お経の経は「たての糸」 その2

さて、宇賀神先生が教えてくださった

「どうして(僧侶は)毎日お経を読むのか」

ですが。

ひとつには、佛様が喜ばれるご挨拶になるからだそうです。

お経という単語の「経」という字は、「たて糸」を表します。

経度と緯度の「経」と言えば分かりやすいかと思います。

芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」のように、佛様の国から地上の私たちに垂らされた一本の糸です。

お経とは佛様の言葉で書かれた佛様の智慧なのだそうです。

それを読むことはつまり、

佛様にご挨拶することであり、

佛様を称えることであり、

佛様を喜ばせることであり、

結果として佛様に繋がることになります。

以前の投稿で、「信仰とは、佛様に惚れて惚れて惚れぬくこと。」だと、宇賀神先生に教わったとお伝えしました。

その惚れた相手の佛様の言葉で書かれた経典を読むことで、佛様を称えることによって、佛様を喜ばせたいのです。

毎日好きな人に「おはよう」「愛してる」と言うように、佛様に毎日ご挨拶したいのです。

そうやって毎日佛様にご挨拶することで佛様と繋がれるからこそ、お経はありがたいそうです。

経典そのものが、佛様からの賜りものだと考えられています。

ですので、私たちはお経本を畳などの床に直に置きません。

私たちの足で踏む床に佛様からのいただき物を直に置くことは失礼にあたるので、床に正座して机がないときでも、お経本は必ず布などを敷いた上に置くようにと教わりました。

お経は天から降りてきた一本の糸ですので、佛様に惚れている私たちは蜘蛛の糸に出てくる犍陀多(かんだた)のように、それにすがるのでしょうか。

佛様と繋がりたくて。

好きな人と手をつなぎたいように。

お経の経は「たての糸」。

これが宇賀神先生に教わったことです。

また、もうひとつには、宇賀神先生はあるとき

「お経を読むことを『お勤め』って言うだろ?だから、お経を読むのは坊主の仕事(勤め)なんだよ。」

ともおっしゃいました。

たまごが先かひよこが先か分からないような、答えになっているようななっていないような答えでしたが、なんだか腑に落ちてしまいました。

なぜ読まなければならないのかは分からなくても、あるいはそんなことをごちゃごちゃ考える前に、とりあえずお仕事なんだから毎日読む。

毎日読んでいると、もしかしたら分かることがあるかも知れないし、ないかも知れない。

でも、そんなことを考えなくてもいいから、まずはお仕事なのだから、とりあえず毎日読むものなのだ。

宇賀神先生の単純な答えを聞いて、毎日読んでみよう、そう思いました。

そんな風に宇賀神先生に教わって何年もたった今、やっぱり私はお経を読んでいます。

この頃はどうしても泣いてしまって読めない日や、休んでしまう日もありますが、なるべく毎日読んでいます。

今の私にとってお経を読むことは、好きな人と手をつないでいる時間なので、つまりは佛様と手をつないでいるときであり、宇賀神先生と手をつないでいるときでもあります。

もちろん、読んでないときでも繋がっているのですが、その存在をより色濃く感じられる幸せな時間となっています。

つい先日、家に帰らない日が続き、出先でお経が読めない日が続きました。

久しぶりに家に帰って佛壇の前にすわり、お経本を手に取った瞬間、

「家(あるべき場所)に還ってきた。」

と思いました。

先日お伝えした、

「瞑想っていうのはね、家に帰るようなものなんだ。」

という本の一節が、頭をよぎりました。

お経も、瞑想も、みんな同じところに繋がっているのだと思いました。

信仰しているものによってそれぞれ違う呼び方をするのでしょうけれど、家、阿字のふるさと、兜率天、天国、宇宙などという、還るべき場所につながっているのだと思いました。

あれ、ちょっと言い方が違うかな?

「私たちは本当はいつもそこに繋がっているのに、忘れがちなそのことを、お経を読んだり瞑想したりすることで思い出したいのだ。」

と言う方がしっくりくるかな?

こんな幸せな感覚を味わえることが仕事だなんて、なんていい身分なんでしょう。

明日もまた、おはようって言って、愛してるって言って、手をつなごう。

合掌

お経の経は「たての糸」 その1

「どうしてお坊さんは毎日お経を読むの?」

と、宇賀神先生に尋ねたことがあります。

「どうして私たち僧侶は毎日読まなければならないの?」

と。

何だか、どうして毎日読まなければならないかをちゃんと理解しないことには読む気になれなかったんですよね。

すみません、罰当たりな尼僧のはしくれ(の、はしくれ)で。

ですが、約2650年前、佛教の始まりの始まりのお釈迦さまの時代には、今現在の日本で読まれているお経は存在していなかったのです。

私は真言宗で出家させていただき、お大師さんのことは心の底から敬愛して信仰しています。

そのお大師さんが唐の国から命懸けで持って帰ってこられた経典を、今現在の私たちが読ませていただいているとも知っています。

ですが、この経典がお釈迦さまの時代には無かったものだとも、知っています。

なんなら、日本中の古典的宗派のお経を網羅した、何百ページにも渡る辞書のように分厚い経典の辞典のような本を半ば眠りに落ちながら読破したこともありますが、各宗派でそれぞれ言ってることが微妙に違いました。

まして、こんなこと言うのも何ですが、そこに載っていた真言宗の経典なんか「一体どこから急に降って湧いてきたの?」と言いたくなるような、他宗派からは全くかけ離れた突拍子もないものでした。

いえ、私はお大師さんを敬愛しているのですよ、心の底から。

心底惚れ込んでいると言ってもいいくらいです。

それでも、真言宗の経典のまったく毛色の違う様子には、違和感を覚えるくらいでした。

そんな違和感すら覚えるような経典も、日本中の宗派のバラバラの経典も、元はお釈迦さまの始められた佛教が出発点のはずで、なのに今はこんなに違っていて。

もちろん佛教そのものが小乗佛教から大乗佛教に変わった後に日本に伝わっていますので、他の東南アジアの国に伝わる小乗佛教とも全く違うでしょうし。

たしかに、お釈迦さまの時代くらいには、短い偈のようなものを唱えていたとは聞いたことがあります。(間違っていたらごめんなさい。)

お釈迦さまのおっしゃったことを、短い偈のような形にして皆で唱えていたとかいないとか。

スッタニパータとか、そんな風な偈を。

なのに、こんなにも好き勝手に進化?してしまった経典、お経を、どうして私たち僧侶は毎日読まなければならないのか?

素朴に、疑問に思っていました。

自分自身で納得しないことにはどうにもなかなか先に進めない性格の私は、宇賀神先生に何度か尋ねたことがありました。

「どうしてお坊さんは(尼僧さんは)毎日お経を読まないといけないの?」

と。

それに対する宇賀神先生のお答えは、単純にして明快なものでした。

さて、その宇賀神先生のお答えとは。

この続きは次回に。

すみません、特に最近は持続力も乏しく、以前のような長い文章が書けなくなってきました。

書きたい気持ちはたくさんたくさんあるものの、体力に合わせてちょっとずつ進めたいと思います。

何やかやの用事が立て込んでて時間の調整がうまくできないことも、あります。

ごめんなさい。

また明日、よろしくお願いします。

合掌

家に還る

「阿字の子が 阿字のふるさと立ち出でて また立ち帰る 阿字のふるさと」

お大師さん(弘法大師 空海様)を知る方達にとりましては有名な歌です。

一説には、お大師さんが後継者にとまで思われていたお弟子さんを先に亡くされた時に詠まれた歌なのだとか、いえそれは後の通説で事実は違うとか、言われています。

阿字(あじ)とは大日如来様のことで、阿字のふるさととは佛様のおられる世界であり、つまりは命の根源、宇宙の根源そのものを指します。

私たちの命はそのふるさとからこの地球上の世界に生まれ落ちて、死ぬとまた佛様のおられる魂のふるさとに帰るだけ。

だから何も怖れることはない、ということでしょうか。

宇賀神先生はこの歌がお好きでした。

私も好きです。

いいなぁ、と思います。

たしかに死というものに対する本能的な恐怖心が少し薄らぐような気がいたします。

だってふるさとに還るだけですから。

また、少し話は変って、ずいぶんと以前に瞑想に関する本を読んだときにそこに書かれていたことですが、あるとき「瞑想とは?」ということを話し合った会議があったそうです。

多分、瞑想中にはどんなことを思うのかとか考えないようにするのかとか、定義とか具体的な方法とか、何が正しい瞑想なのかとか、それぞれの意見を出し合っていたのだと思います。

ところがその会議で誰かがひと言、

「瞑想っていうのはね、家に帰るようなものなんだ。」

と言われて、そこに居た全員が同意したそうです。

すうっと、腑に落ちる思いがいたします。

家に帰る、それでいいんだ、と。

ひとくちに瞑想と言いましても色々な方法がありますものね。

何だか瞑想が心の健康にもいいらしいと世間で言われていて、瞑想ってどういうふうにするの?みたいに尋ねられたこともあります。

私だって何が正しい瞑想かなんて知りません。

あるいは、「正しい」瞑想法なんてないのかも。

でも方法論より、目を瞑って心静かになれたとき、「ああ、家に帰ってきた」と思えたのなら、それでいいのかもしれませんね。

そうしたら、もしかしたらその先は「ふるさとに帰ってきた」ことと同じで、佛様の世界に通じていて、だからお寺さんでは瞑想するのかもしれません。

ちなみに、宇賀神先生の瞑想法は特殊でした。

どんな風なのかは勉強会に参加なさった方のみぞ知る、ですけれど。

ただ、目を瞑っていてもいなくても、先生はいつでも「お家にいる安心感」のある人でした。

だからいつでも神様や佛様と繋がっていられたのかな?

そんな境地に、なってみたいものです。

合掌

それだけで合格

「無為徒食(むいとしょく)」という言葉があります。

この言葉をもう何年も前に宇賀神先生の勉強会で習ったのですが、きっと私の覚え間違いでしょう、ずっと「無為無職の徒」(むいむしょくのと)と覚えておりました。

意味としましては同じ「なすべきことをなさず、働かずにぶらぶらと遊んで暮らすこと」ということと習った記憶があります。

宇賀神先生の勉強会で自分ではよく先生の話を聞いていたつもりですが、漢字も違いますし、私の記憶なんていい加減なものだなぁと悲しくなりますね。

(我ながらうまいこと漢字を間違えてますが。)

宇賀神先生は、無為徒食のような人生に甘んじてはいけない、という意味でこの言葉を教えてくださったように思います。

ずっと、神様佛様の手先となって人を助ける、という熱い思いで生きてこられましたから、大人になっても働かず、親のすねをかじってぶらぶら遊び暮らすような人生をよしとなさいませんでした。

そうです。

熱い思い。

宇賀神先生は文字通り、熱い思いを胸に、あの不思議な力を得られたのでした。

そして、持てる力を使えないのなら生きてる意味がないとまで思い込んでおられました。

私は、その宇賀神先生を支えるのが生きがいでしたねぇ。

もちろん宇賀神先生がそんな力を使えなくても、先生が生きていてくださるだけで私には世界と同じくらい意味があり、ただ横で生きていてくれて、二人で一緒にいるだけで幸せだったのですけれど。

でも宇賀神先生がそうまで思い込まれていることなら、もちろん持っている力を発揮できるということはとても幸せなことですし、先生が幸せに笑ってこの仕事ができるように、私のすべてをかけて支えていこうと思っておりました。

そして、宇賀神先生と暮らした20年ほどは、そのように生きてきた自負があります。

ちゃんと支えられたかどうかは分かりませんが、少なくとも、自分の思いのたけをかけて願って生きてきたということだけは、自信をもって言えます。

ただ、今は、今現在は、私はちょっと「無為無職の徒」かもしれません。

幸いなことに親のすねはかじらずに済んでおりますが、2023年のあの日、日付を言うのもいまだにイヤなのですが、あの日以来、生きがいと世界を同時に失って、私は立ち止ったままでおります。

正直なところ去年は色々な手続きが本当に大変で、どなたかが「世帯主が亡くなると手続きが大変」とおっしゃっていたのはまさにその通りだなぁと実感したのですが。

それも(私の先延ばしグセが悪く、長くかかっただけですが)年末にはすべて終えることができました。

そして年が明けて今、とりあえずしなければならない手続きをすべてをやり終えて、なんだかぽかんとしているというか、ぽつんとしているというか、ただ立ち止っている自分を自覚しています。

いえ、これはこれである意味贅沢な境遇だと思っています。

立ち止っていられるという贅沢な境遇です。

忙しい現代ですから、普通なら立ち止ること自体が難しいかも知れません。

でもちょっと私の場合は立ち止まるだけでなく、無為無職の徒に甘んじてるかなという自覚も、やっぱりありますね。

ただ、私にはちょっぴり免罪符もあります。

一昨年に宇賀神先生が法人の代表役員(住職)を退職なさったときに、宇賀神先生が私に言ってくださった言葉がありまして。

私が聞いたんですよね、宇賀神先生は心から願った氣の力や神様佛様とのご縁をいただいて多くの人を助け、宗教法人も設立し、たくさんの人に感謝されて、今こうして無事に退職された。

それに引きかえ私は勉強会で無為無職の徒と習っておきながら、いまだに何も為し得ていない。

もしこのまま大したこともせずに人生を終えたら、あの世で佛様に

「せっかく有難い環境に生まれたのに、何にもしなかったね?」

と落第点をつけられるのではないかと。

すると宇賀神先生が、こうおっしゃってくださいました。

「あやのさんはわしの人生をソフトランディングさせてくれた。それだけで合格!」

と。

嬉しかったですねぇ。

いえいえ、ちゃんと、宇賀神先生は優しいを通り越して私には甘いのだと知ってはいますよ。

ですが、

「それだけで合格!」

と私に言ってくれる人がいる幸せよ、と。

今思い出してもまた涙が出てきます。

強さだけでなく、功績だけでなく、弱さもダメなところも、何にも大してできないことも、すべて受け入れてくれる人がいることのなんと幸せなことでしょうか。

宇賀神先生は本当に、心の優しい人です。

あんなにも優しかったから、神様や佛様にあんなにも愛されたのかなぁ。

阿字のふるさとへ旅立たれた今となりましても、こうして宇賀神先生の残してくださった言葉に心救われています。

いつもいつも、今でも、ありがとう。

今更ながら理解しているのだけれど、あやのの人生は宇賀神先生に出会えて一緒になれただけで大合格だったよ!

合掌

大幸せ(だいしあわせ)の瞬間

今日お勤めをしていた時、部屋の中で自由に飛ばしていた小鳥(ぴーちゃんという名の飼っている鳥です)が、お経本を持つ手の上に乗ってきてくれて、くつろぎはじめました。

鳥を飼ったことのある方ならお分かりいただけると思いますが、羽毛をふくらまし気味にして、お腹をぺたんと下にくっつけて、温かくして寝るときのようなくつろぎの格好をしてくれました。

そして左手に掛けているお数珠の丸いふさをかじかじしたり、お経本の文字をつっついたり、リラックスしながら遊んでくれていました。

その時、宇賀神先生の

「あやのさんの“大幸せ(だいしあわせ)”の瞬間だね。」

という声が聞こえてきました。

また、涙が出てきました。

この言葉は、宇賀神先生が以前にも実際におっしゃってくださったものです。

以前にも同じように、私がお勤めをしているときにぴーちゃんが手の上に乗ってきてリラックスしていたのを見て、宇賀神先生がこうおっしゃいました。

この言葉が聞こえた瞬間、宇賀神先生の優しい心が私の中に流れ込んできました。

亡くなられた今も、こうして宇賀神先生の温かい思いが私の中に流れ込んでくる。

これを大幸せと言わずに、何と言いましょうか。

ただ同時に、果てしない寂しさをともなっていることは、どうしようもないことではありますが。

宇賀神先生はたくさんの優しい言葉、温かい言葉を残してくれました。

この9か月間、それらの言葉にどれほど心救われ、勇気づけられたことでしょう。

たくさんたくさん、優しくしてくれてありがとう。

宇賀神先生のお陰で、あやのは今でも幸せ者です。

さて、このぴーちゃん、こうしてブログを書いているときも時々手に乗ってきてくれます。

しかも右手に。

そうすると右手を動かせなくなりますので、私は必然的に左手だけでキーボードを打っています。

ちょっと、面倒ではあります。

でもやっぱり大幸せには代えられませんので、乗ってきてくれると嬉しいなぁと、今日も右手に小鳥の体温の温かさを感じながら、このブログを書いております。

合掌

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「永訣の朝」

宮沢賢治さんの詩です。

ご存じでしょうか?

宮沢賢治さんの妹のとし子さんが亡くなられる日に書かれたそうですが、その深い深い愛情と、深い深い悲しみに、とても心打たれる詩です。

私はたしか中学校のときにでも習ったような気がしますが、大学1年生の時にあらためて合唱曲という形でこの詩に再会しました。

ちょうどその少し前に、両親とともに私を育ててくれた祖母が亡くなりましたので、聴いていて涙が出てきたのを覚えています。

昨日ネットで「永訣の朝 混声合唱曲」で検索しますと、パナソニック合唱団さんのYOUTUBE(ユーチューブ動画)が出てきました。

荘厳な曲で、とても美しい演奏でしたので、ぜひお聞きになってみてください。

この詩の岩手言葉がなじみの無いところもあるかも知れませんので、ぜひ原文の詩もあわせてご覧になりながらお聞きいただければと思います。

やはり、現代語訳ではなく原文がいいと思います。

より一層、心にしみてきます。

(「永訣の朝 原文」で検索しても詩の中で「天上のアイスクリーム」などと書かれたものが出てくるのですが、それは私の知る原文ではありません。今は本でもそのように改定されてしまったのでしょうか?もっと、古い言葉で書かれているものが私の知る原文です。下記のマイナビニュースさんのサイトに紹介されているものが、私の知る原文だと思います。リンクを貼りつけさせていただきます。

「永訣の朝」(宮沢賢治)の全文と現代語訳・意味を紹介! 詩の背景も解説 | マイナビニュース (mynavi.jp)

この詩のなかで、妹のとし子さんが苦しい息の下から、兄の賢治さんにひと椀の雪を取ってきてほしいと頼みます。

その、真っ白な雪を彼は取りにいくのですが、その情景は原文の詩をご覧になっていただくとして。

詩の最後の部分が、今の私の心により一層突き刺さります。。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

兜率(とそつ)あるいは兜率天とは、次の佛陀となられる弥勒菩薩様がお修行なさっておられる世界と言われています。

佛様の世界で、自分の取ってきたこの雪が天の食(じき)に変わって、とし子さんやみんなに聖い資糧(とうといしりょう)をもたらすように、と。

こんなにも深い愛情と、深い悲しみと、悲痛なほどの願いを、こんなにも美しい言葉の結晶に昇華するなんて。

愛する人を失う悲しみは誰しも、今も昔も、その深さたるや。

そして亡くなった後でさえ、その人の幸せを願う気持ちも。

「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」

私は、自分の悲しみは真には誰にも分からないだろうと、固く心を閉ざしていると自分でも思います。

なのに、誰にも分からないだろうと言いながら、人は誰かと共感することによって慰められることも知っています。

愛する人を失うという自分に似た境遇の、彼の身を切られるような慟哭をうたった詩に触れることで、心のどこかが救われるような気がします。

合掌

供養のかたち

いつもご飯を食べる前に、宇賀神先生はじめ神様や佛様たちにお供えしていると言いました。

宇賀神先生から教わった真言宗のお作法に従って、自分の食べるものをまずお供えして、それからいただきます。

もちろんお勤めの際もお供物をお供えしますが、宇賀神先生がいつもご自身のご飯を食べられる前にお供えなさっていたので、それに習って私もお供えしています。

お供えする先は、ご縁のあった神様、佛様、守護霊様、精霊達(とでも呼べますでしょうか)、ご先祖様や深いご縁のあった方達、そしてもちろん大好きな宇賀神先生です。

お供えとは、つまり供養の一種ととらえています。

厳密には供養と追善供養は違うようですが、すみません、私はごっちゃにしています。

本来は供養は佛教で佛様に対して行うもので、追善供養は亡くなった方に対する弔いのことだそうです。(ネット調べです。)

私にとりましてはどちらも(佛様も、佛様だけでなく神様も、宇賀神先生や自分のご先祖様も)尊い方達ですので、同じようにとらえています。

一緒くたに表現して申し訳ありません。

一緒くたに表現しているとお断りしたうえでお伝えしますが、私は供養のかたちもひとつではないのかなと思っています。

勤行するときのお燈明(ロウソクの明かり)も、香華(お線香)も、飲食(おんじき・食べ物や飲み物のこと)も、佛教ではお供物とされていますよね。

それと同じで、もっと他にも供養のかたちはあるのかなと思っています。

これは私の考えですけれど。

以前に見た映画の話ですが、その映画の中で息子さんを亡くされたおじいさんが全くのボランティアで多くの人の力になっておられました。

映画の終盤の方でそのおじいさんが、

「こうして人助けをすることが、息子の供養になると思ってね。」

とおっしゃいました。

じんわりと、心にしみたのを覚えています。

その映画のおじいさんのように、行為も、もっと言えば生き方も、素晴らしい供養になるのかなと思っています。

宇賀神先生は勉強会で、よくご自身のことを

「神佛のエージェント」

とおっしゃっていました。

私はマザーテレサのこともとても素晴らしい方だと尊敬しているのですが、彼女もご自身のご著書のなかで、自分は

「神様の手の中のちびた鉛筆」

だとおっしゃっていました。

どちらも、神様や佛様を信じてお仕えして、手先となり道具となって御心に従いますということですよね。

生き方そのもので供養をなさっている。

すごいなぁと思います。

供養とはつまり、心を捧げることなのかなと私は思います。

ご飯をお供えしたって、実際の食べ物を神様や佛様や宇賀神先生が食べられるわけではありません。

現物の食べ物は減らないもの。

でも、それなのにお供えしたいと思うのは、つまり、食べてほしいと思う心を捧げているのだと思っています。

喜んでほしいと思う心を捧げているのだと思っています。

愛する神様や佛様、宇賀神先生や皆々様に、信仰心や愛する心、敬う心を、お供物や行為にのせて捧げるのでしょう。

そうしたら、心が届く。

そう思っています。

心は、人間同士のおつきあいでは、何よりも得難いものです。

その心を大好きな神様や佛様、宇賀神先生に、あげたいのです。

今となってはもう、心しかあげられないから。

悲しいなぁ。

そうなんだよ。

今となってはもう、宇賀神先生に、心しか、あげられないんだよ。

心しか。

合掌

涙で読めないお経

正直に告白します。

今日は、お勤め(読経)できませんでした。

毎日お勤めしていますといいながら、今日はできませんでした。

てへ。

とでもごまかしておきましょうか。

いやいや、それはあかんやろー、と自分でもいいながら。

今日はですね、いざお勤めをしようとお佛壇の前に座ってお供えとお経本と塗香を用意して、ロウソクを灯してお線香をたいて、護身法も組んだのに、そこで泣いちゃったのです。

あーあ、泣いてしもうた。

まだ読み始めてもないのに。

そう思ってしばらく落ち着くのを待って、たぶん・・・15分後くらいでしょうか?

もう一度お経本を手に取ると。

また途端に涙が溢れてきました。

そんなことを何度か繰り返して、時計を見ると1時間ほど過ぎてしまってました。

もう、今日は読めないな。

そう思って、せめて光明真言をと思い唱えはじめましたが、これもまたまともに声が出ず、唱えられませんでした。

もう仕方がないから、心の中だけでせめて7回、お唱えしました。

もちろん意図的にさぼる、もとい、休むときもありますが、お経を読もうとしてもはじめから涙で読めない時や、途中で泣いてしまって挫折してしまう時も多々あります。

宇賀神先生が阿字のふるさとに帰られて明日で9か月ですが、今でもやっぱり。

本来なら情けない限りと悔やむべきことかもしれませんが、宇賀神先生には特別に許してもらっています。

というのも、

「涙で読めないお経が一番いいって言われてる。」

と教えてくださったのは、他でもない、宇賀神先生でしたので。

たぶん松原泰道さんのご著書で読んだのだと、宇賀神先生はおっしゃってました。

お孫さんでしょうか、大切なお身内を亡くされて、読経なさろうとしても涙で読めなかったそうです。

「松原泰道さんほどの人でも、涙でお経が読めなかったそうだ。でも、涙で読めないお経が一番心がこもってる、って。」

と宇賀神先生は教えてくださいました。

そしてそれを教わった私が、この9か月涙でお経が読めないことが多く、今日もまた、そんな日でした。

途中で泣いちゃっても、しばらくして再開できる日もあります。

でも、とうとう、最後まで読めないとあきらめてしまう日もあります。

涙と鼻水でティッシュの減りが早い早い。

ただ、そんなお勤めができなかった日でも、今まで宇賀神先生にご祈願を頼まれていた方で大変なご病気でいらっしゃる方や、宇賀神先生のために涙を流してくださった方、私のことまで心配してくださった方、今でも宇賀神先生のことを慕ってくださる方のことを、宇賀神先生、神様、佛様にお願いしています。

どうかどうか、お見守りください、と。

これはもしかすると他でもない、宇賀神先生の供養にもなるかと思い、しています。

明日はまた気を取り直して、お勤めしたいと思います。

やっぱり、せっかく大好きな宇賀神先生に習ったことですから。

宇賀神先生のために私ができる、数少ないことのうちのひとつです。

また、明日ね。

合掌

子供の言うこと

このお正月は、弟家族の都合で3人の姪と甥が実家に2~3日泊まることとなり、私も手伝いと称して喜び勇んで一緒に泊まりました。

大好きな姪っ子と甥っ子が3人そろってお泊りに来てくれるのですから、寂しくなく、思わぬにぎやかなお正月となり、とても嬉しかったです。

その3人姉弟の一番下の子、Mちゃんは、以前にこのブログでお絵描きを紹介した子です。

小学校5年生になりました。

そのMちゃんとお正月に話していたとき、ふいにMちゃんが

「なぁなぁ、あやのちゃん。あやのちゃんは何歳まで生きたいー?」

と聞いてきました。

子供には死というものに対する漠然とした恐怖心があるのか、たまにこんなことを尋ねるときがありますね。

「せやなぁ、何歳までかは分からへんけど、あんまり長生きしたくもないなぁ。」

と答えました。

「なんで?」

と、Mちゃん。

「だって、宇賀神先生もおらへんし、長生きしても寂しいだけやん。」

と、正直な気持ちを伝えました。

するとMちゃんが、

「でもこうやってたら一緒におるからいいやんか。」

と言いました。

そのときMちゃんは、いつも私がご飯を食べる前に宇賀神先生はじめ神様や佛様たちにお供えをしているお作法のマネをしました。

Mちゃんにとって真言宗のお作法(印とご真言)は面白い?らしく、私がしていたらニヤニヤしながら見て、覚えてマネしようとするのです。

ですので最近は、Mちゃんの前では大っぴらにしないようにしています。

お作法は遊びではありませんし、まったく真言宗に関係のないMちゃんが見よう見まねで覚えるのもよくないなと思いますので。

まだちゃんと覚えてはいないようなので、よかったなと思っています。

宇賀神先生からは

「越法罪」(おっぽうざい)

という言葉を教わりました。

真言宗はやはり密教、秘密の教えですから、「教わる資格のない相手に、教えるのは罪である」とされています。

ですので例え大好きな姪っ子であっても、マネして覚えられてしまうのもよくないと思って、最近はMちゃんの前では大っぴらにしていませんでした。

Mちゃんが見ていない隙にこっそりしたり、もう合掌だけでお供えしたりしてました。

なのに、私がいつもお供えすることをちゃんと覚えていて、しかもそれをすると宇賀神先生が一緒にいるから大丈夫だと言うのです。

何をどう感じているのか、いないのか。

佛教も、お作法も、なぁんにも知らないくせに。

(いえ、すみません、私もなんにも分かっていません。)

子供は不思議な感覚を持ちあわせているなぁと思いました。

「でも、そっかぁ、Mちゃんから見たら、こうして私が宇賀神先生ことを思いながらお供えしてたら、亡くなっても一緒にいることになってるのかぁ。」

と、とても嬉しく、小さなMちゃんに慰められた思いでした。

素直な子供の感性でそう感じてくれたのなら、真実に違いないと思いました。

合掌

他は怖いから見たくないと言いながら

昨日はミディアムのお話をしました。

そして最後に

「(宇賀神先生以外の)他は怖いからあんまり見たくないです。」

と書きましたが、目で見えない世界に心のフォーカス(焦点)をあてていますと、多かれ少なかれその世界(の住人)とつながりやすくなるのかなと思います。

なんだか実感としてそういう機会が増えてきている気がします。

とは言え、目で見えない世界なんて、分からないですよね。

それが本当かどうか。

もしかしてただの思い込みかもしれません。

そもそも、そんなものがあるのかどうか。

そもそも無いのなら、求めるだけばかみたいなのか、どうか。

同じことは「氣」にもあてはまりましょうか。

氣なんてものは存在しない、そんなので人の病気が治るはずがない、と思われている方には、氣の議論そのものがばかばかしくて時間のムダと思われるでしょうね。

ですが、その氣を実際に体感した人なら。

その氣で実際に病気を治されてしまった人なら。

目に見えない氣はもはや架空のものではなく、自身の目ではとらえられなくても、「氣は存在する。(と思います。)」としか言いようがないでしょう。

だってそれで治っちゃったんだもん、と。

氣の話でしたら、実際の効果のあるなしで存在の是非は問えるのかなと思います。

ただ、私の、目に見えない世界の住人とのお話はというと、宇賀神先生との対話も含めて、申し訳ありません、証明のしようもないです。

私の知らない細かなことまで知覚できるほど鋭い感覚を持ち合わせていませんし。

ぼんやりとしたファンタジー(夢物語)としか言いようがありません。

そもそも、自分自身、本当に見たのか聞いたのかすら分かりません。

ただただ自分で、見たと思う、聞いたと思う、と信じてるだけです。

以前に何度か宇賀神先生に尋ねたことがありました。

テレビなどで有名な霊能者さんが出てお話しなさっているのを見たときに、

「この人は本当に神様とかが見えたり聞こえたりしてるのかな?」

と。

宇賀神先生の答えは、

「そんなの誰にも分かんねぇよ。」

でした。

宇賀神先生はわりと自信満々というか、ご自身でもいわく自己愛主義者というか、

「根拠なく自分を信じることを自信という。」

と言ってはばからないお人でした。

ですが、ことお仕事となりますと、ずっと以前にこのブログにも書いたことがあると思いますが、

「薄氷を踏むように」慎重に、

というスタンスでいらっしゃいました。

ですのでもしかして

「そんなの誰にも分かんねぇよ。」

というのは、本人にすら本当かどうか分からないのでは、ということなのかなぁと思います。

だからこそ慎重に、という意味で。

また、もうひとつ、このような目に見えない世界のことに足を踏み入れるときに気をつけることとして、宇賀神先生から

「旗印を明らかにする」

と教わりました。

つまり、自分は神様・佛様の側に立つ者です、という立場を心に定めること。

間違っても「魔が差す」の「魔」の側に立たないこと。

そして、旗印を明らかにしたからには、その反対側の勢力の妨害から身を護る手段をとること。

つまり、真言宗では護身法を組むこと、お勤めをすること(勤行)。

と、教わりました。

私はこれらのことを忘れないように心がけています。

薄氷を踏むように

旗印を明らかにする

護身法を組むこと

勤行

宇賀神先生のこの教えのお陰か、今のところ見えたり聞こえたりするものは、至極個人的な、とても平和で穏やかな、心温かく、ときに微笑みとともに心慰めてくれるような優しいものばかりです。

宇賀神先生はもちろんのこと、先生以外の声を聞いても、皆とても優しい存在ばかり。

こんなに温かい心で包んでもらっていいのかなぁ、本当かなぁ、本当だったら嬉しいなぁ、と思っています。

もしかしてこの幸せは私の脳内お花畑をそのまんま投影しているだけかも、と思うくらいです。

そして今までに何度か遭遇したことのある、いわゆる不成仏霊や残留思念などと呼ばれるような、あまり関わりあいたくない存在には、幸いなことに最近は会っていません。

心のフォーカス(焦点)を、それらマイナスの存在よりはプラスの存在に当てていられてるようです。

生きている人間の世界と同じで、どこに自分の心のフォーカスを合わせて生きていくのか、ということは大事だと思います。

世の中にはいい人も、悪い(と私が感じる)人もいると思います。

そして私は私にとっていい人とだけおつきあいしたい。

それと同じで、いい(と感じる)存在も悪い(と感じる)存在もあるこの世界で、私はいい存在とだけおつきあいしたいと願っています。

つまり、神様とか佛様とか、心優しい精霊(とでも呼べばいいのでしょうか)とか、亡くなった愛する人とか。

そちらの方に、心のフォーカスを合わせていきたい。

どうせ人は100%の物事を知覚できないのですから、その狭い狭い自分の視野で何を見たいのか。

どうせなら、愛するもの、美しいもの、愛に溢れたもの、心地よいもの、を見たいと願っています。

それ以外はアウトオブ眼中(古い?)です。

でも・・・まぁ、こうして好き勝手言ってることをお許しくださいね。

これは私の心の世界の話ですから。

こうまでして宇賀神先生と一緒にいられないと、どうしていいか分からないのですよ。

どなたに迷惑をかけているわけでもなし(多分)、このブログで好き勝手言ってるだけで、こんな夢の世界に生きて心を慰めている人間が一人この世に存在しているだけですから、お許しいただきたいと思っています。

というより、もう自分で勝手に許してます。

はい。

すみません。

なんだかちょっと、言い訳がましいですね。

申し訳ありません。

ここら辺のスタンスの説明は私自身にとりましても難しいのです。

宇賀神先生のなかで、霊を語る人に対する線引きの仕方というか、可否の定め方というか。

気に入らないスタンスを取られた方を、即座に破門なさったこともありましたから。

紙一重の、一瞬のご判断でした。

それを私が文字で明確に説明するのは、正直ちょっと難しいなと感じています。

これはもう長いこと宇賀神先生と一緒にいて、何をよしとし、何を不可となさったかを、自然に吸収した人でないと分からない感覚かもしれません。

合掌