銀座の氣

昨日・一昨日と行って参りました、東京出張!

いつものことながら、怒涛のような2日間でしたー。

結局旅先でのブログ更新ができず、申し訳ありませんでした。

宇賀神先生との東京デート♥も満喫して参りました。

ということで、いつものように皆さまにもおすそ分け( ̄∇ ̄)/

 

東京はさすが日本の首都ですね。

とっても「氣」のいい場所がたくさんあります。

たとえば、ここ。

 

ginza
あの有名な交差点

 

東京にお住まいの方は、ここがどこかお分かりですね?

そう、銀座の交差点です。

 

私は以前、銀座が歩行者天国になっていますときに初めてここを訪れました。

たしか歩行者天国がこの交差点で突き当たるような形になっていたと記憶していますが、そのとき、ここからもの凄くいい「氣」が溢れているのを感じまして、今回先生に是非行きましょうとお誘いしたのでした。

豊かな自然や火山、温泉があるわけでもない都会のど真ん中で、と不思議でしたが、とってもいい氣で溢れていたのです。

 

果たして宇賀神先生に見ていただきますと、やっぱり「氣が凄いことになっている!」と大絶賛でした。

先生がご覧になったものは、「ふわぁっと氣が溢れてくる」という私の大まかな感じ方とは違い、もっと鮮明なイメージでした。

うーん、ですが、そのイメージに関しましては、企業秘密とさせていただきますとのこと。

いずれそのうち勉強会でお伝えする日も来るかも知れません。

 

とにかく宇賀神先生はこの場所がとっても気に入られて、結局1時間ほどお茶をいただきながらここで過ごしました。

もちろん日本ターザンから氣の重要性を教えていただいた先生が、ここで1時間たっぷりと氣を取り込まれたことは、言うまでもありません。

 

東京はつくられた街です。

誰につくられたかと申しますと、徳川幕府を開かれた徳川家康に仕えておられた天海僧正(てんかいそうじょう)です。

彼が風水を駆使して、江戸の町、ひいては徳川幕府を繁栄に導いたそうです。

 

風水とは、なにも黄色の花瓶を家のどこそこへ置く、などということではありません。

氣の流れを読み、いい氣を取り込みよどみなく流し、邪氣がたまらないようにして運氣を上げる方法論のことを意味します。

天海僧正はその風水を家1軒ではなく、江戸の町全体に作用しますように用いられたそうです。

その規模にも驚きますが、それが400年以上たった今でも作用しているなんて、驚きです。

 

そして宇賀神先生は、もちろん独学で風水も勉強なさり、お詳しいのです。

お仕事として家や土地を見てほしいと依頼されたこともあります。

氣が実際に目に見える先生が氣を用いる方法論をご存知ですと、鬼に金棒ですね。

 

東京は天海僧正が風水を用いてつくられた江戸をもとに成り立つ街です。

氣がいいところが多く、緑もまた多く残っていて、とても素晴らしい街です。

ぜひ銀座のこの交差点に行かれることがございましたら、ある種の「氣」がいい場所という目でもってご覧になってください。

もしかしたら素晴らしいものを体感なさるかも知れません♥

 

合掌

 

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野獣の回復力 その2

新婚2か月で宇賀神先生が脳梗塞で入院なさり、新妻としましては、それはそれはもうびっくりでしたよー。

ですが、そこは普通とはちょっと違う宇賀神先生、入院なさったその日にろれつの回らない舌で、

「わしはなぁ、野獣の回復力だから。今日から3日のうちに治すから。」

と、自信満々でおっしゃるのです。

そして、心配だから病院に一晩付き添いして泊まると言う私を帰して、ひとり入院なさいました。

 

大きな声では言えませんが、実は宇賀神先生も内心はとっても怖かったようです。

夜の消灯後、このまま朝目が覚めなかったらどうしようと不安で不安で、寝つけなかったそうです。

だから私も泊まるって言ったのに、強がりをおっしゃいました。

 

ですが、常日頃より

「わしが死ぬ時は医者が決めるんじゃない。

わしとお不動さんと神さんの3人で決めるんだ。」

と豪語?していらっしゃる宇賀神先生です。

死ぬかも知れないという恐怖と闘いながら、ご自身でご自身のことを一晩中お加持なさいました。

 

こういうのを「内護摩(ないごま)を焚く」と申せばいいのでしょうか。

ふつう「護摩(ごま)を焚く」と申せば、結界をした場所や壇上で本物の火を焚いて佛様に祈りますが、それを自分の心の中だけで焚くのです。

祈りの炎を、心の中で燃やすのです。

宇賀神先生は一晩中、内護摩を焚いていたとおっしゃいました。

 

また、ありがたいことに、お弟子さん達も宇賀神先生のためにそれぞれお加持してくださったそうです。

先述のY先生などは、入院当日の夜遅く、ご自身のお仕事が終わってから駆けつけてくださいました。

お電話でご連絡した際、「仕事が終わり次第そちらへ行き治療する」とおっしゃってくださるので、面会時間も終わっていますからとご辞退したのですが、「僕は医者ですから、大丈夫、入れます。」とおっしゃいました。

『でも違う病院ですからー。』と心の中でツッコミを入れそうになりましたが、Y先生のお気持ちがとてもありがたく、お願い致しました。

 

そして2日たち、3日目の朝、いつものように病院に行きますと、

「わしはもう今日から自分でリハビリ始めたから。

階段も朝から3往復したからね。」

と宇賀神先生がおっしゃいました。

病室は5階でした。

「えー、ほんまに?すごいやん!」

と話していますと、病院の先生が回診にいらっしゃいました。

「宇賀神さん、調子はいかがですか?」

「あっ、先生、絶好調です!朝から階段も3往復してリハビリしました!ほら見て!!」

と、マヒを起こした方の足の指でグーチョキパーをしてみせます。

病院の先生も驚かれて、これなら退院も思ったより早いかも知れませんね、とおっしゃいました。

 

後にも先にも、死にかけてから3日目で「絶好調です!」と嬉し気に叫んだ人を私は知りません。

マジで殺しても死なないとはこの人のことかも、

もとい、

素晴らしい生命力、いやまさに「野獣の回復力」とは本当だったんだ、と感心しました。

そして“最低2週間の入院”と言われましたのを9日で退院し、翌日には仕事をなさっていました。

 

今ではあの(通常でしたら)悲劇ともいうべき出来事を笑い話に変えて、皆さまにお伝えしています。

それは宇賀神先生が、たとえつらい事が起こったとしましても、後になればそれを「笑いとばす」力強さを持っておられるからだと思っています。

そのお心の強さも含めまして、先生の生命力の強さ(本人談:野獣の回復力)はすごいなぁ、と感心しています。

 

合掌

 

追伸:明日から2日ほど出張で東京に参ります。そのためブログの更新ができないかも知れません。携帯からうまく投稿できましたら、旅先の先生の写真などお送りしたいと思います。できるかな~(^∇^)/

 

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野獣の回復力 その1

宇賀神先生は日頃から、ご自身のことを

「野獣の回復力」がある

と、おっしゃっています。

 

実は宇賀神先生は、人様の病苦を取り除くお仕事をなさっていながら、先生ご本人も生活習慣病の大家です。

若い頃から無茶苦茶な生活をなさっていましたからね。

 

極めつけの病気といえば、新婚ホヤホヤ2か月目で脳梗塞になられたことでしょうか。

左半身のマヒが起こりました。

その日はお一人で伊丹の方へ出張なさっていて、朝出かけられる前から何だか調子がおかしい、ふらふらする、とおっしゃっていました。

 

お仕事が終わり、夜、帰り道の十三駅近くの居酒屋さんで飲んでおられたとき、ついに立ち上がれなくなったそうです。

家にいた私に宇賀神先生から電話がかかってきました。

何かがおかしいんだ、でもとにかく家に帰るから、と。

これだけ人様のお身体のことも見ていますのに、そしてこのようなとき、人様には即・病院に行くようにとその場でアドバイスなさったこともありましたのに、いざご自身がなりますと、いえ、脳の病気のためか余計に、判断が鈍りました。

しかも電話の向こうでとても怒ったように話されるのです。

今思いますと、その理由もなく変に怒っていましたのも、病気のせいだったかも知れません。

 

帰ってこられる宇賀神先生を駅まで迎えに行こうとしましたら、ステッキがくの字に曲がってしまって、それを支えに歩いていらっしゃる宇賀神先生の姿が見えました。

左半身に力が入らず、ステッキで体重を支えながら1時間の道のりを自力で帰ってこられたのです。

どれだけそのステッキを頼りに歩いて来られたのでしょう。

びっくりしました。

 

そして病院に行こうとすすめましても、怒って言うことを聞きません。

救急センターに問い合わせたりして、症状からしてやはりすぐに病院に行ったほうがいいと言われましても、どなるように怒って、ガンとして言うことを聞かないのです。

「わしは深江のお稲荷さんの近くにいないといけない。治してくださるから。」

と、訳が分かるような分からないような理屈をおっしゃっていました。

「神様の御力は距離に関係なく届くよ」

と申しましても、先生の耳には入りません。

病気のために正しい思考ができなくなるということに、そのとき私は気づきませんでした。

今思いますと、あの時は無理やりにでも救急車を呼ぶべきでした。

 

そして愚かにも一晩家で過ごし、翌朝やっぱり身体が思うように動かないと、病院に行きました。

病院でMRIを撮られ、脳梗塞が起きている、と告げられました。

しかも梗塞を起こした場所は脳幹のすぐそばで、あと1ミリでも脳幹に入ってしまえば、その瞬間に呼吸が止まって死ぬと言われました。

「今から点滴する薬は、通常なら梗塞を起こしてから4時間以内に打つべきものです。それが12時間以上たっているわけですから、これが有効に作用する保証がありません。しかも悪くすると脳内出血を起こす可能性もあります。」

と病院の先生に説明されました。

 

そして、「最低2週間の入院です」と言われました。

お医者様の前で車椅子に乗せられていた宇賀神先生は、

「いえ、仕事がありますから、3日で退院します」

と、ろれつも回らないくせにエラソーに言います。

するとお医者さまは、

「そんなの責任持てません!それなら帰ってください!」

と怒られました。

宇賀神先生が、

「じゃ、綾野さん、帰ろっか」

と、立とうとなさいましたが、当然立てません。

「ほら、立たれへんやんか。ちゃんと入院しよ!」

と言いますと、しぶしぶ

「じゃあ、さしあたり入院します」と。

負け惜しみに“さしあたり”という言葉を使われたのが、せめてものムナシイ抵抗でございましたねぇ。

 

(その2につづく)

 

 

合掌

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インドの聖者さまをお加持した話

今から15年程前の話です。

日本の某有名大学の助教授の方からご依頼を受けまして、宇賀神先生がインドへ行かれました。

助教授の方が信仰なさっていたインドの聖者さまが末期のリンパ癌を患っておられ、そのお加持にきてほしいとのことでした。

先生がはるばる飛行機に乗りましてインドの病院に着きますと、その女性の聖者さまが入院なさっている10畳ほどの病室と、そこから外の廊下までビッシリと信者さん達で埋まっていたそうです。

皆さん裸足で床に座り込んで、聖者さまのために一心にお祈りなさっていたそうです。

聖者さまのガンは、宇賀神先生から見ましても、難しい段階でした。

それでもご依頼くださった助教授の奥様の通訳のもと、お加持させていただきました。

宇賀神先生の氣を用いましたお加持は、重い病気を患われている方には特に、お加持後に心地よい疲労感を伴います。

1度目のお加持が終わり、2度目との間に2時間ほど空けましょうということで、先生と通訳をしてくださっていた方とで昼食に出かけられました。

2時間後に病院に帰ってきますと、廊下に座り込んでいらした方達から病室中の方達まで、皆さん床をこぶしで叩いたり頭を叩いたりなさって、それはそれは大変な嘆きようだったそうです。

驚いた宇賀神先生が通訳の方に尋ねますと、

「聖者さまが眠ってしまわれた!」

とのことでした。

見ますと、

「グオー・・・!!・・・ガゴー・・・!!・・・ムニャムニャ」

と豪快にいびきをかいて寝ておられます。

よくあることなんだけど、と宇賀神先生が不思議に思っておりますと、通訳の方いわく、

「聖者さまは世界平和のため、人々のため、ひと時も休まず、何年もの間一瞬たりとも眠ることなく、祈りを捧げ続けられている」

とのことでした。

「その聖者さまが寝てしまわれた・・・世界が終ってしまうー!!!」

と、皆さん大号泣だったそうです。

なかには、宇賀神先生のことを指さして「お前のせいで聖者さまが寝てしまわれた」とばかりに怒りの目を向けて、何か叫んでいる方もいらっしゃったそうです。

「あっちゃー!」と思った宇賀神先生、とっさに、

「おーんーさらばーたーたーぎゃーたーーーはんなーまんなーのうーきゃろみーーー」

と、真言宗の普礼(ふらい)という佛様へのご挨拶のご真言を、芝居気たっぷりにことさら引き伸ばして唱えながら、聖者さまの足元に礼を尽くしてひれ伏したそうです。

真言宗でお唱えするこのようなご真言というものの起源は古代インドのサンスクリット語ですので、インドの方達もどこか聞いたことのある言葉であればと願って、しかもそれをさらにもっともらしく長引かせて唱えられました。

すると今まで嘆き悲しんでおられた信者さん達が一様にシーンとなり、皆さん落ち着かれました。

そして宇賀神先生は通訳の方を通じて、氣によるお加持を受けますと、どなた様もこのように疲れて寝てしまわれ、それにより回復するのです、とかなんとか取り繕われたそうです。

もちろん心の中では、

『“一睡もせずに祈りを捧げ続ける”なんてウソをつかなきゃいけないなんて、聖者さまも大変だなぁ』と思いつつ。

人間は生きている限り睡眠は必要です。

そんな根本的なことまでウソをつくと、自分で自分を苦しめてしまいます。

それと同じく昨日お伝えしました、お釈迦さまの御教えの生老病死の苦しみは、誰一人の例外なく受けるということ。

宇賀神先生も、もちろん例外ではありません。

あたりまえのことを、あたりまえに。

お偉い教祖様ぶらずに飄々と仙人のように楽し気に生きてらっしゃる宇賀神先生。

私はそんな先生が大好きですが、それでは物足りないという方もいらっしゃるかもしれませんね?

事実そのインドの聖者さまにはもの凄い数の信者さんがいらっしゃいました。

そういえば後年、インドに招いて下さった助教授とは全然面識のない、ヨガの先生をなさっていた日本人女性が、宇賀神先生のもとにいらしてくださいました。

その方がヨガの勉強のためにその聖者さまのところへ修行に行かれたことがあったと偶然お聞きして、「そんなに日本のヨガ界でも有名な聖者さまだったの?」と、びっくりしたことを思い出しました。

ですが、いくらたくさんの方達にあがめられ、世界的に有名だったとしましても、人目を盗んででないと寝られない生活、というのはイヤですねぇ。

そうそう、これもまた本当のことですが、宇賀神先生は確かに病気もなさいます。

ですが、そのご回復はあり得ないほど早いのです。

先生はそのことを「野獣の回復力!」とご自身でおっしゃっています。

やっぱりちょっと、普通の人とは違うように思います。

合掌

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ありがとうございます♥

「明らかに諦むる」とラクになります

「佛教」って、何のことか分かりますか?

それは、今から2500年(諸説あり)ほど前に北インドあたりのシャカ国の王子様としてお生まれになりました、ゴータマ・シッダールタという男性が、国を捨て地位を捨て家族さえも捨てて出家なさり、修行の末に菩提樹の下で瞑想なさって開かれた悟りの知恵の御教えです。

(簡単でとても分かりやすいお釈迦さまの伝記は、手塚治虫さんの描かれたマンガ「ブッダ」です。宇賀神先生も大好きです!一度図書館で借りてみてくださいー。)

私たちが「お釈迦さま」とお呼びするのは、国の名前が由来です。

「ブッダ(仏陀)」というのは「覚者」、つまり悟りを得て目覚めた者、という意味です。

2500年もの歴史がありますと様々な変遷を経ますので、日本も含めましていくつかの国に佛教は伝わっていますが、果たして全く正しくお釈迦さまの御教えが伝っているかどうかは分かりません。

 

正直に告白致しますが、私たちも大好きな弘法大師 空海さまが唐から持ち帰られた真言密教、これに含まれる考え方(の一部)など、お釈迦さまがご覧になられたら

「ボクそんなん言うてへんよ」

とおっしゃるかも、と心配しております。

さらに申し上げますと、今の日本人は当たり前のようにお寺さんにお参りして仏像向かってお祈りしていますが(もちろん私たちもしています)、お釈迦さまはそのようなことをせよ、とは一言もおっしゃっていません。

現代では比較的タイなどに伝わる、いわゆる上座部の佛教がお釈迦さまの御教えに近いと言われています。

 

ですが、そうは申しましても、日本に伝わっていますお釈迦さまの御教えも、色々と知っていきますと人生をラクに生きる考え方を教わります。

例えば、

 

一切皆苦(いっさいかいく)

 

・・・あれ?

ラクどころか、いきなり「全ては苦しみである」?

そうです、よく「四苦八苦」といいますが、これは佛教の言葉で、基本的な4+4=8つの苦しみが人生にはある、とおっしゃるのです。

一番最初の4つが、

 

生老病死

 

と言われています。

老いること、病気すること、死ぬこと、は分かりますが、生きることも苦しみであるってねぇ。

と、何だか暗い教えのようですが、そうではなく、苦を苦としてそのまま受け入れて諦めること。

佛教でいう諦めるとは「明らめる」と言う意味で、物事の真理を明らかにすることです。

例えば、年をとるのはつらいもの、ですが、人間は誰もが等しく年をとり、病気にもなり、誰一人の例外もなくいずれは死ぬ、と知りますと、「ああ、そういうものか」と諦めの境地に立てます。

「それはそういうものなんだね」「それで当然なんだね」という「あたりまえ」をあたりまえとして受け入れられると、心が少しラクになります。

・・・とかなんとか言いながら、どうしたら若さとビボーを保てるかと往生際悪くジタバタしているのが誰かとは、口が裂けても言えません。

 

てなことはさておき、

宇賀神先生はもちろんお釈迦さまの御教えもよくご存じで、この世をラクに生きる達人です。

自称「街中仙人」とはよく言ったもの。

いつもふらふらと楽し気に街を歩いていらっしゃいます。

そして、「誰の例外もなく人は老い、病気をし、やがて死ぬ」として、ヘンに教祖様ぶらず、ご自身の病気につきましても皆さまにお伝えしています。

確かに以前言われたことがあるそうです、特に人様の病気を治す(病苦を取り除く)お仕事もなさっているわけですから、「先生のような立場に立つ人は自分の病気を公表しないほうがいい」と。

ですが宇賀神先生は、お釈迦さまの御教えにもとづき、あたりまえのことをあたりまえとして正直に生きたいとおっしゃっています。

だからこんなににこやかに生きていらっしゃるのですねぇ。

strawberryjuice
大好きな苺ジュース

これは私の宝物の写真です。

宝物の写真、いっぱいありますけど、独り占めしたい気持ちをグッとこらえて、皆さまにもおすそ分け♥

 

明日は宇賀神先生が出会われた、あたりまえのことをあたりまえに言わないと苦しい目に合いますよ、という笑っちゃいけないインドの聖者さまの例えをお話したいと思います。

 

合掌

 

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情けなくなんかない! & 目に見えない微細身について

ひどく、或いは長くお身体を患われたことがおありなら、もしかしたら貴方様も一度はご経験なさったかも知れません。

「情けないねぇ」

という思い。

責任感の強い日本人気質のためか、身体が痛く、つらく、その為にしたいこと・しなければならないことが思うようにできず、となるとご自身を責めてしまわれます。

「こんなに痛いなんて、情けないねぇ」

また、ご病気の方に限らず、お年を召した方が段々と以前のように動けなくなり、

「こんなに思うように動けなくなるなんて、情けないことですわ」

とおっしゃる方も。

このようことをお聞きする度に、私は心の中では叫びながら、でも表面上はにこやか(?)に

「情けなくなんかないですよ~。」

と申し上げます。

実際問題としましても宇賀神先生のお仕事を横で見ていまして、情けないと思われるより、お身体に感謝なさっている方のほうが何倍も回復が早い!と実感しております。

そしてそれは、今日お話ししますこんなエピソードにもよります。

以前に宇賀神先生のご相談者さんでいらした女性のことです。

その方は看護師さんをなさっていて、宇賀神先生とのお話の中で、先生にふと尋ねられたそうです。

彼女が勤められている病院に、何らかの事情で片腕の肘から先を切り落とされた患者さんが入院してらっしゃいました。

その方が「無いはずの腕が痛い」とおっしゃるとのことでした。

ですが無い腕がそもそも痛いはずもなく、治療することも叶わず、困っておられました。

すると宇賀神先生は

「ああ、それは無くしてしまった腕の微細身(みさいしん)が痛いんだね」

とおっしゃいました。

まず、この微細身についてご説明申し上げます。

これは気功などの代替療法の世界では有名な考え方(多分)ですが、身体には3つの構成要素があります。

それは

原因身(げんいんしん)

微細身(みさいしん)

粗大身(そだいしん)

です。

原因身とは、いわゆる魂のこと。

その人がこの世に生まれたもと(原因)です。

その人が亡くなりますと、この魂(原因身)があの世に帰ります。

あの世に帰りきれずに、この世に留まったままのものが霊として感じられたりします。

その外側に微細身という、いわゆる氣のボディ(氣でできた身体)があります。

外側と申しましても、氣の世界のことは空間や時間の概念を超えたものとされていますので、実際に私たちが考える「外側」とは少し違うかも知れません。

ですが、よくオーラと呼ばれておりますものはこの氣のボディのことで、見る人によりましては「身体を包むように存在している」という風に見えたりします。

或いは「実際の身体に重なるように存在している」と言えるのかも知れません。

先述のY先生が、宇賀神先生の身体にありました深江のお稲荷さんによる「氣のボディの手術跡」を見つけられたのも、まさに実際の身体の膵頭部にあたるところがくり抜かれていたためです。

そして粗大身とは、この目に見えます実際の身体です。

宇賀神先生は、看護婦さんをなさっていたその女性に、患者さんの実際の身体の腕は切り落としてしまったけれど微細身の腕が残っていて、それが痛むのでしょうとおっしゃいました。

「どうしたら痛がるのをとめてあげられますか?」

とその女性は尋ねられました。

すると宇賀神先生は

「そしたらね、その人の肘から先の腕をまるで在るように持ってあげて、優しくなでて、

”よくがんばってくれたね。ありがとうね。

切り落とすことになってしまって本当にごめんね。

ありがとう。ありがとう。”

と、なでながら言ってあげて。」

と教えてさしあげました。

その女性はその後、病院で痛がる患者さんに先生のアドバイス通りしてさしあげたそうです。

するとその患者さんはポロポロと涙を流され、以後は二度と痛いとおっしゃらなくなったそう。

片腕を無くされた患者さんの、氣のボディだけがとり残された片腕、優しく感謝されて、”愛の手”でなでてもらって、痛みが止まりました。

その患者さんの氣の片腕だけがどうして取り残されていたのかは分かりません。

ですが、愛され、感謝され、労をねぎらってもらって、納得?されたのでしょうか。

その瞬間、実際の手術も含めまして、本当の意味でその患者さんは癒されたのだと思います。

このようなお話をお聞きしますと、例えば風邪を引いてしんどいときでも、

「私の身体、がんばってるよねー。

いつもありがとう。」

と言ってあげたくなります。

さらに申し上げますと、あの高校3年間の腰が痛かった私に、

「情けないなんて思わなくていいよ。そんなに痛いのによくがんばってくれたね。ありがとう。痛くしてしまってごめんね。これからも大事にしていくよ。」

と言ってあげたくなります。(と申しますより、過去の自分に本当に言っております。)

また、このお話をお聞きまして、その患者さんに実際にお会いすることなくその方を救われた宇賀神先生もすごいなーと私はホレ直しました♥(いちいちノロケなくていい?)

宇賀神先生のところへ来られる方達は、先生のお力により不思議と病気など治られる方がほとんどです。

それにプラスしまして、ご自身のお身体をねぎらうように大事に思っていただけますと、効果は倍増!です。

ご病気などに対してましても前向きに取り組まれている方のほうが、ご回復は早いと本当に実感しています。

こんなに皆様のために毎日がんばってくれている皆様のお身体が、「痛い・動けないで情けない」なんて思われてしまう悲しいことが起こりませんよう、お祈り申し上げております。

そしてもし、ご自身の病気などにも関わらず「情けない」なんて悔やんだことない、という方がいらっしゃいましたら、貴方様は本当にお幸せです。

どうかこれからも、そのままご自身を愛してくださいますよう、お祈り申し上げます。

合掌

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では、霊以外のものが霊だと見なされる場合とは

先日、霊以外のものが霊だと見なされる場合がありますと書きました。

それは一体何でしょうか?

 

宇賀神先生のお考えですが、それは「残留思念」だそうです。

 

この残留思念と申しますのも結構やっかいで、生前のその人の”思い”が、繰り返し繰り返し同じ場所で行われるのです。

しかも、あまりいい”思い”ではないことの方が多いように思われます。

それは例えば交通事故で亡くなった方の思念が、何度も何度も事故に合うシーンを再現するのです。

 

私が経験しました、とても印象深い残留思念のエピソードをお話させてください。

そしてこれにはもう一つ、お大師さん(弘法大師 空海さま)のお力の凄さのことも含まれています。

 

数年前に宇賀神先生と私が四国八十八か所巡りをしていたときのことです。

どのお寺さんでしたか忘れてしまいましたが、お参りを終えて車をとめてある駐車場に帰ろうと道を歩いておりましたとき、ふと私の作務衣の袖が道端に植えてありましたヒイラギの枝にひっかかりました。

ちょうど誰かに袖を引っ張られ、引きとめられたようになりました。

「いやー、枝がひっかかったわ。」

と言いながら立ち止まり袖を枝から外していますと、宇賀神先生が、

「今ので事故に合うタイミングから逃れられたんだよ」

と、真面目顔とおふざけと半々でおっしゃいました。

「そんな、まさか~」

と言いつつ、車に乗り込みました。

 

そのお寺さんを車で出発してすぐの、信号のない交差点にさしかかりました。

T字路の突き当りに向かう形で、右折しようとしていました。

一旦停止して右を見て、次に左を見ましたら一台の車が右に向かって走って来ていました。

白い車で、中に乗っている人たちの人数や性別なども把握するくらいの認識をしていました。

その車が右へ通り過ぎて、もう一度右・左・右と確認して、そろーっと車を前進させたときです。

いきなり車が右からやってきて、危うくぶつかると急ブレーキを踏みました。

さっきちゃんと確認して車をスタートさせたはずなのに?

と、冷や汗をかきました。

そして、さっき左から右へ抜けていった白い車が、どこにもいないことに気づきました。

すると宇賀神先生が、

「ほらね、事故に合うタイミングから逃れられただろ?」

とおっしゃいました。

 

うっそーん!(ToT)

 

と、びっくり仰天。

 

「え、あの左の白い車、本物じゃなかったん?」

と、聞きますと、

「そうみたい。」

と、先生。

その白い車は、多分ですがその交差点で事故を起こし(そして多分乗っておられた方達は亡くなり)、亡くなったあとも交差点で何度も事故の様子を再現している残留思念ではないかとのことでした。

 

宇賀神先生でも、それが霊であれ残留思念であれ、初めにパッと見たときにそれが「現実の人間ではない」と一瞬分からない、けれど何かおかしいな~と思う、ということがあるそうです。

今回も白い車が来るのを見られたときも一瞬分からなかったようです。

でもやっぱり、何かおかしいと思ったんだ、とのことでした。

 

あんなにリアルに見えた白い車が本物でなく、右から来ていた本物の車が(意識して右を確認したはずですのに)見えていなかったなんて、ショックでした。

そして冗談半分、本気半分で「事故に合うタイミングから逃れられた」と予言なさった宇賀神先生の第6感。

そして何より、そのときのヒイラギの枝に託して、一瞬引きとめてくださったお大師さんのお力に、驚きつつも感謝致しました。

 

もちろん現実問題として考えますと、あのときヒイラギの枝に私の袖がひっかかったことでは交差点でのタイミングのずれには寄与しません。

ですが、宇賀神先生のおっしゃるように、「あのご縁のお蔭で」タイミングがずれたとしか思えませんでした。

助かりましたー。

 

と、このように、往々にして人が巻き込まれてしまいます「残留思念」は、結構やっかいなようです。

怖かったよー。

お大師さま、ありがとうございました。

 

合掌

 

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ありがとうございます♥

ちょっと怖い話も少しずつ

先日まで、宇賀神先生の信条である、「霊や前世の因縁などに心捕らわれないように」ということを書いてまいりました。

では、霊がとりついたことによる災い(霊障)や、”前世の因縁”とは違いますが、”祖先の行ったことにより後々まで祟られる”などというおどろおどろしいことが全くもって世の中に無いのかと尋ねられましたら・・・

残念ながら、答えは「あります」です。

先生は今まで何度もそういうお仕事も引き受けてまいりました。

ただ、やたらめったらそのような理由で不幸がおこるわけではありませんので、「安易に」霊などに結びつけない方がいいですよ、というのが先生のお考えです。

事の真偽が誰にも証明できませんのに、余計な苦しみが増えるだけですから。

 

そのようなおどろおどろしい話、いずれはここにも書いていきたいと思っております。

「ありのままをカミングアウト」するためにこのブログを始めました。

明るいお話をなるべく書きたいとは思っていますが、事実として、このよう暗いお話も避けるべきではないとも思っております。

宇賀神先生が、ご自身の勉強会などでも霊などのお話をあまりされませんのは、一つには「霊を語っても人は幸せになれない」という信条によるものですが、もう一つには、世の中のあまりにも多くの人が新興宗教団体などに“霊”や“祟り”に物事を結びつけられて、それらを祓うために多大なお金をかけていらっしゃるからです。

墓石や仏像を買わされる、などというのはよく聞く話ですね。

金額の桁が違ってきます。

やっぱり、幸せになれるとは到底思えません。

 

そう言えば、少し変わったところでは、以前、電車に飛び込み自殺を図られて、奇跡的に助かった方が宇賀神先生のところへいらしたことがありました。

その方はお若い方でしたが、「僕はもう死んだんだ。なのに何故ここにいるのか分からない。」とおっしゃって、ご家族が困り果てて連れてこられました。

目の前に生きていらっしゃるのに、ご本人さんは「死んでいる」と主張なさいます。

すると宇賀神先生は、

「脱魂症状だね。」

とおっしゃいました。

 

本来は魂は身体にしっかりと結びついています。

そして人が亡くなりますと、魂は身体から離れてあの世に帰ります。

いわゆる霊とは、この魂があの世に成仏できずに地上にとどまったものであったり、また、他のものを霊だと見なされる場合もあります。(詳しくは次回)

先程の方は命をとりとめられましたのに、何かの加減で魂が半分抜けかかってしまったまま元に戻らず、その為ご本人さんは死んだはず、としか思えないのでした。

事実は小説より奇なりと申しますが、私はそんな話はそのとき初めてお聞きしました。

残念ながら半分抜けかかっている魂は私の目には見えませんでしたが。

 

もちろんその方は宇賀神先生のお加持を何度か受けられてご回復なさり、今では立派な社会人となられました。

魂が半分抜けかかっておられる時と、すっかり元通りになられた後では、目の輝きが違いました。(私に理解できることと言えばそんなことくらい)

 

と、私にとりましてはちょっと怖い分類に入りますこのようなお話・・・やっぱり皆様、お聞きになりたいですよねぇ?

え、こんなのはまだまだ怖くないですか?

日本人は怪談好きとか。

皆様のご期待に沿えますよう、事実は事実として少しずつご紹介していきたいと思います。

ですが、「霊を語っても人は幸せにはなれない」という宇賀神先生の信条をくれぐれもお忘れなきよう、お願い申し上げます。

ご自身では、お関わりになりませんよう。

それこそファンタジー映画でも見るような感じで、一歩引いて楽しんでいただけますと幸いです。

 

合掌

 

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前世の因縁?忘れちゃったもーん!

宇賀神先生のもとへいらっしゃる方からたびたびお聞きする質問、

「私が苦しんでいるのは、前世の因縁のせいですか?お祓いしてもらった方がいいのでしょうか?」

先生のお答えは、

「必要ありません。」

 

ご病気や人生の色々な問題で悩まれている方達は、どうしてもお心が弱り、霊に加えて前世の因縁などが原因では、と心配になられます。

普通に幸せに暮らしておられる方なら、こんなこと考えもつかないでしょうけれど、つらいことが続きますと心も弱ってしまいますね。

心のスタミナがなくなります。

 

ですが、この因縁という言葉、もともと佛教の用語なのですが、日本では少々一人歩きしているように思われます。

悪いほうの意味あいでのみ使われていることの方が多いように見受けます。

もともとは、お釈迦さまが

「この世は因と縁によって成り立っている。」

とおっしゃったのです。

ものごとには原因があり、その縁によって生まれる結果がある、と。

「原因と結果」

ごくごく当たり前のことで、何も不思議なことではありません。

 

さらに申し上げるなら、佛教の輪廻転生という世界観が正しいとすれば、全てが前世からの因と縁により、今世の私は私としてここに生まれたのでしょう。

そうです、「前世からの因縁により、今の私がここに在ります」となります。

そしてそれは不幸なことだけでなく、幸せなことも含めての、人生の全てを含めての話なのでしょうね?

そのような今世の人生のもといとなる前世からの因縁、お祓いしたってとれるはずありません。

とれてしまいましたら、ここに「私」が存在する起源まで無くなります。

 

そして、そんな大事な大事な「前世の因縁」、どうして私たちは覚えていないのでしょうか?

 

それは、

「覚えておく必要がなかった」

からだと思います。

あるいは、

「忘れるべきだった」

からだと。

 

宇賀神先生はよく、

「この世はお修行の道場」

とおっしゃいます。

「あの世に持っていけるのは魂だけ」

「だから魂が打ち震えるほどの喜びをたくさん感じて、魂を肥え太らせて、あの世に帰るんだ」

と。

 

私ならば今世、「松岡綾野」としてこの世に命を授かり、結婚して宇賀神姓になり、今ここにいます。

綾野として私の両親のもとに、この時代・この国・この世に生まれた宿命は変えられません。

ですが運命は、私自身の意思により人生を切り開いて、変えていけます。

そして今の宇賀神綾野としての命を生ききって、将来は佛様の御国に帰ります。

帰るときの乗り物である魂を磨くお修行をして、ぴっかぴかのすごくいい乗り物にして、佛様の御国に帰るつもりです。

 

この世に「行ってらっしゃい」と送り出してくださった佛様が、私に、あるいはほぼ全人類に、前世からの因縁の記憶を忘れてしまうようにして送り出されたのは、今世のお修行には何の必要もなかったから。

前世の因縁の記憶など、今世のお修行の邪魔なのです。

もしもその記憶が必要であるならば、佛様は私に持たせたままこの世に送り出してくださったはず、と思っています。

必要がないのですから、捕らわれる(執着する)必要はありません。

今世は「今世の私」に心を定めて、お修行するのです。

 

もしもヘンな“自称・霊能者”に、「アナタの不幸・病気は前世からの因縁です!」

と言われましても、

「あっ、そう。」

「だから何?」

と言える強さを、私は宇賀神先生から教わりました。

「そんなことどうでもいいよ。」

と。

 

それよりも、私は今の人生を輝くように生きたい。

「人生を謳歌する」という言葉が大好きです。

喜びも、悲しみも、幸せも不幸でさえも、今こうして生きているからこそ味わえる。

(本音を申しますと、悲しいのや不幸はあんまりいりません。)

輪廻転生したって、今の宇賀神綾野の人生は二度と来ません。

宇賀神先生のおっしゃるように、「魂が打ち震えるような喜び」をたくさん味わうのがお修行だなんて、なんて素敵なんでしょう!

いっぱいいっぱい色んなことを味わって、魂をぴかぴかに磨いて、佛様の御国に帰ったとき、佛様に「よくお修行したね」って褒めてもらおう!

「前世の因縁?」

どうでもいい!

だって忘れちゃったもーん!

 

合掌

 

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使い魔と守護霊団と その3

(その2のつづき)

 

宇賀神先生はいつも、

「霊はゼロ以下、マイナスの存在だからね。

プラスの存在である人間が関わってもエネルギーを取られるだけで、何ひとついいことないからね。

マイナスの存在の霊からは何もいいものは生まれない。」

と、おっしゃいます。

ですので、特に霊の話を持ち出された場合、ほとんど相手になさいません。

 

そして幸か不幸か?、目に見えない霊が原因で自分は今苦しんでいる、と思われていらっしゃる方でも、ほとんどの場合、宇賀神先生が本当に霊障だと思われることはありません。

大概は「この苦しみは自分のせいじゃない」と思いたい方の作られた心象世界だったりします。

きつい言い方ですが、原因を現実や自分の中に求めるより、何か他のせいにした方が気が楽なのです。

 

大切なのは、目の前の現実です。

こんなに色々が見える宇賀神先生でさえ、ご病気や人生に関するご相談を受けた場合、目に見える現実世界が9割以上、目に見えない世界の問題は1割以下、の割合で事の対処に当たられます。

ご病気の方ほど、心が弱られて「これは霊や前世の因縁のせいでは」などと不安になられますが、先生は、

「病気は病気として治しましょう」

とおっしゃいます。

目の前の不具合を安易に目に見えない世界の原因に結びつけるのではなく、現実の中に病気や問題の原因と結果を求める。

ごくごく「あたりまえ」に物事をとらえます。

 

そして、宇賀神先生が「この人は本当に霊が見えている」と感じられた方には、

「霊なんかのマイナスの存在には捕らわれないように」

と、アドバイスなさっています。

「山や木の景色が見えるのと同じと思って、捕らわれない、人にむやみに語らない、無視するんだよ」

と。

街でたくさんの人にすれ違いますが、いちいち通りすがりの人に心捕らわれたり関心など持ちませんよね。(よっぽどのイケメンでない限り?)

いちいち、そこら辺にいるどうでもいい霊など、気にもかけなくていいのです。

そう、よく「霊が見える」とおっしゃるのは、低級なものが多いのです。

宇賀神先生のおっしゃるマイナスの存在ですね。

気にかけるから、そのマイナスの存在が余計に近寄ってきます。

寄ってこられましても、自分のプラスのエネルギーを吸い取られて運気が下がるだけですから、人生の損です。

人生になぁんにも益しない存在など、無視しましょう。

 

宇賀神先生は前述のフェリーの中でお会いした“とても鮮明に見えた”女性にも、

「見えてしまうものはしょうがない、と思って気にしないように」

とアドバイスなさっていました。

そして、

「霊的なことを標榜している宗教団体には関わらないように。

いいように利用され、霊なんかに関わるうちに最後は精神的にボロボロになるだけだから」

と。

 

宇賀神先生が私によく話してくださる使い魔や守護霊団のことは、私にとりましては「とても愉快な仲間たち」という感じです。

聞いていても楽しい。

想像しても愉快。

そして明るい、と思います。

実際に人々のお役に立っていますし、頼もしい存在です。

ですので私たちはよく笑いながら守護霊団の話などするのですが、

笑えない・楽しくもない存在でしたら、

そんなものは、無視します。

 

私の人生はもっと素晴らしいことのためにつくられた、と信じています。

世の中の素晴らしいもの、美しいもの、愛しいもの、で私の心の中をたくさん満たしていきたいと思っています。

 

合掌

 

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