ぴかぴか光る運の玉 その2 「お諏訪さんに、いただきました。」

昨日お話しました「頭上にぴかぴかと光る運の玉」は、多分ですが、クラウンチャクラの輝きを宇賀神先生がご覧になったものだと思われます。

ですので、「誰にでもあるチャクラ」の輝きなのです。

ただ、その輝きの度合の差が、人によりあるのだと思われます。

 

チャクラという言葉をお聞きになってもピンと来ない方(うちの両親とか)もいらっしゃるかと思われますので、簡単にご説明いたします。

日本でなじみのある言葉ですと、例えば「下丹田」というものがございますね。

あまり「氣」について詳しくない方でも、下丹田と聞かれましたら、何となくのイメージがつかめるかと思われます。

昔から日本で言われている、おへその下あたりの、何だかよく分からないけれど「力が入る場所」として使われてきた場所です。

エネルギーの中枢としての?人体上の場所、と申しますか。

日本で言われております丹田でしたら、上丹田(おでこの真ん中あたり)、中丹田(胸の中心)、下丹田(先述のおへその下)の3か所がございます。

下に行くほど生命力に関する原初的なエネルギーを司り、上に行くほど精神的・霊的なエネルギーに関わりがある、とされています。

 

それが、インドのヨガの世界では、似たようなエネルギーの中枢(=チャクラ)が7か所もあるというのです。

チャクラも身体の中心線を通るように7か所に存在していて、下に行くほど原初的な生命エネルギーに関与し、上に行くほど精神的・霊的なものに関与する、という概念は、日本の丹田と似ています。

そして1番上にございますのが、頭上から少し浮いたところのクラウンチャクラです。

クラウンとは、つまり冠のように、頭の上に頂いている、ということですね。

 

ですので、冒頭でも申し上げましたが、宇賀神先生がご覧になられた「運の光の玉」がクラウンチャクラに該当するのでありましたら、それは誰でも持っているものです。

ただそのクラウンチャクラのエネルギーの強さは、人それぞれになるかと思われます。

やはりエネルギーが強い人は運も強いでしょうし、弱い人は運も弱いのでしょうね。

 

ところが、今日これからお話しようと思います「運の玉」は、昨日のものとは少し違うものも含まれるかも知れません。

前置きが長くなりましたね。

今日のは、宇賀神先生が諏訪大社さまに運の玉を「いただいた」ときのお話です。

 

あれは去年の秋のことです。

宇賀神先生と私は、長野県の諏訪大社さん(お諏訪さん)にお参りに行きました。

例によって例のごとく、温泉とセットで、サンダース号で行きました。

すると、行く途中の車の中で宇賀神先生が、

「お諏訪さんが『来たら運玉をあげる』って言ってる。」

と、急におっしゃいました。

「ええーっ、何、その幸運!」

と、ちょっとびっくりしました。

 

果たして二人でお参りし、その時ちらっと横を見ますと、宇賀神先生が何やら目に見えない玉のようなものを両手でいただいて、それを額のあたりに入れるような動作をなさっていました。

うーん、本当にお諏訪さんに運玉をいただいてらっしゃるのだろうか。

自分の信条として「神様佛様におねだり(お願いごと)はしない。」と決めております私ですが、このときばかりは、ちょーっとばかり、先生のことが羨ましくなりました。

ですので、いつものようにご挨拶申し上げた後、お諏訪さんに話しかけました。

 

「いえ、あのね?

あのですね?

宇賀神先生が貰われたような幸運の玉、ちょっといいなーなんて、思うんですよね。

いえ別にね、欲しいっておねだりするわけじゃないんですけどね。

ちょっと羨ましいなーなんて、思うんですよね。」

と。

 

すると驚いたことに、私はそのとき神様のお返事を聞いてしまったのです!

私は常に神様のお言葉をお聞きできるわけではありません。

本当に、何かの拍子にお言葉をいただけるときと、イメージを見せていただけるときと、そうでないとき(の方が多い)があるのです。

ですがそのときは、はっきりとしたお言葉としてお聞きしたような気がいたしました。

 

私の話しかけにたいして神様は、ありがたいことに

「何を言う。お前こそが『運玉』じゃ!」

と、おっしゃってくださったのです。

 

イメージではなく、はっきりとしたお言葉をお聞きしたこと自体もびっくりしましたが、さらにそのありがたい(有り難い)内容にも驚きました。

ですが、そのとき私に見えた「私の運玉」のイメージは、温かい光ではありましたもののそれほど輝きが強いようには見えず、宇賀神先生にお聞きしていた「ぴかぴか」の輝きからは遠いような気がいたしました。

「ええーっ、ありがとうございます!

ですが・・・ちょっと私のは光が弱いような気がするのですが・・・。」

と申し上げますと、神様は、

 

「だからこそ、『玉磨かざれば光なし』と言うのじゃ!」

 

と、きっぱりとおっしゃいました。

 

Oh, my God・・・!!

 

と、思いましたね。

 

あまりにも当たり前すぎる、正論すぎるお言葉でした。

さすが神様です。

清く、正しく、美しくていらっしゃいます。

 

改めて敬服し、

「おっしゃる通りでございますー!

ありがとうございますー!!」

と、平伏してお礼申し上げました。

 

あのとき宇賀神先生がお諏訪さんに何をいただかれたのかは分かりません。

もしかしたら、普通はなかなか貰えない、とってもいいものだったのかも知れません。

ですがあの時、あの有り難いお言葉をお聞きして、先生のことを羨ましく思うことはなくなりました。

「私こそが運玉。」

「玉磨かざれば光りなし。」

これ以上の指針は必要ないですね。

 

このお言葉を下さったということは、

「磨けよ。」

つまり、

「お修行に励みなさいよ。」

ということです。

つまり、

「磨けば光るのだから。」

と。

 

たとえ今の時点で「前世からの功徳(貯金)の繰り越し」がめちゃくちゃに多くなくても、今世の「磨き」次第でいくらでもぴかぴかになるんだ。

そう思いますと、奮い立つような気持ちになり、勇気がわいてきます。

クラウンチャクラがどうのこうの、ではないのです。

全身で光り輝くような存在になるのです。

 

また、もうひとつ付け加えますならば、お諏訪さんのそのお言葉をお聞きしましたとき、「私」だけが特別な運玉なのではなく、皆一人一人が運玉なんだ、とも思いました。

ですので、どなたも実は幸運の運の玉で、さらに、ご本人がそれを磨くことにより、ますますその輝きは増していくのだと、そう思いました。

いえ、表現がちょっと違いますね。

「私が思った」と申しますよりは、「お聞きして分かった」のです。

私はお諏訪さんにお聞きして、そう分かりました。

 

誰もが皆、ぴかぴかに光る可能性を秘めている「運の玉」。

磨かない手はないですね。

(はやく私も全身で光り輝きたいもんだ( ̄∇ ̄)♥)

 

合掌

ぴかぴか光る運の玉 その1

宇賀神先生が以前に勉強会で、「ぴかぴかと頭上に光る運の玉」について教えてくださったことがございます。

その頭上に光る玉とは、ヨガの世界ではクラウンチャクラや第7チャクラとも呼ばれていますね。

私にとりましてはとても印象的なお話でしたので、皆さまにもシェアしたいと思います。

 

ある冬の日の朝に宇賀神先生が車を運転しておられますと、パチンコ店の前に、開店を待って並んでいる中年世代の人達が見えたそうです。

失礼な言い方ですが、身なりもいいとは申し上げにくく、寒そうに震えながら並んでおられたのですって。

一体何を好き好んでパチンコのために寒空のもと震えながら並んでおられるのか、と思って見ますと、突然、その人達の頭上の「運の光の玉」が、とてもぴかぴかと輝いているのが見えたのですって。

先生はとてもびっくりなさったそうです。

と、申しますのも、その運の玉は、光を増すほどに運がよく恵まれた人生を歩めるものだからです。

 

宇賀神先生は不思議に思われました。

そんなにぴかぴか光るような強運の玉に恵まれている人達が、どうしてパチンコ店の前で朝から並んでおられるのか。

もっと、世に出て働き、活躍するなり、充実した人生を歩んでしかるべき強運に恵まれたような人達なのに、どうして、と。

このように思われますのは、ひとつには、宇賀神先生はパチンコなどの博打がお嫌いなのです。

「そんな博打に溺れずに、もっと人生上するべきことがあるはずだ。」

と、おっしゃっています。

 

ですが、あんまり不思議でしたので、宇賀神先生は佛様に尋ねられました。

「とてもじゃないけれど、恵まれた人生を歩んでいるとは思えないような身なりの人達がパチンコ店の前に並んでいました。

でもその人達の頭上の運の玉は、その人達の人生とは裏腹にぴかぴかと光り輝いていました。

それはどうしてですか?」

と。

 

すると、佛様が教えてくださいました。

 

この世は魂のお修行の道場だそうです。

生まれてきた人間は、それぞれの人生においてお修行し、功徳を積み、その功徳を持ってあの世に帰るのだそうです。

お修行とは、何も出家して読経したり滝行するようなことだけを指すのではなく、生きることそのものがお修行なのですって。

サラリーマンとして働くことも、主婦やお母さんとして生きることも、すべて、それぞれの人に与えられたお修行なのです。

それぞれの人生を魂のお修行と思い定め、歩んでこそ、功徳も積めるのですとか(多分)。

 

前世でよい人生を歩み、よいお修行をなさった人は、申しますならば人生というテストの点数(功徳)が良かった人です。

そのテストが満点になりますと、多分、悟りを得るとかの境地になるのでしょうか。

ですが、やはりなかなか満点になる人はいないようです。

ですので、佛様から

「もう一回別の人生を歩んでお修行し、点数(功徳)を得てきなさい。」

と、再びこの世に送り返されるのですって。

つまり、生まれ変わります。

 

ただ、満点ではなくとも好成績を収めた人は、次の人生で初めからちょっとしたアドバンテージをつけていただけるそうです。

それが、ぴかぴか光る運の玉に表れている、「強運」という名のアドバンテージです。

頭上の運の玉は前世の行い、つまり前世の功徳により光り輝いているのだそうです。

そのような人達は運が強いため、賭け事や勝負に強かったり、子供の頃はジャンケンやかくれんぼが強かったりするのですって。

よく「あの人は運が強いね。」と言われるような人達は、他の人に比べてこの頭上の光が強い人達だそうです。

 

ところが、これがまた人生の難しいところでありますが、なまじ運が強いため、悲しいかなその強運にあぐらをかいてしまうことが往々にしてあるそうです。

初めから持っている強運に輪をかけて努力なさる人もいらっしゃいますが、逆に努力を怠り、せっかくの強運をギャンブルに使ってしまう人がいらっしゃいます。

もちろん歯を食いしばって努力することがイコール功徳を積むことではありませんが、少なくとも、せっかくの運の良さをパチンコなどのギャンブルに溺れるような生き方に使うことは、功徳からは離れるような気がいたしますね。

「強運にあぐらをかく」

と、佛様はおっしゃったそうです。

せっかく積んだ前世の功徳を、今世で浪費するような生き方は勿体ないですね。

 

またそうしますと、今世では「よいお修行をした」とは言えないようで、功徳という名の人生の点数が低いままあの世へ帰ることになります。

点数が低いということは、今度は来世で、今世で持っていたぴかぴかの運の玉を失くした状態で生まれてくることになります。

それはつまり今世のような強運に恵まれず、人よりかなり努力しないといけないような人生になるのですとか。

何ともコワイ話ですね。

 

と、このようなことを宇賀神先生は佛様から教えていただきました。

先生は、大いに納得なさったそうです。

 

ですが、ここだけの話、宇賀神先生ご自身もお若い頃(今のお仕事を始められる遥か以前)はパチンコでお小遣いを得ておられたほどなのですよ。

そこそこ勝てたのですって。

なのにどうして先生は博打・賭け事がお嫌いになられたのか?

それは、

 

「宇賀神先生の人生そのものがギャンブルだから!」

 

に決まってますね!

もう少し堅実な人生を歩めばよかったものを?、なぜかギャンブル並みに波乱万丈な人生に・・・!?

もうこれ以上ギャンブルしなくても充分過ぎるよー!とご自身で気づかれたのでしょう、きっと。

v(^-^)v

 

それにしましても、ぴかぴか光る運の玉、ちょっと羨ましいですね。

明日はもうひとつ、運の玉についてのお話をさせていただきたいと思います。

 

合掌

先天の氣と後天の氣 あるいは「氣はお金と同じ」

正直に告白いたします。

もちろん私自身も温泉の中で氣を取るようなイメージを持ち、呼吸しますが、宇賀神先生のように強烈に取れるかと申しますと、多分そうではありません。

宇賀神先生は、ご自身がなさっているお加持や氣功に関しましては、「誰にでもできる」という信念のもと私達に勉強会で教えてくださっています。

ですが、例えますなら、「教えたらきっと誰でもある程度は速く走れるようになるけれど、誰もがオリンピック選手並みに速く走れるわけではない」という個々人の差は、残念ながらございますね。

氣功に関しましても、同じことを感じます。

 

まずそもそも、持って生まれた氣に差がございます。

これを「先天の氣」と申します。

この先天の氣は両親からいただいたもので、漢方で申しますところの腎氣だそうです。

腎氣とは、正確には腎臓そのものにのみ宿るわけではないようですが、腎臓とは大いに関係あるようです。(すみません、めちゃくちゃ難しい漢方は私はよく分かっておりません。)

腎氣を両親からいただいてこの世に生まれてきて、年とともに減っていき、最後は無くなって文字通り亡くなります。

この腎氣=先天の氣が豊かで力強いと申しますような、恵まれた方がいらっしゃいますね。

先天の氣が強いと、身体が丈夫だったり、また運も強かったりします。

逆にそうではない方もいらっしゃいますね。

 

ですが、先天の氣がございますなら、「後天の氣」も存在いたします。

後天の氣は、別名「水穀の氣(すいこくのき)」とも呼ばれるそうです。

これは生きていく中で、自分で得ていくものです。

水穀とは、文字通り水と穀物、つまり食べ物を意味します。

 

申し上げるまでもないですが、私達は他者の命をいただいて生きております。

動物(肉類)にしましても、植物(野菜)にしましても、もともと人間と同じく生きていて、栄養素だけでなく、人間と同じように氣を持っておりました。

やはり新鮮ですとか、農薬や添加物などの薬品を使っていないものの方が、よい氣に溢れているでしょうね。

 

また、食べ物のほかに後天の氣を得る方法といたしまして、代表的なものは、

*氣功による導引術

*功徳を積む

だと、宇賀神先生はおっしゃっています。

 

氣功による導引術に関しましては今週ご紹介しました「一番簡単な氣を取る瞑想法」をご参照くださいませ。

お若い頃の宇賀神先生は、もっぱら導引術に専念して今のお力を得られました。

 

次の「功徳を積む」が、なぜ後天の氣を得るのに大事なのかは分かりづらいかも知れませんが・・・。

今日のお話の中での功徳とは、道徳的な意味の功徳とは少し違い、つまりは「氣を用いて人様の苦しみを取り除くこと」に特化したもの、と捉えてください。

 

宇賀神先生は、いつも、

「氣はお金と同じ。」

とおっしゃっています。

それは、

「たくさん持っている方が有利。」

というのと同時に、

「使うのは簡単だけど、稼ぐのは大変。」

という意味もあります。

「子供にだってお金は使えるけど、子供にお金は稼げないだろ。」

と、いつもおっしゃっています。

 

皆様も一般的な気功治療という言葉をお聞きになられますと、「他者の患部に手を当てて氣を入れる」ようなイメージを持たれるかと思われます。

それぐらいポピュラーなイメージですね。

実は、あれは誰でも結構簡単にできてしまうのです。

と、申しますのも、例えば自分のお腹が痛いとき、人は自然とお腹に手を当てますよね。

看護師さんの「看」という字は、「手を目の上に(キリスト様のように)かざして治す」という象形文字からきているそうです。

つまり、太古の昔から、人は本能的に「手を当てて」=「手当て」、治してきました。

ですので本当は、この手当ての力は人間の本能的なもので、誰にでもあるのです。

当然、自分だけでなく他者にだって効きます。

 

ところが、「氣はお金と同じで、使うのは簡単だけど稼ぐのは難しい」のです。

ですので、「人が痛がっているところに手を当ててあげたら治ってしまった。」と申しますようなときは、つまりは自分の貯金を他者のために使ってしまったときなのです。

氣を貰ったほうの人はお金をもらったのと同じで元気(裕福)になりますが、氣をあげたほうの人はお金を使ったのと同じで貧乏になってしまいます。

 

よく、「自分は天からの氣を通すパイプ的な存在で、他者には自分の氣を分け与えているのではなく、天からの氣を自分の手を経由させて届けているだけ」と、おっしゃる方もいらっしゃるのですが・・・実際のところは分かりません。

もちろん時には、宇賀神先生も意念としては「天地宇宙の氣を用いて」氣を入れられるようなときもございますが、だれ彼ともなく手を当てて氣を入れておられるわけではありません。

体内の氣を測る測定器などないわけですから、むやみやたらとそのようなことをするのは、ちょっと怖い話です。

先生はお仕事で1日に何人もの方を相手になさるのですから、下手をしましたら、自分の氣(イコール、命の源)を減らしてしまいます。

 

では何故、そんな氣を減らすかも知れない行為が「功徳を積む」として、氣を増やすための手段となり得ますのか?

 

宇賀神先生は、いわゆる「気功」に近いことをなさいますとき、ほとんどご自身の氣を使わずに行っておられます。

お金に例えますなら、自分の貯金の利息部分だけを投資し、更にその投資の利益部分のみを使う、というイメージでしょうか?(うーん、そんな生活してみたい。)

そして、反復練習すればするほど、その分野には長けてきますね。

氣を、量ではなく回数・機会として使えばつかうほど、ますます氣に精通し、ますます氣を導引できるようになれます。

 

ですので、功徳を積む=人様の苦しみを取り除く、をすればするほど、氣を増やすことができる、と宇賀神先生はおっしゃるのです。

 

人様の苦しみを取り除くことは、佛教の言葉で申しますところの、「抜苦与楽(ばっくよらく)」となります。

つまり、衆生の苦しみを取り除き、安楽を与えるという佛様のお仕事(慈悲)と同じです。

宇賀神先生は、氣の鍛錬をすればするほど、人様のお役に立てて、佛様の抜苦与楽のお仕事のお手伝いもできる、と申しますような、なんとも贅沢な立場にいらっしゃるのです。

「わしは神さん佛さんのエージェントだから。」

と、先生はいつもおっしゃっています。

エージェント、つまり、神様佛様の手先となって働くんだ、と。

いいですね、ジェームズ・ボンドかイーサン・ハントみたいで。

なんだか書いてて羨ましくなってきちゃいました。

 

合掌

お経は佛様へのラブコール

宇賀神先生は「信仰とは、佛様に惚れて惚れて惚れぬくこと。」と、いつもおっしゃっています。

私はこの宇賀神先生の単純明快な考え方が大好きです。

私の頭は単細胞もいいところで、哲学的なムツカシ―ことはそもそも考えることを拒否してしまうのですが、宇賀神先生のこのお言葉は、すんなりと受け入れられました。

 

宇賀神先生は、

「だからね、そこには打算がないんだよ。

こっちの佛さんよりあっちの佛さんの方がご利益がありそうだ、ってごちゃごちゃ考えて拝むのは打算だよ。

それは、亭主の年収が高いから結婚するけど、収入が低くなったら好きでなくなる、もっと年収の高いあっちの男を好きになるっていうのと一緒だろ。

そうじゃなく、出会って、『この佛さんは・・・!』と思ったら、それでいいんだ。

一度惚れ込んだら、そのまま行くんだ。」

と、おっしゃいます。

 

そして宇賀神先生いわく、

「だから、お経は佛さんへのラブコールなんだ。

毎日『好きだー!好きだー!』ってラブコールを受けてると、たとえ初めはそんなに好きでなかったとしても、段々気持ちがほだされていくだろ?

そのうち『ちょっとは可愛い人間だな』って思ってもらえる日もくるかも知れんじゃないか?

だから、毎日佛さんにお経を読むんだよ。」

 

うーん、押しの一手、でしょうか?( ̄∇ ̄)

 

ちなみに、お経のことをなぜ「お経」と呼ぶのかと申しますと。

 

「経」とは、縦糸のことだそうです。

地球でも経度と申しますと、南北に走る縦の(位置を測るための)線のことですよね。

お経とは、佛様から人間に垂らされた御教え(佛法)の糸なのです。

お経とは佛様からいただいた御教えのお言葉で、有り難いものなのです。

ですので私達はお経本を開く前には、人様からプレゼントをいただいたときのように、必ず押し頂きます。

 

そして、佛様のお言葉(御教え)でありますお経をお唱えして、佛様に喜んでいただきます。

これを「ご法楽」と申します。

「佛法でもって佛様を楽しませる」のです。

 

お経を唱えることを

「毎日あなた様のお好きなお言葉をお聞かせして、喜んでいただきたいのですよ」

というように解釈なさって、宇賀神先生はそれを佛様へのラブコール、とおっしゃっているのです。

このように解釈しますと、お経は何ら辛気臭い(ごめんなさい。)ものではなく、楽しいものに思えてきますね。

 

そしてもし、この話をお聞きになって、

「お経を唱えることを楽しいことだというふうに捉える考え方があるんだな。

でも、般若心経もよく知らないし。」

と思われた方がいらっしゃいましたら、朗報です。

一番短い佛様への賛辞をお伝えいたしましょう。

 

それは、

「南無佛(なむぶつ)」

です。

 

これは日本に佛教が伝来しました、聖徳太子の時代からある言葉だそうです。

当時日本に住む人々は、新しく入ってこられた佛様に対してどのように拝めばいいのか分かりませんでした。

何しろ佛様とは初対面でしたからね。

現代のようにネットでGoogle検索すれば何でも分かるようなご時世でもありません。

そんななか、一番短くて一番簡単な佛様へのご挨拶が「南無佛」として伝わったそうです。

 

「南無」とは、帰依いたします、という意味です。

南無佛は、お経と申しますよりは、ご真言に近いような短さかも知れません。

日本で一番有名であろう般若心経も知らないけれど、佛様にご挨拶する言葉を知りたいな、と思われる方は、「南無佛」、簡単で分かりやすくていいのではないでしょうか。

「南無佛、南無佛、南無佛」

と、3回ほどでもお唱えいただければと思います。

 

押しの一手のラブコール、皆様のお気持ちも佛様に伝わりますように♥

 

合掌

 

イメージのチカラ

前回の「一番簡単な氣を取る瞑想法(イメージ法)」で、宇賀神先生の瞑想法はほとんどがイメージ法です、とお伝えしました。

ですので、氣を取る(氣の導引術を行う)ための一番簡単な方法としまして「まず、ご自身のお身体を包み込むような卵型の氣のボディをイメージしてください」と、お伝えしました。

 

イメージ・・・するだけで、氣が本当に体内に取り込めるようになるの~?と思われたアナタ様、そのお気持ち、よぅーく分かります。

そんなに簡単でしたら、誰でもすぐに氣の達人になってしまいますものね。

実は、このイメージ法で本当に皆様が氣を(実際に)たくさん取れるようになるのかは、ワタクシにも分かりません。

ですが、氣を本当に意識的に取れるようになる第一歩が「イメージ」であることだけは、確かです。

人間のイメージ力(想像力)は、全ての夢を叶えるための出発点です。

 

宇賀神先生が、よく勉強会でおっしゃってたイメージ力の凄さのたとえ話をいたしましょう。

 

それは、ジュール・ヴェルヌの小説「海底2万里」です。

この本の中で、たしか主人公は潜水艇「ノーチラス号」に乗って海の中を旅します。

お恥ずかしながら私は読んではいないのですが、この小説が発表されました1870年当時、これを読まれた方達は、今まで見たこともなかったような海の底の世界を想像して胸をワクワクさせたのではないでしょうか?

ジュール・ヴェルヌの小説の中でノーチラス号は、海水を取り込み、そこから燃料と酸素を作りだしていました。

つまり、無限の燃料が存在し、永遠に海の中に潜っていられたのです。

 

そして、この本が出版されてから後、現実の世界で作られた世界初の原子力潜水艦の名前が「ノーチラス号」でした。

ノーチラス号は世界で初めて、原子力で動き、北極点の氷の下を潜航状態で通過しました。

原子力の良し悪しは別としましても、ディーゼルなどの燃料補給を必要とするわけではありませんから、無限に近いと言えば近い燃料ですね。

 

宇賀神先生は、

「つまり、ジュール・ヴェルヌが想像したことが現実になったんだよ。

海水の中にもウランはいっぱいあるからね。」

と、おっしゃいます。

 

もちろんジュール・ヴェルヌだけでなく、今私たちが日常生活で恩恵を受けております様々なこと、例えば電気ひとつをとりましても、一番初めは世界の誰かが「こんなのがあったらいいのにな。」「こんなこともできるはずだ。」と願い、想像することにより創造されてきたものです。

創造の出発点は想像です。

「想像『力』」。

想像には、力があります。

 

そう言えば、ひとつ思い出したのですが・・・宇賀神先生の想像力がどれほど筋金入りなのか、と申しますエピソードを。

 

宇賀神先生が小学校の頃からずっと、「おばかのやっちゃん」と周りの方から言われるほど、今で申しますところの学習困難児、その当時は「異常児」のレッテルを貼られていたことはお伝えいたしましたね。(思い込みのチカラ

中学校の英語の教科書の表紙に、荒野を走るアメリカのハイウェイの写真が載っていたのですって。

現在の日本では容易に想像できるアメリカの光景かも知れませんが、当時の日本はまだ東名高速もできていないような時代でした。

宇賀神少年はもちろんのこと、英語の先生もその写真のハイウェイが一体どんなものであるのかを詳しくご存じではなかったそうです。

教科書の表紙は、ちょうどそのハイウェイが十字に交わっているところの写真だったようで、日本の高速道路のジャンクションのように、ぐるりと小さく円を描いている道も交差点のすぐ横に写っていました。

 

宇賀神少年がその表紙の写真をじーっと見ていますと・・・

段々とその写真の世界に入り込み、自分が車に乗って運転していて、そのハイウェイの交差点を通過していく景色が見えてくるんですって。

(中学生で運転したこともないくせに。)

そしてそのまま車を走らせますと、土と岩ばかりの荒野のハイウェイのすぐそばにドライブインらしき建物が見え、その鎧壁(よろいかべ)の白色のペンキが風になびいてヒラヒラとはがれかけているところまで見えてきたそうです。

そして、「教科書の中のアメリカ」に没入しております宇賀神少年をご覧になった学校の先生は、

「宇賀神くん、夢は寝てから見ろ。」

と、何とも適格なアドバイスをくださったのですとか。

 

このように小さい頃から宇賀神先生は、

写真一枚ですらその世界に入り込み、まるで映画の主人公になったかのように周りに景色が展開していく、

ほどの想像力をお持ちなのでした。

 

特に、このブログでお伝えしております宇賀神先生の加持祈祷や氣功、霊能力などの目に見えない力には、イメージする力が大いに求められます。

イメージをただの空想に留めないほどに強烈に鮮明にできましたなら、もしかしたら前回お伝えしました、氣を取り込む量も増えるかも知れません。

 

と、何ともエラソーに書いておりますが、お恥ずかしながら、私も宇賀神先生のように「確実に膨大な氣を導引している」確信などは、いまだに持てておりません。

ただの先生の受け売りでございます。

確かに、この間も湯峰温泉の中で導引術を行いましたときは、いつもよりもずっと長い間お風呂上りの身体のほてりが続いたような気がいたしますが、「それってのぼせただけじゃないの・・・?」と言われましたら、そうかもネ( ̄∇ ̄)、としか答えられません。

体内の氣を測る測定器があるわけではないですからねぇ。

ですが、宇賀神先生のお考えでは、「まずはイメージすることが大事」だそうですから。

まあ、どうせ気持ちのいい温泉や神様佛様の聖地で氣を取り込むのですから、のんびりと楽しみながら、イメージしてみましょうね♥

 

合掌

一番簡単な「氣を取る瞑想法(イメージ法)」

金曜日から2泊3日で天下の霊泉?、湯峰温泉(にいっておりました。

今回も宇賀神先生はたっぷりと温泉で氣を取られたようです。

温泉で氣を取るためには、温泉につかりながら瞑想を致します。

 

一口に瞑想と申しましても、様々な方法がございます。

最近は瞑想も市民権を得て?、アメリカのGoogleさんなどの最先端を行く大手企業も社内に瞑想のための部屋をご用意なさっているのですとか。

たしかGoogleさんは、仕事のパフォーマンスをあげたり、人生をよりよく生きるために、マインドフルネス瞑想を取り入れられているのでしょうか?

 

宇賀神先生の場合は、瞑想法とは、ほどんどの場合「イメージ法」です。

もちろん先生は、そのイメージをただの空想に留めず、現実化なさるお力を伴って、ですが。

 

宇賀神先生は、以前はよく温泉の中で小周天瞑想(しょうしゅうてんめいそう)をなさっていました。

奈良の勉強会にご参加いただいた方の中には習われた方もいらっしゃるかも知れません。

小周天瞑想とは、気功をご存じの方達の間では昔から有名な、身体の要所要所で「氣」の玉を回しながら全身に巡らす方法で、先生はそれに独自の改良を加えておられました。

 

宇賀神先生は温泉から取り入れた氣を、身体の中で練り、その質を高められます。

まずは体外から氣を取り入れないと絶対量は増えませんし、その氣をさらに練ることで、質・密度がともに上がります。

そのように高めてこそ、病気平癒にその氣を用いたり、様々な加持祈祷の下支えとなり得るのだそうです。

 

宇賀神先生は今回の湯峰温泉では、小周天瞑想とは少し違う方法を試されていました。

先生のお加持をよくご存じの方はご納得いただけると思うのですが、先生の方法は日々進化しております。

私の目から見ましても、

「氣に関すること、神様佛様のことが、イコール、先生の人生の全て」

だと思います。

ヒマさえあれば、頭の中はお加持のことばかり。

先生はとくに病者加持を得意となさっていますから、身体のこと、病気のことはいつも考えておられます。

そして、しょっちゅう新しい「気づき」を得ておられます。

 

温泉での瞑想方法も、また然り、です。

温泉に行く度に、

「今日はどんな瞑想法にしてるのん?」

と尋ねますと、何か新しい方法を試されていることもしょっちゅうです。

あんまり期待したほどの効果を感じられなかったな、と思われたときはすぐに飽きてしまわれますし、ひとつ気に入られますと、折りに触れましては、また思い出したようにその瞑想法をなさったりもします。

瞑想法や、お加持に関しますことでも、よくそんなに色々なことを思いつかれるなー、と感心しながら、いつもお話を聞いております。

 

そうですね、お薬の効能書きみたいなことばかり申し上げるのも何ですから、今日は実際に氣を取り入れるための一番簡単な瞑想法(イメージ法)をご紹介しましょう。

 

 

まず、ご自身のお身体を包み込むような、卵型の氣のボディをイメージします。

氣のボディのことを、気功の世界では微細身(みさいしん)と呼ばれたり、またはオーラとして捉えられる方もいらっしゃいますでしょうか。

なるべくでしたら、色なども含めまして、キレイなイメージを持たれるといいかも知れません。

若さを表すのはピンク、癒しは緑、精神的な崇高さは紫、神々しい金色などなど?

その人その人により、優勢な氣の色などと申しますものもあるようですが、先生はあまりこだわらずになさることをおすすめしています。

 

そう言えば、どなたかが、先生があまり細かなこだわりを持たれないことに関しまして、

「先生は大ざっぱですから。」

と、おっしゃっていましたね。

その通りかも知れません。

ですが、その大ざっぱさは、一番大事な核心のみを譲らないための「ゆるみ」でもあるのだと私は解釈しています。

 

とにかく、ご自身のお身体を包み込むような卵型の氣のボディをイメージなさいましたら、その表面に毛穴のように無数の穴があるように想像します。

そして、呼吸とともにその穴が開いたり閉じかけたりして、氣を取り込みます。

息を吸うときに氣のボディの表面の穴が開き、周りの良い氣を吸い込みます。

そして、息を吐くときに、ご自身の身体の中の邪気を少し閉じかけたその穴から吐き出します。

それを繰り返すのです。

 

 

この呼吸によりいい氣を取り込むイメージを、氣のいいところでいたします。

大自然の森の中や、神社仏閣などの神様佛様の聖地、そして宇賀神先生のおすすめでもあります、温泉の中などで。

温泉は氣に溢れておりますから、最高です。

何より気持ちいいですからね。

 

この氣を取り込むイメージ法は一番簡単でいいかな、と思います。

ですが、一番簡単な基本こそが一番奥義に近いとも考えられます。

皆さまもぜひ一度、温泉に気持ちよくつかりながら、なさってみてください。

のぼせられませんよう、くれぐれもお気をつけくださいませね。

 

ちなみに先程の氣の色の話ですが、随分と以前のことになりますが、オーラの写真を撮っていただいたとき、宇賀神先生は

「わしの氣の色は自由自在だから。七色を出してみせるよ。」

とおっしゃって、本当に七色の虹のようなオーラを写されたことがございました。

月光仮面ならぬ虹色仮面・・・やはりマンガを地で生きておられます。

 

今回の湯峰の旅写真は噂の?サンダース号の中の朝食の風景から。

美味しいトウモロコシと、そのおこぼれを期待するぴーちゃんのシルエットです。

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サンダース号での朝食風景

ぴーちゃん(子供)にエサをあげる親鳥の気持ちなのか、微妙に先生の口がとがっておりますのが、なんとも嬉しかったです。

よく赤ちゃんがすることで「美味しい口」と表現することがございますが、あげる方ももらう方も、自然とそうなりますね。

ぴーちゃんも自分が欲しい食べ物のときは「美味しい口」をするのですよ。

 

宇賀神先生と一緒になって、氣を取るために温泉で湯治させていただいたり、神様佛様にお参りさせていただいたり、私自身も色々と恵まれた人生だと感謝しておりますが、本当の幸せはこの風景かな、としみじみと思います。

 

合掌

蛇のたたり、ではなく、宗教的催眠術。

件の女性の変貌ぶりが「蛇の祟り」のせいではないとすると、一体あの現象はなんだったのでしょうか?

宇賀神先生は、

「それはね、『宗教的催眠術』だと思うね。」

と、おっしゃっています。

 

あの女性は、当時大流行しておりました、駅で「浄霊させてください。」と声をかけられる、かの宗教団体の信者さんでいらしたそうです。

そこではまず信者になるよう誘い込むために、教団に来た人に霊を降ろしたり、またその霊を浄霊したりしていたようです。

その方法とは・・・

 

まず、信者さんに手を合掌させ、中指の付け根の「真点」とやらをギューっと力強く押し合わせ、その手を額の高さに上げさせて、祝詞(のりと)を聞かせ、その間ずっと手を合わせたままお祈りさせます。

長い間お祈りしていますと、段々と手がプルプル震えだしてきて、「そぉ~ら!霊が降りて来た!!」と教団の人に言われるのです。

そうしますと、その降りて来た霊が信者さんの口を借りて色々なことを話しだすのです。

本人の意思に関わりなく。

そして、ひとしきり話を聞きますと、教団の人が、霊が降りている信者さんの額のところに手をかざし、

「おしずまり!おしずまり!」

と言って、霊を鎮める(浄霊する)のです。

そのようなことを繰り返していたそうです。

 

霊を降ろされた(憑依させられた)人は、そのことを「自分には特別な力があるから、こうして霊が降りてくるんだ」と勘違いし、信者になります。

それこそ自分を厳しい修行を経たイタコか何かのように思うようなものでしょうか。

そして、何度も「霊降ろし→浄霊」を繰り返し、段々と降りてくる霊も格の高い?すごい霊となっていき、ますます自分の霊能力は特別なものとなっている、と勘違いし、信者としてのめり込んでいきます。

 

ところが、宇賀神先生いわく、

「それは霊でも何でもなく、ただの催眠術、暗示だよ。

力を込めて両手を合わせて額の高さにずっと上げててみな。

終いにはしんどくて手がプルプルと震えだすから。

それを利用しただけ。

これは、『運動制御』っていう暗示の方法の一種だよ。

手を上げていたら、自分の意に反して手がプルプルと震えだす。

自分には動かすつもりなんかないのに、と思ってびっくりしているときに、『そ~ら!霊が降りて来た!』って言われると、それが本当だって思い込んでしまうんだ。」

 

「顕在意識(けんざいいしき)と潜在意識(せんざいいしき)って聞いたことあるだろ。

あれを、例えば丸い地球の北半球と南半球のような位置関係に例えてみるんだ。

その地球が水に浮いているとして、赤道のところがちょうど水面で、いつもは南半球にあたる潜在意識は水面下にある。

つまり無意識層だ。

そして普段は北半球にあたる顕在意識(通常の物事を考える意識・理性)は水面上にある。(写真の中の図①)

subconsciousness
潜在意識と顕在意識

宗教的な祈りや儀式に没頭していると、段々と頭がボーッとなって、クルッと地球が回転するような形で、理性的な顕在意識が下に沈んでしまうんだ。(図②)

理性があまり役に立たなくなる。

そうすると、『霊が降りて来た』という言葉の暗示にかかりやすくなり、自分に霊が降りて来たと思い込むんだ。

そして『自分は降りて来た霊だ』と信じ込んで、潜在意識の中の知識を総動員して色々をしゃべりだすんだな。

つまり、自分で霊を作りだしてしまうんだ。

そして『おしずまり!』と暗示を解かれると、もと(図①)に戻る。」

 

「ところが、こんな暗示、催眠術を何度も何度も繰り返していると、あるとき南半球にあたる潜在意識が水面下に戻りきらなくなるんだ。

そしてちょうど水面上に北半球(顕在意識)と南半球(潜在意識)が、半分ずつ出ている状態のままになる。(図③)

素人が催眠術をほどきそこなった瞬間だな。

半分理性が働くから、ご飯を食べたりとかある程度の日常生活はできるけど、ずっと『憑依現象』のような状態も続く。

もう戻らない。

あのときの娘さんの状態がそれだ。」

 

「わしはあのときあの娘さんからは、取り憑いている霊は感じられなかった。

だからこれは蛇の霊の祟りなんかではなく、ただの宗教的催眠術が元に戻らなくなっただけなんだと思ったんだよ。」

 

「それにもうひとつ言うと、農家の人は蛇を殺さない。

それどころか、稲に悪さをするねずみやモグラを食べてくれるとして、守り神扱いしてるよ。

わしのおばちゃん家が農家だったから、よく知ってる。

そもそも言ってること自体が作り話の嘘っぱちだな。」

 

「だから、わしはあのとき、催眠術をほどいたんだ。

『蛇は祟るのに、どうしてうなぎは祟らない?』

って聞いて、あの娘さんが

『へっ?』

と考えた瞬間、つまり、顕在意識(理性)と潜在意識が半々だったところから、少しだけ理性が勝った瞬間、『喝ーっ!』って氣合いをかけて元に戻したんだ。

うまいもんだろ?」

 

催眠術・・・ねぇ。

たしかに、催眠術にかかっていますと、人は驚くような力を発揮したりする、とは聞いたこともございますが。

だから宇賀神先生のお話の中の女性も、ずっと欄間にぶら下がっていられたのでしょうか。

それにしましても、すごい力です。

 

またこのことは、宇賀神先生がその娘さんからは霊の存在を感じられなかった、という確信を持ってらっしゃったからこそ、できる対処でしたね。

うら若き女性が下着も丸見えで欄間にぶら下がり、恐ろし気な声でうめいておりますと、「マジで霊がついてるかも・・・!」と私なら思っちゃいますね。

宇賀神先生はその様子を目の当たりになさいましても、「霊ではない」という感覚と、「農家の人は蛇を殺さない」という知識とで、対処なさいました。

宇賀神先生のすごいなぁ、と思いますところは、色々な場面で、

理性のみでなく、

また、

感覚(霊感)のみでなく、

判断なさり、

その両方でもって事の対処にあたられることです。

ですので、人様にはいつも地に足のついた現実的なアドバイスをなされるのかなぁ、といつも感心しています。

 

そして、氣合い術は身体のことだけでなく、精神的なことにも作用を及ぼすのですね。

宇賀神先生の氣合い一閃で、娘さんの宗教的催眠術とやらは見事に解かれました。

 

残念ながら今回のお話は日本人の大好きな怪談話(蛇の祟り)ではありませんでしたが、ある意味では、怪談話より怖い話です。

霊などが起こす災いよりも、人間(の欲望)が起こす災いのほうが、よほど恐ろしい、と思います。

目に見えない世界に興味を持つ人(私も含めまして)は特に、このことを忘れないようにしないと、といつも思います。

でないと、足元をすくわれかねません。

 

そして何を隠そう、うなぎの祟りが恐いのは、実はこの人だったりして・・・?

今年は贅沢に食べすぎですよー( ̄∇ ̄)v

kaneyo
「かねよ」さんの錦糸重

 

そう言えば『饅頭怖い』っていう落語がありましたねぇ。

宇賀神先生は「うなぎが怖い♥うなぎが怖い♥」そうです。

 

 

***

お知らせ申し上げます。

また金曜日から湯峰温泉(電源がないところ)に氣をとりに行ってまいります。

これから年末にかけましては特に、金曜日~日曜日にお寺のほうの仕事も入りがちになりますので、週の後半はブログ更新ができない週がほとんどになると思います。

また、このように「出かけます」って書くと防犯上よくないよ~、ってアドバイスをいただきました!

ほんとですねー!

と申しますことで、これからは、お断りせずにブログ更新を休む日も多々増えると思いますが、なにとぞご了承くださいませ。

その分、書ける日は充実した内容のものをお届けできますよう、励みます!

これからも何卒よろしくお願いいたします。

 

合掌

蛇のたたり?

今日は「蛇の祟り」についてのエピソードをお話しましょう。

 

宇賀神先生が仙台でお仕事なさっていた頃のことです。

いまからだいたい30~40年ほど前の約10年間ですね。

その頃は東北地方に「キツネ憑き」と呼ばれる現象がまだまだ色濃く残っていました。

(ちなみに中国地方では「たぬき憑き」や、四国では「犬神憑き」が主流だったようです。)

また全国的にも某宗教団体による「浄霊」が大流行りしていた時代でした。

皆さまもひと頃ご経験なさったことはございませんか。

駅のすぐ近くで「浄霊させてください」と声をかけられたことが。

全国的に「霊が取り憑いている」という考えが浸透していた時代です。

 

先生が仙台の自宅でお仕事なさっていたときに、とあるお寺さんから電話がかかってきました。

「お宅様はキツネ憑きを落とせるそうですね?今すぐタクシーに乗ってうちへ来ていただけませんか?」

なんと、どこから宇賀神先生の噂を聞かれたのか、見ず知らずのお寺さんからヘルプの要請がきたそうです。

あまりにも慌てておられた様子に、先生は言われた通りタクシーに乗り、町とお寺さんの名前を告げて向かわれました。

 

そこへ着きますと、お寺の門の前に人だかりがございました。

宇賀神先生が中へ入りますと、そこにはトンデモナイ光景が広がっていました。

なんと、本堂の縁側にある欄間のところに、水色のミニスカートをはいた若い女性が、まるで動物のナマケモノのようにぶら下がっているのです。

欄間ですから、人の頭の高さより少し高いところでした。

まずそこまでどうやって非力な女性の力で登っていったのかも不思議ですし、また、そこにナマケモノのようにぶら下がり続けるのも、相当な力を要します。

よほど鍛えた方でも難しいのではないでしょうか。

なぜその女性がぶら下がり続けられるのかが不思議でした。

しかも短い丈のスカートもめくれて、下着が丸見えだったそうです。

「なんじゃこりゃ。」

と、宇賀神先生もびっくりでした。

 

実はこの女性は、「蛇に取り憑かれた」とご家族がそのお寺に連れてこられたのだそうです。

お寺のご住職が取り憑いた蛇を成仏させようと女性を後ろに座らせ、お経を読み始めようとしました。

すると、カーンと鳴らす鉢の音と共にその女性はバタッと気を失うように倒れ、次の瞬間スゥーッと起き上がったかと思うと、顔の表情も変わり果てていたそうです。

若い女性とは思えないような、地の底から聞こえてくるような恐ろし気な声で「自分はこの女に憑いた蛇だ」と名乗ったそうです。

そしてそのまま蛇が地面を這うようにニョロニョロと身体とくねらせ、お堂を出て縁側のところまで行き、柱をよじ登って欄間にぶら下がりました。

田舎のお寺ですから、たまったものではありません。

うら若き女性がスカートもめくれ、パンツ丸出し(失礼!)でお寺の欄間にぶら下がっているのです。

物見高い人達がなんの騒ぎかとたくさん見に来られていました。

 

ことの次第をお聞きになった宇賀神先生は、お寺さんに「お経本とお数珠を貸してください」と頼まれました。

とにかく急いで来てくださいと言われたため、着の身着のままでいらしてたのです。

先生は女性の下に、万が一欄間から落ちたときに怪我をしないよう、布団を敷くように頼まれました。

そしてお経本とお数珠を片手に持ち、女性に近づかれました。

 

「お前は誰だ?」

と宇賀神先生はその女性に向って尋ねられました。

「わしはなァ、この女に取り憑いた蛇の霊じゃ~。」

と、女性のものとは思えない、ドスのきいた声で答えてきました。

「なぜこの女に取り憑く?」

「わしが昔、この女の先祖に面白半分に殺されたからじゃ。

この女の先祖は百姓だった。

田んぼにいたわしを、この女の先祖が鍬で殺したのじゃ。

面白半分にな。

殺す必要はなかったのに。

だからその恨みを忘れることだできず、この女に取り憑いておる。」

その女性に取り憑いた蛇の霊は、まさに蛇の祟りかと思うような女性らしからぬ声で、このように語りました。

 

そこで、宇賀神先生は、こう尋ねました。

「そうか、あんたが蛇の霊なら、わしはひとつ聞きたいことがある。」

「なんじゃ~。」

と、律儀に蛇の霊は答えます。

「蛇は祟るんだな?」と尋ねますと、

「た~た~るゥ!」と、さも恐ろし気に答えます。

「実は前から不思議だったんだがな、蛇は、たしかに祟る。

だのに、どうしてウナギは祟らないんだ?

おんなじ足がなくてニョロニョロしてるのにおかしいじゃないか。

一体どうしてなんだ?」

 

「・・・へっ?」

 

と、なった瞬間。

「喝ーーーっ!!!」

という怒号もろともにお経本でその女性の額をパーン!とはたきました。

 

すると女性はするすると上手に欄間から降りて来られ、宇賀神先生の前に正座なさいました。

「分かったか?」

との宇賀神先生の言葉に、女性らしい声で

「はい。」

と答えられたそうです。

見事、取り憑いた蛇を祓った瞬間でした。

 

お寺さんと女性のご家族に感謝され、この件は一件落着となたそうです。

 

 

後年、このお話を宇賀神先生から私がお聞きしましたとき、

「それって本当に蛇の祟りやったん?」

と尋ねました。

すると先生は、

「たぶんあの時のは霊が憑いてたんじゃないと思うな。」

と、おっしゃいました。

ですが、その女性がナマケモノのようにぶらさがり続けられたのは、尋常ではありません。

蛇の祟りではないとすると、一体何だったのでしょうか?

 

続きはまた明日に。

 

合掌

 

指導霊の存在

以前に宇賀神先生が氣というものに関しましては、全くの無師独学でここまでいらした、とお伝えしました。

小学校5年生のときに出会われた「日本ターザン」のたった一言だけを頼りに、この氣の世界を切り開いてこられた、と。

ひとつには今の宇賀神先生ほど氣に熟達された方が周りにいらっしゃらなかった現実もございますし、もうひとつには宇賀神先生が殊勝にも人様に頭を下げて教えを乞うということが難しい性格でいらっしゃる?のもございますね。

 

もちろん氣に関連があると考えられて、民謡から武術武道などの色々は習いに行かれました。

氣は呼吸と関係があるのではと考えられ、小学生のときに民謡を。

武田惣角さんのことを知り、氣と大いに関係のございます合気柔術を。

そのような色々な町中の道場ではもちろん先生方についてご指導を受けられました。

氣というものを体内に取り入れ、それを練り、発揮して使いこなすために必要なものは何かをご自身で調べられて、考えられて、色々と試してこられました。

 

このように、宇賀神先生は氣というものに関しましての「人間の」師匠はいらっしゃらないのですが、実は「人間ではない」師匠は、それこそ軍団のように山のようにいらっしゃいます。

先生はその方達を「指導霊」と呼ばれています。

 

宇賀神先生がおっしゃるには、

「例えば何年も柔道をしていた人が公園を通りかかると、その公園で子供が木に紐をくくりつけて、柔道の打ち込みの練習を一所懸命していたとするだろ?

それを見たら『違う違う、そこはもっとこうして・・・!』とか、思わず教えてあげたくなるじゃないか。

自分の方が先を行く技術や知識を持っていて、一所懸命に練習している人を見たらお節介を焼いて教えてあげたくなるような。

そういう霊が実は一杯いるんだよ。

その霊達が、わしが色々悩んでいると、「それはな、」とか言って教えに来てくれるんだ。

見ず知らずの霊がたくさんな。」

とのことです。

 

ええっ、霊はマイナスの存在だから関わるな、ってあれほど言ってたのに?と思われた方もいらっしゃるかも知れませんが・・・世の中、霊にも色々あるようでして?

ですが、もしかしたらそれは霊ではなく、この世に漂う先人の「思念」かも知れません。

正直なところ、よく分かりません。

ですが、教えてくれる何かの存在があることは確かなようです。

 

宇賀神先生と一緒に暮らしておりますと、突然

「いま後ろ(守護霊団や指導霊のこと)から知らせが入った。」

とかおっしゃることが多いのです。

「その後ろって、今回は誰?」

と尋ねますと、

「たぶんお不動さん。」

などと答えられるときもございますし、

「いや、誰か分からない。」

とおっしゃるときもございます。

たまには

「でも何だかいいかげんな人がいいかげんなこと言ってるな。」

などとおっしゃるときもございます。

 

その正確さも、驚くようなドンピシャリの回答をくださるときも多々ございますし、いやまあ何と嘘っぱち、と言いたくなるようなときも、たまにはございます。

少なくとも、宇賀神先生の横にいて退屈はしませんね。

見えない存在から色々なことを教わるのが日常なのですから。

 

たとえば、私は随分と以前にお琴を習っていたのですが、外の教室に習いに行くきっかけとなったことが、ラジオで偶然「遠藤千晶さん」とおっしゃる方のお琴の演奏をお聞きし、その音色に心魅かれたことでした。

小さいころには母からお琴の手ほどきを少し受けていましたが、ちゃんと先生について習いたいと思って教室を探しました。

梅田のNHKさんの文化教室に素晴らしい先生がおられ、その方の教室に通うことにしました。

その方はかの有名な宮城道雄さんのお弟子さんにあたられる人(宮城派の人)でした。

しばらく習っておりますと、宇賀神先生が急に、

「綾野さんの好きな遠藤千晶さんは宮城会の人だ、って“後ろ”が言ってる。」

と、おっしゃいました。

私は遠藤千晶さんがどのような人なのかは知らなかったのです。

ただ後に偶然ラジオで、遠藤千晶さんのお師匠さん(砂崎知子さん)のお名前だけはお聞きしましたが、その砂崎知子さんのことももちろん分っていませんでした。

「ホントにー?」

と思わず言いましたが、事の真相は分からずじまいでした。

ところがそれからずいぶんたって、私のお琴の先生のご主人さんのお葬式に参列したときに、お花を贈られた方の中に「東京宮城会 砂崎知子」と書かれて遠藤千晶さんのお師匠さんの名前がございました。

遠藤千晶さんのお師匠さんが宮城会の方でしたら、当然遠藤千晶さんも宮城会の方です。

つまり、宇賀神先生が「後ろ」から聞かれたことが本当だったことが、随分たってから判明したのです。

 

そしてお琴を練習しておりました当時、宇賀神先生が

「遠藤千晶さんのことを教えてくれた霊が、綾野さんについてやってもいい(!)って言ってる。」

と、おっしゃいました。

その霊の応援してくれる?気持ちが嬉しく、もちろん二つ返事でお願いしました。

別にその霊が後ろについてくださったとしても、急にお琴が驚くほど上達するわけではありません。

ですがその霊についてもらってから、今まで習ったことがなく初めて聞くような曲でも、どこか遠い記憶で知っているような感覚があったのは不思議でした。

とても繊細ではありますが、その感覚は確かに、指導霊がついてくれてから感じるようになりました。

 

今はもうお琴をやめてしまいましたが、そのときの指導霊の気持ちが嬉しく、今もずっとその霊の「供養」を続けております。

ですが、もうお琴を練習しなくなった私からは、その指導霊は離れてしまったかも知れません。

「一所懸命に打ち込んでいる人に教えてあげたい」というのが指導霊ですから、あり得る話です。

 

皆さまもご経験はないでしょうか?

何かひとつのことに打ち込んでいて、行き詰ったときに、ふと誰かが教えてくれたのでは、というようなひらめきが。

それはもしかしたら指導霊なるものの存在かも知れませんし、皆さまの潜在意識のなせるわざかも知れませんし、もしかしたら奥深くにしまい込んだ知識を思い出しただけかも知れません。

 

うちの母なんかは、縫物をしていてちょっと迷ったあげく、ふと解決方法が分かりますと、

「絶対に(お裁縫がプロの腕前だった)お母ちゃんが教えてくれたんや、て思う。」

と申しております。

その感覚、たぶんホントだと思うよー、と、私はニマニマしながら聞いております。

 

指導霊、何ともありがたい存在ですねぇ。

 

合掌

もらい子の佛さま達

ありがたいことに、昨日のお話のお不動さんだけでなく、うちは「もらい子」の佛さま達で大家族になっております。

 

たとえば、つい先日もご縁があって「無期限で預からせて」いただくことになった佛像が3体も!うちに来られました。

あまりにもリアルタイムで起きているお話ですので、ここでは詳しいことは申せませんが、本当につい先月のことです。

私は実は「ときめく片づけ」をしたい派なので、佛像とは申しましてもモノが増えるのはイヤだなぁ、と内心思っておりました。

ところが先月お預かりした佛様をとりあえず自宅にお連れして、荷ほどきしますと・・・6本の手がゆらゆらと揺れて、なんだかとっても嬉しそうに踊っておられるように見えたのです。

「う・・・嬉しくていらっしゃるのでしょうか?」

思わずそう尋ねてしまいました。

 

もう、そうなってしまいますと、私もその佛様が可愛く(失礼♥)なってしまいます。

「いやぁ( ̄∇ ̄)、そんなに喜んでくださるのでしたら、どうぞどうぞ、うちにいてくださいな。」

と、思ってしまいました。

そのことを宇賀神先生にお伝えしますと、

「捨てる神あれば拾う神あり、って喜んでおられるんだろ。」

と、おっしゃいました。

 

そしてなんとその佛様を奈良のうちのお寺に初めてお祀りした日、私たちが今までに見たこともないような大きく立派な松茸を届けてくださいました。

しかもこの8月に、ですよ。

もちろん実際には宇賀神先生のお弟子さんからいただいたのですが、それをいただいたときに先生が「この佛様から『ほんのご挨拶代わりに・・・』っていう通信が来た」っておっしゃるのです。

アンビリーバブル。

あまりにも現世利益に過ぎますね?

 

宇賀神先生がおっしゃるには、

「うちに来る佛さん達は、みんなもとの所で怖いとか何だとか言って嫌がられていた佛さんなんだけどね。

うちに来ると皆、よく(衆生済度のために)働かれる、いい佛さんになるんだよー。」

ですって。

 

ですが、ここでひと言お願い申し上げておきたいのですが、この記事を読まれましても、「そうだ、うちにあるあの佛像をもらってもらえないか・・・」などと思わないでくださいね。

うちのお寺も家も、そんなに広くないですからー。

皆さま、何卒よろしくお願いいたしますね!

実はわたくし、ミニマリストにとってもとっても憧れているのです。(憧れと実情は別。)

 

合掌