今日は、もんのすごーい弾丸旅行(弾丸のように飛んでいく旅行)で、宇賀神先生いわくの「世界最強の男」に会いに行きました。
そのお方がこちら。
金色にまばゆい世界におわします。
さて、そのお方とは?
詳しくは明日。
今日はさすがに疲れすぎて、もう寝ます。
アクセル踏んだら車は勝手に進んでくれるのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。
せめて、「世界最強」のお方の金色の夢を見よう。
合掌
		今日は、もんのすごーい弾丸旅行(弾丸のように飛んでいく旅行)で、宇賀神先生いわくの「世界最強の男」に会いに行きました。
そのお方がこちら。
金色にまばゆい世界におわします。
さて、そのお方とは?
詳しくは明日。
今日はさすがに疲れすぎて、もう寝ます。
アクセル踏んだら車は勝手に進んでくれるのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。
せめて、「世界最強」のお方の金色の夢を見よう。
合掌
今日は色々と文章を書くのをやめにしまして、ここ数年の宇賀神先生のお加持の実績を羅列することにしました。
「実績」ですから、以下に書くことは多かれ少なかれの成果があったものです。
まず、ご病気・けがなどの「病者加持」及び「氣による治病法」の実績から。
*がん(スキルス性がん、胃がん、肺がん、大腸がんなど様々。全く消えてしまったものもあれば、小さくなっていたものもある。)
*大腸ポリープ(消えてしまった。)
*うつ病(死ぬことばかりを考えていたうつ病の方が、元気になられた、など。)
*パニック症候群(発作が起きなくなった。)
*ミトコンドリア心筋症(難病のため病気が完治することはないが、心臓を含む全身の筋力の低下により歩くこともままならなかった方が、社会復帰(職場復帰)なさった。)
*間質性肺炎(難病のため病気が完治することはないが、病院から言われた寿命よりはるかに長生きされ、かつ日々の生活の質(QOL)の高い状態で過ごされた。)
*圧迫骨折(寝返りも容易にうてなかった方が、全くの痛み無く生活できるようになった。しかも何人かの圧迫骨折の方の中で、お一人は地球の裏側にいらっしゃるときに遠隔のご祈願により痛みがほぼ無くなり、無事帰国なさった。)
*小脳変性症(難病のため病気が完治することはないが、病気の進行の速度がゆっくりになり、かつ日々の生活の質も高い状態で過ごされた。)
*甲状腺機能(亢進、減退)(正常な状態に戻り、全く生活に支障がなくなった。)
*膠原病(難病のため病気が完治することはないが、痛みが軽減し身体の動かしやすさが増し、生活の質が劇的にあがった。)
*リウマチ(痛みが減り、関節の動かしやすさが増し、生活の質があがった。)
*腰痛(痛みがなくなった。)
*膝痛(痛みがなくなった。)
*腱鞘炎(痛みがなくなった。)
*めまい(季節によりめまいが頻繁に起きていたのが、起きにくくなった。また、起きてもお加持によりすぐにめまいが収まった。)
*難聴(片方の耳が40年以上全く聞こえなかったが、たった1回のお加持により聞こえるようになった、など。)
*アトピー性皮膚炎(数か月かけてよくなり、ひどく再発することがなくなった。)
*喘息(ご高齢の方の喘息がおさまった。また、何かの加減でぶりかえされても、すぐにおさまるようになった。
私の咳喘息は治った。)
*更年期障害(不定愁訴がおさまった。)
*小人症(背が伸びた。)
*ぎっくり腰
*坐骨神経痛
*五十肩
*左右の足の長さの差があるのを揃えた
*小児まひ(病気そのものを完全に無くすことはできないが、身体を本人の意思通り動かしやすくなり、生活の質があがった。)
*腎臓を透析から免れさせた
*頻尿
*血便が出て死にそうになっていた小鳥を回復させた。
*犬の股関節の調整(歩き方が変だったのが、普通に歩けるようになった。)
*不妊(なかなか子供ができなかった人が妊娠した。)
*白内障(視界のにごりがとれてよく見えるようになった。)
*緑内障(眼圧が下がった。)
*くも膜下出血(階段から落ちて外傷性くも膜下出血になり、意識不明だった人の意識が回復した。)
*脳梗塞(脳梗塞になられた方が、後遺症なしに回復した。)
*白杖をついておられるほど目の悪い方の視力の回復
*腰椎のヘルニア
*頸椎のヘルニア
*ED
etc.
次は霊的なこと・他ご相談に応える「加持祈祷」により成就したもの。
*佛像への御魂入れ
*山の神様にお移りいただく(山の中の工事で、3人の工事員の方が事故により亡くなられたため、祠のあった山の神様にお鎮まりいただくべくご祈祷し、安全なところへお移りいただいた。)
*呪詛返し(他者の呪いから守る。これは今も現在進行形。今はほとんど呪いをかけている人からの念が来なくなったとご相談者様が喜ばれている。)
*自殺者のご供養・成仏(佛教的には自殺者は浮かばれないため、供養し、無常林の地獄から佛様の御国へお送りした。)
*恨みを残して亡くなられたであろう方のご供養・成仏(過失による交通事故の加害者のご家族から、亡くなられた被害者の方のご供養を頼まれた。被害者の方にも何割かの過失もあった案件。ご供養したためか、被害者のご家族から損害賠償請求もなかった。)
*お仏壇への御魂入れ(引っ越しにより新しくお仏壇をしつらえた方からのご依頼。)
*お店を建てるためのお祓い(商売繁盛を願って。)
*会社を倒産から免れさせた
*不動産が売れるためのご祈願
*円滑な遺産相続
*就職のご祈願
*取り憑いた霊のお祓い(変わりどころでは、「犬神憑き」なんてのもありました。)
*因縁の解除(のための200人を超える方々のご供養)
*漁船の大漁祈願
etc.
これらは、宇賀神先生のお仕事のほんの一部です。
ご予約表を見て今日の記事を書いているわけではありませんので、私の頭に思い浮かぶままにいくつか書きだしてみました。
なんと申しますか、こうして一部を書きだしているだけでも、節操のないほどの広範囲のお仕事です。
しかも、たとえばお身体に関しましても、病苦ひとつだけを取り去るのではなく、それにより派生する身体中の不具合を取り去ります。
ご依頼者様によりましては、人生上の不具合?まで、ご相談に応じることもございます。
宇賀神先生は氣のお力や御祈願のお力もさることながら、ヘンに豊富な人生経験や優しいお人柄で、本当にありとあらゆるご依頼を受けておられます。
そのため、(全く話が変わりますが、)ブログランキングに登録したいとかねてから思っているのですが、どのカテゴリーに入れればいいのかずっと迷っております。
結局ブログを始めて5か月(月日がたつのは早いですねー!)たった今も登録せずにおります。
気功、だけでもないですし、
お寺(真言宗)、と申しましてもお葬式などしているイメージで、かなり違いますし、
霊能者っていう項目はなく、似たような霊界・霊視とかはあるのですが、なんだか暗くてちょっと範囲もずれているような気がしますし、もしあったとしましても、それだけには収まらない・・・?(タイトルはこれですが)
スピリチュアル、にしては宇賀神先生が力強すぎますし、
やはりここは、どれでもない「超能力」か・・・?(私は昔、『超能力少年バビル二世』が大好きでした。)
迷いに迷っております。
そうですね、今週末うちに泊まりにいらしてくださるY君とAさんに一緒に考えてもらいますか!
と申しますことで、この場をお借りしてお二方、頼みましたよーv( ̄∇ ̄)v
(来週になりましても登録されておりませんでしたら、彼らが非協力的だったということですね、とプレッシャーをかけておこう♥)
合掌
宇賀神先生は決して「悪い霊がついているからお祓いしないといけない」などという脅かし方はなさらない、と先日お伝えしました。
逆に、面白いことに、うちに来てくださったご相談者様のお加持をなさるときに、「(そのご相談者様に憑いていた霊が)ついでに取れてしまった」というパターンはよくございます。
宇賀神先生はよく、「霊がわしの方を怖がって逃げていくんだよ。」と笑いながらおっしゃいます。
あるときなど、お加持を終えられたご相談者様が玄関先で、
「ありがとうございました。お陰様で身体がすっきりしました。」
とおっしゃりながら、肩に乗ったホコリをサッサッと払うような格好をなさいました。
その方は腫瘍を患い、うちに来ておられました。
すると宇賀神先生は笑いながら、
「貴方の今のそのジェスチャーは『身体言語(しんたいげんご)』と言って、本人が意識しないところで身体がしゃべってんだよ。
さっき『身内にがんで亡くなった人がいる』って言ってたよね。
その人がちょっと憑いてたのが落ちたんだよ。
ふつう『身体がすっきりした』って、肩のホコリを落とすような格好をする人はいない。
つまり、肩に乗っかってた霊が落ちて軽くなったのを、貴方の頭(理性)は知らなくても、心や身体は分かってたんだな。」
とおっしゃいました。
その方は
「ええーっ!」
と、びっくり仰天でした。
と申しますのも、実は「もしかしてがんで亡くなった姉が自分の病気に関わっていたら」と、内心とても不安に思われていたのだそうです。
宇賀神先生の日常は、本当にまんがのように面白くて退屈しません。
普通でしたらオドロオドロしい「霊が憑く」などという出来事も、何だか笑い話になってしまいます。
お陰様で私は安心して楽しく暮らしております。
ただ、もし本当にその人に「危ないな」と思われますような兆候が表れておりましたら、そんな危険なことにならないよう注意喚起をなさることもございます。
それが
「お気をつけて」
という言葉です。
「えっ、そんな日常的な言葉で?」と思われた方、実はこれが世に言う「言葉の魔力」なのですよ。
「言霊(ことだま)」とも申しますよね。
あるとき、宇賀神先生のもとへ来てくださったご相談者様のお顔に、よくない人相が現れておりました。
先生は人相もご覧になられますから。
先生は、
「あんた、水難の相が出てるよ。気をつけなね。」
と、その方におっしゃいました。
するとその方は笑いながら、
「先生~、うちの近くには海も川もありませんよ。水難なんて起こるようなところじゃないですってば。」
と、おっしゃったそうです。
宇賀神先生は、
「いや、それでもいいから。
わしが『気をつけて。』と言ったことに、あんたは『はい。』って言うんだよ。
すると、あんたは分からなくても、あんたを守ってる守護霊がそれを聞いて気をつけるからね。
そしたら大難が中難、中難が小難、小難が無難、になるからね。」
とお伝えなさいました。
宇賀神先生の「水難の相」のお言葉を信じられないまま、ただ先生のお言葉通りに「はい」とだけ返事をなさって笑いながら帰られたそのご相談者様から、数日後お電話がかかってきました。
「先生~、今私どこだか分かる~?」
「ええ?分かんねーよ?」
「病院!私、入院してるの~!」
とのことでした。
その方が入院なさった訳とは。
その女性は当時お一人暮らしで、ちょくちょくご近所のスナックにカラオケをしに行っておられました。
カラオケの帰り際のことです。
そのスナックは車道に面しており、お店から道路に出る手前には水の流れている溝がございました。
お酒を飲んでカラオケを歌われて、すっかり上機嫌で帰ろうとなさったその方は、酔っておられたためうっかりと溝に片方の足を踏み入れ、「あっ!」と思ったらもう片方の足も溝にはまってしまい、あろうことかそのまま両足のすねの骨をボキッと折る形で前に倒れてしまったのです。
次の瞬間、倒れ込んだ頭のすぐ上ぎりぎりのところをダンプカーがザァッと通っていきました。
文字通り「間一髪」、頭をダンプカーにひかれずに済んだとのことでした。
その女性は、宇賀神先生のおっしゃった「大難が中難、中難が小難、小難が無難」になりました、と感謝なさいました。
水難の相も、まさにその通りでした、と。
海でもなく川でもなく、まさか溝の水だったなんて。
宇賀神先生のたったひとことが、その女性の難を軽減させたと思っております。
両足の骨折も大変と言えば大変ですが、その女性にとりましては、
「もしかしたら命を落とすところだったかも知れないのを、骨折だけで済んだ」
と、思われたのではないでしょうか。
ですからこそ、先生に感謝してお電話くださったのです。
宇賀神先生の勉強会でこのお話をお聞きしましてから、言葉って力があるんだなぁ、と思うようになりました。
もしかしたら、宇賀神先生のお言葉だからこそ、その女性の守護霊まで届いたのかも知れません。
ですが、今となりましては、いやしくも私も真言宗の出家であります。
真「言」宗ですから。
言葉には魔力がある、と思えなくてどうしましょう。
たとえそれが密教上のご真言でなくても、日本には古くから言霊信仰(ことだましんこう)もございます。
やはり、言葉には不思議な力があるのでしょう。
ですので、宇賀神先生も私も、ご相談者様がお帰りになられるときは、心掛けて
「お気をつけて。」
と申し上げます。
おろそかに申し上げたことは一度もございません。
ただただ、ご無事にお帰りくださいますようにと、願いを込めて、申し上げております。
合掌
いつものことですが、目に見えない存在を感じたときの感覚は不思議です。
神様や佛様、お大師さんなど、また、霊でも、およそ目に見えない存在の方達に出会った瞬間には、「確信」することがあるのです。
例えばそれがお大師さんであるとか、霊ならばどんな性別でどのくらいの年齢で、とか、その時々により様々な情報を。
「なぜか分からないけれど、でも絶対に知っている」「だって、この目で見たもん!」としか言えないような確信がある、ということが多々あるのです。
たとえば、以前お話したことのございます、事故を引き起こされそうになった幽霊船ならぬ幽霊車?(あるいは残留思念の車?)のときなどは、中に乗っている人まで見えておりました。
私の目に映りましたものは、白髪のおじいさん1人と、もう少し年下くらいの女性2人が乗っておられる白い車でした。
まあ、それにしましても先日の亀戸の天神さんのお話といい、ますますファンタジー映画のようなお話ばかりになってきております。
ですがこのブログに書いておりますことは私の創作などではなく、本当に見聞きした(と私が感じた)ことなのです。
証明・・・できるといいですのにねぇ。
自分は「確かに見た、聞いた」と思っておりましても、証明できないその事柄をこうしてブログで書くことの功罪を時々考えます。
宇賀神先生のお加持の実績(実際にご相談者様の病気が治った、とか願い事が叶った、とか)は現実に起こったこととして書けますが、それすらも因果関係を証明できない、と言われてしまえば「そうですね。」と答えるしかありません。
ただ、それに関わった先生や私、ご依頼くださったご相談者様だけが「先生のお加持により成就した」と確信しているのみです。
この「当事者だけが確信している」という感覚がよく表現されておりますのが、「コンタクト」という映画だと私は思います。
ジョディ・フォスターさん主演のハリウッド映画で、私も好きな映画です。
この映画の最後にジョディ・フォスターさんが“その”存在を懸命に訴えるシーンがあるのですが、ものすごく共感しました。
その感覚、その思い、まさに私が感じているものと同じで、この物語の著者であるカール・セーガンさんも神様とかの「目に見えない何か」に出会われたことがあるのでしょうか、とびっくりしました。
もしそうでなく、全くの彼の創作でしたら、ものすごい想像力です。
小説家でいらしたら当然でしょうか?
ただの映画としましても面白い作品だと思われますので、もし機会がございましたら是非ご覧になってみてください。
ちなみに、Amazonさんのプライム会員でいらっしゃいますと、今ならタダで見られます♥(プライム会員の年会費が必要ですが。)
さきほど、「(科学的に)証明できない事柄を書くことの功罪」と申し上げましたが、それはやはり世の中の霊能者と名乗られる方に、たとえば「お祓いをしないと大変な不幸が起きるよ。」などと脅かされる方が本当に数多くいらっしゃるからです。
請求される金額も数万円から、多いと何百万円(のお墓や壺、祈祷料など)と、尋常ではありません。
そんななか、宇賀神先生だけはそのように脅すようなことはすまいと思われていますが、私がこうして「目に見えない世界があります」と書いていることをご覧になった方が信じてくださり、それにより変に脅すような他の霊能者の言葉を信じてしまわれたらどうしよう、と思います。
(またちょっと違う話ですが、多大な恩恵を被っております西洋医療に対して変に拒否反応を起こし、全てを否定されても困ります。
西洋医療は西洋医療でありがたく、宇賀神先生のお加持は先生のお加持でありがたく、相反するものではございません。)
そして、たしかに宇賀神先生もお祓いをお引き受けすることはございます。
実際に先生がご依頼の場所に出向かれてお祓いなさる場合は特に、毎日のお加持よりは高額です。
ですが、それは先生が本当に必要だと思われ、かつご相談者様の方から望まれたときのみです。
先生の口から
「このお祓いをしないとあんたに大変な不幸が起きるよ。」
などとおっしゃるセリフをお聞きしたことなど、ただの一度もございません。
でもなぜか、先生の
「大丈夫だよ。」
のセリフは信じられなくても、他の霊能者の
「大変な不幸が起きるよ。」
という不安をあおるセリフを信じてしまわれる方が多いのですね。
そりゃあ、「そんなもの見えない」人からなさいましたら、どっちが本当か分からないですものね?
となりますと、不安の方が勝つのでしょうか。
私がこうして目に見えない世界についてブログを書くことの功罪。
どうかなるべくでしたら、罪の部分が少なくありますように。
これを読んでくださる方々の、
幸せを願われるお気持ちも、
健康を願われるお気持ちも、
死者を悼まれるお気持ちも、
神様佛様を信じなさるお気持ちも、
氣という目に見えない力にワクワクなさるお気持ちも、
心無い人達に踏みにじられることのないよう、願っております。
***
と、今日のこの記事を宇賀神先生に見ていただきましたら、先生が、
「証明、科学的に証明っていうけど、それを言うなら、地球がものすごいスピードで宇宙を走る?のを誰もその目で見たことないんだよ。」
「だから別に、あえて証明なんてしなくてもいいんだよ。
だって、ある時代から『宗教と科学を分けましょう』ということになって、今までうまくきているんだから。」
「それに、『科学的に証明されてる』って聞くと実際の目で見なくても人は信用するけど、いくらわしが目の前で人の痛みを取り除いても『科学的に証明さてれいない』って、誰も(ご相談者様を除いて?)信用しないんだから。」
と、のたまいました。
確かに計算上、あるいは観測上?証明はされていますが、地球と太陽の引力圏から離れて、地球がものすごいスピードで太陽の周りを回っているのを、実際の目で見た人はいらっしゃいませんねぇ。
また、この説がコペルニクス?ガリレオ・ガリレイ?により唱えられましたときも、現在でしたら当然の常識であるはずのこのことを、当時の人は信じられませんでした。
そして目の前で先生のお力を見た人でさえ、トリック?何かの間違い?と思われる方も少なくないのですもの。
先生の示唆には、二重・三重の観点から、ちょっと考えさせられました。
宗教と科学がイコールで結ばれていた中世までの時代と現代。
もちろんイコールで結ばれていた時代にも、功罪はございます。
きっとイコールでない今の時代にも、功罪もあるのでしょう。
ですがデメリット(罪)よりもメリット(功)の方が大きいとして現代の価値観が構成され、現代に生きる私はその恩恵を受けて生活できております。
ありがたい時代だと心から思っております。
ただ、はるか以前の、お大師さんが唐に渡られ、密教を日本に持ち帰られた時代などは、密教(宗教)は「最先端の科学」でした。
そんな面白い時代もちょっと見てみたかったな、とも思います。
合掌
「まつり上げる」という言葉をお聞きになったことはございますか?
通常は、誰かを何かの高い地位にヨイショと持ちあげて、その座につかせることを指すのでしょうけれど。
この言葉は、神様の世界でも、「祀り上げる」として使われることがあるようです。
皆さまは「天神さま」をご存じでしょうか?
よく学問の神様として尊ばれていらっしゃいます。
東京では、「亀戸の天神さん」が有名でいらっしゃるのですってね。
宇賀神先生と私も2度ばかりお参りさせていただきました。


とてもよいお参りをさせていただきました。
ですが、実は私は天神さんが怖かったのです。
と申しますのも、天神さんは、生前?は菅原道真公(すがわらのみちざねこう)でした。
『東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』
の句は有名ですね。
学校の歴史で習われたかと思われますが、菅原道真公は平安時代に京の都から九州の大宰府に左遷され、そのことを嘆き悲しんで、恨みを残して亡くなられたのです。
そしてその恨みのため、道真公は亡くなったあと怨霊となり、京の都に災いをもたらしたのでした。
道真公のたたりにより平安京は荒れ、どうにもその魂が鎮まらないと、ついに打った手が「神様として祀り上げる」というものでした。
やんちゃな子も「キミは今日から学級委員長だ!」と言われますと、思わず委員長としてがんばってしまいますように、怨霊も、「これからは神様としてこちらにお鎮まりくださいませ」と言われますと、「じゃあ守ってあげようか」となるのでしょうか。
とにかく、たたりがひどかった菅原道真公も、学問の神様(天神さま)としてお祀りされますと、たたらなくなられたそうです。
私はこのお話を宇賀神先生からお聞きしていましたが、たとえ今は神様として祀られていらしても、以前は怨霊として怖れられていた菅原道真公は、私にとりましてはちょっとコワイ神様でした。
ところが、この写真を撮った1か月前の東京出張の折りに、亀戸の天神さんに初めてお参りさせていただいたとき、とても気持ちのいいお参りができたのです。
何と申しますか、拝殿の前で手を合わせますと、スーッと気持ちのいい「氣」が身体の中を通るのを感じました。
「あんまり怖くないかも・・・?
やっぱり、もう怨霊などではなく、神様なのかなぁ。」
と思いながらお礼申しあげ、天神さんを後にして、宇賀神先生と、すぐ近くのお店でご飯をいただくことにしました。
私も宇賀神先生と同じように、お食事をいただく前には色々とご縁のあった神様や佛様などにお供えをするのですが、思いがけずそのとき天神さんが、
「“当然”私にもくれるよね。」
と、出てこられました。
「うわー、またはっきりとしたお言葉をお聞きしてしまったよー。」
と、ありがたく嬉しいながらも、やはりまだどこか怖い思いがございましたので、
「では、さしあたり今日だけ・・・。」
と、最後に天神さんのお名前もお唱えして、お供えをいたしました。
そしてそのまま宇賀神先生とご飯を食べておりましたら、私は新幹線の疲れが出て、ご飯の途中にテーブルでウトウトしてしまいました。
そうしましたらそのとき、とってもいい夢を見たのです。
びっくりして目が覚めて、宇賀神先生に「こんな夢見たー!」と内容をお伝えしますと、その夢に出てきたものは、福や富を象徴するものだということでした。
そして先生が、
「実は天神さんは学問の神様として有名だけど、裕福な富の神様でもあるからね。」
とおっしゃいました。
「道真公は大宰府に『左遷された』と言われているけれど、その当時、大宰府は中国との貿易で潤っていたんだ。
つまり、お金には不自由しない地位につけていたんだな。
左遷と言っても、ずいぶん恵まれた地位だったんだよ。」
と。
えっ、富の神様・・・?( ̄∇ ̄)♥
そうなん?
(それならそうと、早く言ってくれればいいのに。)
と申しますことで、「さしあたり」どころか、その日から欠かさず天神さんにお供えをするようになったワタクシでございました。
それって打算?って、聞かないでネ。
いえ、だって、とっても気持ちのいいお参りをさせていただいてありがたかったですし、いい夢まで見せていただいて、何より神様の方から「当然私にもくれるよね。」とご請求いただきましたから♥
・・・と、言い訳はさておき、
神様は、やはりそれぞれのカラーと申しますか、ほんの少しではございますが、それぞれのご性格の違い?を感じます。
あのとき宇賀神先生に、
「天神さんがスーッと厳かな雰囲気で出てこられた。」
とお伝えしますと、
「やっぱり平安時代の貴族だったからね。」
とのことでした。
だから上品でいらしたんだ、と妙に納得してしまいました。
そしてこの「祀り上げ」は、確かに有効な手段なのでしょう。
世間では奥さんのことを「山の神」と申しますよね。
宇賀神先生も私のことを、山の神、っていうのです。
それって、「鬼嫁がコワイから祀り上げちゃおう。」という、歴史的に効果が証明されている有効な手段を使われていただけなんだ・・・ということに、今気づきました。
もうちょっと優しくしてあげなくっちゃね?
合掌
昨日お話しました「頭上にぴかぴかと光る運の玉」は、多分ですが、クラウンチャクラの輝きを宇賀神先生がご覧になったものだと思われます。
ですので、「誰にでもあるチャクラ」の輝きなのです。
ただ、その輝きの度合の差が、人によりあるのだと思われます。
チャクラという言葉をお聞きになってもピンと来ない方(うちの両親とか)もいらっしゃるかと思われますので、簡単にご説明いたします。
日本でなじみのある言葉ですと、例えば「下丹田」というものがございますね。
あまり「氣」について詳しくない方でも、下丹田と聞かれましたら、何となくのイメージがつかめるかと思われます。
昔から日本で言われている、おへその下あたりの、何だかよく分からないけれど「力が入る場所」として使われてきた場所です。
エネルギーの中枢としての?人体上の場所、と申しますか。
日本で言われております丹田でしたら、上丹田(おでこの真ん中あたり)、中丹田(胸の中心)、下丹田(先述のおへその下)の3か所がございます。
下に行くほど生命力に関する原初的なエネルギーを司り、上に行くほど精神的・霊的なエネルギーに関わりがある、とされています。
それが、インドのヨガの世界では、似たようなエネルギーの中枢(=チャクラ)が7か所もあるというのです。
チャクラも身体の中心線を通るように7か所に存在していて、下に行くほど原初的な生命エネルギーに関与し、上に行くほど精神的・霊的なものに関与する、という概念は、日本の丹田と似ています。
そして1番上にございますのが、頭上から少し浮いたところのクラウンチャクラです。
クラウンとは、つまり冠のように、頭の上に頂いている、ということですね。
ですので、冒頭でも申し上げましたが、宇賀神先生がご覧になられた「運の光の玉」がクラウンチャクラに該当するのでありましたら、それは誰でも持っているものです。
ただそのクラウンチャクラのエネルギーの強さは、人それぞれになるかと思われます。
やはりエネルギーが強い人は運も強いでしょうし、弱い人は運も弱いのでしょうね。
ところが、今日これからお話しようと思います「運の玉」は、昨日のものとは少し違うものも含まれるかも知れません。
前置きが長くなりましたね。
今日のは、宇賀神先生が諏訪大社さまに運の玉を「いただいた」ときのお話です。
あれは去年の秋のことです。
宇賀神先生と私は、長野県の諏訪大社さん(お諏訪さん)にお参りに行きました。
例によって例のごとく、温泉とセットで、サンダース号で行きました。
すると、行く途中の車の中で宇賀神先生が、
「お諏訪さんが『来たら運玉をあげる』って言ってる。」
と、急におっしゃいました。
「ええーっ、何、その幸運!」
と、ちょっとびっくりしました。
果たして二人でお参りし、その時ちらっと横を見ますと、宇賀神先生が何やら目に見えない玉のようなものを両手でいただいて、それを額のあたりに入れるような動作をなさっていました。
うーん、本当にお諏訪さんに運玉をいただいてらっしゃるのだろうか。
自分の信条として「神様佛様におねだり(お願いごと)はしない。」と決めております私ですが、このときばかりは、ちょーっとばかり、先生のことが羨ましくなりました。
ですので、いつものようにご挨拶申し上げた後、お諏訪さんに話しかけました。
「いえ、あのね?
あのですね?
宇賀神先生が貰われたような幸運の玉、ちょっといいなーなんて、思うんですよね。
いえ別にね、欲しいっておねだりするわけじゃないんですけどね。
ちょっと羨ましいなーなんて、思うんですよね。」
と。
すると驚いたことに、私はそのとき神様のお返事を聞いてしまったのです!
私は常に神様のお言葉をお聞きできるわけではありません。
本当に、何かの拍子にお言葉をいただけるときと、イメージを見せていただけるときと、そうでないとき(の方が多い)があるのです。
ですがそのときは、はっきりとしたお言葉としてお聞きしたような気がいたしました。
私の話しかけにたいして神様は、ありがたいことに
「何を言う。お前こそが『運玉』じゃ!」
と、おっしゃってくださったのです。
イメージではなく、はっきりとしたお言葉をお聞きしたこと自体もびっくりしましたが、さらにそのありがたい(有り難い)内容にも驚きました。
ですが、そのとき私に見えた「私の運玉」のイメージは、温かい光ではありましたもののそれほど輝きが強いようには見えず、宇賀神先生にお聞きしていた「ぴかぴか」の輝きからは遠いような気がいたしました。
「ええーっ、ありがとうございます!
ですが・・・ちょっと私のは光が弱いような気がするのですが・・・。」
と申し上げますと、神様は、
「だからこそ、『玉磨かざれば光なし』と言うのじゃ!」
と、きっぱりとおっしゃいました。
Oh, my God・・・!!
と、思いましたね。
あまりにも当たり前すぎる、正論すぎるお言葉でした。
さすが神様です。
清く、正しく、美しくていらっしゃいます。
改めて敬服し、
「おっしゃる通りでございますー!
ありがとうございますー!!」
と、平伏してお礼申し上げました。
あのとき宇賀神先生がお諏訪さんに何をいただかれたのかは分かりません。
もしかしたら、普通はなかなか貰えない、とってもいいものだったのかも知れません。
ですがあの時、あの有り難いお言葉をお聞きして、先生のことを羨ましく思うことはなくなりました。
「私こそが運玉。」
「玉磨かざれば光りなし。」
これ以上の指針は必要ないですね。
このお言葉を下さったということは、
「磨けよ。」
つまり、
「お修行に励みなさいよ。」
ということです。
つまり、
「磨けば光るのだから。」
と。
たとえ今の時点で「前世からの功徳(貯金)の繰り越し」がめちゃくちゃに多くなくても、今世の「磨き」次第でいくらでもぴかぴかになるんだ。
そう思いますと、奮い立つような気持ちになり、勇気がわいてきます。
クラウンチャクラがどうのこうの、ではないのです。
全身で光り輝くような存在になるのです。
また、もうひとつ付け加えますならば、お諏訪さんのそのお言葉をお聞きしましたとき、「私」だけが特別な運玉なのではなく、皆一人一人が運玉なんだ、とも思いました。
ですので、どなたも実は幸運の運の玉で、さらに、ご本人がそれを磨くことにより、ますますその輝きは増していくのだと、そう思いました。
いえ、表現がちょっと違いますね。
「私が思った」と申しますよりは、「お聞きして分かった」のです。
私はお諏訪さんにお聞きして、そう分かりました。
誰もが皆、ぴかぴかに光る可能性を秘めている「運の玉」。
磨かない手はないですね。
(はやく私も全身で光り輝きたいもんだ( ̄∇ ̄)♥)
合掌
宇賀神先生が以前に勉強会で、「ぴかぴかと頭上に光る運の玉」について教えてくださったことがございます。
その頭上に光る玉とは、ヨガの世界ではクラウンチャクラや第7チャクラとも呼ばれていますね。
私にとりましてはとても印象的なお話でしたので、皆さまにもシェアしたいと思います。
ある冬の日の朝に宇賀神先生が車を運転しておられますと、パチンコ店の前に、開店を待って並んでいる中年世代の人達が見えたそうです。
失礼な言い方ですが、身なりもいいとは申し上げにくく、寒そうに震えながら並んでおられたのですって。
一体何を好き好んでパチンコのために寒空のもと震えながら並んでおられるのか、と思って見ますと、突然、その人達の頭上の「運の光の玉」が、とてもぴかぴかと輝いているのが見えたのですって。
先生はとてもびっくりなさったそうです。
と、申しますのも、その運の玉は、光を増すほどに運がよく恵まれた人生を歩めるものだからです。
宇賀神先生は不思議に思われました。
そんなにぴかぴか光るような強運の玉に恵まれている人達が、どうしてパチンコ店の前で朝から並んでおられるのか。
もっと、世に出て働き、活躍するなり、充実した人生を歩んでしかるべき強運に恵まれたような人達なのに、どうして、と。
このように思われますのは、ひとつには、宇賀神先生はパチンコなどの博打がお嫌いなのです。
「そんな博打に溺れずに、もっと人生上するべきことがあるはずだ。」
と、おっしゃっています。
ですが、あんまり不思議でしたので、宇賀神先生は佛様に尋ねられました。
「とてもじゃないけれど、恵まれた人生を歩んでいるとは思えないような身なりの人達がパチンコ店の前に並んでいました。
でもその人達の頭上の運の玉は、その人達の人生とは裏腹にぴかぴかと光り輝いていました。
それはどうしてですか?」
と。
すると、佛様が教えてくださいました。
この世は魂のお修行の道場だそうです。
生まれてきた人間は、それぞれの人生においてお修行し、功徳を積み、その功徳を持ってあの世に帰るのだそうです。
お修行とは、何も出家して読経したり滝行するようなことだけを指すのではなく、生きることそのものがお修行なのですって。
サラリーマンとして働くことも、主婦やお母さんとして生きることも、すべて、それぞれの人に与えられたお修行なのです。
それぞれの人生を魂のお修行と思い定め、歩んでこそ、功徳も積めるのですとか(多分)。
前世でよい人生を歩み、よいお修行をなさった人は、申しますならば人生というテストの点数(功徳)が良かった人です。
そのテストが満点になりますと、多分、悟りを得るとかの境地になるのでしょうか。
ですが、やはりなかなか満点になる人はいないようです。
ですので、佛様から
「もう一回別の人生を歩んでお修行し、点数(功徳)を得てきなさい。」
と、再びこの世に送り返されるのですって。
つまり、生まれ変わります。
ただ、満点ではなくとも好成績を収めた人は、次の人生で初めからちょっとしたアドバンテージをつけていただけるそうです。
それが、ぴかぴか光る運の玉に表れている、「強運」という名のアドバンテージです。
頭上の運の玉は前世の行い、つまり前世の功徳により光り輝いているのだそうです。
そのような人達は運が強いため、賭け事や勝負に強かったり、子供の頃はジャンケンやかくれんぼが強かったりするのですって。
よく「あの人は運が強いね。」と言われるような人達は、他の人に比べてこの頭上の光が強い人達だそうです。
ところが、これがまた人生の難しいところでありますが、なまじ運が強いため、悲しいかなその強運にあぐらをかいてしまうことが往々にしてあるそうです。
初めから持っている強運に輪をかけて努力なさる人もいらっしゃいますが、逆に努力を怠り、せっかくの強運をギャンブルに使ってしまう人がいらっしゃいます。
もちろん歯を食いしばって努力することがイコール功徳を積むことではありませんが、少なくとも、せっかくの運の良さをパチンコなどのギャンブルに溺れるような生き方に使うことは、功徳からは離れるような気がいたしますね。
「強運にあぐらをかく」
と、佛様はおっしゃったそうです。
せっかく積んだ前世の功徳を、今世で浪費するような生き方は勿体ないですね。
またそうしますと、今世では「よいお修行をした」とは言えないようで、功徳という名の人生の点数が低いままあの世へ帰ることになります。
点数が低いということは、今度は来世で、今世で持っていたぴかぴかの運の玉を失くした状態で生まれてくることになります。
それはつまり今世のような強運に恵まれず、人よりかなり努力しないといけないような人生になるのですとか。
何ともコワイ話ですね。
と、このようなことを宇賀神先生は佛様から教えていただきました。
先生は、大いに納得なさったそうです。
ですが、ここだけの話、宇賀神先生ご自身もお若い頃(今のお仕事を始められる遥か以前)はパチンコでお小遣いを得ておられたほどなのですよ。
そこそこ勝てたのですって。
なのにどうして先生は博打・賭け事がお嫌いになられたのか?
それは、
「宇賀神先生の人生そのものがギャンブルだから!」
に決まってますね!
もう少し堅実な人生を歩めばよかったものを?、なぜかギャンブル並みに波乱万丈な人生に・・・!?
もうこれ以上ギャンブルしなくても充分過ぎるよー!とご自身で気づかれたのでしょう、きっと。
v(^-^)v
それにしましても、ぴかぴか光る運の玉、ちょっと羨ましいですね。
明日はもうひとつ、運の玉についてのお話をさせていただきたいと思います。
合掌
正直に告白いたします。
もちろん私自身も温泉の中で氣を取るようなイメージを持ち、呼吸しますが、宇賀神先生のように強烈に取れるかと申しますと、多分そうではありません。
宇賀神先生は、ご自身がなさっているお加持や氣功に関しましては、「誰にでもできる」という信念のもと私達に勉強会で教えてくださっています。
ですが、例えますなら、「教えたらきっと誰でもある程度は速く走れるようになるけれど、誰もがオリンピック選手並みに速く走れるわけではない」という個々人の差は、残念ながらございますね。
氣功に関しましても、同じことを感じます。
まずそもそも、持って生まれた氣に差がございます。
これを「先天の氣」と申します。
この先天の氣は両親からいただいたもので、漢方で申しますところの腎氣だそうです。
腎氣とは、正確には腎臓そのものにのみ宿るわけではないようですが、腎臓とは大いに関係あるようです。(すみません、めちゃくちゃ難しい漢方は私はよく分かっておりません。)
腎氣を両親からいただいてこの世に生まれてきて、年とともに減っていき、最後は無くなって文字通り亡くなります。
この腎氣=先天の氣が豊かで力強いと申しますような、恵まれた方がいらっしゃいますね。
先天の氣が強いと、身体が丈夫だったり、また運も強かったりします。
逆にそうではない方もいらっしゃいますね。
ですが、先天の氣がございますなら、「後天の氣」も存在いたします。
後天の氣は、別名「水穀の氣(すいこくのき)」とも呼ばれるそうです。
これは生きていく中で、自分で得ていくものです。
水穀とは、文字通り水と穀物、つまり食べ物を意味します。
申し上げるまでもないですが、私達は他者の命をいただいて生きております。
動物(肉類)にしましても、植物(野菜)にしましても、もともと人間と同じく生きていて、栄養素だけでなく、人間と同じように氣を持っておりました。
やはり新鮮ですとか、農薬や添加物などの薬品を使っていないものの方が、よい氣に溢れているでしょうね。
また、食べ物のほかに後天の氣を得る方法といたしまして、代表的なものは、
*氣功による導引術
*功徳を積む
だと、宇賀神先生はおっしゃっています。
氣功による導引術に関しましては今週ご紹介しました「一番簡単な氣を取る瞑想法」をご参照くださいませ。
お若い頃の宇賀神先生は、もっぱら導引術に専念して今のお力を得られました。
次の「功徳を積む」が、なぜ後天の氣を得るのに大事なのかは分かりづらいかも知れませんが・・・。
今日のお話の中での功徳とは、道徳的な意味の功徳とは少し違い、つまりは「氣を用いて人様の苦しみを取り除くこと」に特化したもの、と捉えてください。
宇賀神先生は、いつも、
「氣はお金と同じ。」
とおっしゃっています。
それは、
「たくさん持っている方が有利。」
というのと同時に、
「使うのは簡単だけど、稼ぐのは大変。」
という意味もあります。
「子供にだってお金は使えるけど、子供にお金は稼げないだろ。」
と、いつもおっしゃっています。
皆様も一般的な気功治療という言葉をお聞きになられますと、「他者の患部に手を当てて氣を入れる」ようなイメージを持たれるかと思われます。
それぐらいポピュラーなイメージですね。
実は、あれは誰でも結構簡単にできてしまうのです。
と、申しますのも、例えば自分のお腹が痛いとき、人は自然とお腹に手を当てますよね。
看護師さんの「看」という字は、「手を目の上に(キリスト様のように)かざして治す」という象形文字からきているそうです。
つまり、太古の昔から、人は本能的に「手を当てて」=「手当て」、治してきました。
ですので本当は、この手当ての力は人間の本能的なもので、誰にでもあるのです。
当然、自分だけでなく他者にだって効きます。
ところが、「氣はお金と同じで、使うのは簡単だけど稼ぐのは難しい」のです。
ですので、「人が痛がっているところに手を当ててあげたら治ってしまった。」と申しますようなときは、つまりは自分の貯金を他者のために使ってしまったときなのです。
氣を貰ったほうの人はお金をもらったのと同じで元気(裕福)になりますが、氣をあげたほうの人はお金を使ったのと同じで貧乏になってしまいます。
よく、「自分は天からの氣を通すパイプ的な存在で、他者には自分の氣を分け与えているのではなく、天からの氣を自分の手を経由させて届けているだけ」と、おっしゃる方もいらっしゃるのですが・・・実際のところは分かりません。
もちろん時には、宇賀神先生も意念としては「天地宇宙の氣を用いて」氣を入れられるようなときもございますが、だれ彼ともなく手を当てて氣を入れておられるわけではありません。
体内の氣を測る測定器などないわけですから、むやみやたらとそのようなことをするのは、ちょっと怖い話です。
先生はお仕事で1日に何人もの方を相手になさるのですから、下手をしましたら、自分の氣(イコール、命の源)を減らしてしまいます。
では何故、そんな氣を減らすかも知れない行為が「功徳を積む」として、氣を増やすための手段となり得ますのか?
宇賀神先生は、いわゆる「気功」に近いことをなさいますとき、ほとんどご自身の氣を使わずに行っておられます。
お金に例えますなら、自分の貯金の利息部分だけを投資し、更にその投資の利益部分のみを使う、というイメージでしょうか?(うーん、そんな生活してみたい。)
そして、反復練習すればするほど、その分野には長けてきますね。
氣を、量ではなく回数・機会として使えばつかうほど、ますます氣に精通し、ますます氣を導引できるようになれます。
ですので、功徳を積む=人様の苦しみを取り除く、をすればするほど、氣を増やすことができる、と宇賀神先生はおっしゃるのです。
人様の苦しみを取り除くことは、佛教の言葉で申しますところの、「抜苦与楽(ばっくよらく)」となります。
つまり、衆生の苦しみを取り除き、安楽を与えるという佛様のお仕事(慈悲)と同じです。
宇賀神先生は、氣の鍛錬をすればするほど、人様のお役に立てて、佛様の抜苦与楽のお仕事のお手伝いもできる、と申しますような、なんとも贅沢な立場にいらっしゃるのです。
「わしは神さん佛さんのエージェントだから。」
と、先生はいつもおっしゃっています。
エージェント、つまり、神様佛様の手先となって働くんだ、と。
いいですね、ジェームズ・ボンドかイーサン・ハントみたいで。
なんだか書いてて羨ましくなってきちゃいました。
合掌
宇賀神先生は「信仰とは、佛様に惚れて惚れて惚れぬくこと。」と、いつもおっしゃっています。
私はこの宇賀神先生の単純明快な考え方が大好きです。
私の頭は単細胞もいいところで、哲学的なムツカシ―ことはそもそも考えることを拒否してしまうのですが、宇賀神先生のこのお言葉は、すんなりと受け入れられました。
宇賀神先生は、
「だからね、そこには打算がないんだよ。
こっちの佛さんよりあっちの佛さんの方がご利益がありそうだ、ってごちゃごちゃ考えて拝むのは打算だよ。
それは、亭主の年収が高いから結婚するけど、収入が低くなったら好きでなくなる、もっと年収の高いあっちの男を好きになるっていうのと一緒だろ。
そうじゃなく、出会って、『この佛さんは・・・!』と思ったら、それでいいんだ。
一度惚れ込んだら、そのまま行くんだ。」
と、おっしゃいます。
そして宇賀神先生いわく、
「だから、お経は佛さんへのラブコールなんだ。
毎日『好きだー!好きだー!』ってラブコールを受けてると、たとえ初めはそんなに好きでなかったとしても、段々気持ちがほだされていくだろ?
そのうち『ちょっとは可愛い人間だな』って思ってもらえる日もくるかも知れんじゃないか?
だから、毎日佛さんにお経を読むんだよ。」
うーん、押しの一手、でしょうか?( ̄∇ ̄)
ちなみに、お経のことをなぜ「お経」と呼ぶのかと申しますと。
「経」とは、縦糸のことだそうです。
地球でも経度と申しますと、南北に走る縦の(位置を測るための)線のことですよね。
お経とは、佛様から人間に垂らされた御教え(佛法)の糸なのです。
お経とは佛様からいただいた御教えのお言葉で、有り難いものなのです。
ですので私達はお経本を開く前には、人様からプレゼントをいただいたときのように、必ず押し頂きます。
そして、佛様のお言葉(御教え)でありますお経をお唱えして、佛様に喜んでいただきます。
これを「ご法楽」と申します。
「佛法でもって佛様を楽しませる」のです。
お経を唱えることを
「毎日あなた様のお好きなお言葉をお聞かせして、喜んでいただきたいのですよ」
というように解釈なさって、宇賀神先生はそれを佛様へのラブコール、とおっしゃっているのです。
このように解釈しますと、お経は何ら辛気臭い(ごめんなさい。)ものではなく、楽しいものに思えてきますね。
そしてもし、この話をお聞きになって、
「お経を唱えることを楽しいことだというふうに捉える考え方があるんだな。
でも、般若心経もよく知らないし。」
と思われた方がいらっしゃいましたら、朗報です。
一番短い佛様への賛辞をお伝えいたしましょう。
それは、
「南無佛(なむぶつ)」
です。
これは日本に佛教が伝来しました、聖徳太子の時代からある言葉だそうです。
当時日本に住む人々は、新しく入ってこられた佛様に対してどのように拝めばいいのか分かりませんでした。
何しろ佛様とは初対面でしたからね。
現代のようにネットでGoogle検索すれば何でも分かるようなご時世でもありません。
そんななか、一番短くて一番簡単な佛様へのご挨拶が「南無佛」として伝わったそうです。
「南無」とは、帰依いたします、という意味です。
南無佛は、お経と申しますよりは、ご真言に近いような短さかも知れません。
日本で一番有名であろう般若心経も知らないけれど、佛様にご挨拶する言葉を知りたいな、と思われる方は、「南無佛」、簡単で分かりやすくていいのではないでしょうか。
「南無佛、南無佛、南無佛」
と、3回ほどでもお唱えいただければと思います。
押しの一手のラブコール、皆様のお気持ちも佛様に伝わりますように♥
合掌
前回の「一番簡単な氣を取る瞑想法(イメージ法)」で、宇賀神先生の瞑想法はほとんどがイメージ法です、とお伝えしました。
ですので、氣を取る(氣の導引術を行う)ための一番簡単な方法としまして「まず、ご自身のお身体を包み込むような卵型の氣のボディをイメージしてください」と、お伝えしました。
イメージ・・・するだけで、氣が本当に体内に取り込めるようになるの~?と思われたアナタ様、そのお気持ち、よぅーく分かります。
そんなに簡単でしたら、誰でもすぐに氣の達人になってしまいますものね。
実は、このイメージ法で本当に皆様が氣を(実際に)たくさん取れるようになるのかは、ワタクシにも分かりません。
ですが、氣を本当に意識的に取れるようになる第一歩が「イメージ」であることだけは、確かです。
人間のイメージ力(想像力)は、全ての夢を叶えるための出発点です。
宇賀神先生が、よく勉強会でおっしゃってたイメージ力の凄さのたとえ話をいたしましょう。
それは、ジュール・ヴェルヌの小説「海底2万里」です。
この本の中で、たしか主人公は潜水艇「ノーチラス号」に乗って海の中を旅します。
お恥ずかしながら私は読んではいないのですが、この小説が発表されました1870年当時、これを読まれた方達は、今まで見たこともなかったような海の底の世界を想像して胸をワクワクさせたのではないでしょうか?
ジュール・ヴェルヌの小説の中でノーチラス号は、海水を取り込み、そこから燃料と酸素を作りだしていました。
つまり、無限の燃料が存在し、永遠に海の中に潜っていられたのです。
そして、この本が出版されてから後、現実の世界で作られた世界初の原子力潜水艦の名前が「ノーチラス号」でした。
ノーチラス号は世界で初めて、原子力で動き、北極点の氷の下を潜航状態で通過しました。
原子力の良し悪しは別としましても、ディーゼルなどの燃料補給を必要とするわけではありませんから、無限に近いと言えば近い燃料ですね。
宇賀神先生は、
「つまり、ジュール・ヴェルヌが想像したことが現実になったんだよ。
海水の中にもウランはいっぱいあるからね。」
と、おっしゃいます。
もちろんジュール・ヴェルヌだけでなく、今私たちが日常生活で恩恵を受けております様々なこと、例えば電気ひとつをとりましても、一番初めは世界の誰かが「こんなのがあったらいいのにな。」「こんなこともできるはずだ。」と願い、想像することにより創造されてきたものです。
創造の出発点は想像です。
「想像『力』」。
想像には、力があります。
そう言えば、ひとつ思い出したのですが・・・宇賀神先生の想像力がどれほど筋金入りなのか、と申しますエピソードを。
宇賀神先生が小学校の頃からずっと、「おばかのやっちゃん」と周りの方から言われるほど、今で申しますところの学習困難児、その当時は「異常児」のレッテルを貼られていたことはお伝えいたしましたね。(思い込みのチカラ)
中学校の英語の教科書の表紙に、荒野を走るアメリカのハイウェイの写真が載っていたのですって。
現在の日本では容易に想像できるアメリカの光景かも知れませんが、当時の日本はまだ東名高速もできていないような時代でした。
宇賀神少年はもちろんのこと、英語の先生もその写真のハイウェイが一体どんなものであるのかを詳しくご存じではなかったそうです。
教科書の表紙は、ちょうどそのハイウェイが十字に交わっているところの写真だったようで、日本の高速道路のジャンクションのように、ぐるりと小さく円を描いている道も交差点のすぐ横に写っていました。
宇賀神少年がその表紙の写真をじーっと見ていますと・・・
段々とその写真の世界に入り込み、自分が車に乗って運転していて、そのハイウェイの交差点を通過していく景色が見えてくるんですって。
(中学生で運転したこともないくせに。)
そしてそのまま車を走らせますと、土と岩ばかりの荒野のハイウェイのすぐそばにドライブインらしき建物が見え、その鎧壁(よろいかべ)の白色のペンキが風になびいてヒラヒラとはがれかけているところまで見えてきたそうです。
そして、「教科書の中のアメリカ」に没入しております宇賀神少年をご覧になった学校の先生は、
「宇賀神くん、夢は寝てから見ろ。」
と、何とも適格なアドバイスをくださったのですとか。
このように小さい頃から宇賀神先生は、
写真一枚ですらその世界に入り込み、まるで映画の主人公になったかのように周りに景色が展開していく、
ほどの想像力をお持ちなのでした。
特に、このブログでお伝えしております宇賀神先生の加持祈祷や氣功、霊能力などの目に見えない力には、イメージする力が大いに求められます。
イメージをただの空想に留めないほどに強烈に鮮明にできましたなら、もしかしたら前回お伝えしました、氣を取り込む量も増えるかも知れません。
と、何ともエラソーに書いておりますが、お恥ずかしながら、私も宇賀神先生のように「確実に膨大な氣を導引している」確信などは、いまだに持てておりません。
ただの先生の受け売りでございます。
確かに、この間も湯峰温泉の中で導引術を行いましたときは、いつもよりもずっと長い間お風呂上りの身体のほてりが続いたような気がいたしますが、「それってのぼせただけじゃないの・・・?」と言われましたら、そうかもネ( ̄∇ ̄)、としか答えられません。
体内の氣を測る測定器があるわけではないですからねぇ。
ですが、宇賀神先生のお考えでは、「まずはイメージすることが大事」だそうですから。
まあ、どうせ気持ちのいい温泉や神様佛様の聖地で氣を取り込むのですから、のんびりと楽しみながら、イメージしてみましょうね♥
合掌