会ったことのないご先祖様や、見ず知らずの過去に生きた人達が築いてくださった日本という社会があるお陰で、私はここにこうして安心して暮らしていられます。

ですので、「死せるものすべて」もその範囲に入れる方がいいのかな、とふと思いました。

 

ところが、ひとつひっかかることがありました。

それは、もしかしてそんな風にお祈りすることで、例えば成仏できていない霊たちが「ここなら祈ってもらえるらしい!」などと喜んで?たくさん集まってきたらどうしよう、というものでした。

と申しますのも、ご先祖様のお墓の前で、「お墓参りに来るのも身体的にも難しく、これからは家の方でご供養させていただきますので、こちらにいらしてください。」とおっしゃった方が、その周り中の無縁仏さんにまでついてこられて大変な思いをなさり、宇賀神先生にお祓い(ご祈祷)していいただく、という事件を目撃したからです。

(その時の記事はこちら→霊媒体質の方がご先祖様&その他大勢を呼び寄せてしまったお話。

実害の例をこの目で見てしまっていましたので、そんなえらいことにでもなったらどうしよう、と、正直不安を感じました。

 

このことを宇賀神先生に尋ねますと、

「坊主のくせにそんな情けないことを言ってどうする。そのための護身法(ごしんぼう=真言宗における魔から身を守るための法)があるじゃないか。」

とたしなめられました。(坊主じゃなくて尼さんですが・・・。)

「それに、『有縁無縁諸聖霊等 皆成仏道(うえんむえんしょしょうりょうとう、かいじょうぶつどう)』という言葉があるように、縁の有る無し、命の有る無しに関わらず、すべての霊性の成仏を祈るのは、当たり前のことだ。」

とおっしゃられました。

 

ああ、そうだったのか。

 

いつも不動法という密教の御修法を宇賀神先生がなさるときによくお聞きしておりました「有縁無縁諸聖霊等」というのは、「生きとし生けるもの、死せるものすべて」と同じことだったんだ、と思いました。

耳で聞き、頭で理解していたものが、腑に落ちたような感覚でした。

 

さらに先生は、

「基本的に霊を拝むことによって何かを得ようとか何かをしてもらおうとか思わない限り、霊に憑かれたりしないもんだ。」

ともおっしゃいました。

なかには「霊媒体質」と先生がおっしゃる、関係のない霊までまるで吸い取り紙のように引き寄せてしまう不便な体質の方もおられるそうです。

先の記事の方のように。

ですが、滅多にないそうです。

 

それで私は霊媒体質かどうか、と申しますと、

「そんなことを心配するなんてプロ(のお坊さん、じゃなかった、尼さん)としてなってない。」

とのことでした。

 

(プロかどうかはおいておきまして)多分に私は霊媒体質ではありませんが、宇賀神先生のおっしゃりたいことは、そんなことはどうでもよく、要は私自身に祈る者としての覚悟があるかどうかが問題なだけ、なのでした。

 

覚悟。

 

が、あるかどうか。

 

あとはどうでもいい。

 

のですって。

 

ねぇ。

 

まあ、それ以来は覚悟を決めて?、ふと自分の心に浮かんだお祈りの言葉通り「生きとし生けるものすべて、死せるものすべて」に、感謝のお祈りを捧げております。

私が普段している瞑想はヴィパッサナー瞑想ではありませんが、朝の勤行の際やそのあとに瞑想する時など、この気持ちが自分自身の心の底にあるのを見るようになりました。

 

今日は3月11日でした。

(書いてるうちに昨日になってしまいました・・・今朝も早起きしたのに(T-T)眠すぎる。)

 

朝のお勤めのときに、9年前のこの日に亡くなられた方達のご冥福をお祈りしました。

すると、私の心か魂のどこかがまた何かを感じたのか、涙が出て途中からまともなお経になりませんでした。

その涙はいつもの幸せだけが満ちている涙ではなく、穏やかな愛情や喜びとともに悲しみと無念さも少し混じったような、不思議な感覚でした。

亡くられてでさえ、私達を支えようとしてくださっているような、そんな切実な想いを感じて涙が出ました。

 

瞑想を続けているためかどうかは分かりませんが、こんな風に目に見えない存在の想いを感じることが増えました。

それは神さまであったり佛さまであったり、神佛以外の初めからこの世に実体をもたない存在であったり、亡くなられた方であったりいたします。

亡くなられた後もずっと私達を支えようとしてくださっている方達の想いに感謝しつつ、今日はお祈りいたしました。

 

いつもお見守りくださり、ありがとうございます。

心より、心より感謝申し上げ、ご冥福をお祈りいたしております。

 

合掌

 

 

*申し訳ありません、翌朝に漢字など訂正いたしました。

宇賀神龍仙より、祈りをこめて

今日もちょっと楽しくて少し不思議なお話をいたしましょう。

 

1週間前の連休に、宇賀神先生と私はいつもの湯峰温泉に湯治にまいりました。

谷合いのひっそりとした温泉郷はいつものように私達を「おかえり」と迎えてくれているようで、今回もとてもよい湯治旅となりました。

 

その初日に宇賀神先生が公衆浴場の薬湯(くすりゆ)の方に入られますと、思いがけず

「あっ、宇賀神先生!」

と、ひとりの男性から声を掛けられました。

その方は以前に湯の峰でお会いした方で、宇賀神先生が腰痛を治してさしあげた方でした。

思いがけない再会に先生もびっくりなさったそうです。

 

宇賀神先生が

「その後、腰の調子はどうなの?」

と尋ねられますと、

「あれ以来ひどく痛むことはなくなりました。」

と答えられました。

そしてさらに、

「ちょっと痛いなー、と思ったときは、奥さんからいただいた先生の名刺で

痛いところをなでると、痛みがマシになるんです!」

とおっしゃったそうです。

 

なんと・・・!

宇賀神先生の名刺の思わぬ効果♥

「拝んだら願いが叶う」的な仏像的効果!?発見!(^-^)!

 

でも実は、このような話は今に始まったことではありません。

 

宇賀神先生のところに何年も通ってくださっている方からは、

「心臓のあたりが苦しくなったとき、『宇賀神先生ー!!!』って思いながら心臓のあたりをなでると、不思議と苦しくなくなるのです。」

といったお話や、

「うちのおばあちゃんは毎晩寝る前に仏壇に手をあわせるとき、『宇賀神先生、宇賀神先生』って唱えてます。」

とか、

「車を運転していて道路の陥没に気づかずに車ごと落っこちました。半回転して真っ逆さまに落ちたんです。普通なら命を落としても不思議でない事故だと言われましたが、宇賀神先生からいただいたお守りを持っていて、無傷でした。」

など、もはや神さまか佛さまかというほどに心の拠りどころにしてくださっているお話は、たくさんお聞きしております。

しかも、ちゃんと実際の「ご利益」が現実に起きているのです。

 

不思議ですよねー。

多分、実際に宇賀神先生にお会いなさったことのない方がこのブログを読まれましても、「うそみたい」と信じられないと思います。

うん、大きな声では言えませんが、横で暮らしている私も実はちょっぴり「ホントにー?」って思ってたりして( ̄∇ ̄)♥

 

ですが、事実です。

 

私はこのブログに、本当のことしか書かない、と決めています。

本当のこと、という言葉に語弊があるのでしたら、少なくとも実際の私の目と耳で見聞きしたことしか書いておりません。

 

事実、佛さまを心の拠りどころとするように宇賀神先生を心の拠りどころとしてくださり、宇賀神先生がいらっしゃらないところでもその「ご利益」を享受なさっている方は多いのです。

宇賀神先生のことを世界一愛する妻のワタクシといたしましては、誇らしく、嬉しく、また、そんな風に思ってくださる方達がありがたくもあります。

大好きな人がたくさんの人達から大好きと思ってもらえるなんて、幸せなことではありませんか?

それは多分、私の大好きな姪っ子や甥っ子がたくさんの人から愛されて、愛に溢れた素晴らしい世界で生きていけますようにと願う気持ちと同じです。

もしも私に子供がおりましても、きっと同じような気持ちを抱くでしょうね。

 

そこで、宇賀神先生の名刺をお持ちでないアナタ様にも朗報です♥

ここで特別に、宇賀神先生のとっておきのお写真をお載せいたしましょう。

と申しましても、この写真は以前も載せたこともあり、またこのブログのヘッダー画像にもしておりますが、とっても意味のあるものですので、ここで改めて再掲いたします。

私のとっても大好きな1枚です。

 

busshukan
宇賀神龍仙より、祈りをこめて

 

このお写真で、宇賀神先生が手で形作られているのは「蓮華印(れんげいん)」と申しまして、密教上の印のひとつです。

密教(と申しましても、私は真言密教しか存じません)は「三密加持力(さんみつかじりき)」により、効験を表すとされています。

つまり、

身密(しんみつ)=手で結ぶ印(いん)

口密(くみつ)=口で唱えるご真言

意密(いみつ)=観想、つまり心で観るがごとく想うこと

の3つの力が合わさり、願いを成就させるということです。

 

この写真のなかで宇賀神先生が手で形づくられている印は、蓮の花を意味する蓮華印と申しまして、私達密教徒にとりましてはとってもありがたく大事な印なのです。

蓮の花はお釈迦さまも愛された、仏教とも縁の深い花です。

その蓮の花の輝く光に包まれて、皆さまにも幸せが届きますようにという祈りを込めて、お送りいたします。

 

ホントは誰にもあげたくない宇賀神先生の写真を、タダで大公開!

よろしければダウンロードしていただき、お守り代わりにお持ちくださいね♥

心から信じてくださる方には、名刺と同じく、きっとご利益ありますよ(^-^)

もちろん、「そんなん、うそに決まってる!」と思われる方にでさえも、残念ながら?ご利益があるようお祈りいたしております♥

 

いずれにしましても。

祈りの力は果たして届くのかという疑問に対しまして、私達密教徒は「届きます。」と信じております。

在家さん向けのお経本のなかに、私の好きな一節がございます。

「至心発願 天長地久 即身成仏 密厳国土 風雨順次 五穀豊饒 万邦協和 諸人快楽 乃至法界 平等利益」

という祈願文です。

読んで字のごとく、この世が平らかであることを願い、生きとし生けるものの幸せを願う一文なのですが、なんて素晴らしい祈願文なのでしょう、といつも思います。

 

いま、世界中で新型のウイルスに対する不安が渦巻いておりますね。

また、人々の心の不安だけでなく、実際の未知のウイルスであるという脅威も現実にございます。

 

祈りを生業とし、祈ることを自分の生きる道としております私達は、日本を含めまして世界中の人々が1日も早く平穏な日々を取り戻されることを祈るばかりです。

もちろん世界中の人々が同じお気持ちでいらっしゃると思います。

 

宇賀神先生を心の頼りとしてくださる方達にも、このような渦中でさえ、心安らかにお過ごしくださいますようにという祈りを込めて、今日のお写真をお届けいたします。

1日も早くワクチンが開発され、人類が新しい病気に対抗する力を持てますように。

この不安のなかでも、私自身も含めてすべての人々が心の中に平穏を見いだせますように。

心より、お祈り申し上げております。

 

合掌

感応道交(かんのうどうこう)

人が誰かのためを思うとき。

あるいは人の思いが神さま佛さまの御心にかなうものであったとき。

そしてその思いが神さまや佛さまのお慈悲のお心と通じて合い交わえたとき、それを「感応道交(かんのうどうこう)」というのだそうです。

 

先月に私が一人で東京に行った際にたまたま電話がかかってきて、東京にいらっしゃる宇賀神先生の会員さんのワンちゃんの具合がここ2~3日悪いとお聞きして、お加持(氣による施術、とも言えます)に私一人で向かったことを前々回の記事(物語を読むように。)でお話しましたね。

その方の家に向かう途中で、その地域の氏神様だという神さまの前を通りましたので、私は初めてお参りさせていただきました。

それまではお参りしたことはございませんでした。

 

いつも神さまや佛さまにお参りするときのように、

「本日ご縁を持ちましてお参りさせていただき、ありがとうございます。宇賀神綾野と申します。」

と、ご挨拶しました。

そして、もちろん原則通り「お願いはしない」のですが、そのときは、

「これからワンちゃんのお加持をしにまいります。

どうか、あの健気で可愛い小さな命の、助けとなれますように。」

と申し上げました。

 

言葉としましては「助けとなれますように」と、それこそ「神を頼む」ような言葉ではありましたが、私の本心はどちらかというと「宣言」でした。

「必ずや助けとなります」という、決意表明でした。

それは、前回の記事の「宇賀神龍仙、がんばっております!」と同じような、心から信じる神さまや佛さまに対する選手宣誓のようなものでした。

 

そしてお参りが終わり、いつものように鳥居を出たあと振り返って一礼するのですが、そのときに境内のとある場所が目に入り、その瞬間、目頭がじわっと熱くなりました。

「あれ、また何か神さまのお心を感じられたのかな?」

とは思いましたが、鳥居と拝殿の方向の関係で、私はそのとき拝殿の方を見て涙が出たのではありませんでしたので、何だか少し不思議でした。

ですが、お心をいただけたとは思いましたので、もう一度お礼申し上げてその場を後にし、ワンちゃんのお家に向かいました。

 

そのお話を大阪に帰ってから宇賀神先生にいたしますと、

「それを感応道交と言うんだよ。」

と教えてくださいました。

私がワンちゃんを何とか助けたいと思う気持ちが神さまに通じ、神さまの思いと合い交わったときに、私の心がその神さまのお心を感じたのだと。

 

ちょっと嬉しかったですねぇ。

「そっかぁ、神さまと心が通じたのかぁ。」

と思いますと、そしてそれをまた宇賀神先生の口からそんな風に言っていただけますと、なんだか太鼓判を押してもらえたようで嬉しかったです。

 

ちなみに、私がお加持させていただいたワンちゃんですが、その日のうちに元気を回復しました。

2~3日寝床から出てこようとしなかったのが、施術のあと寝床から出てきて、走りだすようになりました。

ご飯も完食するようになりました。

あれ以来1か月ほどたちますが、ずっと元気なようです。

これでしばらくは安心でしょうか。

 

私にもこうしてちょっぴり神さま佛さまのお仕事のお手伝い(お加持)ができて、飼い主さんから涙目で合掌されて感謝されますと、もうそれだけでありがたいなぁと思います。

宇賀神先生の教えを受けだしてから20年以上たちますが、教わっててよかったと思います。

もちろんそれはお加持や気功だけのことではなく、神さま佛さまに相対するときの姿勢や、生きる姿勢そのものも含めて、私は色々なことを学ばせていただいています。

 

そしてワンちゃんのお加持をしに行ったときにお参りした氏神さまですが、後日、宇賀神先生ともお礼参りにまいりました。

そうしましたら、また新たな発見があったのです。

前回に鳥居をくぐって出たときに、境内のある場所が目に入った瞬間涙が出たのですが、その場所に、実は「龍穴(りゅうけつ)」があったのです。

 

龍穴とは、人間でいうところの経絡とツボの関係のように、地球上の氣の流れの上にあるツボのようなものです。

つまり天・地・人の氣のうちの、地の氣がそこから色濃く噴き出しているところなのです。

そして何かただならぬものを感じた昔の人がそこに神さまや佛さまを祀り、現代では神社やお寺になっていたりします。

最近はパワースポットなんていう呼び方もできたりしていて、うまいこと表現するなぁ、と思っています。

 

まさに、地の氣が色濃く出ているところと言う意味では、龍穴こそ本当のパワースポットなのです。

 

宇賀神先生とその氏神さまにお参りしたときに、私一人で来たときには気づかなかった、龍穴に通じる扉を見つけました。

一瞬「閉まっているのかな?」と思いましたが鍵がかかっておらず、誰でも行けるようになっていました。

扉を開けてその空間に足を踏み入れた瞬間、漂う空気が違う、と先生は龍穴にすぐ気づかれたようです。

 

ニブチンの私はその空間に入ってさえ、宇賀神先生に言われるまでまさかそこが龍穴だとは気づかず。

ですが、私の頭は気づかなくても、心と申しますか魂と申しますか、頭ではない私の存在のどこかで何かを感じたから、その龍穴に通じる扉の辺りを目にしたときに涙が出たのですね。

 

不思議なものです。

 

宇賀神先生は「感応道交」とおっしゃいました。

 

地球上のとある箇所で色濃く存在したパワー(力)が、御心を持つ神さま(や佛さま)となり、それを神さまと感じた誰かがそこに神社を建てたのか。

あるいは噴き出すパワーを感じた人間が、そこに何かしらの神さまを祀るための神社を建てたから、パワー(力そのもの)が神さまとなったのか。

その神さまの存在の起源は測りようもございませんが。

 

とにかく、何かが、ある、のです。

 

そしてそのあるものと、私達の心というか魂というか、人間の存在の根源的なところで相通じるものがあるのです。

 

ですがきっとそのあるものとは、実は普遍的に存在していて、ただ私達が気づかずに、あるいはいつもはその存在を忘れてしまっていて、日常生活を送っているだけなのかも知れません。

そしてそれが色濃く出ているところでうっかりと(?)つながったときに、思い出すだけなのかも知れません。

そのうっかりとつながったときの、えも言われぬ幸福感たるや。

いつも流す涙は幸せの涙です。

だから私は神さま佛さま参りをやめられないのかも?

 

またうっかりつながるときが来るといいなーと思いながら、その下心をひた隠しに隠して、私はこれからもまたお参りさせていただくことでしょう。

あぁ、ですが。

神さま佛さまは、なぁんでもお見通し!でしたっけねぇ(T-T)

頭隠してなんとやら。

ヒヨコさんの黄色いアンヨは今日も丸見えでした♥

 

合掌

「宇賀神龍仙、がんばっております!」

先週のいつでしたか、ある晴れた日のことです。

時間があった午後、宇賀神先生とお散歩がてら、いつもの深江のお稲荷さんにお参りに行きました。

 

お参りが終わって鳥居を出る前に、珍しく宇賀神先生が嬉しそうに、

「お稲荷さんがね、『それはいい神頼みの方法だ』って褒めてくれたよ。」

と、おっしゃいました。

「お願いごとはしない」が原則の神さま佛さま参りですのに、「いい神頼みの方法」とお聞きしましては、興味津々です。

先生にすぐさま、

「へえー!どう言うたん?」

と尋ねますと、

 

「『本日もこんないい日にお参りさせていただきありがとうございます。』って言ったあとに、『宇賀神龍仙、がんばっております!』って言ったんた(^-^)」

 

とおっしゃるではありませんか。

ええー!と、私はびっくり。

だって、つい前回の記事で、「がんばらなくていい」って先生が言ってくれました♥っていう話を書いたばかりですのに。

なのにその先生ががんばるの?

しかもその言葉をお稲荷さんが褒めてくださったの??

そりゃあ以前、「矛盾はあってもいい」とブログで書いたこともございますが、前回書いたすぐ後の今日の記事でひっくり返すなんて、いくらなんでも早すぎる身のひるがえし方です。

 

ちょっと動揺しつつ、

「でもこの間私が東京のセミナーに行くときに『がんばらなくていい』って言ってくれたとこやん?せやのに先生はがんばってるのん?」

と尋ねますと、

「それはわしのタチ(性質)だから。」

「わしはただ淡々と仕事をがんばるだけだから。」

「それがわしの生き方だから。」

「それで、『宇賀神龍仙がんばっております!』って言ったら、『人間ががんばってこそ、神は応援しやすい』ってお稲荷さんが言ってくれたんだ。」

とのこと。

 

うーん、そっかー。

たしかに以前も

「おのこ奮い立て!さらば神も奮い立たん!」

というお言葉を神さまから頂戴した、と宇賀神先生がおっしゃってましたが。

 

ですが同時に、がんばるといっても額に青筋たててこぶしを握り締めてがんばるわけじゃない、ともおっしゃってました。

そんな風に力を入れ続けたからといってお加持はうまくいくわけじゃない、と。

 

力いっぱい入れ続けるというよりは、

ただ粛々と、己の為すべきことをなす。

心の奥底にたしかにある、静かな情熱とともに。

それを称して「宇賀神龍仙、がんばっております!」とお伝えしたのだそうです。

 

そして、宇賀神先生の為すべきこととは、「佛さまのお手伝い」です。

佛さまのエージェント(手先)となって、お加持をして、人さまの病いや苦しみからの救い手となる。

それが先生にとりましての佛さまのお手伝いなのです。

宇賀神先生が今のお仕事を始められて40年以上たちますが、初めからずっと変わらない先生の願いであり、生き方です。

 

そうして佛さまのお手伝いをしようと心から願う宇賀神先生だからこそ、「神も応援しやすい」と、お稲荷さんがおっしゃってくださったんですって。

 

「あせるな、めげるな、くじけるな」

と、以前にもお稲荷さんにお言葉をいただいたこともございました。

そのお言葉通り、晴れの日も雨の日も、いいときも悪いときも、ただ一歩ずつ自分の道を歩む。

「それがわしの生き方だから」と先生はおっしゃいました。

「そうして生きていくことが、わしの人生の物語となるんだ」と。

 

いろいろな知識を覚えるのも「物語を読むように」なら、人生そのものもやがて物語となる、と宇賀神先生はおっしゃいました。

よく、人生はタペストリー(織物)のようだとも例えられますね。

たくさんの色の糸が複雑に組み合わさり、少しずつ少しずつ織られていくタペストリーのようだと。

そしてそれをあるとき、ふと遠くから眺めますと、模様(人生の物語)が描かれていることに気づきます。

 

できることなら私の人生のタペストリーには、美しい模様が描かれていることを願っています。

それを物語として例えるなら、幸せな物語、でしょうか。

私はハリウッド映画が好きですが、やはりハッピーエンドのお話が大好きです。

その中でも「アイアンマン」や「ターミネーター・ジェネシス」は、多分軽く100回は超えるくらい見た(BGMとして聞いた)と思いますが、ああいう感じの物語が超・好みです。

SFアクション映画、ときにシリアスで、ときに面白おかしく、根底を流れるものは愛であり、そしてやっぱり最後はハッピーエンド!

よくよく考えますと、いまのところ、宇賀神先生のお陰で私の人生の物語はまったくもってこの通りです。

 

アクションだけはほど遠いですが(運動音痴なので・・・)、

SF = 目に見えず、一般的には実存を証明されていない神さま佛さまの世界をリアルに感じている。

シリアス = 本人はまじめに生きているつもりです(?)

面白おかしく = 宇賀神先生の存在そのものが面白い。一緒にたくさん笑えます。

愛 = 照れるやん( ̄∇ ̄)♥

ハッピーエンド = まだ終わってませんが、楽しい日も、ケンカする日でさえも、途中経過がずっと幸せです!

 

おお、自分で書いててびっくりですが、映画の好みのまんまですね!

まさかSFというところまで映画の好みそのものだったとは、今気づきました。

なんてありがたいのでしょう。

ちなみに、宇賀神先生はSFのことをサイエンス・フィクションではなく「少し不思議 = Sukoshi Fushigiの略なんだ」( ̄∇ ̄)って、いつも嬉しそうにおっしゃいます。

ね、この人といると楽しそうじゃありませんか?(私だけ?)

 

そうそう、実は本日1月28日は、宇賀神先生と私の結婚(入籍)記念日なのでした!

うちのお寺は「光明不動寺」と申しますので、記念日をご本尊のお不動さんの日(28日)に合わせたのです。

11年前の今日、私は結婚届けを提出しに1人で市役所に行ったのですが、そのときの受付番号は「108番」。

ボンノー(煩悩)の数そのままやん!と笑いそうになったのを覚えています。

しかも受理されるのを待っておりますあいだに、あろうことか私は寝こけてしまい、市役所の人が「108番の方~。108番の方~。」と何度も呼んでおられるのを夢うつつに聞いておりました。

「108番の人、呼んではるでー。」とウトウトと心の中で思い、「私のことやん!」とびっくりして目が覚めました。

そしたら市役所の人は私が「108番の方」だと分かっていらして、こちらをじっと見て呼んでおられました。

知ってんねやったら名前で呼んでくれはったらすぐ起きたのになー(T-T)

ポカンと口開けて寝てたん見られてたんやー(T-T)

恥ずかしいなー(T-T)

と心の中でボヤきつつ。

結婚初日からコメディー映画気味だったのを思い出しました。

 

私の人生が幸せで、面白おかしい物語であることに感謝します♥

 

合掌

「物語を読むように。」

今日はお仕事の宇賀神先生を放っておいて、私1人で東京に弾丸日帰り旅行です。

ちょっとしたセミナーに参加しようと思って、先生にご無理を申しました。

いつものことですが、先生は快く「いってらっしゃい」とおっしゃってくださいました。

 

ちょっとびっくりしましたのは、昨日の夜そのセミナーのことで宇賀神先生と話しておりましたときに、「勉強」について先生がおっしゃった

「覚えなきゃ、と負荷をかけない方がいい」

という言葉でした。

曲がりなりにもセミナーですから、私は何かしらを学ぼうと思って行くのですが、宇賀神先生は、

「がんばらなくていい」

とおっしゃいました。

「受験生じゃないんだから」

「無理して覚えたものはすぐに忘れる」

と。

 

ちなみに私は、自分で言うのも何ですが、中学校までは優等生でした。

学年トップの成績で、高校も進学校に入れました。

それが高校生になり、クラブ活動で腰を痛めるころには学業の方もこけていたのですが、やはりどこか根っこの部分で「いい子ちゃんの優等生」でいようとするのです。

 

ですので、

「勉強はがんばるもの」

「勉強だけでなく、何でもがんばらなくては」

ということは、

「がんばれないと自分はダメな人間」

と、ついつい思ってしまいます。

 

ところが、宇賀神先生はそんな私に

「がんばらなくていい」

と、いつもおっしゃってくださいます。

そしてそれは何も勉強に限らず、日常の色々な場面でそうおっしゃってくださるのです。

「無理は無理を呼ぶから」

と。

 

かすかに優等生だった遠い記憶があるものの、本当の本当はメンドクサがりでナマケモノの私は「がんばらなくていい」と言われるとホッとします。

そうしますと逆説的なのですが、自然と「やっていこう」と思えるのです。

 

それは無理をしてがんばるのではなく、自然と前に進む感じです。

ワクワクとした興奮や期待に突き動かされるのでもなく、やらなきゃという焦燥感に追い立てられるのでもなく、明るい日向をゆっくりと散歩するように、自然と前に歩を進めていくような感じです。

 

そう言えばいつでしたか、何かの話で私が父に

「がんばるわー!」

と言ったときに、

「期待してへんよ。」

と言われ、思わず笑ってしまい、また「期待している」と言われるより逆に嬉しかったことを思い出しました。

肩ひじ張ってがんばらなくていいと言われるのは、大きくてありがたい愛情だなあと思うのです。

 

ただ、そうは申しましても宇賀神先生は本当に色々なことをご存じです。

興味のある分野も多岐に渡り、身体や病気のことから佛教、歴史、地形学、料理、電車に航空機、戦闘機や武器、妙な雑学まで、本当に難しそうーなことからめちゃしょうもないことまで、ありとあらゆる知識と知恵がその頭の中に入っています。

私は本気で宇賀神先生のことを「歩くグーグル」と呼んでいるのです。

そして、だからこそたくさんの人が、宇賀神先生に色々なことをご相談なさるのでしょう。

 

なので、宇賀神先生に

「じゃあ、どうやって先生は色んなこと覚えたん?」

と尋ねました。

すると先生は、

「物語を読むように覚えるのがいいんだ。」

とおっしゃいました。

 

「物語を読むように」

 

たしかに、私もことあるごとに先生に歴史の講釈をお聞きするようになって、歴史はただの年号の経過ではなく、その時生きた人達の人生のドラマなんだと、生き生きとした映像とともに思えるようになりました。

そしてそれは歴史だけでなく、色々な他の知識も、先生の頭の中では物語りのようにつながっています。

博物館をご覧になられても、あっちの点(知識)とこっちの点(知識)がつながって線になり、面になり、立体となってリアルに先生の頭の中で命を得て展開されるのでしょう。

ですのでどこかの博物館で見覚えた知識があちらの話に結びつく、ということが容易に起きるのですねぇ。

 

そう言えば、学年トップの成績だった中学校の頃、私はガリ勉(死語?)した記憶がありません。

私はとてもいい先生に恵まれていたのです。

その先生達の生き生きとした楽しいお話を夢中になって聞いているだけで、いい成績を取れたのでした。

今思いますと、理科という科学の授業でさえ、ドラマチックな地球と宇宙のロマンの物語のように感じていた記憶があります。

私はクジ運は悪くても、「先生運」にはめちゃ恵まれている自信があります。

って申しましたら宇賀神「先生」が小躍りして喜びそうなので、黙っておきましょう( ̄▽ ̄)♥

 

今日も富士山は綺麗でした!

nihon-bare
本日も日本晴れ!

 

さて、この記事を新幹線の中で珍しく酔わずに書いておりましたら、電話がかかってきて、東京の会員さんの飼ってらっしゃるワンちゃんのご様子が悪いとご連絡いただきました。

少し以前より、多分に胸のところに病気があると獣医さんから言われていて、ワンちゃんも合わせて先生が病者加持をお引き受けしていたのでした。

私は今日の帰りにその方の家に寄って、ワンちゃんを元気にするお手伝いをしてこようと思います。

力不足は否めませんが、こんな私でも少しでもお力になれればと、まさに祈るような気持ちで参ります。

とっても健気で可愛い、小さな命の一助となれますように!

 

合掌

 

スジャータという名の。

これは、湯胸茶屋さんの温泉コーヒーです。

onsen-coffee
温泉コーヒー

 

湯峰の温泉水でコーヒーを淹れますと、コーヒーがとってもまろやかになり、いっそう美味しくなります。

残念ながらインスタントコーヒーでは温泉水の香りに負けてしまい、かえってマズくなるのですが(実験済み)、レギュラーコーヒーですと本当に美味しくなります。

湯峰に行き、温泉につかって全身でお湯(氣)をいただき、コーヒーで身体の中からも温泉の氣をいただくのは、とても贅沢な心地がいたします。

 

ちなみに、この湯峰の温泉水は購入可能です。

公衆浴場のすぐ横で販売されており、10リットル100円です。

たくさんのポリ容器をもってきて買われる方も多く、皆さんそのお湯でご飯を炊いたり、お料理なさるそうです。

蛇口から10リットルも温泉水を出しておりますと、すごく高温になりますのでご注意くださいね。

湯筒の源泉温度も90度を超えているくらいです。

 

湯峰でお宿に泊まりますと、温泉水で作って供される湯豆腐や、翌朝の朝食で出される温泉粥も美味しいですものね。

温泉粥なんか、ご飯の「氣」の色そのままに、グリーンに輝いてみえます。

本当に、温泉粥はどなたがご覧になってもほんのり薄緑色。(多分)

 

私は、ときどき普通のご飯でも、それよりももう少し濃いエメラルドグリーンに輝いて見えるときがあります。(→ご飯の「氣」

それは、ご飯の氣の色が、そんな風に見えるのです。(私は色盲ではありません。)

そしてそんなグリーン色を放つご飯は、絶対に美味しい、大当たり!のご飯です。

湯峰の温泉粥をご覧いただけますと、

「そうか、あやのの言っているご飯の氣のグリーン色って、こんな風な色なんだ」

と、皆さんにもご納得いただけるのでは、と思います。

 

話が美味しい方の横道に逸れてしまいました。

 

今日お伝えしたかったのは、湯峰の温泉コーヒーそのものではなく、その左横についているコーヒーフレッシュ(ミルク)の名前の由来のお話。

写真では残念ながら、小さすぎて見えないでしょうか?

 

SUJAHTA

 

スジャータ、

と書かれてあります。

そう、これはかの有名なメーカー、スジャータさんのコーヒーフレッシュです。

そしてこのスジャータという名前は、じつは仏教とご縁が深いのです。

 

これは、仏教の開祖であるお釈迦さまがまだ悟りを開かれる前のことです。

 

ご存じの方もいらっしゃると思われますが、お釈迦さまはもとは北インドのシャカ族(日本語でシャーキャとも書かれたりします)の国の王子さまでいらっしゃいました。

ゴータマ・シッダールタという名前の王子さまでした。

「釈迦」というのは、シャカ族の出身であるという、一族の名前に由来します。

 

シッダールタ王子(お釈迦さま)がお若い頃、父親である王様は、王子に贅沢の限りをさせました。

と申しますのも、お釈迦さまがお生まれになったとき、高名な予言者がある予言を伝えたのです。

「このお方は王になられると世を統べる王となり、出家されると世を救う方となられる」

と。

 

出家などされてはかなわない、王位を継いでもらわないと、と、王様は、シッダールタ王子に春夏秋冬の4つの宮殿を与え、大勢の美女と美味しいご飯と、この世の贅沢といわれるもののすべてで王子を育てました。

王子は、この世に存在する「苦しみ」というものを一切知らずに済むように育てられたのです。

ですがシッダールタ王子はある時その幻想に気づかれ、家族も国も捨てて修行の道に入られます。

この王子の気づきは有名な「四門出遊」のエピソードですね。

 

ただ、お釈迦さまが修行の道に入られたとはいうものの、当時のインドで行われていた修行と呼ばれるもののほとんどは、バラモン教にもとづいた苦行でした。

しかもそれは極端に身体を痛めつけるような、時には死に至るほどの苦行です。

お釈迦さまも最初はこの苦行を色々となさいました。

高名なバラモン教の聖者のもとを尋ねたり、身体を痛めつけたりして、なんとかして悟りを得たいと、何年ものあいだ熱心に苦行を続けられました。

 

しかしある時、断食の修行をなさっていたお釈迦さまは、それこそ骨と皮ばかりになるほどやせ細られ、あわや命を落としかけました。

ガリガリにやせ細ったお釈迦さまの像をご覧になったことはございますでしょうか?

その像は、この悟りを得られる前のお釈迦さまを表しています。

 

そしてその、あわや命を落とすかというほど衰弱しきったとき、お釈迦さまはスジャータという名の女性から乳粥を施されました。

そう、乳(ミルク)で作ったおかゆさんです。

 

スジャータに施された乳粥により元気を取り戻されたお釈迦さまは、苦行には何の意味も無いと気づき、苦行をやめられ、沐浴なさり(身を清め)、菩提樹の樹の下で瞑想を始められました。

そしてやがて、そこで悟りを開かれたのです。

 

お釈迦さまが、極端な苦行には何の意味も無いという気づきを得られた、この乳粥のエピソードに登場するスジャータという女性の名前。

きっとこのエピソードに由来して、コーヒーフレッシュ(ミルク)のメーカーさんもスジャータという名前になさったのでしょうね。

 

湯峰温泉で温泉コーヒーをいただくときに、必ずついてくるのがこの「スジャータ」さんのミルクです。

ここ湯峰の地でこの名前に出会うとき、いつもお釈迦さまのこのエピソードを思い出します。

いいお話だなぁ、と思うのです。

お釈迦さまもお若い頃は迷われ、自らの内に救いを見い出そうともがき、やがて穏やかな世界に行きつくことができました。

涅槃(ねはん)、寂静(じゃくじょう)の世界です。

 

だからというわけではございませんが、宇賀神先生は水垢離(みずごり)よりは湯垢離(ゆごり)を好まれます。

苦行(水垢離)よりは、おだやかな修行(湯垢離)を。

穏やかというより、実は気持ちのいいお修行なだけですが。

いえいえ、本当は水垢離もとても気持ちいいお修行だそうです。

ただ、宇賀神先生は敢えて?なさいません(^-^;)

 

湯峰のお湯につかりますと、涅槃の境地とまでは到底行きませんが、すくなくとも寂静の心地がいたします。

やはり湯峰温泉は信仰の地の、霊泉ですからね。

ただの温泉ではございません。

 

寒がりのワタクシも、水垢離よりはやっぱり湯峰で湯垢離の方がいいかナ( ̄∇ ̄)♥

などと、フトドキなことも少々思いつつ、いつも美味しい温泉コーヒーをいただくのでした。

 

合掌