使い魔 その1

今日は宇賀神先生の「使い魔」のお話を。

使い魔と申しましても、お金を浪費する人のことではありません。

先生に仕えてくれている、目に見えない働き手のことです。

それは例えば、先生が昔飼ってらっしゃった猫だったりします。

この猫たちはかつて生きていて、亡くなった後も先生のことが忘れられず、この世に留まり先生のために色々と働いてくれています。

 

使い魔は洋の東西を問わず、昔から存在していました。

西洋で有名なのは魔女の黒猫やフクロウ。

映画「魔女の宅急便」でも主人公の女の子に黒猫のジジがいるのは、魔女の使い魔に黒猫が多かった表れです。

魔女は死んでから後に使い魔にするために、猫を飼っていた(らしい)のです。

魔女とよばれる人達は存在しましたが、それは何もハリーポッターのようなファンタジー的魔法を使っていたのではありません。

占いをしたり、野草などを煎じて薬を作ったり(これが後にハーブと呼ばれます)、普通の人のあまり知らない”祈祷”などの方法で治療することを生業としていた人達のことです。

多分、日本の忍者が普通の人より少し身体能力や技術に長けていて、地道に諜報活動を行っていたのが、歴史の経過とともにさも魔法のような忍術を使っていたイメージにすり替わったのと同じかなと思います。

また、魔女の祈祷はキリスト教以外の宗教にもとづいていたため、キリスト教からは異端者・邪教者として追われていき、そのため邪悪な怖いイメージも加わったのかも知れません。

(と申しましても私は魔女の本質を詳しく知りませんので、推察の域を出ませんが。ごめんなさい。)

魔女狩りで多くの魔女と呼ばれた人達とともに、使い魔として恐れられた猫達が殺されたため、ネズミを捕る猫が減り、ヨーロッパでペストがまん延したという説もあると聞きます。

 

日本で有名な使い魔なら、例えば安倍晴明の「一条戻り橋の鬼」という式神、ちょっとマイナーですが知る人ぞ知る「飯綱使い(いづなつかい)」など。

色々と便利に働いてくれる目に見えない存在は昔からたくさんあったようです。

 

さて、宇賀神先生の「使い魔」、じつは猫だけでなく他にもたくさんいるのですが、今日は猫について。

この猫ちゃんたちの得意技は探し物です。

例えばご相談者様で以前、「自社の株券が見つからない」とおっしゃった社長さんがいらしたそうです。

まだ紙の株券があった時代、社長さんですから自社の株券がなくなるのは一大事。

血眼になって探しても見つからず、真っ青になって先生に泣きついて来られたそうです。

先生はその方に、「株券を再発行する手続きの用紙に記入だけしなさい。そして、いいかい、その用紙はまだ提出するんじゃないよ。書くだけ書いて、提出せずに一週間待つんだよ。一週間たったら、ここは探したと思うところももう一度探してみて。」と言いました。

そして猫ちゃんたちを派遣し・・・果たして一週間後、株券は出てきました。

しかもその社長さんが何度も何度も探した金庫の中から。

「先生、私の金庫なんて小さいんですよ。私は頭を中に突っ込んで何度も見たんですから、この金庫の中から出てくるなんてあり得ません。」

とおっしゃっていたそうです。

株券は一体どこに雲隠れしていたのか?猫ちゃんたちはどこから出してきたのか?分かりませんが、とにかく無事に株券がでてきて社長さんは首をかしげながらも大喜びだったそうです。

 

(その2に続く)

 

合掌

 

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密厳国土

今日の更新は大変遅い時間になっており、申し訳ありません。

と申しますのも、実は今日はお仕事の先生をおいて、1人で京都の東寺さんへ行ってまいりました。

春の特別公開です。

toujiposter
東寺さん春期特別公開ポスター

 

東寺さんとは、真言宗の宗祖、我らがお大師さま(弘法大師 空海さま)が嵯峨天皇さまから賜ったものです。

お恥ずかしながら私は真言宗で権教師の資格をいただきました、などと言いながら、宝物館の特別公開は初めてでした。

いやもう。

すごかったです。

言葉もでません。

涙がでました。

とめどもなく。

あんまりしくしくと泣いているので、警備員の優しそうなおじさんが「どうかなさいましたか」と尋ねてくださったほどでした。

 

何がすごいって、お大師さんの、そのお力です。

1200年前のお大師さんがそのまま息づいていらっしゃるような、今現在ここで生きて、その法具を使われているかのような、リアルな存在感です。

上のポスターの法具は1200年程前にお大師さんが唐より持ち帰られたものですが(実物はもちろん写真撮影禁止です)、遠目からでも引き寄せられてしまう”何か”があります。

高野山でもお四国さんでも、ここ東寺さんや神様の神社でも、何と言うか、ご縁があり神様や佛様の存在に触れると私は勝手に涙が溢れてきて止まらなくなります。

今まで恥ずかしいから言わなかったですけど。

カミングアウトするって決めましたからね、告白します。

どう言えばいいのか、理由もなく押し寄せる幸福感に包まれてどうしようもなくなる、という表現が一番近いかも知れません。

なぜかは分かりませんが、涙が自然に出てきます。

しかも涙が出る出ない(何かを感じる感じない)は、同じ佛様でも、その時々によります。

体調によるのか、精神状態によるのか、やはりその時その時のご縁によるのか?

とにかく、今回の東寺さんの中では、3回も泣かされてしまいました。

恥ずかしいですよー、周りには国内外の観光客がいらっしゃるわけですから。

着物きて佛様や法具の前で1人しくしく泣きだすなんて、はっきり言ってアヤシイ人以外の何者でもありません。

 

今日のその話をしますと、先生がそれは多分、お大師さんの密厳国土をめざされた想いを感じたからではないかな、と言いました。

先日「小欲より大欲」のことをお話しましたが、実はお大師さんは誰よりも大きな願いを持たれた方です。

それは、「密厳国土(みつごんこくど)」。

この世がそのまま大日如来(真言密教の世界観による根本佛)の浄土であるということを現す、という。

うーん、ちょっと本当のところは難しすぎて、正確なところを間違っていたら申し訳ありません。

お大師さんのお考えは深遠すぎて、凡人の私などが理解して簡潔に書き表すなんて、100万年たってもできそうにありません。

とにかく、この世をそのまま佛様の御国にする(である)という大きすぎる願いを持たれた方、それがお大師さんです。

 

「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなん」

(こくうつき しゅじょうつき ねはんつきなば わがねがいもつきなん)

 

有名な、あまりにも果てしないお大師さんのご誓願(ごせいがん)です。

意味につきましては、よろしければ皆様各自ググってみてください、勉強になります。(そんな言い方するなんて、って怒られそう!?)

お大師さんのお考えやご生涯に触れていきますと、そのあまりの素晴らしさに恋に落ちること間違いなし、です。

 

いつも思うのです、涙が出るような素晴らしいお大師さんや神様佛様にお会いしたとき、「ああ、シュラフを持ってきて、一晩ここにビバークしたい」って。

それってどう考えてもご迷惑やでー!と1人ツッコミながら。

今日お大師さんにお会いした興奮のあまり、いつにも増して支離滅裂な文章なのをお許しくださいませ。

 

この特別公開、春は3月20日から5月25日まで、秋は9月20日から11月25日まで、年に2回あるそうです。

よろしければ是非一度、ご覧になってください。

だってこの法具、お大師さんが御自ら、その御手で触られていたのですよ?

すごくない?(まだ興奮してる。)

 

合掌

 

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神様と佛様の違いについて

私、宇賀神 綾野もとても短い期間でしたが、ありがたいことに高野山でお修行をさせていただき、権教師(ごんきょうし)という尼僧のはしくれのような資格を頂戴しました。

ですので、佛教徒です。

ですが、佛様と同様に、神様のこともとっても好きです。

こんな大ざっぱな言い方をすれば怒られてしまうかも知れませんが、神様・佛様のこだわりなく、「ありがたいものは、ありがたい」と思っております。

ただ、若干のカラーの違いとでも申しましょうか、神様と佛様では少し受け取る感覚に違いがあります。

(このブログでの”神様”とは、日本の神様を意味します。)

 

宇賀神先生が勉強会で教えてくださったのは、佛教の世界観では、佛様は輪廻転生の輪から解脱なさった存在で、死ぬことも生まれ変わることもない、とのこと。

それに対して神様は人間と同様に輪廻の輪の中におられ、もちろん人間に比べてはるかに寿命は長くていらっしゃいますが、いずれは死を迎え、また生まれ変わられるとのこと。

神様のほうが少し人間に近い存在でいらっしゃるので、特性も少し人間に近いところがおありになるそうです。

例えば、佛様はそんなに”こだわり(執着)”がなくても、神様は潔癖症というほどきれい好き。

佛様は死者をその御国にお迎えくだいますが、基本的に神様は血(けがれ)を嫌われます。

そしてちょっぴりヤキモチ焼きなところも。

(このブログで最初に山形の歌懸のお稲荷さんのことをご紹介しようと思いましたら、「それならわしの方が先だろう」とおっしゃってみたり。)

もちろんそれでも神様のお心は広く、人間の私などには到底はかり難いのですけれど、やはり佛様よりはほんの少~し身近な感覚があります。

まだブログをスタートさせて10日程ですが、神様のお話しなさったことに関する話題が多いかな、と思いますのはそのためかも知れません。

 

佛様は、私の感覚といたしましては、ただただ「深遠」としか言い表せません。

お薬師様とか観音様など、佛様はまさに「果てはどこだろう」と思うような存在の深さ、或いは存在の透明さ?を感じます。

(ヘンな日本語でごめんなさい。)

深江のお稲荷さんのようなパーソナリティ?を感じるということは、今までの経験上、あまりありませんでした。

というより、パーソナリティを色濃く感じられるような佛様には、怖くてお参りにいっていないと言うほうが正確かも知れません。

佛様の世界も色々と複雑で、階層もあったりと、私などには到底全貌を把握できておりませんが・・・例えば密教でいうところの明王部に属されるお不動さん(不動明王)はまたちょっとお薬師さんとは感覚が違ってきたりします。

お不動さんのお話はまたいずれ。(お不動さんは怖くないです。)

ありがたいことに、神様佛様のどちらでありましても、広く深く果てしないところから慈悲のお心が届きますのは、同じです。

 

そう言えば、まだ20歳そこそこだった私を四国八十八か所巡りに導いてくださった、「Oさんのおばあちゃん」と私が呼ぶ95歳の知り合いのおばあちゃんがおられますが、実はこのおばあちゃんも”視える・聞こえる”人です。

そのおばあちゃんは私の実家から自転車で30~40分のところにお住まいですが、まだ深江”村”が一面のレンコン畑だったころ(戦前?戦後?)、おばあちゃんが自転車で通りかかると、よく深江のお稲荷さんからお声がかかったそうです。

「あの神さんはおしゃべり好きでなー。寄ってけー、寄ってけー、て呼び止めはるんや。」

とおばあちゃんがおっしゃっていたのを覚えています。

その頃は私は今のように神様のお声をお聞きした、なんて思ったこともなかったですので、「ふーん。そうなんやー。」と感心するだけでした。

ですが今、先生はそのお稲荷さんとやはりよくお話させていただいてますので、おばあちゃんの感じられた”おしゃべり好き”は本当でしたね。

 

歴史的に見ますと、神様の国だった日本に、佛教はインドから唐、朝鮮を経て日本に輸入されてきました。(これを三国伝来と言います。)

神様のほうが先に日本におられたことになります。

神様と言いましても一神教ではなかったですので、神様が佛様の存在を受け入れられたということになりますね。

ですので、佛教の世界観では佛様の方が輪廻から解脱なさった、より位の高い?存在ですが、日本人は初めからいらした神様に敬意を表して「神様佛様」と神様の方を先に呼ぶのだそうです。

 

合掌

 

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お声を聞くということ

ここでひとつお断りさせていただきたいのが、このブログで宇賀神先生や私が神様佛様のお声をお聞きしました、と申しましても、必ずしも常に正しくお聞きしているとは、本人でさえも思っていないということです。

ここに書いてありますことがフィクションかノンフィクションか、という意味ではありません。

「確かにお聞きした」とは思っています。

でもそれがちゃんと神様佛様のお心通り正しく聞けたかどうかは分からない、ということです。

 

宇賀神先生はよく、「テレビなどと同じで受像機としての精度の問題」とおっしゃっています。

いくら神様佛様が電波を飛ばしてくださっていても、受ける側の私たちの精度が低ければ、正しく受け取ることはできない、ということです。

また、ある時は正しく受け取り、ある時は不具合で、でもまた叩くと配線がつながるテレビのように?(いつの時代や)、と、体調が変わるように精度も一定ではないという問題もあります。

先生のように人様よりは霊能力があるかなー、という人でも、例えば欲で物事を見ますと、見間違えます。

欲目とはよく言ったものです。

ですので、ここはもう、常に自分に問いかけるしかありません。

「私の目は澄んだ水面のように、物事を正しく映し出しているか?」

「私の耳は神佛のお言葉を、自分の考えで捻じ曲げることなく聞いただろうか?」

と。

 

実際、世の中には「私は神様のお声を聞きました!」とご本人は本気で思われ、そのために判断を誤り、人生を苦戦してしまう方もおられます。

宇賀神先生のところには、そういう方達も過去にたくさんご相談にいらっしゃいました。

でも、どんなに人生苦戦なさっていても、「聞いた」と思われた方は、「それはちょっとお聞き違えでは」などとやんわりお伝えしても、耳を貸されません。

ご本人は信じ切っていらっしゃいます。

 

宇賀神先生がいつも指針にされるのは、「現実との整合性」です。

別に神様佛様のお話だけでなく、人様からお聞きするお話でありましても、自分に都合のいいように解釈を捻じ曲げる、というのはよくあること。

ですので、お聞きしたお言葉は、本当に神様佛様のお心通りだったのか、自分の都合というフィルターを通したものだったのか、現実世界で矛盾することなく当てはまるのか、を常に考えます。

 

誰も、誰にもそれが正しいと証明できないからこそ、いつもありのまま素直に神様佛様のお心を受け取りたいと願っています。

 

実は私も経験した、「欲かいて聞き違え、あるある~!」という笑い話、ちょっと恥ずかしすぎて言えません。( ̄∇ ̄)/

 

合掌

 

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お参りの極意 その2

さて昨日の続きの、神様佛様にお参りするとき、お願いごとはしないという基本があれば、の応用編です。

 

 

これは以前、深江のお稲荷さんに宇賀神先生が言われたお言葉です。

 

「おのこ奮い立て!さらば神も奮い立たん!」

 

 

先生の心願と致しまして、ずっと変わらずあるものは、もっと人々の助けとなる力を得ることです。

ご相談者様の力になれなかったとき、亡くなられ佛様の国へお見送りしたとき、思うような結果を得られなかったとき。

自分の無力さを痛感するときは、やはり多々ございます。

そんな時だったでしょうか、いつもお参りする深江のお稲荷さんから、さっきの言葉をかけていただいたそうです。

宇賀神先生がめげずに自分の道を進むからこそ、神様も後押しできる、と。

まず本人が情熱の炎を燃やし続け、前に進もうとするならば、それが可愛い子供(神様佛様にとりまして人間は子供と同じです)であれば、神様も応援してくださるようです。

助けが欲しいとおねだりするのとはちょっと違ってきます。

 

そして願うことは、できましたら小欲よりは大欲、つまり自分の欲望を満たすためだけでなく、多くの人が幸せになるような願い方をするほうが、神様佛様も応援してくださりやすいようです。

先生の「もっと力が欲しい」だけでは小さな自分の欲です。

ですが、得た力で何をするのか?という「その先」があれば、それは他者のための大きな欲となりえます。

確かにたくさん仕事をしますと自分には報酬としてお金が入ってきます。

素晴らしい成果をあげ、「先生、すごい!」って言ってもらえたら、ちょっと鼻高々でしょう。

でもそれだけではなく、自分が仕事に励むことで沢山の人に貢献できる、神様佛様が喜ばれるような「人々の苦しみを取り去り、幸せにする」ことができる、とそこまで心から願っていると、小欲は大欲に変わります。

 

もちろん「自分の幸せのその先の、他者への貢献」とは、何も偉業だけではありません。

自分が幸せでいて、いつもニコニコと暮らしていて、そうしたらそんな幸せそうな自分を見て家族も嬉しく思ってくれるでしょう。

周りの人達も幸せそうな私の顔を見て、なんだかホッとする、と思ってくださるかも知れません。

これを佛教では和顔施(わがんせ)と言い、立派なお布施です。

なにも偉業を成さずとも、自分自身の在り方だけでも人様に貢献できると思いましたら、「神様や佛様が喜ばれるような欲の持ち方」のハードルは少し下がるような気がします。

 

自分の小さな欲もあってもいい。

もしも欲というものが忌むべきもの、恥ずべきもの、不必要なものであれば、初めから人間には与えられなかったはずです。

必要であったから、神様佛様は欲という感情を人間にも与えてくださった、と思います。

欲の有る無しが問題ではなく、どのような持ち方をするかが大事。

どうせなら、小さな欲とともに、大きな欲までも持ってみませんか?

その方が、神様佛様も応援なさりやすいようですよ。

 

私はお参りさせていただくとき、本当に滅多なことではお願いごとは致しません。

お願いごとをしましたのは、それこそ、先生が脳梗塞で倒れられたときや、家族の大病のときくらいです。

ですがご参考までに?、例えば今の私でしたら、ブログをスタートさせたばかりで、沢山の人に読んでもらえたら嬉しいと思っています。

そんな私がもし敢えて神様佛様にご挨拶するならば、

「お蔭様を持ちまして、パソコンに疎い私もブログをスタートさせることができました。神様佛様の世界のことを伝え、宇賀神先生の話を伝え、1人でも多くの人に”心がフッと軽くなる”と楽しんでいただけましたら、こんなに嬉しいことはありません。素晴らしい機会を与えてくださり、ありがとうございます。精進いたします。」

と申し上げるでしょうか。

 

神様佛様は、全てお見通しです。

わざわざ「これが欲しいです」なんておねだりしなくても、私達が何を願っているかなんて、心の中までバッチリお見通しです。

そしてありがたいことに、私たちをとても温かく広いお心で包んでくださっています。

ですので、お参りしましたときは、「~を叶えてください」とおねだりなど敢えてせずに、「ありがとうございます。お蔭様をもちまして、~に精進しております。幸せです。」とだけ申し上げるのです。

 

そうしてこのことが、「おねだりしない方が願いを叶えてくれるらしい」という打算から抜け出て、神様佛様にいつも心から感謝申し上げられるようになったとき、実は世界一幸せな人になっていたのは”私自身”だと気づくのです。

 

 

因みに、ここにも「世界一幸せ」そうな顔をした人が。

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精養軒にて

 

なぜ「ピース」が指3本になっているのかって?

これはピースではなく、「ワイン3杯飲ませてね♥」と山の神(妻)におねだりする、の3なのです。

「お酒は1日1合まで!」と常からキビシーく言っている私は、このときは和顔施など忘れ去り、阿修羅の形相と化すのでした。

 

合掌

 

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お参りの極意 その1

ときどき、お参りってどうすればいいのか分からないと尋ねられます。

お手水云々のお作法や、神様なら「一礼・二拍手・一礼」などの拍手の数、佛様ならそのご真言など、色々なお作法はあるでしょうけれど、そのことではなく、心の中の問題についてですね。

どう思って、何を願って、手を合わせればいいのか?と。

 

答えはシンプルです。

 

「お礼」

 

この一言につきます。

 

神様であっても、佛様であっても、先生と私がお参りするときは、必ずお礼を申し上げます。

初めてお参りさせていただく神様佛様でありましても、

いつもの深江のお稲荷さんでありましても、

「本日ご縁を持ちましてお参りさせていただき、ありがとうございます。」

「お蔭様にて、家族皆、無事に暮らしております。ありがとうございます。」

「お蔭様にて、日本は穏やかで平和な素晴らしい国です。ありがとうございます。」

人生の始まり「無事に生まれてきて」から終わりの「命を全うでき」まで、武術武道と同じで、礼に始まり礼に終わります。

だって、そこにお参りに行けるだけでも、すでに行くだけの元気な身体があり、行くだけの経済力があり、時間があり、ご縁があり、色々に恵まれているからこそ行けるのですから。

 

また、お祭りの日などはそれにつけ加えまして、

「本日この善き日にお祭りおめでとうございます。皆とても楽し気に喜んでおります。ΟΟ様が弥栄(いやさか)えますよう心よりお祈り申し上げます。」

などとお祝いを申し上げるのもいいですね!

寿ぎ(ことほぎ)といい、神様佛様からの祝福を願うまえに、人間のほうから祝福するのです。

「ありがとう」や「おめでとう」、私たち人間が言ってもらったら嬉しいことは、神様佛様だって嬉しいのです。

お祭りの日に人間がウキウキするのは、神様佛様もウキウキなさっているから。

人々の幸せそうな姿をご覧になって、喜んでくださっているのだと実感しています。

 

そして、基本的にお願いごとはしません。

宇賀神先生が勉強会で教えてくださったことは、

「神様佛様には請求書ではなく、領収書をお渡しするように」と。

「この願いを叶えてください」という請求書ではなく、「お蔭様を頂戴しました、ありがとうございます」という領収書です。

 

そうするとどうなるのか?

実は「無欲の大欲(むよくのたいよく)」と言って、何にも要求しない人のほうがかえって願いが叶い、幸せになるのです。(と、宇賀神先生は思っています。)

神様や佛様にとりまして、人間は子供と同じです。

例えば神様を氏神様というとき、そこに住む人は氏”子”と呼びますね。

そして自分の子供が久々に顔を見せに来たと考えたとき、たった5円をお賽銭箱にいれたかなーと思うと、やれお金をください・健康をください・仕事をください・おまけに宝くじにも当ててください!?と、あつかましーくお願いごとを並べるよりも。

「お父さんお母さん、いつもありがとうございます。お蔭様で私は幸せに暮らしています。」と言ってくれたほうが、嬉しいですよね?

そしてこの子がもっと幸せになるように、と素直に願えるのではないでしょうか。

それは神様であっても佛様であっても同じなのだよ、と宇賀神先生はおっしゃいます。

神様佛様に相対するとき、そのように無欲でいたほうが結果的に人生の幸福度合は確実に増します。

 

とは言え、人間社会の中で暮らす以上、まるで悟りを得た高僧のようにいつも清らかで全くの無欲でいるというのは難しい話です。

お願いはしない、という基本があれば、応用もあります。

そんな場合はどうするのか?の応用編は明日お伝えしたいと思います。

 

合掌

 

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日本全国どこでもお家

宇賀神先生はとっても旅が好き。
若い頃からずっと、車で寝泊まりしながら旅をしたり、もっとさかのぼって高校生時代には自転車で東北一周したりしました。
先生の幼い頃の憧れが小林旭さん主演の映画「ギターを持った渡り鳥」シリーズだったそうです。

そして、先生の行くところは決まって温泉です。
先生は東北育ちですので湯治文化が色濃く先生の中にあるようで、もはや信仰と言ってもいいのでは、というほどに温泉を信頼しています。

 

また、温泉は「氣」とも密接に関係していて、先生がこの仕事をする限り必要不可欠な存在です。

先生の加持祈祷の根底にあるものは、氣の力です。

そして温泉は氣で溢れています。

宇賀神先生は温泉に入りながら瞑想して、氣を取り込みます。

冷たく厳しい滝行ではなく、ぬくぬくと幸せな温泉修行だなんて、いかにも先生らしいですね?

先生はこれは水垢離(みずごり)ではなく湯垢離(ゆごり)という立派なお修行なんだと主張しておられますが、イマイチ迫力にかける説得だと感じるのは私だけではありますまい。

 

さて、そんな宇賀神先生の長年の夢はキャンピングカーでした。

日本全国どこでもお家。

どこへ行っても、止まった(泊まった)ところが我が家となります。

先生がつけた車の名前は「サンダース号」。

何のことかなと思いましたら、某ファーストフード店の創業者、カーネル・サンダースさんが由来ですって。

カーネル

car + 寝る

車で寝る

・・・あっ、そう。( ̄∇ ̄)

campingvan
蔵王の山の上にてサンダース号と

 

このゴールデンウィークは山形の蔵王温泉におりました。

6日間も湯治させていただき、とてものんびりと、幸せでした。

温泉で湯治するたびにパワーアップする先生。

大阪に帰って仕事を始めるのが楽しみですね。

ですが、昨日今日と2日間で合わせて走行距離が850キロ程。

私は運転は大好きですが、さすがにちょっと疲れました。

蔵王エコーライン、くねくね道でしたー。

でも景色は最高!

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蔵王エコーラインからの眺め

 

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蔵王の麓の新緑

 

蔵王の山の上は雪が残っており、山の麓には新緑がありました。

何とも言えない輝くような鮮やかな緑でした。

東北にはまだ桜もあったり、帰り道の北陸地方では藤の花もたくさん見ました。

大阪に近づくにつれて緑の色が濃くなり、と、日本は本当に自然が豊かで、しかも南北に長いですね!

素晴らしい国です。

いつもありがたいなぁと思って旅しています。

 

合掌

 

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「氣」という概念 ― Qi Power あるいは日本ターザンとの出会い その2

見世物が終わるやいなや、日本ターザンのもとへ駆け寄り「弟子にしてください!」と頼んだ宇賀神少年。

日本ターザンは「どこの学校にもお前のように言ってくる子はおる。だがお前はまだ義務教育を受けているからな、弟子にはできん。」と言いました。

 

ところが、こう付け加えてくれました。

「見たところお前には虎骨(ここつ)がある。つまり仙縁があるということじゃ。

お前を弟子にすることはできんが、ある言葉を一つだけ教えてやろう。

わしのこの言葉を頼りに修行すれば、お前も将来わしのようになれるかも知れん。」

虎骨とは、額に虎の顔のような影(骨の形?)が浮かび上がることで、日本ターザンいわく仙人になる縁を持っている人は額に虎骨があるそうです。

普通の人には分かりませんが、自身もまた仙縁があり仙人となった日本ターザンにはその虎骨が見えるのだとか。

日本ターザンは宇賀神少年の額に虎骨を見出しました。

 

そして、この言葉を伝えました。

 

「この世は”氣”によって成り立っている。この”氣”を操る者は、そのコントロールの範囲内において全ての事象をひん曲げることができる。」

 

この言葉を聞いたとき、宇賀神少年は小学5年生。

以来、日本ターザンのこの言葉を頼りに無師独学でこの道を切り開き、今の能力を得るに至りました。

そうです、宇賀神先生はどの師匠につくこともなくここまで来たのです。

たったこれだけの言葉を頼りに、って、これはちょっと凄いと私は思います。

 

まるでマンガのような日本ターザンのお話。

ですが、初めのご挨拶でも申し上げたように、このブログに書きますことは100%ノンフィクション、全て実話です。

宇賀神先生は小学校の時に日本ターザンに出会い、「氣」という概念に出会い、今の能力を得ました。

そして2017年現在、宇賀神先生は深山幽谷にこもる仙人ではなく、自称「街中仙人」となって、大阪の街をふらふらと楽し気に飲み歩いています。

 

そしてそして、これは本当に蛇足なのですが・・・

 

日本ターザンを語るとき、私にとって一生涯忘れられないエピソードを一つ。

我が主人、宇賀神先生が初めて私の実家へ例の「娘さんをお嫁にください」の挨拶に来てくださった時のことです。

以前申し上げた通り、私の父は「不思議事なんて信じられない」という”超”がつくほどマジメなお方なのですが・・・先生は父に初めて会ったその日、その父に向って「私はこういう訳で日本ターザンに出会い、この仕事をするに至りました」などとマンガみたいなこの話をしたのです。

父の反応はというと、

「僕は世の中に国籍や肌の色、職業など色んな差別があるけれど、綾野ちゃんが連れて来た人ならどんな人でも受け入れる、同じ人間なのだから、と思っていた。

でも・・・

宇宙人を連れてくるとは思わなかった・・・。」

するとすかさず先生が、

「いえ、私はウチュウジンではありません。ウガジンです。」

(T-T)

ハハっと力なく笑う父・・・。

(T-T)(T-T)\(T-T)/

 

もう、笑っていいのか泣いていいのか怒っていいのか。

私は固まったまま、何も言えませんでした。

その日、お祝いにと母が用意してくれた美味しいはずの豪華すき焼き・・・味が全く分からず、飲み込むように食べたことしか覚えていません。

今となってはいい思い出でしょうか?

 

因みに、先生の名誉のために申し上げますと、結婚してからしばらくして、私の父が徐々に先生の人となりを知ってくれて、

「先生は、いい人やな。」

と、ポツリと言ってくれました。

その一言でとてもほっとしたのを覚えています。

(パパリンが言ったことを忘れていたらどうしよう。(T-T))

 

合掌

 

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「氣」という概念 ― Qi Power あるいは日本ターザンとの出会い その1

人生の中で色んな出会いやきっかけやターニングポイントがあり、今の自分にたどり着いたと思います。

宇賀神先生が今の能力を得たきっかけもいくつかありますが、今日はその中でも大きな位置を占める「日本ターザン」との出会いについて。

名前が面白いでしょう?

その方は「日本ターザン」、その名も「三浦MAX」と名乗られたそうです。

 

宇賀神先生はいわゆる団塊世代。

先生の記憶に間違いがなければ、それこそ小学校時代はひとクラス60人以上、1学年15クラスほどのマンモス校だったそうです。

先生の通っていた宮城県仙台市の榴岡(つつじがおか)小学校に、時折見世物を披露してくれる人達が訪れました。

変わった見世物(と言えるのか)も多く、例えば”全身顔運動”のおじさん。

真冬の仙台にラクダのパンツ一枚で登場し、いわく、「顔は冬でも服を着なくて平気だろう。だから全身顔になればパンツ一枚でも寒くないんだ」と。

そのおじさんは”全身顔”になるためにタワシによる乾布摩擦を勧められました。

(叶恭子サマの「わたくしは全身が顔です。どこを見られても恥ずかしくありません」の元祖でしょうか?)

もちろん面白いことにはすぐに飛びつく宇賀神少年。

家に帰り早速タワシで顔と全身を乾布摩擦したのですが・・・痛くて即・断念したそうです。

そんな見世物でいらした中の一人が「日本ターザン・三浦MAX」さんでした。

見かけは普通のおじいさんでしたが、上半身裸で、まさにパフォーマンスがターザンそのものだったそうです。

例えば、ひとクラス60人の6年生のクラスを2クラスも相手に綱引きをします。

綱をぐるりと腰に巻き付け「引いてみろ」と、120人の6年生に綱引きをさせますが、ビクともしません。

五寸釘を歯で食いちぎったり、鉄の鎖を素手でブチブチッとまるでお餅のようにちぎります。

そして彼の身体の中には、日中戦争の時に被弾した砲弾の破片がジャラジャラと音をたてて残っていたそうです。

彼は言います。

「わしは日支事変で戦っていたときに間近で砲弾が爆発し、その破片を腹に浴びて死にかけた。味方の日本兵にも見捨てられ、どうすることもできずにいた。

すると、仰向けに倒れているわしのところにトラがやってきた。”ああ、わしはこのトラに喰われてしまうのか”と思っていると、そのトラがわしの額をペロリと舐めたのだ。

そうしたらどこからともなく仙人が現れ、”お前には仙縁(仙人になる縁)がある。助けてやろう。”と言って、わしを助けてくれた。傷を治し、元気にしてくれ、仙術を教えてくれた。

じゃが、腹の中の砲弾の破片はそのまま残しておくと言って、ホラ、この音がそうじゃ。」

彼がお腹を揺さぶると、中でジャラジャラという金属音がします。

 

不思議な不思議な「日本ターザン」。

やはり、宇賀神少年は強烈に憧れてしまいます。

見世物が終わったあと、宇賀神少年は日本ターザンのもとへ駆け寄ります。

「弟子にしてください!」

 

(明日へつづく)

 

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じつはおちゃめな宇賀神先生

ちょっと真面目な話が続きましたので、ここで一息。

いえ、あんまり宇賀神先生のいいことばかり書いて、このブログを見てくださった方が「なんて凄い人なんだー!」と誤解なさっても困りますので。(え、誰もそんなこと思ってない?)

お仕事に関しましては本当に脱帽するほどの健気さで取り組まれますが、プライベートな内面は「68歳のお子ちゃま」を遺憾なく発揮されています。

実はとってもおちゃめな宇賀神先生の一面をご紹介します。

 

東京に月に一度出張に行っているのですが、3月に行った際に泊まった”水月ホテル鴎外荘”さん。

ここは森鴎外さんがかつて住んでおられたところで、彼の旧居がそのまま保存されています。

宇賀神先生は歴史や古い時代の建物が大好き。

森鴎外さんのかつてのご自宅とお庭も拝見しました。

 

鴎外荘・庭
鴎外荘さんのお庭にて

何だか「その時代にそこで生きていたよね?」というほどの溶け込み具合ですね。

 

そしてこれは鴎外荘さんの中にある金庫室の前にて。

「綾野さん、これ撮って撮って~!」と、嬉しそうに先生。

一体何をしているのかと思ったら「金庫破り♥」ですって。

ougaisou-safe
鴎外荘さんの金庫を開ける先生

見てください、この嬉しそうな先生の顔!

可愛いですよねー(‾∇‾)

宇賀神先生のこの可愛さを皆様にノロケたくてブログを始めたというのが本音かも?

って言うと、先生は「綾野さん、その美的感覚はヘンタイだから誰にも言わない方がいいよ」と、のたまいました。

そうかもネ。

 

合掌

 

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