人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その2

これはまだ宇賀神先生が仙台に住んでいらした頃のお話ですから、今から30年以上前のお話になります。

 

先生は当時仙台でも勉強会をなさっていました。

そこに参加してくださってた会員さん達をお連れして、青森県の恐山に行こうということになりました。

恐山は、青森や広くは岩手、秋田にお住まいの人達も信仰なさっている霊山です。

私はあまり詳しくは存じませんが、恐山は「あの世への入り口」と信じられているようです。

宇賀神先生がおっしゃいますには、山の上に「地蔵堂」と申しますお堂があるのですが、恐山を信仰なさっている人達は、亡くなられましたら皆、地蔵堂に行く(地蔵堂を通ってあの世へ行く?)と信じておられるようです。

 

恐山は名前が何だか恐いようですが、実際にも(私にとりましては)恐いところです。

私も10年ほど前に先生と一緒に行ったことがございます。

もちろん人々の信仰なさっている霊山ですから、聖地ではありますが、やはりあの世への入り口でもあり、まだまだ修行の足りない私にとりましてはやはり恐いような気がいたします。

山の上に「賽の河原(さいのかわら)」と呼ばれる場所もございますが、霧もよく出るような山の天気のなか、やはりどこか寂し気で(恐ろし気で)肌寒いような場所でした。

昔の人達はあの景色をご覧になり、賽の河原というものが本当にあるとしたらこんなところなのだろうと思われ、その名前をつけられたのでしょうか。

 

さて、宇賀神先生は当時の仙台の会員さん達をお連れして、「あの世の入り口」を皆さんにご紹介しに恐山へ行かれました。

恐山には宿坊がございますから、皆さんで泊まられたそうです。

夜になり、会員さん達とともに恐山に来る幽霊を見に出かけられました。

 

夜の霧の中、2本の電灯に照らされる道の脇で、皆さんとともに霊が通るのを待たれました。

やはり、さほど霊感のない方でも「見えやすい」環境があるそうです。

白い霧が電灯にボンヤリ照らされておりますと、そこを通る霊も見やすいのですとか。

うーん、と申しますより、恐山でしたらきっとどなたでも見えてしまいますねぇ。

そんなような霊山です。

 

はたして皆で見守っておりますと、白い霧の中、ある時スーッとさらに白いような暗いような影が通ります。

「あっ。」

と、やはり、ほとんどの方が気づかれるそうです。

「先生、今、霊が通りましたよね。」

と、皆さんおっしゃったそうです。

 

それからしばらく見続けておりますと、間隔を空けまして何度か霊の影が通りますのを皆さん目撃なさいました。

ある時などは、一体ではなく三体の影が同時に通ったそうです。

不思議がる皆さんに宇賀神先生は、

「たぶん今のは一家心中だね。」

と、おっしゃいました。

そして、陸奥新報でしたか、他紙でしたかは忘れられましたが、やはり翌日の地元紙に3人の一家心中の記事があったそうです。

 

他にも色々と恐くて楽しい?恐山エピソードを宇賀神先生からお聞きしてはいるのですが、それをお話しいたしますと、本当にただの怪談話になりそうで、この暑い夏にぴったりですね。

以前マスター・スジャンタのお話(本物のテレパシーを使う人)を書いておりましたときも「そんな予感」がしましたら、マスター・スジャンタらしき影がスーッと廊下を通られたのですが、このような怪談話を書いておりますと、また何かが来そうで、・・・って、本当に来るのですからマジでイヤです。(T-T)

まあ、来られましても、皆さん控え目に「来てますよ~」と申しますようなささやかな合図?を送って来られるだけですので、いいのですが。

怪談話をお聞きになりたい方は、ぜひ昼間にお会いしましたときにお尋ねくださいませ。

明るい日中にお話いたしましょうネ。

 

話を本筋に戻します。

 

とにかくこのように、恐山を信仰なさっている人達は、亡くなられますと、恐山へ来られます。

恐山が目的地ではなく、恐山を通ってあの世へ行かれるのかも知れませんが、とにかく来られるのだけは確かなようです。

 

ただそこで、ふと思いますのは、恐山を信仰なさっている人達は確かに来られるようですが、恐山を全く知らない、たとえば大阪人の私などは死んだ後に恐山に行くなんて、思ってもいないのです。

そもそも、宇賀神先生にこのお話をお聞きするまで、「恐山があの世の入り口である霊山」だなんて、全く知らなかったくらいですから。

ですので多分、私は死んでも恐山には行かないと思います。

 

当たり前と申しましたら当たり前かも知れませんが、これはある意味すごいことだとは思いませんか。

人は、その人が生前信じていたように、亡くなった後そこへ行くのです。

恐山へ行くと信じていた人は恐山へ。

信じていなかった人は、またきっと違うところへ。

恐山は、必ずしも地球上の全ての人が亡くなった後に行く(あるいは通過する)ところではないのです。

恐山を信じている人達のみ、行くところなのです。

 

この考え方が間違っていませんでしたら、恐山へ行くと思ってらっしゃる人が亡くなりましたら後に恐山へいかれますように、

たとえば、阿弥陀さまを信仰なさっている人は、阿弥陀さまのお浄土へ、

たとえば、沖縄のニライカナイ(沖縄に伝わります理想郷・楽土)を信じておられる人は、ニライカナイへ、

行くことになるのでしょうか?

 

そしてたとえば、

私はこの墓に入る、と思われた人は、そのお墓に入るのでしょうか?

昨日のお話でご紹介しましたお釈迦さまのお言葉のように。

 

(その3へつづく)

 

合掌

人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その1

いつもこのブログページを書き上げましたら宇賀神先生にチェックしていただいているのですが、昨日の記事をご覧になった先生が、「このことも追記しておいて」とおっしゃったお話がございます。

それは、お釈迦さまとお釈迦さまのお弟子さんでいらっしゃいますアナンとの説話です。

 

アナン、またはアーナンダはお釈迦さまのお弟子さんの中でも「多聞第一(たもんだいいち)」と言われ、いつもお釈迦さまのそばにおられ、数多くのお弟子さん達の中でもお釈迦さまのお話を一番聞かれた方です。

ですのでお釈迦さまが亡くなられた後、お経の編纂をすることになりましたとき、必ずアナンに「これはお釈迦さまのお言葉として正しいかどうか」と申しますことを尋ねたそうです。

 

そのアナンがあるとき、お釈迦さまとの遊行の旅の途中で、道の脇にお墓を見つけられました。

お墓と申しましても紀元前の北インドのことですから、簡素な土饅頭に石が載っておりました程度でしょうか?

とにかくお墓をご覧になり、アナンはお釈迦さまにこう尋ねられました。

 

「このお墓の中に亡くなった人(の霊)は、いるのですか?」

と。

 

するとお釈迦さまは、こう答えられたそうです。

「あるという墓にはあって、ないという墓にはない。」

と。

 

お釈迦さまのこのお言葉を聞き、アナンは悟られたのですとか。

 

・・・いえ、ワタクシはさっぱり悟れないのですけどね。(^-^;)

一体どうしましたらお釈迦さまのこの簡素すぎるお言葉から悟れるのでしょうかと思わなくもないですが、とにかくアナンは悟られたそうです。

 

宇賀神先生がおっしゃいますには、

「自分は死んだらこの墓にいる、と思って死んだ人はそこに留まるし、自分は死んだら天に帰る、と思って死んだ人はこんな小さな墓には留まらない。

つまり、そんないい加減であやふやな霊(の在り方)などに心とらわれず、お修行に励みなさい、とお釈迦さまはおっしゃりたかったのだろうと思うよ。

お釈迦さまは霊の存在を否定なさった、というのが公式見解?で、雑多のことに心とらわれず、執着せず、ただただ『サイの角のようにただ独り(修行の道を)歩め』とおっしゃっていた、というのが通説だな。」

とのことです。

 

お釈迦さまの直接のお言葉は、有名なものですと「スッタニパータ」や「ダンマパダ・法句経(ほっくきょう)」と呼ばれ、岩波文庫からも「ブッダのことば」や「ブッダの真理のことば」などが出版されているようです。

(正直に申し上げます!私は全部読んで“いません”。ごめんなさーい!)

とても簡素なお言葉の羅列ですが、多分にその真意は、凡人の私には到底理解できないほど奥深いものなのでしょうと思います。

きっと色々な解釈がなされ、偉い学者さま達はそれぞれに主張なさり、それは時に相反するものであるとも思われます。

 

ですので、これはあくまでも“宇賀神先生の”解釈です。

 

宇賀神先生は、このお釈迦さまのお言葉を、

「死んだ後の霊はここにいるのかいないのか、との問いも答えも何ら真理(佛法)を導きだすものではない。

そのようなことはどうでもよいことだ。

そのようなことに心とらわれず、一心に修行しなさい。」

というふうに解釈なさいました。

 

お釈迦さまのお言葉の「その先の真意」が、宇賀神先生の解釈通りでありましても、それをお聞きしましても残念ながら、私はいまだ悟りには至っておりませんが・・・。(もちろん宇賀神先生もネ( ̄∇ ̄))

ですが、「あるという墓にはあって、ないという墓にはない」との文字通りのことに関しましては、実感したことがございます。

つまり、人は生前に自分が行きたいと思っていたところに亡くなった後行くのでは、と思うようなことです。

昨日お伝えしました私の実祖父のことのみでなく、他の例を鑑みましても。

 

(その2につづく)

 

合掌

「千の風になって」は本当でした、というお話。

今日は、少し前に流行りました「千の風になって」は本当でした、というお話をいたしましょう。

お盆が近いからと申します訳ではありませんが・・・。

 

8年ほど前、私の母方の祖母が亡くなりました。

この大正生まれの祖母は、結婚前(もちろん戦前です)は、ものすごいお金持ちのお嬢様で、大きなお屋敷に住み、日本ではまだ車が珍しい時代にフォード社の高級車に乗せてもらっておりました。

その頃、車があまりにも珍しく、乗っておりますと道を歩く人達が手を振ってくださったのですとか。

外国映画のお姫様のようですね。

 

その祖母が結婚しましたのは、やはりエリートサラリーマン。

姓を田畑と申します。

2人はなんとハイカラ(もはや死語?)なことに、アイススケート場でお見合いをしたのですって。

相思相愛だったようで、新婚生活もまた、幸せで裕福なようでした。

 

ところが、無残にも第2次世界大戦が2人の仲を引き裂きました。

私の母方の祖父は徴兵され南方に送られることになり、その移動途中、どうやらフィリピンのルソン島沖で、船が沈んで亡くなりました。

そして死亡通知書とともに帰ってまいりましたのは、遺骨代わりの一片の木片でした。

まだまだ新婚夫婦で仲が良かっただけに、祖母の悲しみはどんなにか深かったことでしょうと思います。

そして、あんなに裕福な実家が何故か祖母のことを受け入れてくれず、祖母は私の母を含む3人の子供を抱えて極貧の生活を強いられました。

「女三界に家無し」との言葉そのものに、祖母の人生はつらいものになりました。

 

苦しい生活のなか祖母は何とか生き延びてくれて、お陰で私の母も無事育ちました。

戦後になりまして、私が生まれたときからずっと「おじいちゃん」だと思っておりました男性と出会い、再婚します。

姓を佐山と申します。

再婚しましてから10年以上もたち(戦争が終わりまして12年ほどでしょうか)、ようやく「今日食べるご飯には事欠かない」ような暮らしになりました。

それからは、普通に幸せに暮らしてくれたのでしょうとは思って(願って)いますが、やはり最初に結婚しました田畑の祖父のことも忘れられないようでした。

私が大人になりましてから発見したものですが、祖母は田畑の祖父の形見のものを、タンスの中に大事にしまっておりました。

 

祖母が亡くなりましてから叔父が喪主となり、京都の大谷さん(大谷本廟)に納骨することにいたしました。

叔父は佐山姓で、祖母が再婚しました後に生んだ子供です。

納骨しました後、大谷さんの境内を歩いておりますと、ふと戦没者慰霊のためのお堂が目に入りました。

そのとき私は、胸がぎゅうっと、懐かしいような、悲しいような、どこか郷愁にも似た思いにとらわれました。

すると宇賀神先生が、

「あっ、おじいちゃんがおばあちゃんを迎えにきている。あのお堂のところで軍服着て敬礼してる。細面の人だ。」

と、おっしゃいました。

私はびっくりしました。

確かに、祖母が戦後再婚しました佐山の祖父は、がっしりとした輪郭の顔ですが、戦争で亡くなった田畑の祖父は、細面でした。

 

ですが、大谷さんは佐山の家の方のお寺になります。

しかも、田畑の祖父のお骨は、無論のこと田畑の家のお墓にも、日本の国土のどこにも無く、はるか太平洋の海の中に消えました。

その田畑の祖父が、大谷さんに現れるなんて。

しかも戦後70年近く(8年前当時)たってから。

ですが、私が懐かしさを感じ、それを言葉にする前に宇賀神先生が「おじいちゃんが来た」とおっしゃった訳ですから、これもまた「事前打ち合わせのない符合の一致」だと思い、この感覚は間違いなく祖父が来たためだったんだ、と信じられました。

 

祖父は、亡くなってからずうっと、祖母のことを見守り続けていてくれたのでしょうか。

そして、70年近くも待って、迎えにきてくれたのでしょうか。

私はもちろん、大学生の頃までは実の祖父だと信じておりました「佐山のおじいちゃん」も大好きでしたから、少々思いは複雑ではありますが・・・まあ、ですが、亡くなりましたら皆「佛さま」です。

あの世で仲良くやってくれているものと思うことにいたしましょう。

 

そしてこのことがありましてから、しばらく前に流行りました「千の風になって」は本当だったんだ、と思うようになりました。

「私はお墓の中にはいません。千の風になってあの大きな空を吹きわたっています。夜は星になって貴方を見守る。」

と申します歌詞は、真実でした。

遥か太平洋の海の上で命を落としました祖父の骨は、海の藻屑と消えてしまいましたが、その距離を超え、70年近い時を超え、祖父は祖母を迎えに来てくれました。

 

ただ、もう一つ考慮に入れたいなと思いますのが、祖父が現れましたところが、「戦没者慰霊のためのお堂」だということです。

お墓にはいないけれど、やはりお墓のような「拠るすがら」は必要なのかしらとも思いました。

あるいは大切なのは拠るすがらの“器”ではなく、そのお堂を見ましたときに、ふと祖父への思いを馳せる私たち身内の心そのものが、拠るすがらとなるのかも知れません。

 

真実は佛さまのみぞ知る、ですね。

 

さて、こんなに奥深く真実を歌っております「千の風になって」、宇賀神先生もとっても大好きな歌です。

それなのに、

「私のお墓の前で泣かないでください~。お宅のお墓は隣です~。」

などという替え歌をうれしそう~に歌うんですよ♥なんて、歌を作られた方に申し訳なくて口が裂けても言えません。( ̄∇ ̄)

 

合掌

龍の背中

今日はちょっとだけ、だんじり(地車)のご紹介を♥

 

昨日お伝えしました深江のお稲荷さんのだんじりの「舞い舞い」の動画です。

まだ序盤で、紙吹雪も少ないときですが。

しかも、スマホ撮影→転送のため、かなり画像も荒いです。

そして、一瞬です。

こんな雰囲気なんだ~とだけでも、ご紹介できましたら幸いです。

 

深江のお稲荷さんのだんじり「舞い舞い」

クリックしてくださいますと、再生できましたでしょうか?

(再生するためのボタンのようなものが画面の下の方?に出てきましたでしょうか。)

万が一できないときはどなたかお教えくださいませ・・・って、教えていただいても改善できなかったらどうしよう。

私のパソコンでは再生できているのですが・・・機械オンチでごめんなさい。

 

そして、こちらは向こう側へ帰るだんじりの写真です。

ですのでこの写真ではだんじりのお尻が見えているのですね。

龍の背中
龍の背中

 

今日は龍は、金色に見えたと申しますよりは、存在を感じました。

この写真で申しますと、ちょうど撮影しております私が龍の背中(たてがみの部分)の上に乗っておりますような、そんな立ち位置です。

どうでしょう、この写真を撮影しておりますとき私は、金色の光をまき散らしながら向こうへ波打つように進んでいく大きな龍の背中を鳥肌とともに感じておりました。

 

宇賀神先生は、このような感じ方・見え方は感性の問題だから、正しいとか正しくないとかはないんだと思うよ、とおっしゃいました。

 

そう、感性。

同じものを見ましても、同じ場所におりましても、五感や心で感じるもの・感じ方は人それぞれですものね。

なるべくでしたら私自身の感性は、素晴らしいもの、美しいもの、などに敏感でありたいと思います。

 

私の撮影では到底だんじりの迫力や楽しさを撮りきれませんでしたが、ちょっとその雰囲気だけでも感じていただけますと幸いです。

 

***

ひとつ訂正させてください。

昨日は『お稲荷さんのお祭りで「茅の輪くぐり」がございます』と書きましたが、今日見ますと、「菅の輪くぐり」となっておりました。

昨日の分も修正しておきます。

申し訳ありませんでした。

ちなみに、深江は昔は菅笠作りが盛んで、人々は深江で菅笠を買い求め、それをかぶって「暗がり峠越え(くらがりとうげごえ)奈良街道」を通って、お伊勢さんへお参りに行っておられたのですって。

今日その菅の輪をくぐりますと、菅の青い香りがとても心地よかったです。

***

 

合掌

黄金色の龍

3日間ほどご無沙汰いたしております。

出張方々、出かけておりました。

更新をお休みしておりました間にもブログページを訪れてくださった方達がいらして、とてもありがたく存じております。

 

この場をお借りし、御礼申し上げます。

 

さて、このブログに度々登場していただいている深江のお稲荷さん、私はつい親しみを感じて“様”ではなく“さん”付けで呼ばせていただいていますが、本当はお茶目なヤキモチ焼きさんでもおしゃべり好きさんというだけでもありません。

それぞれの神様によってまた色々な性格?の違いを感じたりもしますが、深江のお稲荷さんは本当にお心の温かさと広さを感じられる神様です。

お参りさせていただき、手を合わせ目をつぶりますと、まぶたの中に温かな太陽が見えるようです。

 

さて、今日7月31日と8月1日は、そんな深江のお稲荷さんの夏祭りです。

こぢんまりとした境内ですが、いくつかの露店と、深江の昔ながらの“菅笠”(すげがさ)のミニチュアを作って売っておられたり、最近では“菅の輪くぐり”などもなさっています。

8月1日には、だんじり(地車)の巡行もあります。

私はこのだんじりが大好きなのです。

毎年、見に参ります。

 

特に、だんじりの最後の見せ場が好きです。

ちょうど神社のすぐ手前の大通りの交差点で地元の人が「舞い舞い」と呼んでおられる、だんじりが神社に帰り着く直前の、迫力ある最後の見せ場です。

交差点で信号が変わったスキにだんじりが大通りを大急ぎで渡り、渡りました先で急ブレーキをかけ、紙吹雪をまき散らせながらだんじりの上と下で人々が踊りさわぎ、音と光とともにそれはそれは賑やかな見せ場となります。

それを何度も繰り返すのです。

 

あれは数年前の夏祭りでした。

私はいつものようにその「舞い舞い」を見に行きました。

そしてそこで生まれて初めて見ましたものは、「黄金色の龍」でした。

 

私がおりました交差点の向こう側にだんじりがおりました。

交差点を往復するのが終わりましたのか、ちょっと休憩なさっていましたのか、ずっと向こう側にとどまる形でだんじりがおりました。

向こうでライトに煌々と照らされて、ちょうど私から見まして左側に正面を向けております形でだんじりがおり、お囃子とともに人々が踊り、紙吹雪が舞っておりました。

そのライトがオレンジ色に近い光(白熱電球)のせいだったのかも知れません。

だんじりと、その周りが金色に輝いて見えました。

 

そして、あっと気がつきますと、だんじりと重なるように大きな大きな黄金色の龍の頭が見えたのです。

だんじりの龍の頭に続いて、大通りに沿うように右に向って大きく波打つようにうねる龍の身体が横たわっています。

その龍の胴体は、太さが大通り沿いの家々よりも大きいほどで、長さは果てが見えないほど続いておりました。

龍の身体が、夜の暗闇のなかキラキラと金色に輝きながら、大通りに沿ってうねるようにどこまでも続いていたのです。

一体どこまでの大きさがあるのでしょうと、驚きました。

そして、だんじりの上から巻かれる紙吹雪も、金色にキラキラと光っています。

まさに、龍が口から火を噴いている光景に見えました。

 

その黄金色の龍を見た瞬間、私の目からは涙が溢れ、とまらなくなりました。

私は神さまや佛さまにお会いしますと、いつも自然と涙が出てきてとまらなくなります。

怒涛のような幸福感に包まれて、瀧のように涙が流れるのです。

 

深江のお稲荷さんが、龍のお姿で現れられるなんて、思ってもみませんでした。

たしかに宇賀神弁財天さまは頭の上に蛇体を持つ白鬚のおじいさんをのせておられますし、また、だんじりの上で踊る踊りは、どなたかは“龍踊り”とおっしゃっていました。

踊る人の手で龍の動きを表しているのでしょうか?

ですが、いつもは温かな太陽のような光の大きな玉?で拝見するお稲荷さんが、黄金色の龍に見えるなんて、思ってもみませんでした。

 

人々が嬉しそうに騒いでおられる中、私は身動きできずに涙を流しながら、ただただその龍に見とれておりました。

 

本当は、ずっと見ていたかった。

ですが、あまりにも泣き続けておりますことにだんだんと恥ずかしくなり、「舞い舞い」を最後まで見ずに立ち去ることにしました。

やはり長年住んでおりました地元ですから、当然私の顔を知ってくださっている方達もおられるわけで、後日どなたかが私の両親に

「あんたはんとこの娘さん、だんじり見て泣いてはりましたで。

どないかしはったんでっか。」

とでもおっしゃいましたらちょっと恥ずかしいじゃないですか。

常識人のワタクシといたしましては、涙を隠すようにこそこそと帰ることにいたしました。

ですが、本当は離れたくなかった。

まばたきするのも惜しいほどに、ずうっと、ずうっと、見ていたかったのです。

 

後ろを振り返り、振り返り、しながら家に帰りましたが、だんじりが見えております間中、それは黄金色の龍でした。

あんなに不思議で美しい光景が見えるなんて、本当に幸せでした。

やはり恥ずかしさを顧みず、ずうっと眺めていたらよかったのでしょうか。

 

本当は、この黄金色の龍の光景は私の宝物で、世界中から隠して自分だけのものにしたいと思っています。

正直な気持ち、独占欲です。

ですが、宇賀神先生と同じように、私の大好きな深江のお稲荷さんのことを、世界中から隠して自分だけのものにしたいような、世界中の人にその素晴らしさを知ってもらって、世界中の人から好きになってもらいたいような。

そんな相反する気持ちがあります。

どちらも本当の気持ちで、我が心ながら、女心は少々フクザツですね?

 

残念ながら、あの日以来、黄金色の龍を拝見するご縁には恵まれておりません。

ぜひもう一度、いいえ、もう何度でもお会いしたいと願っておりますが、今のところは後にも先にもあの日だけです。

きっといつかまた、お会いできる幸運に恵まれますように。

明日はいよいよだんじり巡行の日です。

 

 

(申し訳ありません。このページを公開する前に日付が変わってしまいました。“明日”を“今日”としてお読みくださいませ。)

 

合掌

“God bless you.”(神様の祝福がありますように。)

宇賀神先生のもとに来られる方達のご相談を垣間見させていただいていますと、お一人お一人の人生という長いドラマの一部を拝見しているようです。

どんなに栄華を極められた方も、ご自身ではどんなに平凡な人生と思われている方も、一つとして同じストーリーはなく、悲喜こもごも、嬉しいことも悲しいこともあるのが人生なのかなぁ、と思われます。

 

ときにそんな方達のお話は、私の心の中に少しの重みをもたらされます。

宇賀神先生は

「感情移入をしないように。それではプロは務まらない。」

と、おっしゃいます。

その通りだと思います。

気持ちを込めることと感情移入することは似て非なるもので、感情移入することでかえっていい結果を生まないことの方が多いような気がいたします。

 

今日も私の大好きな方から、ご相談とまではなさいませんでしたが、あるお話をお聞きしまして、その方のためにお祈りするような気持ちになりました。

その方は、信仰について悩んでおられました。

明日、その方にこの詩をご紹介しようと思います。

私はその方に、心からお幸せになっていただきたいと願っております。

「無名の南軍兵士の祈り」

大きなことを成し遂げるために

力を与えてほしいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

 

より偉大なことが出来るようにと

健康を求めたのに

より良き事ができるようにと病弱を与えられた

 

幸せになろうとして、富を求めたのに

賢明であるようにと、貧困を授かった

 

世の中の人々の称賛を得ようと、

成功を求めたのに

得意にならないようにと、失敗を授かった

 

人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いは全て聞き届けられた

 

神の意にそわぬものであるにも関わらず

心の中で言い表せないものは全て叶えられた

 

私はあらゆる人の中で

最も豊かに祝福されたのだ

数年前、偶然この詩を知りましたが、とても有名なようですね。

宇賀神先生も初めてお知りになったとき、感動して涙を流されていました。

この詩は日常の中で、つい見失ってしまいそうになる何かを思い出させてくれるような気がいたします。

 

もちろんこの詩の中の「神」とは、キリスト教の神様のことですが、ちょっと乱暴な言い方ですが、そんなのはどうでも構わないのです。

日本の八百万(やおよろず)の神様でありましても、キリスト教の神様でありましても、それは人々の信仰する心ですから。

素晴らしいものは素晴らしい。

ありがたいものはありがたい。

シンプルにそう思う人間でありたいと思います。

(と申しますより、複雑になれない単細胞なだけだったりして。)

 

宇賀神先生はお加持なさいますときに、佛さまのご真言を唱えられますが、決してご相談者様に信仰を押しつけることはなさいません。

先生は常々、人様に信仰を押しつけることは、

「小さな親切、大きなお世話」

だとおっしゃっています。

信仰とは、惚れて惚れて惚れぬくこと。

は、宇賀神先生の口ぐせです。

決して人様から「あなたはこの人に惚れなさい」と押しつけられるものではありません。

 

誰かを好きになる気持ちは、人に強制されるものではなく、自分の心の中から自然に湧いてくるもの。

損得勘定は抜きです。

神さまや佛さまを好きになる気持ちも、同じです。

ご利益があるから好きになるのではないですし、どなたを好きになるのも自由です。

 

あ、ちょっと押しつけがましいですか。

私は少なくとも、ご利益があるから好きになるという打算では、神さま佛さまを好きにはなりません。

でも打算で好きになる人もいらっしゃるでしょう。

それすら、自由です。

信仰の自由。

自由とは、「自らに由る」と書きます。

 

私は宇賀神先生の「人に信仰を押しつけない」とのスタンスは、とても素晴らしいと思います。

 

今日も、すべての善き人々の善き幸せが叶いますように。

 

合掌

 

 

追伸:金曜日から3日間、仕事の関係でブログの更新はお休みさせていただきます。

また来週の月曜日に(たぶん遅くなるとは思われますが・・・ごめんなさい。)書きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

・・・あれ、でももう日付が木曜日から金曜日に変わってしまっていますね(^-^;)

早よ寝よ。

「薄氷を踏むように」または金魚も生き返ったお話。

宇賀神先生は大胆なように見えて、じつは結構慎重なお人です。

29年前、大阪に何のあてもなく一旗上げようと出てこられたのは確かにとても大胆な行動です。

無謀と申し上げてもいいくらいかも知れません。

ですが、こと加持祈祷に関しましては、とても慎重な姿勢を貫いていらっしゃいます。

 

深江のお稲荷さんはこのことを、

「薄氷を踏むように」

と、表現してくださいました。

 

「薄氷を踏むように慎重に、どの人に対してもお加持しなさい」と。

 

以前の記事で、福島県の横向温泉で思いがけず、生まれて初めてたくさんの人々を不思議な力で治すことになりましたことをご紹介いたしました。

気功師デビュー秘話

湯治にいらしていた大勢のおじいちゃん、おばあちゃん達が口々に「治った!」「痛くなくなった!」と喜ばれましたが、実はその人達が本当に治ったのかどうか、一番不安でいらしたのは宇賀神先生ご本人でした。

 

もしかして催眠術?とか、プラシーボ効果(その人達の思い込み)だけで痛みが取れて治ったように勘違いなさっているだけだとしたら、どうしようと思っておられました。

一時的に痛みがとれたため治ったと勘違いなさっているだけで、本当は全然治っていなかったら?

それが例えば膝が痛い方でしたら、あとでまた痛くなるだけで済むかもしれませんが(それでもつらいですけれど)、それがもし、虫垂炎などでも起こされているとしたら、痛みだけを一時的に消すことは命に関わる重大なことです。

宇賀神先生は、悩まれました。

 

そんなある日、当時住んでおられた仙台市のマンションの廊下を歩いておられますと、そこで数軒となりの奥さんが金魚の水槽を何やら掃除なさっていました。

宇賀神先生が横を通られますと、その方は死にそうにプカーと浮いております金魚を何匹かよけておられました。

「あらー。大変だねぇ。」

と先生が声をかけますと、

「そうなの。病気みたいなんだけど、うちの主人が大事にしてる金魚だから、きっと怒るわぁ。」

とおっしゃいました。

 

そのとき、ピンと来られた宇賀神先生、

「ちょっとわしに任せてみてくれないか?」

と、ご近所さんに頼まれました。

 

そしてお腹を横に向けてプカプカ浮いております金魚の尻尾をつかみ、

「ええいっ!」

という「氣合い」とともに、ピシッ!とムチ打つように金魚をしならせました。

そして水の中に金魚を放しますと・・・果たして、その金魚は再び泳ぎだしました。

 

宇賀神先生は、何匹かの死にかけておりました金魚を全てそのようにして生き返らせました。

人間で申しますところの、「喝」を入れたのですね。

金魚をムチのようにしならせることで一瞬にして背骨を整え、そのとき同時に「氣合い」をかけられました。

 

ご近所の奥さんはとても喜ばれました。

 

この件で宇賀神先生は、ご自分の力は催眠術じゃないと確信を得られました。

金魚には催眠術は効きませんし、プラシーボ効果も、金魚には無縁です。

本当に治ったんだ、と、確信なさいました。

 

宇賀神先生はいつも、

「わしは“無師独学”だから。」

「わしのこの技法は、誰にも教わることなく、全て自分で築き上げてきた。

どんなことを勉強すればいいのか、どんな修行をすればいいのか、誰にも教わることなくここまできた。」

と、おっしゃっています。

 

ですので、どうやって確かめればご自分のこの力が幻想や催眠術ではないと分かるのか、それも含めまして全てご自身で考えられ、一歩ずつ進んでこられました。

まさに手探りで、ご自身の手と足とで確かめながら、一歩一歩進まれ、今日に至ったのですね。

 

死にかけておりました金魚に試してみよう!と思いつかれたのも、さすがだなぁと思います。

金魚には催眠術も効かないもんね?って。

お蔭様で後年、ワンちゃんうちのぴーちゃんも助っております。

 

宇賀神先生がどなたに師事されることもなく、全てご自身で築き上げてこられたからこそ、慎重に、慎重に。

これからもこのご姿勢を貫いていただきたいと思います。

 

合掌

思い込みのチカラ

今日は宇賀神先生の能力開花のきっかけとなりました、「思い込みの力」についてご紹介いたしましょう。

 

以前にもお話したこともあるかと思いますが、宇賀神先生は絵がお上手です。

うちにございます、お不動さんの絵もお描きになりましたし、小学校のときに描かれました絵が、栃木県の図工の教科書に20年間ほども採用されたそうです。

宇都宮市内?の“パインミシン”(当時ございましたミシンの会社だそうです)の工場見学に行かれたときに描かれました絵が、栃木県の美術選で最優秀賞に選ばれ、教科書に載ることになったのですって。

 

宇賀神先生の小学校時代の担任の先生に、荒川先生とおっしゃる女性の先生がおられました。

この方は、後に栃木県で女性で初めて校長先生になられた方です。

荒川先生は、宇賀神少年に絵の才能を見出されていました。

ちょうど当時は、放浪画家の「山下 清」さんが有名になられた時代でしたから、「おバカのやっちゃん」とよばれた宇賀神少年の境遇と重ねられ、なおのこと宇賀神少年にも山下 清さんのような絵の才能があると思ってくださったのかも知れません。

 

昨日のお話で、宇賀神先生が小学校3年生のときに孤児院に入られたことをお伝えしましたが、荒川先生がそれをお知りになり、大変驚かれたそうです。

「やっちゃんには立派なご親戚もいるのに、孤児院に入るなんて。一体どうしたの?」

と、おっしゃってくださいました。

宇賀神先生のご親戚は、宇都宮近辺では“名家”として名が通っていました。

そして、ありがたいことに孤児院の園長先生と同じように、

「孤児院に入れられるくらいなら、やっちゃんを私の養子にくださいませんか?」

と、宇賀神少年のお父様に尋ねてくださったのですって。

もちろんお父様のお返事は、

「まがりなりにも宇賀神家の長男ですから、養子にやるつもりはありません。」

でした。

 

このことに関しましても宇賀神先生は、

「もしもあのとき荒川先生の養子になっていたら、わしは今頃“日本のゴッホ”になっていたかも知れないのに!」

と、悔しそうにおっしゃいます。

うーん、まあ、ゴッホかどうかは微妙ですけれどね。

(「ゴホン、ゴホ、ゴホ」と咳払い。by宇賀神先生)

 

そしてこの荒川先生は、宇賀神少年を勇気づけるためにこんな言葉をかけてくださいました。

 

「やっちゃんにはね、すごい力が眠っているんだから。

今は分からないかもしれないけれど、大人になってその力が目覚めたときには、素晴らしい未来が来るよ。

今はつらいだろうけれど、頑張るんだよ。」

 

今になって思いますと、荒川先生は宇賀神少年に絵の才能を見出されていたわけですから、山下清さんのように、将来絵の才能が目覚めたらすごいことになる、とおっしゃったのだと思います。

 

ですが、宇賀神少年はここで、少々の勘違いをいたしました。

「僕にはとっても大きな“超能力”が眠っていて、それが目覚めたときに、すごいことになるんだ!」

と。

まるでマンガの主人公がある日突然、驚くような超能力に目覚め、スーパーヒーローになるように。

 

この1~2年後に「日本ターザン」に出会われたわけですから、そのとき宇賀神少年の中で、この思いは期待から確信に変わったのではないでしょうか。

「僕もきっとこうなるに違いない!」と。

 

まさしく

「ああ、カンチガイ・・・!!」

です。

 

「絵の才能が目覚めたときに」すごいことになる、とおっしゃってくださった荒川先生。

「超能力が目覚めたときに」すごいことになる、と思った宇賀神少年。

 

少々、と申しますよりはかなりの勘違いでしたが、この荒川先生のお言葉を忘れずにいた宇賀神先生は後に、本当に超能力(って言ってしまってもいいでしょうか?)に目覚められ、今のお仕事を始められました。

世の中を大きく変えるほどすごいことには、まだ?なってはおりませんが、少なくとも宇賀神先生の人生や、今まで微力ながらもお力になれましたご相談者さまの人生を変えられるような「すごいこと」にはなりましたね。

宇賀神少年の思い込みが、信念と呼ばれるほどの強さにまでなりました結果、宇賀神先生は今のお力を得られました。

 

私が宇賀神先生の勉強会に参加しだしましたのは、もう22年ほど前にもなりますが、宇賀神先生がそこで

「わしは小さい頃から『自分にはすごい力が眠っていて、それが目覚めるときすごいことになる』って信じていた。」

とおっしゃいますのを、ずーっと聞いておりました。

それは、60年も前の荒川先生のお言葉がもとになっていたのですね。

そしてここだけの話、荒川先生がおっしゃった「すごい力」って、実は絵の才能のことだったんだー(超能力ではなく)と、気づかれましたのは、実はつい最近のことなのです。

そのことに気づかれた瞬間の宇賀神先生のお顔ってば・・・“へなへなプシュー”と空気が抜ける風船のようでしたねぇ( ̄∇ ̄)

 

宇賀神先生が今日こうしておられますのも、ある意味、荒川先生のお蔭かも知れません。

宇賀神先生は荒川先生のお言葉をもとに、ご自身にはすごい力があると思い込まれたわけですから。

宇賀神先生は今でも、荒川先生のこのお言葉を感謝の気持ちとともに覚えておられます。

 

この、思い込みの力と申しますものは、(それがたとえ勘違いによるものでありましても)かなりの可能性があるようですね?

これを活用しない手はないですね!

私も思い込んでみようかしら。

「私にはものすごーい文才と魔法のチカラがある!!!」

って。

 

ありがたい、ありがたい♥(『領収書が先』を実践中。)

 

合掌

 

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ありがとうございます♥

宇賀神先生と佛さまの出会い

今日は宇賀神先生と佛さまの一番初めの出会いについてお話ししましょう。

宇賀神先生のご記憶の中にございます、一番初めの出会いです。

 

それは宇賀神先生が、小学校3年生(多分)のときでした。

以前にも少しお話しましたが、先生はご両親の愛情一杯に育たれた、とは言いきれないような少年時代でした。

先生が小学校3年生くらいのとき、お父様とお母様が離婚なさった関係で、1年とちょっとの間ですが、孤児院に入っておられました。

栃木県・宇都宮市にございます、下野三楽園(しもつけさんらくえん)という孤児院です。

 

そこは、日光山輪王寺(にっこうさん・りんのうじ)の経営なさる孤児院だそうで、日光山輪王寺は、天台宗のお寺さんです。

お寺さんの経営でしたので、孤児院の方でも毎朝お勤め(勤行=ごんぎょう・お経を読むこと)があり、そこで暮らす子供たちもそれに参加しておりました。

ご本尊さまは、薬師如来さまでした。

 

ところで、子供の頃の宇賀神先生は、今で申しますところの“学習困難児”でした。

その頃は学習困難児という言葉もなく、宇賀神先生がおっしゃるには、

「担任の先生の机の上にポンと置いてあった学籍簿には、わしのことは“異常児”って書いてあった。」

そうです。

ちょっと信じられるような?、信じられないような。

ですが、当の宇賀神先生ご本人が、

「わしは小さい頃、口をポカーンと開けている“おバカのやっちゃん”だったから。」

とおっしゃっています。

 

その宇賀神少年に、いつの頃からか朝のお勤めが始まりますと、とても綺麗な光の雲が、すぅーっとお薬師さまの頭の中に吸い込まれていくのが、見えたそうなのです。

やはり口をポカーンと開けて、その光の雲を目で追っていたのでしょうね。

ある日、孤児院の園長先生(この方もお坊さんだそうです)が尋ねられました。

「やっちゃんはいつもお勤めのときに上を見ているけど、何か見てるのかい?」

と。

 

宇賀神少年は正直に、

「お経が始まると紫と金色にピカピカ光る雲が、佛さんの頭の中に入っていくのが見える。」

と、答えました。

 

園長先生は驚かれ、“おバカのやっちゃん”と周りから馬鹿にされておりました宇賀神少年に、こう告げられました。

「それはすごいねー。

先生もその佛さまの光が見たくて何年もお修行したけど、ついに見えなかったんだよ。

やっちゃんに佛さまの光が見えるなんて、先生はうらやましいな。」

と。

 

宇賀神少年の「夢でも見ているのでは?」と普通なら笑ってしまいますような言葉を、園長先生は笑われませんでした。

そして、「先生はやっちゃんがうらやましいよ」とまでおっしゃってくださいました。

宇賀神少年の言葉を真摯に受け止めてくださった園長先生の愛情が、ありがたいですね。

 

もちろん宇賀神先生はそのとき本当に紫と金色に光る雲をご覧になっていました。

大人になりましてから分かったことですが、お薬師さまは別名、瑠璃光如来(るりこうにょらい)さまとも呼ばれていらっしゃいます。

瑠璃色、つまり、紫色を帯びた濃い青色、の光の佛さまと書きます。

先生がご覧になった、光の雲と同じ色ですね。

 

その光が見えたからと申しましても、また、園長先生がうらやましいな、とおっしゃってくださいましても、宇賀神少年にはそれが一体何を意味しますのかは、あまりよく分からなかったようです。

ですが後年、大人になりましてから紆余曲折の末やはり佛門に入られたわけですから、小さな頃から本人の気づかないところで有り難いご縁をいただいていたのですねぇ。

 

ちなみに、その光が見えたからかどうかは分かりませんが、園長先生から宇賀神少年のお父様のところへ、

「やっちゃんを出家させるおつもりは無いですか?」

との問い合わせがあったそうなのです。

残念ながらそのときお父様は

「まがりなりにも宇賀神家の長男ですから、出家させるつもりはありません。」

と断られたそうです。

宇賀神先生は、

「もしあのとき親父が園長先生の申し出を受けていたら、わしは今頃天台宗の高僧だったのに!」

と、いまだに残念そうにおっしゃいます。

 

私は、「いえいえ、高僧かどうかは別問題ですよ」とは、ちっちゃい声で言いました。

 

合掌

笹の小舟を折って流すように

今日は宇賀神先生からのご伝言です。

どうして前世などに心囚われない方がいいのか、ということにつきまして。

 

宇賀神先生いわく、

「それはね。

例えば前世ですごい大金持ちで、全ての財産を金塊にしてここに埋めた、って覚えていたとするだろ?

そしたらどうするの?

きっと現代だとその上にビルでも建ってて、

『僕が前世でここに埋めた金塊を掘り出したいんだ!このビル邪魔だ~っ!』

とでも言うの?

そんなの無意味だし、頭おかしいって思われるのがオチだろ。

だから気にしない方がいいんだよ。」

ですって。

 

なんだか、宇賀神先生らしい(単純)明快な例えですが。

とにかく、こういうことらしいです。

 

昨日もお伝えしましたが、例えば見えてしまった霊や過去生を気にしないためのコツは、

「ただ目の前を通り過ぎる景色のように見るだけ」

です。

電車に乗っておりますとき、車窓の外を流れていく景色を眺めますように、執着もせず、否定もせず、ただ、流します。

ただ見えましたこと、聞こえましたことを

「あっ、そう。」

とだけ、受け流します。

 

これは瞑想しておりますときに浮かんでくる雑念の対処法と同じかと思われます。

座禅を組むなどして瞑想しますとき、初めは心に色々なことが思い浮かんできます。

今日のお昼ご飯は何を食べよう、とか、あの用事を片付けなきゃ、とか。

ですが、心に浮かんできます様々なことを、「心を無にしないとダメだ。」などと否定しなくてもいいのだそうです。

否定しますと、かえって執着を生んでしまいます。

そうではなく、ただそれらのことを、窓の向こうに流れる景色のように見ては手放していく。

そうしておりますうちに、ふと心が無になる瞬間が訪れるのだそうです。

 

またこれは、不安が強い方の、心を安らげるためのイメージ法にも似ていますね。

不安と申します感情も、ある程度は人間にとりまして必要なものですが、それが大きくなりすぎますとかえって押しつぶされるように一歩も動けなくなってしまいます。

そんなときに、あるイメージを思い浮かべると効果的なのですって。

 

そのイメージとは、

「笹の小舟を折り、その上に自分が不安に思っていることをのせて、川にそっと浮かべて流していく」

というものです。

 

これは、宇賀神先生が高校生のとき、佛教系の高校に通っていらしたのですが、そのときの学校の先生(実際にお坊さんでいらした方)に教わった方法です。

また、同じことを最近のNHKさんのテレビでもしていました。

ご自身で抱えておられます不安に気づかれましたら、それを

「こんな不安を抱えている自分はダメだ」と否定するのでもなく、

「大変だ~!」と執着するのでもなく、

「自分にはこんな不安があるのだなぁ」と、笹の小舟にそれをのせてあげて、そっと川に浮かべて流して(手放して)いく、という情景をイメージするのだそうです。

テレビの番組の中でとても不安の強い方達にこのイメージ方法を試していただいたところ、たしか2週間ほどでしたか、正確なことは忘れてしまいましたが、強い不安に襲われなくなったそうです。

 

この、色々とこだわってしまいがちなことを、「ただ、目の前を通り過ぎる景色のように見るだけ」と申します方法は、心軽やかに生きるコツかも知れませんね。

宇賀神先生は、よくこういうものの見方をなさいますので、自称・街中仙人(まちなかせんにん)として、飄々として楽し気に生きておられるのでしょうか。

 

ですが、もしも私でしたら、万が一前世で埋めた金塊を覚えておりましたら、やっぱりめちゃくちゃに執着してしまいそうですねー。

なんとしても手に入れたいと思っちゃう。

ドリルで掘り出しますか?

まだまだ修行が足りんということですね。

 

あと、これは、宇賀神先生がおっしゃっていたのですが、

「最近の人は笹舟の折り方を知らないんだよー。」

って。

実は私も知りません。

ジェネレーションギャップとか申します、あれですか。( ̄∇ ̄)

そんな美しい遊びができます小川が、私が生まれましたときにはもう近所になかったのですねぇ。

先生の世代の方のご記憶には、美しい日本の風景もいっぱいあるのでしょうね。

 

今日は、宇賀神先生からのご伝言でした。

 

合掌