インドの聖者さまをお加持した話

今から15年程前の話です。

日本の某有名大学の助教授の方からご依頼を受けまして、宇賀神先生がインドへ行かれました。

助教授の方が信仰なさっていたインドの聖者さまが末期のリンパ癌を患っておられ、そのお加持にきてほしいとのことでした。

先生がはるばる飛行機に乗りましてインドの病院に着きますと、その女性の聖者さまが入院なさっている10畳ほどの病室と、そこから外の廊下までビッシリと信者さん達で埋まっていたそうです。

皆さん裸足で床に座り込んで、聖者さまのために一心にお祈りなさっていたそうです。

聖者さまのガンは、宇賀神先生から見ましても、難しい段階でした。

それでもご依頼くださった助教授の奥様の通訳のもと、お加持させていただきました。

宇賀神先生の氣を用いましたお加持は、重い病気を患われている方には特に、お加持後に心地よい疲労感を伴います。

1度目のお加持が終わり、2度目との間に2時間ほど空けましょうということで、先生と通訳をしてくださっていた方とで昼食に出かけられました。

2時間後に病院に帰ってきますと、廊下に座り込んでいらした方達から病室中の方達まで、皆さん床をこぶしで叩いたり頭を叩いたりなさって、それはそれは大変な嘆きようだったそうです。

驚いた宇賀神先生が通訳の方に尋ねますと、

「聖者さまが眠ってしまわれた!」

とのことでした。

見ますと、

「グオー・・・!!・・・ガゴー・・・!!・・・ムニャムニャ」

と豪快にいびきをかいて寝ておられます。

よくあることなんだけど、と宇賀神先生が不思議に思っておりますと、通訳の方いわく、

「聖者さまは世界平和のため、人々のため、ひと時も休まず、何年もの間一瞬たりとも眠ることなく、祈りを捧げ続けられている」

とのことでした。

「その聖者さまが寝てしまわれた・・・世界が終ってしまうー!!!」

と、皆さん大号泣だったそうです。

なかには、宇賀神先生のことを指さして「お前のせいで聖者さまが寝てしまわれた」とばかりに怒りの目を向けて、何か叫んでいる方もいらっしゃったそうです。

「あっちゃー!」と思った宇賀神先生、とっさに、

「おーんーさらばーたーたーぎゃーたーーーはんなーまんなーのうーきゃろみーーー」

と、真言宗の普礼(ふらい)という佛様へのご挨拶のご真言を、芝居気たっぷりにことさら引き伸ばして唱えながら、聖者さまの足元に礼を尽くしてひれ伏したそうです。

真言宗でお唱えするこのようなご真言というものの起源は古代インドのサンスクリット語ですので、インドの方達もどこか聞いたことのある言葉であればと願って、しかもそれをさらにもっともらしく長引かせて唱えられました。

すると今まで嘆き悲しんでおられた信者さん達が一様にシーンとなり、皆さん落ち着かれました。

そして宇賀神先生は通訳の方を通じて、氣によるお加持を受けますと、どなた様もこのように疲れて寝てしまわれ、それにより回復するのです、とかなんとか取り繕われたそうです。

もちろん心の中では、

『“一睡もせずに祈りを捧げ続ける”なんてウソをつかなきゃいけないなんて、聖者さまも大変だなぁ』と思いつつ。

人間は生きている限り睡眠は必要です。

そんな根本的なことまでウソをつくと、自分で自分を苦しめてしまいます。

それと同じく昨日お伝えしました、お釈迦さまの御教えの生老病死の苦しみは、誰一人の例外なく受けるということ。

宇賀神先生も、もちろん例外ではありません。

あたりまえのことを、あたりまえに。

お偉い教祖様ぶらずに飄々と仙人のように楽し気に生きてらっしゃる宇賀神先生。

私はそんな先生が大好きですが、それでは物足りないという方もいらっしゃるかもしれませんね?

事実そのインドの聖者さまにはもの凄い数の信者さんがいらっしゃいました。

そういえば後年、インドに招いて下さった助教授とは全然面識のない、ヨガの先生をなさっていた日本人女性が、宇賀神先生のもとにいらしてくださいました。

その方がヨガの勉強のためにその聖者さまのところへ修行に行かれたことがあったと偶然お聞きして、「そんなに日本のヨガ界でも有名な聖者さまだったの?」と、びっくりしたことを思い出しました。

ですが、いくらたくさんの方達にあがめられ、世界的に有名だったとしましても、人目を盗んででないと寝られない生活、というのはイヤですねぇ。

そうそう、これもまた本当のことですが、宇賀神先生は確かに病気もなさいます。

ですが、そのご回復はあり得ないほど早いのです。

先生はそのことを「野獣の回復力!」とご自身でおっしゃっています。

やっぱりちょっと、普通の人とは違うように思います。

合掌

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「明らかに諦むる」とラクになります

「佛教」って、何のことか分かりますか?

それは、今から2500年(諸説あり)ほど前に北インドあたりのシャカ国の王子様としてお生まれになりました、ゴータマ・シッダールタという男性が、国を捨て地位を捨て家族さえも捨てて出家なさり、修行の末に菩提樹の下で瞑想なさって開かれた悟りの知恵の御教えです。

(簡単でとても分かりやすいお釈迦さまの伝記は、手塚治虫さんの描かれたマンガ「ブッダ」です。宇賀神先生も大好きです!一度図書館で借りてみてくださいー。)

私たちが「お釈迦さま」とお呼びするのは、国の名前が由来です。

「ブッダ(仏陀)」というのは「覚者」、つまり悟りを得て目覚めた者、という意味です。

2500年もの歴史がありますと様々な変遷を経ますので、日本も含めましていくつかの国に佛教は伝わっていますが、果たして全く正しくお釈迦さまの御教えが伝っているかどうかは分かりません。

 

正直に告白致しますが、私たちも大好きな弘法大師 空海さまが唐から持ち帰られた真言密教、これに含まれる考え方(の一部)など、お釈迦さまがご覧になられたら

「ボクそんなん言うてへんよ」

とおっしゃるかも、と心配しております。

さらに申し上げますと、今の日本人は当たり前のようにお寺さんにお参りして仏像向かってお祈りしていますが(もちろん私たちもしています)、お釈迦さまはそのようなことをせよ、とは一言もおっしゃっていません。

現代では比較的タイなどに伝わる、いわゆる上座部の佛教がお釈迦さまの御教えに近いと言われています。

 

ですが、そうは申しましても、日本に伝わっていますお釈迦さまの御教えも、色々と知っていきますと人生をラクに生きる考え方を教わります。

例えば、

 

一切皆苦(いっさいかいく)

 

・・・あれ?

ラクどころか、いきなり「全ては苦しみである」?

そうです、よく「四苦八苦」といいますが、これは佛教の言葉で、基本的な4+4=8つの苦しみが人生にはある、とおっしゃるのです。

一番最初の4つが、

 

生老病死

 

と言われています。

老いること、病気すること、死ぬこと、は分かりますが、生きることも苦しみであるってねぇ。

と、何だか暗い教えのようですが、そうではなく、苦を苦としてそのまま受け入れて諦めること。

佛教でいう諦めるとは「明らめる」と言う意味で、物事の真理を明らかにすることです。

例えば、年をとるのはつらいもの、ですが、人間は誰もが等しく年をとり、病気にもなり、誰一人の例外もなくいずれは死ぬ、と知りますと、「ああ、そういうものか」と諦めの境地に立てます。

「それはそういうものなんだね」「それで当然なんだね」という「あたりまえ」をあたりまえとして受け入れられると、心が少しラクになります。

・・・とかなんとか言いながら、どうしたら若さとビボーを保てるかと往生際悪くジタバタしているのが誰かとは、口が裂けても言えません。

 

てなことはさておき、

宇賀神先生はもちろんお釈迦さまの御教えもよくご存じで、この世をラクに生きる達人です。

自称「街中仙人」とはよく言ったもの。

いつもふらふらと楽し気に街を歩いていらっしゃいます。

そして、「誰の例外もなく人は老い、病気をし、やがて死ぬ」として、ヘンに教祖様ぶらず、ご自身の病気につきましても皆さまにお伝えしています。

確かに以前言われたことがあるそうです、特に人様の病気を治す(病苦を取り除く)お仕事もなさっているわけですから、「先生のような立場に立つ人は自分の病気を公表しないほうがいい」と。

ですが宇賀神先生は、お釈迦さまの御教えにもとづき、あたりまえのことをあたりまえとして正直に生きたいとおっしゃっています。

だからこんなににこやかに生きていらっしゃるのですねぇ。

strawberryjuice
大好きな苺ジュース

これは私の宝物の写真です。

宝物の写真、いっぱいありますけど、独り占めしたい気持ちをグッとこらえて、皆さまにもおすそ分け♥

 

明日は宇賀神先生が出会われた、あたりまえのことをあたりまえに言わないと苦しい目に合いますよ、という笑っちゃいけないインドの聖者さまの例えをお話したいと思います。

 

合掌

 

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情けなくなんかない! & 目に見えない微細身について

ひどく、或いは長くお身体を患われたことがおありなら、もしかしたら貴方様も一度はご経験なさったかも知れません。

「情けないねぇ」

という思い。

責任感の強い日本人気質のためか、身体が痛く、つらく、その為にしたいこと・しなければならないことが思うようにできず、となるとご自身を責めてしまわれます。

「こんなに痛いなんて、情けないねぇ」

また、ご病気の方に限らず、お年を召した方が段々と以前のように動けなくなり、

「こんなに思うように動けなくなるなんて、情けないことですわ」

とおっしゃる方も。

このようことをお聞きする度に、私は心の中では叫びながら、でも表面上はにこやか(?)に

「情けなくなんかないですよ~。」

と申し上げます。

実際問題としましても宇賀神先生のお仕事を横で見ていまして、情けないと思われるより、お身体に感謝なさっている方のほうが何倍も回復が早い!と実感しております。

そしてそれは、今日お話ししますこんなエピソードにもよります。

以前に宇賀神先生のご相談者さんでいらした女性のことです。

その方は看護師さんをなさっていて、宇賀神先生とのお話の中で、先生にふと尋ねられたそうです。

彼女が勤められている病院に、何らかの事情で片腕の肘から先を切り落とされた患者さんが入院してらっしゃいました。

その方が「無いはずの腕が痛い」とおっしゃるとのことでした。

ですが無い腕がそもそも痛いはずもなく、治療することも叶わず、困っておられました。

すると宇賀神先生は

「ああ、それは無くしてしまった腕の微細身(みさいしん)が痛いんだね」

とおっしゃいました。

まず、この微細身についてご説明申し上げます。

これは気功などの代替療法の世界では有名な考え方(多分)ですが、身体には3つの構成要素があります。

それは

原因身(げんいんしん)

微細身(みさいしん)

粗大身(そだいしん)

です。

原因身とは、いわゆる魂のこと。

その人がこの世に生まれたもと(原因)です。

その人が亡くなりますと、この魂(原因身)があの世に帰ります。

あの世に帰りきれずに、この世に留まったままのものが霊として感じられたりします。

その外側に微細身という、いわゆる氣のボディ(氣でできた身体)があります。

外側と申しましても、氣の世界のことは空間や時間の概念を超えたものとされていますので、実際に私たちが考える「外側」とは少し違うかも知れません。

ですが、よくオーラと呼ばれておりますものはこの氣のボディのことで、見る人によりましては「身体を包むように存在している」という風に見えたりします。

或いは「実際の身体に重なるように存在している」と言えるのかも知れません。

先述のY先生が、宇賀神先生の身体にありました深江のお稲荷さんによる「氣のボディの手術跡」を見つけられたのも、まさに実際の身体の膵頭部にあたるところがくり抜かれていたためです。

そして粗大身とは、この目に見えます実際の身体です。

宇賀神先生は、看護婦さんをなさっていたその女性に、患者さんの実際の身体の腕は切り落としてしまったけれど微細身の腕が残っていて、それが痛むのでしょうとおっしゃいました。

「どうしたら痛がるのをとめてあげられますか?」

とその女性は尋ねられました。

すると宇賀神先生は

「そしたらね、その人の肘から先の腕をまるで在るように持ってあげて、優しくなでて、

”よくがんばってくれたね。ありがとうね。

切り落とすことになってしまって本当にごめんね。

ありがとう。ありがとう。”

と、なでながら言ってあげて。」

と教えてさしあげました。

その女性はその後、病院で痛がる患者さんに先生のアドバイス通りしてさしあげたそうです。

するとその患者さんはポロポロと涙を流され、以後は二度と痛いとおっしゃらなくなったそう。

片腕を無くされた患者さんの、氣のボディだけがとり残された片腕、優しく感謝されて、”愛の手”でなでてもらって、痛みが止まりました。

その患者さんの氣の片腕だけがどうして取り残されていたのかは分かりません。

ですが、愛され、感謝され、労をねぎらってもらって、納得?されたのでしょうか。

その瞬間、実際の手術も含めまして、本当の意味でその患者さんは癒されたのだと思います。

このようなお話をお聞きしますと、例えば風邪を引いてしんどいときでも、

「私の身体、がんばってるよねー。

いつもありがとう。」

と言ってあげたくなります。

さらに申し上げますと、あの高校3年間の腰が痛かった私に、

「情けないなんて思わなくていいよ。そんなに痛いのによくがんばってくれたね。ありがとう。痛くしてしまってごめんね。これからも大事にしていくよ。」

と言ってあげたくなります。(と申しますより、過去の自分に本当に言っております。)

また、このお話をお聞きまして、その患者さんに実際にお会いすることなくその方を救われた宇賀神先生もすごいなーと私はホレ直しました♥(いちいちノロケなくていい?)

宇賀神先生のところへ来られる方達は、先生のお力により不思議と病気など治られる方がほとんどです。

それにプラスしまして、ご自身のお身体をねぎらうように大事に思っていただけますと、効果は倍増!です。

ご病気などに対してましても前向きに取り組まれている方のほうが、ご回復は早いと本当に実感しています。

こんなに皆様のために毎日がんばってくれている皆様のお身体が、「痛い・動けないで情けない」なんて思われてしまう悲しいことが起こりませんよう、お祈り申し上げております。

そしてもし、ご自身の病気などにも関わらず「情けない」なんて悔やんだことない、という方がいらっしゃいましたら、貴方様は本当にお幸せです。

どうかこれからも、そのままご自身を愛してくださいますよう、お祈り申し上げます。

合掌

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では、霊以外のものが霊だと見なされる場合とは

先日、霊以外のものが霊だと見なされる場合がありますと書きました。

それは一体何でしょうか?

 

宇賀神先生のお考えですが、それは「残留思念」だそうです。

 

この残留思念と申しますのも結構やっかいで、生前のその人の”思い”が、繰り返し繰り返し同じ場所で行われるのです。

しかも、あまりいい”思い”ではないことの方が多いように思われます。

それは例えば交通事故で亡くなった方の思念が、何度も何度も事故に合うシーンを再現するのです。

 

私が経験しました、とても印象深い残留思念のエピソードをお話させてください。

そしてこれにはもう一つ、お大師さん(弘法大師 空海さま)のお力の凄さのことも含まれています。

 

数年前に宇賀神先生と私が四国八十八か所巡りをしていたときのことです。

どのお寺さんでしたか忘れてしまいましたが、お参りを終えて車をとめてある駐車場に帰ろうと道を歩いておりましたとき、ふと私の作務衣の袖が道端に植えてありましたヒイラギの枝にひっかかりました。

ちょうど誰かに袖を引っ張られ、引きとめられたようになりました。

「いやー、枝がひっかかったわ。」

と言いながら立ち止まり袖を枝から外していますと、宇賀神先生が、

「今ので事故に合うタイミングから逃れられたんだよ」

と、真面目顔とおふざけと半々でおっしゃいました。

「そんな、まさか~」

と言いつつ、車に乗り込みました。

 

そのお寺さんを車で出発してすぐの、信号のない交差点にさしかかりました。

T字路の突き当りに向かう形で、右折しようとしていました。

一旦停止して右を見て、次に左を見ましたら一台の車が右に向かって走って来ていました。

白い車で、中に乗っている人たちの人数や性別なども把握するくらいの認識をしていました。

その車が右へ通り過ぎて、もう一度右・左・右と確認して、そろーっと車を前進させたときです。

いきなり車が右からやってきて、危うくぶつかると急ブレーキを踏みました。

さっきちゃんと確認して車をスタートさせたはずなのに?

と、冷や汗をかきました。

そして、さっき左から右へ抜けていった白い車が、どこにもいないことに気づきました。

すると宇賀神先生が、

「ほらね、事故に合うタイミングから逃れられただろ?」

とおっしゃいました。

 

うっそーん!(ToT)

 

と、びっくり仰天。

 

「え、あの左の白い車、本物じゃなかったん?」

と、聞きますと、

「そうみたい。」

と、先生。

その白い車は、多分ですがその交差点で事故を起こし(そして多分乗っておられた方達は亡くなり)、亡くなったあとも交差点で何度も事故の様子を再現している残留思念ではないかとのことでした。

 

宇賀神先生でも、それが霊であれ残留思念であれ、初めにパッと見たときにそれが「現実の人間ではない」と一瞬分からない、けれど何かおかしいな~と思う、ということがあるそうです。

今回も白い車が来るのを見られたときも一瞬分からなかったようです。

でもやっぱり、何かおかしいと思ったんだ、とのことでした。

 

あんなにリアルに見えた白い車が本物でなく、右から来ていた本物の車が(意識して右を確認したはずですのに)見えていなかったなんて、ショックでした。

そして冗談半分、本気半分で「事故に合うタイミングから逃れられた」と予言なさった宇賀神先生の第6感。

そして何より、そのときのヒイラギの枝に託して、一瞬引きとめてくださったお大師さんのお力に、驚きつつも感謝致しました。

 

もちろん現実問題として考えますと、あのときヒイラギの枝に私の袖がひっかかったことでは交差点でのタイミングのずれには寄与しません。

ですが、宇賀神先生のおっしゃるように、「あのご縁のお蔭で」タイミングがずれたとしか思えませんでした。

助かりましたー。

 

と、このように、往々にして人が巻き込まれてしまいます「残留思念」は、結構やっかいなようです。

怖かったよー。

お大師さま、ありがとうございました。

 

合掌

 

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ちょっと怖い話も少しずつ

先日まで、宇賀神先生の信条である、「霊や前世の因縁などに心捕らわれないように」ということを書いてまいりました。

では、霊がとりついたことによる災い(霊障)や、”前世の因縁”とは違いますが、”祖先の行ったことにより後々まで祟られる”などというおどろおどろしいことが全くもって世の中に無いのかと尋ねられましたら・・・

残念ながら、答えは「あります」です。

先生は今まで何度もそういうお仕事も引き受けてまいりました。

ただ、やたらめったらそのような理由で不幸がおこるわけではありませんので、「安易に」霊などに結びつけない方がいいですよ、というのが先生のお考えです。

事の真偽が誰にも証明できませんのに、余計な苦しみが増えるだけですから。

 

そのようなおどろおどろしい話、いずれはここにも書いていきたいと思っております。

「ありのままをカミングアウト」するためにこのブログを始めました。

明るいお話をなるべく書きたいとは思っていますが、事実として、このよう暗いお話も避けるべきではないとも思っております。

宇賀神先生が、ご自身の勉強会などでも霊などのお話をあまりされませんのは、一つには「霊を語っても人は幸せになれない」という信条によるものですが、もう一つには、世の中のあまりにも多くの人が新興宗教団体などに“霊”や“祟り”に物事を結びつけられて、それらを祓うために多大なお金をかけていらっしゃるからです。

墓石や仏像を買わされる、などというのはよく聞く話ですね。

金額の桁が違ってきます。

やっぱり、幸せになれるとは到底思えません。

 

そう言えば、少し変わったところでは、以前、電車に飛び込み自殺を図られて、奇跡的に助かった方が宇賀神先生のところへいらしたことがありました。

その方はお若い方でしたが、「僕はもう死んだんだ。なのに何故ここにいるのか分からない。」とおっしゃって、ご家族が困り果てて連れてこられました。

目の前に生きていらっしゃるのに、ご本人さんは「死んでいる」と主張なさいます。

すると宇賀神先生は、

「脱魂症状だね。」

とおっしゃいました。

 

本来は魂は身体にしっかりと結びついています。

そして人が亡くなりますと、魂は身体から離れてあの世に帰ります。

いわゆる霊とは、この魂があの世に成仏できずに地上にとどまったものであったり、また、他のものを霊だと見なされる場合もあります。(詳しくは次回)

先程の方は命をとりとめられましたのに、何かの加減で魂が半分抜けかかってしまったまま元に戻らず、その為ご本人さんは死んだはず、としか思えないのでした。

事実は小説より奇なりと申しますが、私はそんな話はそのとき初めてお聞きしました。

残念ながら半分抜けかかっている魂は私の目には見えませんでしたが。

 

もちろんその方は宇賀神先生のお加持を何度か受けられてご回復なさり、今では立派な社会人となられました。

魂が半分抜けかかっておられる時と、すっかり元通りになられた後では、目の輝きが違いました。(私に理解できることと言えばそんなことくらい)

 

と、私にとりましてはちょっと怖い分類に入りますこのようなお話・・・やっぱり皆様、お聞きになりたいですよねぇ?

え、こんなのはまだまだ怖くないですか?

日本人は怪談好きとか。

皆様のご期待に沿えますよう、事実は事実として少しずつご紹介していきたいと思います。

ですが、「霊を語っても人は幸せにはなれない」という宇賀神先生の信条をくれぐれもお忘れなきよう、お願い申し上げます。

ご自身では、お関わりになりませんよう。

それこそファンタジー映画でも見るような感じで、一歩引いて楽しんでいただけますと幸いです。

 

合掌

 

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前世の因縁?忘れちゃったもーん!

宇賀神先生のもとへいらっしゃる方からたびたびお聞きする質問、

「私が苦しんでいるのは、前世の因縁のせいですか?お祓いしてもらった方がいいのでしょうか?」

先生のお答えは、

「必要ありません。」

 

ご病気や人生の色々な問題で悩まれている方達は、どうしてもお心が弱り、霊に加えて前世の因縁などが原因では、と心配になられます。

普通に幸せに暮らしておられる方なら、こんなこと考えもつかないでしょうけれど、つらいことが続きますと心も弱ってしまいますね。

心のスタミナがなくなります。

 

ですが、この因縁という言葉、もともと佛教の用語なのですが、日本では少々一人歩きしているように思われます。

悪いほうの意味あいでのみ使われていることの方が多いように見受けます。

もともとは、お釈迦さまが

「この世は因と縁によって成り立っている。」

とおっしゃったのです。

ものごとには原因があり、その縁によって生まれる結果がある、と。

「原因と結果」

ごくごく当たり前のことで、何も不思議なことではありません。

 

さらに申し上げるなら、佛教の輪廻転生という世界観が正しいとすれば、全てが前世からの因と縁により、今世の私は私としてここに生まれたのでしょう。

そうです、「前世からの因縁により、今の私がここに在ります」となります。

そしてそれは不幸なことだけでなく、幸せなことも含めての、人生の全てを含めての話なのでしょうね?

そのような今世の人生のもといとなる前世からの因縁、お祓いしたってとれるはずありません。

とれてしまいましたら、ここに「私」が存在する起源まで無くなります。

 

そして、そんな大事な大事な「前世の因縁」、どうして私たちは覚えていないのでしょうか?

 

それは、

「覚えておく必要がなかった」

からだと思います。

あるいは、

「忘れるべきだった」

からだと。

 

宇賀神先生はよく、

「この世はお修行の道場」

とおっしゃいます。

「あの世に持っていけるのは魂だけ」

「だから魂が打ち震えるほどの喜びをたくさん感じて、魂を肥え太らせて、あの世に帰るんだ」

と。

 

私ならば今世、「松岡綾野」としてこの世に命を授かり、結婚して宇賀神姓になり、今ここにいます。

綾野として私の両親のもとに、この時代・この国・この世に生まれた宿命は変えられません。

ですが運命は、私自身の意思により人生を切り開いて、変えていけます。

そして今の宇賀神綾野としての命を生ききって、将来は佛様の御国に帰ります。

帰るときの乗り物である魂を磨くお修行をして、ぴっかぴかのすごくいい乗り物にして、佛様の御国に帰るつもりです。

 

この世に「行ってらっしゃい」と送り出してくださった佛様が、私に、あるいはほぼ全人類に、前世からの因縁の記憶を忘れてしまうようにして送り出されたのは、今世のお修行には何の必要もなかったから。

前世の因縁の記憶など、今世のお修行の邪魔なのです。

もしもその記憶が必要であるならば、佛様は私に持たせたままこの世に送り出してくださったはず、と思っています。

必要がないのですから、捕らわれる(執着する)必要はありません。

今世は「今世の私」に心を定めて、お修行するのです。

 

もしもヘンな“自称・霊能者”に、「アナタの不幸・病気は前世からの因縁です!」

と言われましても、

「あっ、そう。」

「だから何?」

と言える強さを、私は宇賀神先生から教わりました。

「そんなことどうでもいいよ。」

と。

 

それよりも、私は今の人生を輝くように生きたい。

「人生を謳歌する」という言葉が大好きです。

喜びも、悲しみも、幸せも不幸でさえも、今こうして生きているからこそ味わえる。

(本音を申しますと、悲しいのや不幸はあんまりいりません。)

輪廻転生したって、今の宇賀神綾野の人生は二度と来ません。

宇賀神先生のおっしゃるように、「魂が打ち震えるような喜び」をたくさん味わうのがお修行だなんて、なんて素敵なんでしょう!

いっぱいいっぱい色んなことを味わって、魂をぴかぴかに磨いて、佛様の御国に帰ったとき、佛様に「よくお修行したね」って褒めてもらおう!

「前世の因縁?」

どうでもいい!

だって忘れちゃったもーん!

 

合掌

 

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使い魔と守護霊団と その3

(その2のつづき)

 

宇賀神先生はいつも、

「霊はゼロ以下、マイナスの存在だからね。

プラスの存在である人間が関わってもエネルギーを取られるだけで、何ひとついいことないからね。

マイナスの存在の霊からは何もいいものは生まれない。」

と、おっしゃいます。

ですので、特に霊の話を持ち出された場合、ほとんど相手になさいません。

 

そして幸か不幸か?、目に見えない霊が原因で自分は今苦しんでいる、と思われていらっしゃる方でも、ほとんどの場合、宇賀神先生が本当に霊障だと思われることはありません。

大概は「この苦しみは自分のせいじゃない」と思いたい方の作られた心象世界だったりします。

きつい言い方ですが、原因を現実や自分の中に求めるより、何か他のせいにした方が気が楽なのです。

 

大切なのは、目の前の現実です。

こんなに色々が見える宇賀神先生でさえ、ご病気や人生に関するご相談を受けた場合、目に見える現実世界が9割以上、目に見えない世界の問題は1割以下、の割合で事の対処に当たられます。

ご病気の方ほど、心が弱られて「これは霊や前世の因縁のせいでは」などと不安になられますが、先生は、

「病気は病気として治しましょう」

とおっしゃいます。

目の前の不具合を安易に目に見えない世界の原因に結びつけるのではなく、現実の中に病気や問題の原因と結果を求める。

ごくごく「あたりまえ」に物事をとらえます。

 

そして、宇賀神先生が「この人は本当に霊が見えている」と感じられた方には、

「霊なんかのマイナスの存在には捕らわれないように」

と、アドバイスなさっています。

「山や木の景色が見えるのと同じと思って、捕らわれない、人にむやみに語らない、無視するんだよ」

と。

街でたくさんの人にすれ違いますが、いちいち通りすがりの人に心捕らわれたり関心など持ちませんよね。(よっぽどのイケメンでない限り?)

いちいち、そこら辺にいるどうでもいい霊など、気にもかけなくていいのです。

そう、よく「霊が見える」とおっしゃるのは、低級なものが多いのです。

宇賀神先生のおっしゃるマイナスの存在ですね。

気にかけるから、そのマイナスの存在が余計に近寄ってきます。

寄ってこられましても、自分のプラスのエネルギーを吸い取られて運気が下がるだけですから、人生の損です。

人生になぁんにも益しない存在など、無視しましょう。

 

宇賀神先生は前述のフェリーの中でお会いした“とても鮮明に見えた”女性にも、

「見えてしまうものはしょうがない、と思って気にしないように」

とアドバイスなさっていました。

そして、

「霊的なことを標榜している宗教団体には関わらないように。

いいように利用され、霊なんかに関わるうちに最後は精神的にボロボロになるだけだから」

と。

 

宇賀神先生が私によく話してくださる使い魔や守護霊団のことは、私にとりましては「とても愉快な仲間たち」という感じです。

聞いていても楽しい。

想像しても愉快。

そして明るい、と思います。

実際に人々のお役に立っていますし、頼もしい存在です。

ですので私たちはよく笑いながら守護霊団の話などするのですが、

笑えない・楽しくもない存在でしたら、

そんなものは、無視します。

 

私の人生はもっと素晴らしいことのためにつくられた、と信じています。

世の中の素晴らしいもの、美しいもの、愛しいもの、で私の心の中をたくさん満たしていきたいと思っています。

 

合掌

 

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使い魔と守護霊団と その2

(その1のつづき)

 

島原から熊本までのフェリーのなかで、

「おじいさんの後ろにいる人たち、誰?」

と隣に座られた女性に唐突に尋ねられました。

私は

『おじいさんって、誰?』

と思いましたら、なんと宇賀神先生のことで、それはそれはもう大ショックで。

なんてことはさておき、先生の後ろを見ましてもどなたもおられず、その女性をもう一度見ましたら、

「おじいさんの後ろにね、鎧を着たひとや色んな格好の人たちがたくさんいて、人間じゃないのもいるみたい。

で、その人たちの手が空中に伸びて、その手の先がどこかに消えてるんだよね。

それで色んなのの一番後ろに荒神さんのとこで見るような大きな光の玉がある。

あの人たちは何なの?」

と尋ねられるのです。

ああ、この女性は宇賀神先生の後ろの守護霊団を見てらっしゃるんだ、と判りました。

と同時に、先生のおっしゃっていた「守護霊が団体でいる」というは本当だったのだ、とも。

 

すると宇賀神先生はその女性に答えました。

「それはね、さっきフェリーに乗る前に遠隔のご祈祷の依頼があってね、わしがやったことを後ろの人たちが助けてくれているんだよ。

その人たちの手がピューと伸びていってね、その依頼者を治してくれてるんだよ。

手の先がその依頼者のところに行ってるからね、消えてるんだと思うよ。」

こんな説明をしましても初めての人に分かられるのでしょうか、と私は思いましたが、先生はお話なさってました。

ですが、ここまで鮮明に先生の後ろの存在を見られた方は後にも先にもこの方だけです。

先生がどんなに荒唐無稽に聞こえることをご説明なさっても、多分、その女性が見ておられる光景と合致している訳ですから、信じられるのでしょう。

するとその女性は言いました。

「私、今まで3回死にかけてるんだ。その度にどんどん見えるようになっていって。

自分がいつ死ぬか分からないから、後悔しないよう聞きたいことは遠慮しないで聞くことにしてるんだ。」

事故や流産で危うく命を落とされかけたそうで、なかなか、大変つらい人生を歩まれているようでした。

そして先生に尋ねられました。

「私の後ろには何がついていますか?」

と。

 

何と驚いたことに、ここまで宇賀神先生を含め他人さんの守護霊などは鮮明に見られますのに、ご自身のは何一つ見られないのだそうです。

不思議でした。

いえ、ですが「他人のことはよく見えるけれど自分のことは見えない」というのは、何も守護霊に限ったことではありませんね。

どうしたって自分のことを客観視するのは難しいもの。

目に見えない世界は目に見える世界の延長線上であり、と申しますより、重なるように同じところに存在し、何も特別ではなく、理もよく似ているように思います。

 

宇賀神先生はその女性に、先生の感じられたことを色々とご説明なさっていました。

その女性は、このような言い方をしましては失礼ですが、あまり幸せに輝いたお顔をなさってはいませんでした。

女性ながら私たちのキャンピングカーが軽自動車に見えるほどの大きな大きな仕事用トラックを運転しておられ、血色もあまりよくありませんでした。

 

この女性の場合はご自身がこうなりたくて守護霊などが見られるようになったわけではありませんが、おおよそ霊や守護霊、前世、あの世のこと、また時には神様佛様のことも含めまして、目に見えない世界のことに興味を持ち、心とらわれている方達で幸せな人生を歩まれている方は、あまり存じません。

霊能者と言われる人も含めてです。

人相にも、どこか陰りがあります。

人相に陰りがありますと、人生にも陰りが出てきます。

宇賀神先生のすごいところは、いろいろなことが視える・聞こえる・話せる・出来る・霊能者ですのに、暗いところが無いんです。

私が思いますのは、先生はそういう不思議な世界と現実世界とのバランスの取り方が絶妙なのかな、と。

目に見えない世界は、ある意味、魅惑的です。

ですがこの魅惑という字は、「魅入られて惑わされる」と書きます。

目に見えない世界に魅入られた人は、心を惑わされてしまいますので、何でも霊や因縁や前世や神佛などに結びつけて考えられます。

その前に考えないといけない現実問題をそっちにのけて、目に見えない世界に原因と解決策を求められます。

良いことも悪いことも含めて。

 

良いことも、

悪いことも、

含めてです。

 

(その3につづく)

 

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使い魔と守護霊団と その1

前回まで宇賀神先生の使い魔のことをお話しました。

先生は以前から「わしには使い魔がいるんだよ。」とおっしゃっていましたが、それに加えて「守護霊団もいるんだよ。」とも、よくおっしゃっていました。

 

守護霊とは、パーソナリティの消えた霊体が人間を守るために、その人が生まれたときからついている、と考えられています。

通常は1人の人間に対して2~3体の守護霊がついているそうですが、中には少し運の強い人などは4体ほどついていることもあるそうです。

ですが宇賀神先生は、「わしには守護霊が団体でついているんだ。」と、よくおっしゃっていました。

2~3体どころか、数えられないほど多くの守護霊”団”がいる、と。

「またまた~」と思ったアナタ、分かります、そのお気持ち。

「またまた宇賀神先生ってば、自分だけ特別なように言っちゃって。」って。

だって目に見えませんものねぇ。

先生も証明できませんから。

 

ところが、私もびっくりしたある出来事があって・・・それ以来「やっぱりホントだったんだー!」と思うようになりました。

と申しましても、自分の旦那さんですから、何も宇賀神先生のことを疑っていたわけではありません。

ただ、このような事は自分の心象世界のことでもありますので、自分の目に映ったものが必ずしも他者と一致したりしないのです。

先日お話しました、受像機の精度の問題や、そもそも何の電波(?)を拾う受像機なのか、という問題もあります。

その場ではどちらの意見が正しいなどの判断も難しく(あるいはどちらも正しい・どちらも間違っている、という場合も)、これはもう本当に現実との整合性に照らし合わせて経過(結果)をみていくしか、最終結論はでません。

ただ、宇賀神先生と結婚してから8年たちますが、先生が何か「普通の人の目には見えないもの」をご覧になって判断なさったことは、後々正しかったと判ることがほとんどです。

そこらへんの精度の高さは凄いなーと、いつも感心しています。

 

さて、そのびっくりしたこととは。

宇賀神先生と私が九州に湯治に行ったときのことです。

もちろん先生の大好きなキャンピングカー「サンダース号」で行きましたよ。

長崎の雲仙に行った帰りに熊本に行こうと、島原湾を横切るフェリーに乗りました。

そのフェリーに乗る直前、港で車に待機していましたときに、遠隔の病気平癒の御祈願をお預かりしているご相談者様から(ちょっと詳しい箇所は忘れてしまいましたが)「今、身体の~~が具合が悪くなっています」という旨のご連絡が入りました。

先生が「分かりました」と、その場でその方のためにお加持なさいました。

先生のお加持と申しますのは、そのような急な場合は、

「手に印を結び」

「口に真言を唱え」

「心に佛を念じて」

気合い一閃、エイっ!とばかりになさいます。

一瞬のことです。

「そんなんでホントに効くの~」と思われたアナタ、お気持ち分かります。(もういいって?)

でも不思議と・・・効くんですねぇ。これが。

 

そして私たちはそのままフェリーに乗り込み、船の座席に座りました。

宇賀神先生の隣に座っていますと、ほどなくして1人の女性が私の隣の席に座られました。

その女性が「すみません。ちょっと聞きたいのですが」と、声をかけてこられました。

「はい。何ですか?」と返事しますと、

「おじいさんの後ろにいる人たち、誰?」

と尋ねられました。

『”おじいさん”って、誰?』と思って私たちの後ろを振り返ると、どなたも座ってらっしゃいません。

『・・・って言うことは、おじいさんって、もしかしてウチの旦那さんー!!!???』 ←びっくりしたのって、これ?(・・・違います。(T―T))

 

(その2に続く)

 

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使い魔 その2

また、(宇賀神先生が昔飼われていて、今はもう死んでいる)この猫ちゃんたち、(現実に生きている)ネズミ退治に活躍したこともあります。

先日もお話しました”視える・聞こえる”Oさんのおばあちゃん。

彼女の以前のお家は戦前からの長屋でした。

そのお家にネズミが出て、ネズミ捕りを仕掛けても賢いのかなかなか掛からず、困っておられました。

宇賀神先生が、「じゃあ、わしんとこの猫を行かせるから。」と使い魔の猫を行かせました。

しばらくしてOさんのおばあちゃんが、

「先生、助かったわー。猫がネズミを追いかけまわしてな、ネズミが梁を走り回っていたかと思うと、ヨロヨロ~ポトリとネズミ捕りの上に自分から落ちてなー。退治してくれましたわ。来てくれた猫は3匹でな、白黒と、茶色と、茶色と白のキジ猫でしたわ。」

と、おっしゃったそうです。

先生が何匹の猫を行かせるか伝えてもいなかったのに、おばあちゃんは数と、猫の模様まで言い当てました。

「へー、Oさん、そこまで見えたの。大したもんだ。」

と、先生もOさんの霊感の正確さにびっくりなさったそうです。

私はそのお話を聞いて、Oさんの霊感の正確さもそうですが、猫ちゃん達の”生きているネズミにまで影響を及ぼす”力と、そして何よりそれを使役する先生のお力にびっくりしました。

 

先生いわく、霊感なんて、直観の子細なものですから、見間違いや多少のブレなどよくある話だそうです。

それをここまで正確に見る人は、なかなかいないそう。

いつも宇賀神先生が「わしには使い魔がおってな。」とおっしゃっても目には見えませんから、以前はホントかな~と思っておりました。

ですが先生のなさったことと、私もよく知っているOさんのおばあちゃんの見られたものが”打ち合わせもなしに符合していた”と聞いて、ホントかも~と思うようになりました。

 

それに今ではごくごくたまに、私も家の中をシュッと走る白い影を見るようになりました。

大きさから言って猫ちゃんかな、と思っています。

びっくりしましたのは、先日泊まりに来てくれた先生のお弟子さんのY君の目に映った「シュッと走る白い影」を2人同時に見たことです。

Y君は影そのものを見て、Y君と向かい合っていた私はY君の瞳の中に映った白いものを見ました。

人様の瞳を介して見るなんて、こんなこともあるのかと面白かったです。

 

さてさて、昨日今日と今までも、さんざん”視える・聞こえる・感じる”などとおとぎ話のような不思議なこと書いてきましたが、「実はこの目に見えない世界にはあんまり魅入られない方がいいよ」という話を、”もっと見えた人”のことをご紹介しつつ、明日したいと思います。

何をいまさら、矛盾してる?

ですが、霊能者のくせに、

「霊の話をしても人は幸せになれないから。霊の話はしない。」

とおっしゃっているのは、宇賀神先生ご自身なのです。

 

合掌

 

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