もらい子のお不動さん

そう言えば、うちに「もらい子のお不動さん」がいらっしゃるのですが、このお不動さんは、ひょんなご縁で30年以上前、宇賀神先生のもとへ来られました。

そのお不動さんは、昨日の水子供養のお話にでてきました、「当時の仙台では有名だった新興宗教団体」の教祖様の師匠にあたられる方?が彫られたお不動さんらしいのです。

 

宇賀神先生ももう正確な年月は忘れてしまわれましたが、仙台で今のお仕事をなさっていた頃、Mさんとおっしゃる女性のご相談者様がおられました。

その方が家のお掃除をなさっていたとき、押し入れの天袋を掃除しようと押し入れによじ登られました。

そして、なんと押し入れの上の段から落ちてしまわれたのです。

 

ひどく腰を打ちつけ、歩くのもやっとの状態で宇賀神先生のもとへとやって来られました。

先生がお加持なさり、無事に彼女は楽に歩けるようになられたのですが、そのときふと、先生に「見えて」しまったものがありました。

先生は彼女にこうお伝えしました。

「あんたが掃除しようとしていた天袋の奥に、新聞紙でくるまれて麻ひもで巻かれたお不動さんが横に寝かされて、しまい込まれているんだよ。

でもそのお不動さんは『立ち不動』と言って、立って(衆生済度のために)働きたいんだな。

だからあんたに自分の存在を知ってもらいたかったんだ。」

と。

 

Mさんが家に帰って押し入れの天袋を見ますと、果たして奥の方に新聞紙と麻ひもでくるまれたお不動さんの像がございました。

真っ黒に塗られたお不動さんです。

そのお不動さんは、彼女のお姑さんの遺品でした。

お姑さんは、先述の宗教団体の教祖様と共に師事していた方がおられ、そのお師匠様が自ら彫られてお姑さんと教祖様に贈られたそうです。

 

恐くなったMさんは、お不動さんの像を宇賀神先生のところへ持ってこられました。

先生はご覧になり、

「申し訳ないけど、これは素人の彫りもいいところだね。

その教団の信者さんにとっては価値のあるものかも知れないけれど、残念ながら一般的な佛像としての価値はないと思う。」

と、お伝えしました。

Mさんは、

「でも先生、私はやっぱり怖いから先生が貰ってやってください。」

と、おっしゃいます。

「でもあんたの旦那さんはイヤがってんだろ?

『価値のあるものかも知れない』って。

もし旦那さんが『佛像を返してくれ』ってきたら、俺は返すしかないよ。」

「うちの旦那には絶対にここに来させませんから、先生~~、何とか貰ってやってください!」

「じゃあ、一応無期限で預かるから。

もし返してほしくなったら、いつでも言ってきな。

すぐに返すよ。」

と、こうして宇賀神先生は、結局そのお不動さんを預かることになさいました。

 

Mさんのご主人さんは、しばらくの間「あの佛像は価値があるに違いないから返してもらえ!」と毎日のようにMさんにおっしゃっていたようです。

ですがある日を境に、ピタリと何もおっしゃらなくなりました。

そのことをMさんからお聞きした宇賀神先生は

「ちょっと危ないんじゃないかな。」

とMさんにお伝えしましたが、ご主人さんは何とそのまま、あれよあれよという間に認知症になられ、ほどなくして亡くなってしまわれました。

 

Mさんは、

「お不動さんがうちへ帰りたくなかったから、返せ返せってうるさかった亭主にやめさせたんだね。」

と、おっしゃったそうです。

宇賀神先生は、

「いやいや、お不動さんがそんなひどいことするはずないよ。」

とお伝えしましたが、結局Mさんは怖がられて、お不動さんを先生に譲られました。

そして何故かその後すぐ、ご主人さんの後を追うようにMさんも亡くなられたそうです。

 

真っ黒なお身体のお不動さんは、こうして宇賀神先生のもとへとやって来られました。

Mさんがおっしゃったようにお不動さんがMさんのご主人さんに何かなさったとは思えません・・・仮にも佛様です。

ですが、Mさんは怖がっておられたそうです。

 

今では、そのお不動さんは私たちの自宅にお祀りしています。

そのお不動さんは、やはり、「素人さんが彫られたのかな」という荒い彫りをなさっていますが、宇賀神先生の目に「“立ち不動”として働きたい」という意思を持って映られたのは確かですから。

昨日お話しました、水子供養をしている某新興宗教団体に関わりのある方が彫られたものですが、ご縁があったとして、うちに大切にお祀りしています。

 

Mさんのお話をお聞きしたときに宇賀神先生に「見えて」しまった、それがご縁となったのですね。

ときどき、ひょんな拍子にひょんなことが見えてしまう宇賀神先生。

それが「見えた」ときは、かなりの確率で当たっています。

そしてそのワザが弟子である私に引き継がれ、先生の盗み酒をかなりの確率で見破ってしまうようになったのでしょうか、ねぇ?

 

合掌

 

水子供養に救いを求める人々

今日は水子供養に関しまして、「騙される人こうしてはお金を出してしまうんだなぁ」と言うお話をしたいと思います。

これは宇賀神先生が今のお仕事を始められる少し前、まだ仙台に住んでおられ、ぼちぼち佛教や密教のことなどの勉強を始められたころのお話です。

 

宇賀神先生は、当時はコンクリートの運送会社に勤めておいででした。

先生の上司にあたられる方、通称Fちゃんが、仙台では有名な新興宗教団体で水子供養をなさっているとおっしゃったそうです。

その新興宗教団体では、「霊媒」をしてくれ、依頼者は亡くなった霊や水子と話ができるとのことでした。

 

そのFちゃんはおっしゃいます。

「俺が行くとな、(中絶して亡くなった)子供がな、嬉しそうに『父ちゃんー!』て出てくるんだよ。それでな、その子が『今度あの世で小学校に上がるから、ランドセルが欲しい』って言うんだ。だから今度持っていってやるんだよ。」

Fちゃんの亡くなった子供さんが、霊媒師の口を借りて語ったことを、このように話されました。

そして、もちろん本物のランドセルをお供え用に買っておられました。

宇賀神先生が、「そのランドセルをあの世に届けるのにいくら払うの?」と尋ねますと、その当時のお金で10万円、と答えられたそうです。

 

少しは佛教の勉強も始めておられた宇賀神先生はびっくりして、「それは絶対におかしいよ。」とFちゃんにおっしゃいました。

「水子があの世で育つなんて、そんなこと、どの佛教の宗派も言ってないんだから。

それにランドセルで10万円じゃ、次は自転車、中学校のカバン、それで大学生になるころには100万円のお供え料を取られるよ。」と。

そして、ひとつ入れ知恵をなさいました。

 

「今度その子供に会ったら聞いてみな。

『お前のお母さんの名前は?お前の誕生日は(霊にとりましては、あの世に行った日が誕生日です)いつだ?』って。

そしたらきっとその霊媒師は『そんなこと聞かないで~』って子供が泣くフリをした後、霊があの世へ逃げ帰った、って言うよ。

そして横についてる教団の人間はきっと、『なんてひどいことを言うんだ!霊が混乱するからやめてくれ!』って、きっと怒りだすよ。

でも水子が育っているなんてことがそもそもウソだから、Fちゃんの本当の子供だったら答えられるはずの母親の名前さえ、絶対に答えられないよ。

Fちゃんを父親として認識しているのに、母親が分からないなんてヘンだろ。」

と。

 

そのアドバイスに従い、宇賀神先生の当時の上司Fちゃんは、ランドセルをお供えする日にそう尋ねてみました。

そうしますと、果たして宇賀神先生が予言なさったようにFちゃんの“子供”は、「そんなこと聞かないで~」とあの世へ逃げ帰り、教団の人は「なんてひどいことを!霊が混乱するからやめてください!」と怒られたそうです。

後日、Fちゃんはおっしゃいました。

「宇賀ちゃんの言う通りだったよ。俺も目が覚めた。もうあそこへは行かないよ。」

と。

 

今から40年近く前の、実際の話です。

仙台では有名な新興宗教団体は、このような「霊媒」「水子供養」をしてお金を儲けて大きくなりました。

供養の名のもとにこのようなやり方をするのは、人の心の傷につけ込んだ商法では?、と言いたくなります。

 

実際に東北では、たとえば有名な青森の「イタコ」など、祖先の霊などとの仲介をしてくれる霊媒を職業となさる方は多くいらっしゃいました。

もちろん中には本当にそのような力を持っておられた方も少なからずいらしたと思います。

何しろ本物の「イタコ」は修行も命を懸けるほどに厳しく、歴史も長い職業ですから。

 

ですが、Fちゃんの引っかかった(と申しましても許されるでしょうか)宗教団体の霊媒師は、果たして本物かどうかはアヤシイものです。

にもかかわらず、そこで水子供養をなさる方があまりにも多かったため、その宗教団体は大きくなったのです。

名と実は、必ずしも一致しませんね。

 

Fちゃんのこの件は、本当にお気の毒だったと思います。

彼は彼なりに、その心の痛みに苦しんでおられたのでしょう。

彼のご家庭にどのような事情があり、中絶なさったのかは分かりませんが、そうせざるを得なかった“子供”を不憫に思い、供養することは決しておかしいことではありません。

ただその思いが行き過ぎてしまい、嘘をついている霊媒師や宗教団体の被害に合われることは、悲しすぎます。

 

救いを求める人々がいらして、本当に救いの手を差し出そうとする人々、救いの手を差し出すふりをして搾取する人々がいます。

霊などというものは目に見えないだけに、本物と嘘の見分けが難しいのです。

ですからこそ霊をつきつめようとしたり、深入りしたり(たとえば水子をあの世で育てようとしたり)せず、世間一般の常識の範囲内での関わり(供養)にとどめておかれたらいいのかな、と思います。

 

この世に生まれ落ちて後に亡くなった命であれ、この世界にでてくる前に亡くなった命(胎児)であれ、お身内を亡くされた方の悲しみが、悪意を持った人々に踏みにじられることなく、穏やかに癒えていくことを願っております。

 

合掌

水子供養

先日、日本でよく言われております水子供養につきまして、お伝えしたいことがございますと書きました。

それは、水子供養の名のもとに多額の金額をとられる事態におちいり、苦しまれる人が多い時代があったからです。

たぶん今でもその名残はあるのではないでしょうか。

 

単刀直入に申し上げますと、そもそも「水子供養」などという概念は佛教上のどこの宗派にもありませんでした。

たしか1歳未満で亡くなった子供(中絶や流産などによる死産も含めまして)は、以前は孩子(がいし)と呼ばれていたようですが、そもそも、とくに遺骨もない胎児を供養する概念がなかったのですとか。

 

ところが日本で戦後、海外へ出兵していた兵隊さん達が皆帰国なさったときに、ベビーブームが起きます。

たくさんの女性が妊娠なさるのですが、何しろ日本は焼け野原で今日食べることにも事欠く毎日です。

当然、赤ちゃんが生まれても育てられないと中絶する方達も一度に増えました。

戦後の日本で優生保護法の名のもとに中絶が許されるようになったのです。

 

女性でしたら一度身ごもった子を、まだ形作られていない程の日数でありましても、堕胎することは心に深い傷を負います。

例えばある日、そんな女性が膝を痛めますと、自称・霊媒師や占い師、新興宗教団体が

「あんたの膝には水子がついてるよ!」

などと言って脅かすのです。

そしてその水子の供養と称して多額のお金を取るのです。

「水子があの世でちゃんと育つために」相応の供養をしてあげないといけない、と。

水子があの世で育つなんて、その時代の多くの日本人に植え付けられた体のいい作り話です。

 

ベビーブームの時代背景は、そのまま「水子」扱いされる堕胎された胎児の増加につながりました。

そして、戦後は水子供養で儲けに儲けて大きくなった新興宗教団体の多い時期でもありました。

つまり、詐欺的な水子供養に泣かされる人が多い時代でもあったのです。

 

ですが、ちゃんとした普通のお寺さん?にも「水子地蔵」さんが祀られてたりするではないですか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかも知れません。

正規の佛教でも水子供養は行われているのでは、と。

 

それは逆で、戦後に水子供養の名のもとに多額の金品を騙された方があまりにも多く、見かねた日本の佛教界の苦渋の決断でもありました。

そんな変な新興宗教団体に騙されるよりは、お寺で常識的な供養をなさってはいかがでしょうか、という態度をとられたのです。

以前にも申し上げましたが、お葬式や法事はお釈迦さまの御教え(佛教)とはあまり関係がなく、それは日本の「世俗の習慣」です。

(少しさかのぼりまして、インドで始まった佛教が中国に伝わった時点で、ご先祖を大事にする中国の文化と融合し、先祖供養が佛教に取り入れられたそうです。)

乱暴に申し上げてしまえば、死者を弔うことは、死者を敬い、生きている人の心を慰めるための世俗の儀式でしかありません。

昔からあった普通の?常識的な?お寺さんたちが、時代背景として増えてしまった中絶のため、水子供養を必要とする人々のために、それまで無かった概念を取り入れられました。

水子供養を必要となさったのは、供養の対象である「流された胎児」ではなく、中絶なさった「お母さん」の方だったのです。

 

ですが、それが結局功罪となり、今の時代となりましては、

「ちゃんとしたお寺さんにも水子地蔵さんがあるじゃないか。やっぱり水子供養は必要なんじゃないか。」

と思われる方も少なくないのだと思われます。

ニワトリと卵、どちらが先か分からなくなってしまったのです。

 

ただ、そのような背景を存じておりましても、また、まだまだお伝えしきれていないお釈迦さまの霊に関する様々のお言葉を存じておりましても、私もやはり日本人、先日お話しました、生まれて間もなく亡くなった私の従妹の供養をし続けたいと思っております。

実際には生後数日で亡くなりましたのに、夢の中で出会った彼女は高校生くらいの少女に育っていた、と書きました。

確かに私は彼女に出会った、と思ってはおります。

ですがそれはただ単に私の感性の問題です。

育っていたように思いましたが、それが本当かどうか分かりません。

育っていたことがいいことなのか悪いことなのかも分かりません。

そしてそもそも、その夢で出会ったのが本当かどうかすら、分からないのです。

お釈迦さまの遥か彼方の弟子でありたいと願う私としましては、これらのことは、どうでもいい、どちらでもいいことです。

それにこだわることは、私の修行に何ら寄与しません。

 

ただ、私は人の情として、同い年の従妹として生きるはずだった彼女のために供養しようと思っているだけです。

お釈迦さまも、ご自身の葬儀に関しましては、

「町の人と後世の学者に任せて、お前たち(お弟子さんたちのこと)はサイの角のように道を歩め」

とおっしゃいました。

世俗の習慣である葬儀を、ご自身には必要ないと思われていても、人々の習慣を否定なさることはなかった、と解釈しています。

 

ですので、水子供養をなさりたいと思われるお母さんやお父さんの立場の方のお気持ちを否定するつもりはございません。

人の情として、当然と言えば当然なのでしょうから。

ただ、その思いにつけ込まれるような事態にならないでいただければ、と願っております。

供養や佛教の名のもとに、誤解により不幸な目に合われる方がいらっしゃらないことを願ってやみません。

 

合掌

供養 その2

今日は私の経験から、お供え(供養)につきまして印象深かったエピソードをひとつご紹介したいと思います。

 

私には父方のおばが三人おります。

そのうちの妹二人は、確か40歳代と50歳代の、残念ながら二人ともまだ亡くなるには早すぎる年齢で亡くなってしまいました。

そのうちの一人の叔母には子供がおりませんでしたので、亡くなりましてからわりと早い時期に、私は毎食のお供えに叔母の名前も加えました。

私が生まれてから4歳くらいまで一緒に暮らしておりましたその叔母は、私と私の弟のことを、我が子のように可愛がってくれていました。

 

もう一人の叔母は、私は「Yおばさん」と呼んでおりましたが、子供、つまり私のいとこが二人おりましたので、あえて個別に名前をお唱えしてお供えまではしておりませんでした。

私はいつも松岡家先祖「累代」と、私の実家のご先祖様にお供えしておりますので、その中に入っていただいているという認識をしておりました。

 

ところがあるとき、何のきっかけだったかは忘れてしまいましたが、なぜかやはりYおばさんに対しましても個別に名前をお唱えしてお供えしようと思い、そうするようになりました。

本当に、今となりましては何がきっかけだったのか覚えておりません。

 

Yおばさんにお供えをしだしてからちょうど一週間ほどたちましたときに、私は夢を見ました。

 

夢の中で、私はどこかの病院の廊下のようなところにおりました。

とても明るく、まぶしいくらいの綺麗な世界で、周りには白衣を着たお医者様のような人達がたくさんおられました。

その中で一人、白衣でなく普通の服を着た、目がくりくりっとした可愛い高校生くらいの女の子と私はすれ違いました。

その瞬間はまるでスローモーションのように世界が動きます。

私はその女の子を見て、すごく懐かしいような、悲しく淋しいような、でもやっぱりどこかで会ったことがあるような、不思議な気持ちにとらわれました。

あ、そうだ、この子はYおばさんに似ているんだ、と思い、尋ねてみました。

「すみません。失礼ですが、ΟΟΟΟΟさんという方をご存知ですか?」と。

するとその女の子は何も言わず、ただ黙って首を横に振りました。

「そうですか、失礼しました。」

と、私は言い、お互いの目を見つめ合ったまま、彼女とすれ違いました。

でも彼女が私を見て、私が彼女の目を見る、それがとても切なく、胸にチクンと淡い痛みを伴うような思いでした。

そしてすれ違った彼女の姿を私は振り返って見ました。

 

その瞬間、私は一筋の涙とともに目覚めました。

そして目覚めたとき、その夢で出会った少女はYおばさんの子供で、生まれてすぐに(数日で?)亡くなってしまった私のいとこのKちゃんだと気づきました。

Kちゃんは私と同じ年に生まれました。

同い年のいとこになるはずでした。

ですが、悲しいことに生まれてすぐに亡くなってしまったのです。

私は夢の中で出会った少女がKちゃんの成長した姿だと、なぜか「知って」いました。

 

いつものことですが、この感覚は不思議です。

神様や佛様、お大師さんなど、また、霊でも、およそ目に見えない存在の方に出会った瞬間には、「確信」することがあるのです。

例えばその方がお大師さんであるとか、霊ならばどんな性別でどのくらいの年齢で、とか、その時々により様々な情報を。

1200年もの昔に生きておられたお大師さんに、実際にお会いしたこともないですのに、ましてやお写真もないですのに、見たこともない人に出会ってその人だと分かるなんて、普通はあり得ないと思います。

ですが、「なぜか分からないけれど、でも絶対にそうだと知っている」としか言えないような確信がある、ということが多々あるのです。

 

そして私はこの夢を見て涙とともに目覚めた瞬間には、それがKちゃんだと確信していました。

叔母の名前を尋ねたとき彼女は首を横に振りましたが、絶対にKちゃんだと知ったのです。

ですが、なぜ高校生くらいの年齢で現れたのかはわかりませんでした。

 

宇賀神先生に、夢で成長したKちゃんに会った、と話しますと、先生は

「それは綾野さんがYおばさんの供養をしだしたからじゃないのかな」

と、おっしゃいました。

私がYおばさんにお供えをしだして一週間ほどたっていたときでしたから。

Yおばさんにと送ったお供えが、母親からへその緒を通って胎児に栄養が行くように、Kちゃんに届いたのかも知れない、と先生はおっしゃいました。

 

そんなこともあるのかな、と、とても驚きました。

私が意図した叔母のさらに向こう側のKちゃんにまで、私のお供え物が届いたのでしょうか。

だとしましたら、とても嬉しいこと。

Kちゃんが生まれたのは確か私自身も生まれて数か月後(あるいは前?ごめんなさい、何日違いかは覚えておりません。)のことでしたから、実際には会ったこともないいとこでした。

ですが、叔母の二人の子供、Kちゃんの妹と弟にあたります、私の年下のいとことは小さい頃よく遊びましたから、もしKちゃんが元気に生きていてくれたら、同い年のいとことして仲良く遊んでいたと思います。

 

ですので、もちろんその日から、欠かさずKちゃんにも毎日ちゃんと名前をお唱えしてお供えを届けています。

あれから毎日お供えしていますが、数年前のあの夢以来Kちゃんを見たことはありません。

ですが、私はただただ、ご縁のあったKちゃんにお供えを届けたいと思い、そうしています。

佛教的な世界観で申しますと、「この世は縁によって成り立っている」ようですから、いとこというご縁に従い、また夢に出てきてくれたというご縁に従い、これからも彼女に届けようと思っております。

夢の中で初めて出会った彼女を、私はなぜか好きでしたよ。

血のなせる業(わざ)でしょうか。

 

ただ、彼女が成長した姿で現れたことに対しまして、ひとつ申し上げておきたいことがございます。

これはちょっと、日本には水子供養という言葉のもとに苦しまれた方が多くいらっしゃいますので、大切なこととしてお伝えしておきたいと思います。

そのお話は次回に。

 

***

・・・と、申し上げつつ、

また明日から出張などで出かけますので、次回の更新は月曜日くらいになるかも知れません。

お許しくださいませー!

***

 

合掌

供養 その1

宇賀神先生と私は、ご飯をいただく前に、必ずそのご飯を「お供え」いたします。

よく「供養する」とも申しますが、書いて字のごとく「供えて養う」のです。

一体誰を養うのでしょうか?

 

ご縁のございました、神様や佛様、守護霊団、ご先祖様、などです。

 

 

昨日の旅のアルバムのおまけと申しましては何ですが、嬉しそうなこの宇賀神先生のお顔を見てやってくださいな。

iwamatei
いわま亭

ここは仙台にございます鰻屋さんですが、宇賀神先生のお父様の時代から、法事をなさった後は必ずここで皆でお食事をなさっていたそうです。

こういうお食事のことを精進あげとか、精進落としとかおっしゃるのだそうですね。

 

宇賀神先生が仙台にご出張なさったときは必ずお墓参りをなさり、その後この鰻屋さんでお食事なさいます。

「親父とお袋が『絶対にここの鰻を送ってくれー。ビールとお酒と両方をつけて!』ってウルサイんだよー。」

と、宇賀神先生はおっしゃいます。

つまり、お父様とお母様があの世から「ここの鰻とビールとお酒をお供えしてほしい」と要請していらっしゃると。

本当は先生ご自身が美味しい鰻でビールとお酒の両方を飲みたいだけなんじゃないのー?と、思わなくもないですが( ̄∇ ̄)

 

とにかく宇賀神先生は、必ずここの鰻を亡くなられたお父様たちにお届けします。

そのとき必ずと申し上げていいほど宇賀神先生が嬉しそうにおっしゃるのには、

「わしが墓参りしてお経をあげて、その後に鰻を届けるだろ?

うちの親父が『周り(のお墓の住人?)に自慢できる』って喜ぶんだよー。

お坊さんが身内で、ありがたいお経あげてもらって、豪華な鰻料理で大宴会してもらえるなんて自分くらいなもんだー、って。」

 

うーん、あの世に行かれてまで「自慢できるって喜ぶ」だなんて、なんだかあの世もこの世もおんなじでしょうか?

お父様ってば一体・・・。

まあとにかく、宇賀神先生が召し上がるご飯を何倍にも増やしてお父様を含むご先祖様たちの大宴会を催すのです。

なんだか想像するだけで楽しそうですね?

 

あの世にいらっしゃるご先祖様たちや、神様佛様にご飯をお供えするのには、密教でのお作法もございます。

印(いん・手指で作る形のこと)とご真言と観想を用いまして、ご飯などをお届けいたします。

宇賀神先生は仕事柄と申しますか、もはや人生そのものが神様佛様と密接につながっておられますので、確実にお供えをお届けして当たり前と思っておられます。

(また、そうしないと、生きていけませんね?・・・とまでは言い過ぎでしょうか。)

 

ですが、これは私の意見ですが、僧籍など持たれていない方は、そのようなお作法などご存知なくても、少なくともご自身のお身内の方には、お心でもってご飯をお供えできるのでは、と思います。

何を以てしてあの世にいらっしゃるご先祖様や、見えない存在の神様佛様にお供えが届くのでしょうか、と考えましたときに、やはり一番大切なのは「心」であると私は思いたいです。

その人を想う、ご先祖様を想う、人の心が、必ず届けてくれると信じています。

 

もちろん、わざわざ私がこのようなことを申し上げなくても、人は自然とお供えものが届くと分かっておられるのでしょうね。

ですからこそ、供養という風習が長い歴史の中でも続いてきたのでしょう。

 

ただ、宇賀神先生の場合は、先程も申し上げましたが、ある意味本当に大変ですよ。

何しろ神様佛様も、守護霊団も数多くおられます。

神様のなかでも例えば宇賀神弁財天様などは「十五王子八万四千護法善神」(じゅうごおうじ はちまんしせん ごほうぜんしん)と申しまして、15人(柱)の王子様と84,000人(柱)もの配下の神様を従えておられるのです。

その名のごとく、法(佛法)を守るための神様の軍団です。

鰻御膳1人前が少なくとも84,016人前に・・・?

どうやって増やすのー???

と、思われて当然ですが。

これが増えて、ちゃーんと届いているのですねぇ。

何とも面白い世界です。

 

これから何回かに渡りまして供養についてお話していきたいと思います。

先週がお盆だったから、でしょうか?

私自身も供養は大切、と申しますより、供養っていいなぁと思っておりますので、その素晴らしさをお伝えできたらと願っております。

 

合掌

約2,500kmの旅

皆さん、お久しぶりです!

いかがお過ごしでしょうか?

夏休み休暇を取られた方も多かったのではないでしょうか。

 

宇賀神先生と私も、今年も夏休みを頂戴いたしました!

仙台出張を兼ねて、温泉湯治(いえいえ、“氣”を得るお修行です!)を兼ねて、往復で約2500kmの旅に行って参りました。

昔の武芸者にとりまして、旅そのものが修行であり、生きる術(武術指南など)であり、つまりは彼らの人生そのものであると、確か司馬遼太郎さんの本で読んだ記憶があるのですが、先生の人生もちょっとそれに似ているような気がいたします。

ありがたいことです。

 

今日はちょっとそんな宇賀神先生の旅のアルバムから。

 

kunimi-onsen
国見温泉にて

この国見温泉は、岩手県と秋田県の県境にございます、とっても不思議な色の温泉で、宇賀神先生の大好きな温泉です。

携帯電話は、ほぼ“圏外”です。

温泉はもちろん素晴らしい氣に溢れていて、旅館の飲み水もすべて秋田駒ヶ岳の湧水ですので、身体の中から浄化されるような心地です。

空気も水もお米も何もかもが美味しく、私などはこの国見温泉・石塚旅館さんに泊まりますと、ご飯は必ずお茶椀2杯(以上?)食べてしまいます。(普段はそんなに食べませんよ。)

山登りしたときのようです。

ちなみに大学生の頃、両親に連れられて日本のアルプス縦走登山をしたときなどは、「どんぶり飯3杯」食べていました。

運動ってオソロシイ・・・。

まるで「めしの半田屋」さんのようです。

handaya
めしの半田屋

可愛いでしょう?このポスター。

もう、大好きです♥

知る人ぞ知る、仙台の昔の若者は皆お世話になったという、めしの半田屋さんのポスターです。

宇賀神先生もお若いころ、当時は仙台駅近くにございました、狭い狭い店舗の半田屋さんにお世話になったそうです。

私も何度か連れて行っていただきましたが、狭くて古くて(失礼!)、なんとも昭和の香りが漂う、平成の今では見ることのできないステキなご飯屋さんでした。

「お母さんの家のご飯」が食べられるような、私も大好きなお店でした。

今では半田屋さんもシステム化されたようなお店になり、ちょっぴり悲しい気持ちです。

 

ですが、実はそんな悲しさも吹き飛ぶくらいめちゃくちゃに美味しい「仙台のご飯」を今回もまた、ご馳走になってしまいました。

宇賀神先生が出張なさる手配をいつもしてくださる、長年のおつきあいの仙台ご在住のT様が、とっても美味しいお弁当を届けてくださいました。

sendai-gohan
美味しい仙台のご飯

写真をこうして見ただけで思い出しまして、ヨダレが出てきます♥( ̄∇ ̄)

先生が仙台を離れられて29年たった今も、こうして定期的に仙台に行けますのもT様のお陰様なのです。

T様には本当に何から何までお世話になっており、感謝してもしきれないくらいです。

pray-for-food
合掌

いつものように、神さま佛さまにお供えし、合掌していただきました。

 

東北は今夏は涼しい、と申しますより寒いくらいでした。

どうか冷夏に負けず、東北の美味しいお米が豊作でありますようにと願ってやみません。

思い出すだけでヨダレが出ちゃうくらい美味しいお米ですので、お祈りにも力が入りますね!?

 

そして、今回もつつがなく楽しい旅を終え・・・と申し上げたいところですが、宇賀神先生との旅はいつも「つつがない」どころか「やじさん・きたさん」の珍道中です。

その証拠写真が、これ!

⇓ ⇓ ⇓

sorry!
盗み酒ゴメン

これは、石塚旅館さんでの盗み酒(2合目)が私にバレてしまい、「ゴメンなさい」してる宇賀神先生の手です。

顔が全然「ゴメン」って言ってないのがミソね!( ̄∇ ̄)

 

なにはともあれ、長く楽しいドライブ旅行を終え、私は大阪に帰って2度目の夏バテを経験しました。

なんとも贅沢な話です。

そしてもちろん、宇賀神先生はリフレッシュ&パワーアップして帰って来られました。

いつものことながら、なんともありがたい旅でございました。

 

合掌

人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その3

ですが、もしかしたら、死んだ後の行先を自分で選べるなどと申します考えは、少し不遜かも知れませんね?

小さい頃から、「悪いことをしたら閻魔さまに地獄に落とされる」とは、よく聞くお話でした。

そして確かに、自分が死んだ後にできましたら行きたくないような地獄や餓鬼道、修羅界などと申しますようなところもあるようです。

いわゆる六道(ろくどう)のうちの、怖い方ですね。

誰もがそのようなところへは行きたくないはずとは思われますが、やはり生前そこへ行かざるを得ないことをしてしまった人は、本人が望むと望まざるとに関わらず・・・行くことになるのでしょうか?

 

もしかしたら、「このお墓に入る」とか、「恐山に帰る」などと申しますことは単なる通過地点で、人々は信じたその場所を通って、さらにその彼方の、地球上の誰も知らないところへ行くのかも知れません。

色々なケースを考えだしますと、一体全体最終的にはどのようなところへ人の魂が行きますのか、迷ってしまいますね。

 

ただ私は、生前に信じたところ(恐山)へ“帰る”人達がたしかにいらっしゃるという事実に驚いたのです。

いずれにしましても、通過地点だけでも、自分自身の信仰により選べるのだとしましたら、それだけでもすごいことだと思います。

死んだら「自分では考えることもできない」はずですのに、生前の自分の考え(信仰)に従って行く先を選べるなんて。

ある種の希望とともに、畏怖の念を覚えずにはいられません。

 

ちなみに、我らがスーパースター弘法大師・空海さまは、留身成佛(るしんじょうぶつ)と申しまして、衆生をお救いになるためその御身を地上に留められたまま、入定(にゅうじょう)なさいました。

御身をこの世に留めながらもその御魂は、次の世の佛さまであります弥勒菩薩(みろくぼさつ)さまのいらっしゃる兜率天(とそつてん)に行っておられるそうです。

そして56億7千万年後に、弥勒菩薩さまとともに再びこの地球上に生まれ落ちて衆生済度なさるために、今もそこでお修行なさっています。

お大師さんは御自らこのように宣言なさり、入定なさいました。

お大師さんは兜率天にいらっしゃりながらもこの世におられますので、四国八十八か所巡りのときに「同行二人(どうぎょうににん・お大師さんと二人連れ)」と信じられているのですね。

四国の人達が、当たり前のように「(八十八か所の巡礼者たちを)お大師さんが助けてくれはるからね」と、おっしゃってましたのを、印象深く覚えております。

 

そして確かに、お四国さんでも、高野山の御廟でも、私はお大師さんにお会いしました。

ありえないほどのリアルな感覚とともに。

 

あれこれと考えてみましたが、やはり結論は、本当のことは自分が死んでみないことには分からず、「自分が信じるものを(あれこれ悩まず)信じるしかない」ということでしょうか。

宇賀神先生がお釈迦さまの

「あるという墓にはあって、ないという墓にはない」

とのお言葉を、

「いい加減であやふやな霊(の在り方)などに心とらわれず、『サイの角のようにただ独り(修行の道を)歩め』」

というふうに解釈なさったのが、一番納得できますかしら。

生きておりますうちに、自分の進むべき道をただただ進みましたら、おのずと、死後の進むべき道も見えてくるということでしょうか。。

 

恐山、ニライカナイ、神さま、佛さま・・・人により色々と信じるものがございましょうが、もちろんそれぞれに正誤・優劣などはなく、人々の信じる心は尊いものだと思っております。

その生前の信仰に従って死後も進めるのでありましたら、こんなに有り難いことはありません。

 

皆さまは、どこへ行きたいですか?

 

私の行きたいところは・・・。

 

 

いずれにしましても、まずは精一杯、この命を輝くように生ききってからですね!

信仰を持たれている方も、そうでない方も、全ての人が輝くように人生を生きられることを、心からお祈りしております。

 

 

***

お知らせさせてください。

今日から勉強会、仙台出張、夏休み温泉修行v(^-^)v♥と、予定が立て続き、また数日間は携帯の電波も届かないようなところへ参ります。

ですので、このブログの更新を2週間ほどお休みさせていただきます。

(もしも更新できたとしましても、宇賀神先生の旅先での写真くらいになると思います。)

更新再開は、たぶん8月22日くらいでしょうか?

申し訳ありませんが、ご了承くださいませ。

いつもブログを楽しみにしてくださっている方達に、心より御礼申し上げます。

見てくださって本当に嬉しく思っております♥

また8月の後半にお会いできますことを楽しみにいたしております。

皆さまどうぞお元気で、よい夏をお過ごしくださいませ。

綾野より

***

 

合掌

人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その2

これはまだ宇賀神先生が仙台に住んでいらした頃のお話ですから、今から30年以上前のお話になります。

 

先生は当時仙台でも勉強会をなさっていました。

そこに参加してくださってた会員さん達をお連れして、青森県の恐山に行こうということになりました。

恐山は、青森や広くは岩手、秋田にお住まいの人達も信仰なさっている霊山です。

私はあまり詳しくは存じませんが、恐山は「あの世への入り口」と信じられているようです。

宇賀神先生がおっしゃいますには、山の上に「地蔵堂」と申しますお堂があるのですが、恐山を信仰なさっている人達は、亡くなられましたら皆、地蔵堂に行く(地蔵堂を通ってあの世へ行く?)と信じておられるようです。

 

恐山は名前が何だか恐いようですが、実際にも(私にとりましては)恐いところです。

私も10年ほど前に先生と一緒に行ったことがございます。

もちろん人々の信仰なさっている霊山ですから、聖地ではありますが、やはりあの世への入り口でもあり、まだまだ修行の足りない私にとりましてはやはり恐いような気がいたします。

山の上に「賽の河原(さいのかわら)」と呼ばれる場所もございますが、霧もよく出るような山の天気のなか、やはりどこか寂し気で(恐ろし気で)肌寒いような場所でした。

昔の人達はあの景色をご覧になり、賽の河原というものが本当にあるとしたらこんなところなのだろうと思われ、その名前をつけられたのでしょうか。

 

さて、宇賀神先生は当時の仙台の会員さん達をお連れして、「あの世の入り口」を皆さんにご紹介しに恐山へ行かれました。

恐山には宿坊がございますから、皆さんで泊まられたそうです。

夜になり、会員さん達とともに恐山に来る幽霊を見に出かけられました。

 

夜の霧の中、2本の電灯に照らされる道の脇で、皆さんとともに霊が通るのを待たれました。

やはり、さほど霊感のない方でも「見えやすい」環境があるそうです。

白い霧が電灯にボンヤリ照らされておりますと、そこを通る霊も見やすいのですとか。

うーん、と申しますより、恐山でしたらきっとどなたでも見えてしまいますねぇ。

そんなような霊山です。

 

はたして皆で見守っておりますと、白い霧の中、ある時スーッとさらに白いような暗いような影が通ります。

「あっ。」

と、やはり、ほとんどの方が気づかれるそうです。

「先生、今、霊が通りましたよね。」

と、皆さんおっしゃったそうです。

 

それからしばらく見続けておりますと、間隔を空けまして何度か霊の影が通りますのを皆さん目撃なさいました。

ある時などは、一体ではなく三体の影が同時に通ったそうです。

不思議がる皆さんに宇賀神先生は、

「たぶん今のは一家心中だね。」

と、おっしゃいました。

そして、陸奥新報でしたか、他紙でしたかは忘れられましたが、やはり翌日の地元紙に3人の一家心中の記事があったそうです。

 

他にも色々と恐くて楽しい?恐山エピソードを宇賀神先生からお聞きしてはいるのですが、それをお話しいたしますと、本当にただの怪談話になりそうで、この暑い夏にぴったりですね。

以前マスター・スジャンタのお話(本物のテレパシーを使う人)を書いておりましたときも「そんな予感」がしましたら、マスター・スジャンタらしき影がスーッと廊下を通られたのですが、このような怪談話を書いておりますと、また何かが来そうで、・・・って、本当に来るのですからマジでイヤです。(T-T)

まあ、来られましても、皆さん控え目に「来てますよ~」と申しますようなささやかな合図?を送って来られるだけですので、いいのですが。

怪談話をお聞きになりたい方は、ぜひ昼間にお会いしましたときにお尋ねくださいませ。

明るい日中にお話いたしましょうネ。

 

話を本筋に戻します。

 

とにかくこのように、恐山を信仰なさっている人達は、亡くなられますと、恐山へ来られます。

恐山が目的地ではなく、恐山を通ってあの世へ行かれるのかも知れませんが、とにかく来られるのだけは確かなようです。

 

ただそこで、ふと思いますのは、恐山を信仰なさっている人達は確かに来られるようですが、恐山を全く知らない、たとえば大阪人の私などは死んだ後に恐山に行くなんて、思ってもいないのです。

そもそも、宇賀神先生にこのお話をお聞きするまで、「恐山があの世の入り口である霊山」だなんて、全く知らなかったくらいですから。

ですので多分、私は死んでも恐山には行かないと思います。

 

当たり前と申しましたら当たり前かも知れませんが、これはある意味すごいことだとは思いませんか。

人は、その人が生前信じていたように、亡くなった後そこへ行くのです。

恐山へ行くと信じていた人は恐山へ。

信じていなかった人は、またきっと違うところへ。

恐山は、必ずしも地球上の全ての人が亡くなった後に行く(あるいは通過する)ところではないのです。

恐山を信じている人達のみ、行くところなのです。

 

この考え方が間違っていませんでしたら、恐山へ行くと思ってらっしゃる人が亡くなりましたら後に恐山へいかれますように、

たとえば、阿弥陀さまを信仰なさっている人は、阿弥陀さまのお浄土へ、

たとえば、沖縄のニライカナイ(沖縄に伝わります理想郷・楽土)を信じておられる人は、ニライカナイへ、

行くことになるのでしょうか?

 

そしてたとえば、

私はこの墓に入る、と思われた人は、そのお墓に入るのでしょうか?

昨日のお話でご紹介しましたお釈迦さまのお言葉のように。

 

(その3へつづく)

 

合掌

人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その1

いつもこのブログページを書き上げましたら宇賀神先生にチェックしていただいているのですが、昨日の記事をご覧になった先生が、「このことも追記しておいて」とおっしゃったお話がございます。

それは、お釈迦さまとお釈迦さまのお弟子さんでいらっしゃいますアナンとの説話です。

 

アナン、またはアーナンダはお釈迦さまのお弟子さんの中でも「多聞第一(たもんだいいち)」と言われ、いつもお釈迦さまのそばにおられ、数多くのお弟子さん達の中でもお釈迦さまのお話を一番聞かれた方です。

ですのでお釈迦さまが亡くなられた後、お経の編纂をすることになりましたとき、必ずアナンに「これはお釈迦さまのお言葉として正しいかどうか」と申しますことを尋ねたそうです。

 

そのアナンがあるとき、お釈迦さまとの遊行の旅の途中で、道の脇にお墓を見つけられました。

お墓と申しましても紀元前の北インドのことですから、簡素な土饅頭に石が載っておりました程度でしょうか?

とにかくお墓をご覧になり、アナンはお釈迦さまにこう尋ねられました。

 

「このお墓の中に亡くなった人(の霊)は、いるのですか?」

と。

 

するとお釈迦さまは、こう答えられたそうです。

「あるという墓にはあって、ないという墓にはない。」

と。

 

お釈迦さまのこのお言葉を聞き、アナンは悟られたのですとか。

 

・・・いえ、ワタクシはさっぱり悟れないのですけどね。(^-^;)

一体どうしましたらお釈迦さまのこの簡素すぎるお言葉から悟れるのでしょうかと思わなくもないですが、とにかくアナンは悟られたそうです。

 

宇賀神先生がおっしゃいますには、

「自分は死んだらこの墓にいる、と思って死んだ人はそこに留まるし、自分は死んだら天に帰る、と思って死んだ人はこんな小さな墓には留まらない。

つまり、そんないい加減であやふやな霊(の在り方)などに心とらわれず、お修行に励みなさい、とお釈迦さまはおっしゃりたかったのだろうと思うよ。

お釈迦さまは霊の存在を否定なさった、というのが公式見解?で、雑多のことに心とらわれず、執着せず、ただただ『サイの角のようにただ独り(修行の道を)歩め』とおっしゃっていた、というのが通説だな。」

とのことです。

 

お釈迦さまの直接のお言葉は、有名なものですと「スッタニパータ」や「ダンマパダ・法句経(ほっくきょう)」と呼ばれ、岩波文庫からも「ブッダのことば」や「ブッダの真理のことば」などが出版されているようです。

(正直に申し上げます!私は全部読んで“いません”。ごめんなさーい!)

とても簡素なお言葉の羅列ですが、多分にその真意は、凡人の私には到底理解できないほど奥深いものなのでしょうと思います。

きっと色々な解釈がなされ、偉い学者さま達はそれぞれに主張なさり、それは時に相反するものであるとも思われます。

 

ですので、これはあくまでも“宇賀神先生の”解釈です。

 

宇賀神先生は、このお釈迦さまのお言葉を、

「死んだ後の霊はここにいるのかいないのか、との問いも答えも何ら真理(佛法)を導きだすものではない。

そのようなことはどうでもよいことだ。

そのようなことに心とらわれず、一心に修行しなさい。」

というふうに解釈なさいました。

 

お釈迦さまのお言葉の「その先の真意」が、宇賀神先生の解釈通りでありましても、それをお聞きしましても残念ながら、私はいまだ悟りには至っておりませんが・・・。(もちろん宇賀神先生もネ( ̄∇ ̄))

ですが、「あるという墓にはあって、ないという墓にはない」との文字通りのことに関しましては、実感したことがございます。

つまり、人は生前に自分が行きたいと思っていたところに亡くなった後行くのでは、と思うようなことです。

昨日お伝えしました私の実祖父のことのみでなく、他の例を鑑みましても。

 

(その2につづく)

 

合掌

「千の風になって」は本当でした、というお話。

今日は、少し前に流行りました「千の風になって」は本当でした、というお話をいたしましょう。

お盆が近いからと申します訳ではありませんが・・・。

 

8年ほど前、私の母方の祖母が亡くなりました。

この大正生まれの祖母は、結婚前(もちろん戦前です)は、ものすごいお金持ちのお嬢様で、大きなお屋敷に住み、日本ではまだ車が珍しい時代にフォード社の高級車に乗せてもらっておりました。

その頃、車があまりにも珍しく、乗っておりますと道を歩く人達が手を振ってくださったのですとか。

外国映画のお姫様のようですね。

 

その祖母が結婚しましたのは、やはりエリートサラリーマン。

姓を田畑と申します。

2人はなんとハイカラ(もはや死語?)なことに、アイススケート場でお見合いをしたのですって。

相思相愛だったようで、新婚生活もまた、幸せで裕福なようでした。

 

ところが、無残にも第2次世界大戦が2人の仲を引き裂きました。

私の母方の祖父は徴兵され南方に送られることになり、その移動途中、どうやらフィリピンのルソン島沖で、船が沈んで亡くなりました。

そして死亡通知書とともに帰ってまいりましたのは、遺骨代わりの一片の木片でした。

まだまだ新婚夫婦で仲が良かっただけに、祖母の悲しみはどんなにか深かったことでしょうと思います。

そして、あんなに裕福な実家が何故か祖母のことを受け入れてくれず、祖母は私の母を含む3人の子供を抱えて極貧の生活を強いられました。

「女三界に家無し」との言葉そのものに、祖母の人生はつらいものになりました。

 

苦しい生活のなか祖母は何とか生き延びてくれて、お陰で私の母も無事育ちました。

戦後になりまして、私が生まれたときからずっと「おじいちゃん」だと思っておりました男性と出会い、再婚します。

姓を佐山と申します。

再婚しましてから10年以上もたち(戦争が終わりまして12年ほどでしょうか)、ようやく「今日食べるご飯には事欠かない」ような暮らしになりました。

それからは、普通に幸せに暮らしてくれたのでしょうとは思って(願って)いますが、やはり最初に結婚しました田畑の祖父のことも忘れられないようでした。

私が大人になりましてから発見したものですが、祖母は田畑の祖父の形見のものを、タンスの中に大事にしまっておりました。

 

祖母が亡くなりましてから叔父が喪主となり、京都の大谷さん(大谷本廟)に納骨することにいたしました。

叔父は佐山姓で、祖母が再婚しました後に生んだ子供です。

納骨しました後、大谷さんの境内を歩いておりますと、ふと戦没者慰霊のためのお堂が目に入りました。

そのとき私は、胸がぎゅうっと、懐かしいような、悲しいような、どこか郷愁にも似た思いにとらわれました。

すると宇賀神先生が、

「あっ、おじいちゃんがおばあちゃんを迎えにきている。あのお堂のところで軍服着て敬礼してる。細面の人だ。」

と、おっしゃいました。

私はびっくりしました。

確かに、祖母が戦後再婚しました佐山の祖父は、がっしりとした輪郭の顔ですが、戦争で亡くなった田畑の祖父は、細面でした。

 

ですが、大谷さんは佐山の家の方のお寺になります。

しかも、田畑の祖父のお骨は、無論のこと田畑の家のお墓にも、日本の国土のどこにも無く、はるか太平洋の海の中に消えました。

その田畑の祖父が、大谷さんに現れるなんて。

しかも戦後70年近く(8年前当時)たってから。

ですが、私が懐かしさを感じ、それを言葉にする前に宇賀神先生が「おじいちゃんが来た」とおっしゃった訳ですから、これもまた「事前打ち合わせのない符合の一致」だと思い、この感覚は間違いなく祖父が来たためだったんだ、と信じられました。

 

祖父は、亡くなってからずうっと、祖母のことを見守り続けていてくれたのでしょうか。

そして、70年近くも待って、迎えにきてくれたのでしょうか。

私はもちろん、大学生の頃までは実の祖父だと信じておりました「佐山のおじいちゃん」も大好きでしたから、少々思いは複雑ではありますが・・・まあ、ですが、亡くなりましたら皆「佛さま」です。

あの世で仲良くやってくれているものと思うことにいたしましょう。

 

そしてこのことがありましてから、しばらく前に流行りました「千の風になって」は本当だったんだ、と思うようになりました。

「私はお墓の中にはいません。千の風になってあの大きな空を吹きわたっています。夜は星になって貴方を見守る。」

と申します歌詞は、真実でした。

遥か太平洋の海の上で命を落としました祖父の骨は、海の藻屑と消えてしまいましたが、その距離を超え、70年近い時を超え、祖父は祖母を迎えに来てくれました。

 

ただ、もう一つ考慮に入れたいなと思いますのが、祖父が現れましたところが、「戦没者慰霊のためのお堂」だということです。

お墓にはいないけれど、やはりお墓のような「拠るすがら」は必要なのかしらとも思いました。

あるいは大切なのは拠るすがらの“器”ではなく、そのお堂を見ましたときに、ふと祖父への思いを馳せる私たち身内の心そのものが、拠るすがらとなるのかも知れません。

 

真実は佛さまのみぞ知る、ですね。

 

さて、こんなに奥深く真実を歌っております「千の風になって」、宇賀神先生もとっても大好きな歌です。

それなのに、

「私のお墓の前で泣かないでください~。お宅のお墓は隣です~。」

などという替え歌をうれしそう~に歌うんですよ♥なんて、歌を作られた方に申し訳なくて口が裂けても言えません。( ̄∇ ̄)

 

合掌