でこぼこの才能

今日は宇賀神先生の苦手な分野のことをお話しましょう。

 

宇賀神先生は子供の頃、今で申しますところの学習困難児、ですが当時は「異常児」との診断を受けてしまったことはお話しました。

先生ご自身も、「自分は周りの子達と比べて、何かおかしいのかな?」とは、少しは思っておられたようです。

それを決定づけられましたのは、小学校の算数の授業のときでした。

 

その日は、皆で教室で算数の九九の表を習っていました。

学校の先生がおっしゃいます。

「いいかー。九九はすごいんだぞ。数字が倍・倍になって増えるのが、ぱっと計算できるんだ。ひとつずつ足さなくても、倍・倍に増えていくんだぞ。」

と、九九の表の便利さを教えられました。

 

その九九の表をじぃーっと眺めていた幼き日の宇賀神少年は、あることに気づきます。

手をあげて担任の先生に質問しました。

「せんせぇー。九九は変だよ。

先生は倍・倍に増えていくって言ったけど、それは2の段から上だけだよ。

2×2=4、2×3=6は、増えるけど、1の段は逆に減ってるよ。

1×2=2、1×3=3で、1+2=3、1+3=4って足すより少なくなってるよ?」

と。

 

そのときの学校の先生の対応が何とも残念でした。

「宇賀神はバカだから黙ってろ。」

と、一言のもとに、その質問は無視されたのでした。

お陰で宇賀神先生は、そのとき練習しておりました7の段までは覚えられたのですが、8の段以上はいまだに覚えておられません。

必要なときは、たとえば8×3=24を3×8=24、という風にひっくり返して計算しておられます。

いえ、ですから、本当の話ですよ。

しかも、残念なことにその単純な計算式も往々にして間違っていることが多いのですけれどね。(真実を申し上げますと、掛け算だけでなく足し算も間違っておられます。)

 

またある日のことです。

 

同じく算数の授業で、時計を習っておられました。

とくに小さな子供さんやお孫さんをお持ちの方はご理解いただけると思うのですが、まだ時計や時間の概念の無い子供に、時計を理解させるのは結構難しいですよね。

宇賀神少年も、その日は皆と一緒に時計を教室で習っておりました。

そして、また先述の九九のようにじぃーっと時計の図を眺めていますと、ふと疑問が湧きあがってきました。

手をあげて担任の先生に質問します。

「せんせぇー。この『時計』は変だよ。

1時間は60分でしょ。

1分は60秒でしょ。

それなのにどうして1秒は60で割れないの?

0.99秒があるのはどうしてなの?」

と。

またまた、担任の先生がおっしゃいました。

 

「宇賀神はバカなんだから黙ってろ!」

と。

 

私からしましたら、九九のことも時計のことも、なんて素晴らしい着眼点なんでしょうと思うのですが、担任の先生の心無い一言で宇賀神先生の気づきの芽はつまれてしまいました。

お陰で、宇賀神先生はいまだに「時計」に関しましても苦手で、たとえば

「17時って7時のこと?」

と、聞かれます。

たとえば20時が夜の8時、というのもよく呑み込めてらっしゃいません。

いえ、ですから、本気で。

何度お伝えしましても、時計に関する考え方が今ひとつ頭に入らないのです。

 

ついでに申し上げますと、何故かそれに伴いまして、カレンダー(これから先の予定)も今ひとつ、頭に入らないのです。

今日が何曜日、というのも80%以上の確率で間違っておられますし、宇賀神先生が楽しみになさっている「週末の予定」でさえ、今週分の予定が頭に入っております確率は50%です。

いえいえ、ですから、ウソではありません。

よくそれで生きてこれたねー、と言いたくなりますが、これで生きてこられました。

 

ちょっとだけ弁明させていただきますと、宇賀神先生は私から見ましたらバカなどではなく、たとえば先生がとても興味を持っておられる医療や佛教や東西の歴史、地質学、果ては料理や戦闘機やどうでもいい雑学などに関しましては、驚くほどの知識も見解も持っておられます。

私は内心、宇賀神先生のことを「歩くグーグル」と呼んでおります。

だって何を尋ねても知っておられて、とっても分かりやすく教えてくれるんですもの。

(たま~にハッタリの大嘘をおっしゃいますけどね。とくに酔っ払っちゃったときなど。)

 

人の得意なこと、不得意なことを、よく円グラフのように表したりすると思うのですが、それがそんなにひどくでこぼこすることなく、万遍なく色々な方向にそこそこ伸びている人もいらっしゃいましょう。

当たり前の社会人として立派に生きていける人ですね。

あんまりでこぼこが無い方が、「円転自在」よろしく、気持ちよく世の中を生きていけるような気がいたします。

 

ですが、宇賀神先生のそれは、多分にたったひとつの分野に向けられて大きく突出し、あとのほとんどは平均以下、かも知れません。

たったひとつの分野とは、申し上げるまでもなく、神佛のエージェントとしての、お加持のお仕事です。

「円転自在」の境地からはほど遠く、その分野においてでないと、生きていけません。

その代わり、その分野に関しましては、誰にも負けないという自負さえあります。

 

でこぼこがあまり無い方が幸せなのか、宇賀神先生のようにひとつ突出したような方が幸せなのかは分かりません。

その人それぞれだと思います。

事実、宇賀神先生がご自身の生きる道を見つけられるまでの人生は、上記の子供時代からも含めまして、なかなかつらいことも多かったようです。

先生は「わしは神さん佛さんに拾ってもらった」という風におっしゃっています。

ですので尚のこと、神様佛様のエージェントとして働き、ご恩返しをなさっているのでしょうね。

 

そしてどちらかというと、でこぼこが割合に平均的に巡らされ、でも実はこっそりとその中のいくつかが「超がつくほど平均点以下」の私は、宇賀神先生のサポートをして何とか生きております。

一応、17時が夕方の5時というのは理解しておりますから。

ええ、ええ、さも常識人代表のようなエラソーな顔をして、ですね、先生のかたわらで幸せに生きております( ̄∇ ̄)

ま、ですから、幸せは人それぞれということでしょうね?

 

今日はご相談者の方で、自閉症を患ってらっしゃるという方にお会いしました。

その方は驚いたことに、全ての日付の曜日を「覚えて」おられるそうです。

計算で出す方法はあるようですが、そうではなく、記憶してらっしゃるのですって。

本当にそんなことができるのでしょうかとびっくりして、私の生年月日をお伝えしますと、その日は「水曜日だった」と見事に当てられました。

 

もちろん、その才能が実生活の上で何の役に立つかは分かりません。

そして他にどんな才能をお持ちなのかも私は全てお聞きしたわけではありません。

ただ、25歳だとおっしゃった彼の目はとても優しく綺麗に澄んでいました。

その澄んだ目は、誰にも奪えない、しかも誰が教えても教えられない「天から与えられた才能」です。

もちろんそれは、まぎれもなくご両親や周りの方達との人生の中で育まれたものではありますが。

 

宇賀神先生は、

「才能は、それが活かされようが活かされまいが、あるというだけで素晴らしい。」

とおっしゃいます。

ですが、親心(いや、姉心・・・くらいにしておいて)としましては、彼のその才能(澄んだ目)に見合う幸せな人生を、これから先も歩んでほしいなと思います。

「水を得た魚」という表現がございますが、彼の生きる世界の水が、彼にとって優しく心地いいものでありますことを願ってやみません。

 

合掌

 

神様のおねだり

先日の亀戸の天神さんのお話の中で、宇賀神先生と私がご飯をいただいていたときに、天神さんが「当然、私にも(お供えを)くれるよね。」と、出てきていらしたことをお伝えしました。

そんな「神様からのおねだり」、実はもう一人(一柱)別の神様からもお伺いしたことがございます。

亀戸の天神さんよりもずいぶん以前のお話になります。

その神様とは、うちの近くの、近鉄布施駅近くの高架下にひっそりと祀られていらっしゃる、「白龍大神(はくりゅうのおおがみ)」様です。

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白龍大神さま

 

その白龍大神様(白龍さん)の近くのうどん屋さんで先生と温かいおうどんをいただいていたときです。

いつもご飯をいただく前には、今までご縁のございました神様佛様にお供えをするのですが、そのとき急に白龍さんが

「ボクにもちょーだいっ!」

と、ポンッと、目の前?に現れられました。

正確に申し上げますと、お言葉とともにその白龍さんの祠が突然まぶたの中にイメージとして見えたのですが、まさに「ポンッと」という表現がぴったりの現れ方でした。

しかもご自身のことを「ボク」ですって。

しかも「ちょうだい」ではなく、「ちょーだい」です。

幼児言葉的?

 

それまでも白龍さんのことを存じてはいて、たまにお参りさせていただいてましたが、ただのご挨拶程度?のおつきあいでした。

とっても小さな祠に祀られておいでで、電信柱の奥の、目立たない場所にいらっしゃる小さな小さな神様です。

多分古くからの由緒ある神様ではないのでしょう、と思っておりましたが、いつもお榊などのお世話はされていて、どなたかが大事にお守なさっているようでした。

 

私自身、さして濃いご縁を感じていたわけでもなく、毎日毎食のお供えまではさせていただいておりませんでした。

「濃いご縁を感じた神様佛様」と申しましても、私が「よいお参りをさせていただいた」とか、「お言葉をいただいた」と感じ、感謝申し上げた方達に対して一方的にお供えしているようなものです。

例えるなら、とっても大好きな大スターに差し入れを届けて満足するファン心理とでも申し上げましょうか?

ただの私の一方的な好意、自己満足です。

 

ですので、その当時はまだ神様から「ちょーだい」だなんて、言われたことはありませんでした。

 

それが、何とも可愛らしく「ボクにもちょーだいっ!」ですって♥

 

びっくりして宇賀神先生に

「あそこの白龍さんが『お供えちょーだい』って出てきはった!」

とお伝えしますと、

「そりゃ、あげなきゃなー。」

と笑われまして、私はお供えをしました。

こんなに可愛らしく出てきてくださったことが、ただただ嬉しくてありがたくて、もちろんそれ以来欠かさずお供えしております。

 

この白龍さんは本当に可愛らしいのです。

 

後日に宇賀神先生と白龍さんにお参りしたときなど、先生がたまたまお財布の中にございました13円をお賽銭入れに入れようとなさいましたら、

「白龍さんが『あそこの(深江の)お稲荷さんには100円、あそこの観音様には50円、それなのにどうしてボクには13円なの?』って言ってるー。」

と、苦笑しながらおっしゃいました。

「えーっ、それは大変!( ̄∇ ̄;)」

と、あわてて100円玉を探しました。

(ちょっと悲しいお話ですが、この白龍さんのお賽銭箱は、よくドロボウに壊されているのです。)

 

また、ある時は私がお財布の中の100円玉をお賽銭で入れようとしましたら、

「そっちのぴかぴかの100円玉の方がいい。」

なんて、本当に子供みたいなことをおっしゃいました。

 

前回お伝えしました亀戸の天神さんは、やはり平安貴族のご出身のためか、「スーッと」とか、「しずしずと厳かに」という表現がぴったりの現れ方でいらっしゃいましたが、白龍さんはまさにポップアップ画面のように「ポンッと」ご出現なさいました。

そしてこの可愛らしいおねだりの数々。

ハートがノックアウトされちゃいそうでしょう?(言い方が古いですか?)

 

宇賀神先生が、

「たぶんこの白龍さんは、昔相場で儲けた人が建てたんだね。

この近辺で商売してる人は『今日の手形が落ちないと大変なんですー!』って泣きつきにくるらしい。

結構頼りにされてる神様なんだよ。」

とおっしゃいました。

先生の霊視ですが。

 

このように、(輪廻転生の輪から)解脱なさった佛様に比べまして、解脱なさっていない神様は、まだいくぶん人間に近いところもお持ちのように感じます。

神様のカラーと申しますか、ご性格と申しますか、色々と面白いです。

もちろん、これは宇賀神先生や私の感性のことですから、もしかしたら他の方には、たとえば今日の白龍さんも「可愛らしい神様」ではなく、「めちゃ頼りになるすごい神様」として目に映るかも知れません。

それは本当にあり得ます。

と申しますのも、たとえば美術展で同じ絵画を見ましても、感じることは人それぞれですものね。

どなたの感性が正しくてどなたのは正しくない、などということはございませんから。

 

もし布施駅近辺にお越しの際は、ぜひお参りなさってみてください。

ちっちゃなちっちゃな祠に祀られておいでの、ともすれば見過ごしてしまいそうな神様です。

お賽銭はもちろん、100円玉でなくても10円玉でも構いません。

もしそのときお財布の中にお持ちでしたら、ぴかぴかのキレイな硬貨をさしあげてくださいませね。

神様はきっと喜ばれます。

 

***

今日、いつものようにこの記事を書きましたあと、宇賀神先生に見てもらいましたら、先生が、

「本当の信心というのはね、神様をあてにするのではなく、神様にあてにされる生き方のことを言うんだよ。

『俺んちの氏子はがんばって生きているな』と、神様に頼もしいと思ってもらえる生き方をすることが、本当の信心なんだ。」

と、おっしゃいました。

神様にあてにされる、ですか。

たしかに、宇賀神先生は「わしは神さん佛さんのエージェントだから(神佛に仕えて働く)。」と、よくおっしゃっていますものね。

頼りがいのあるエージェント、と神様佛様に思っていただけましたら、この上ない喜びですね。

この点で申しますと、私は白龍さんにとりましては、「ご飯を毎食ちゃんと忘れずに届けてくれる頼りがいのあるウェイトレス」として目に映ったのでしょうか?

うーん・・・まぁ、いっか♥( ̄∇ ̄)

***

 

合掌

自己愛主義

先週末は湯の峰温泉に湯治に(氣をとりに)行っておりました。

なかなか出先でのブログ更新は私には難しく、ここのところ休みがちで申し訳ありません。

お詫びに?旅先での宇賀神先生の素敵な笑顔の写真を。

 

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「山の神、お酒をもう一本。」の図

 

この一本指の意味、いつもこのブログを見てくださっている皆様でしたら何のことかお分りになりますでしょうか?

そう、「山の神、お酒をもう一本ちょうだい♥」の指です。

 

あげませんってばv(^-^)v

 

宇賀神先生のいいところは「めげない」ところです。

そしてそれが悪く出ますと「こりない」のですが。

表裏一体ですね。

どんなに私に「お酒は1日1合まで。」ときつく言われましても、めげずに「今日は特別もう一本。」とおねだりなさいます。

 

よく、長所と短所は一本の線上にあるようなもの、と言われますね。

それがシーソーのようにバランスを取っているのですとか。

その人のある一面がシーソーの片方に傾いたときは長所として現れ、もう片方に傾いたときは短所として現われるのですって。

たとえば、「大らか」がある面では「大ざっぱ」となり、「勇敢」が悪くでますと「むこうみず」、となりますように。

 

先程の宇賀神先生の「めげない」というご性格は、本当に素晴らしいといつも思います。

私自身もそんな先生の強さにどれほど救われたことでしょうか。

イヤなこと、つらいこと、不安なこと、人生ですから色々と起こりますけれど、宇賀神先生の

「大丈夫。何の問題も無い!」

というお言葉に、いつも救われる心地がいたします。

「そんな、大丈夫っていう根拠があるの?」

と尋ねましても、

「根拠がなくても『自らを信じる』ことを自信っていうんだ。」

という、やはりいつもの返事がかえってきます。

訳が分かったような、分からないような言葉ですが、「自分を信じる」って、当たり前にできる方にはとても簡単なことかも知れませんが、そうでない大多数?の方達には案外と難しかったりするのかも知れません。

 

自分を信じること。

自分の健康を信じること。

自分の幸せな現在と未来を信じること。

 

言葉にしますと一見簡単なようですが、実際となりますと、つい

「この仕事はうまくいかないんじゃないか。」

「将来大変な病気にかかったり、もっと年を取ると寝たきりになるんじゃないか。」

「老後が心配。」

などという不安が頭をよぎりますものね。

 

宇賀神先生は、よく

「わしは100とハタチまで(つまり120歳まで)生きるからね。」

とおっしゃいます。

そんなに長生きされたら、美人薄命( ̄∇ ̄)で私の方が先にあの世に行きそうですヨ。

ちなみに先生は糖尿病をお持ちですし、脳梗塞もご経験なさいました。

なのにこの自信は一体どこから。

 

普通は、それぞれの心配事に対して色々な対策を講じておき、「備えあれば憂いなし」として少しは不安を和らげる、とするのでしょうが、宇賀神先生の場合はちょっと違います。

「困ったことは、困ったことが起きてから心配しても充分間に合う。(だから先に心配しない。)」

「人生はまず走り出して、こけたところがスタートだ。」

「こけてもタダじゃ絶対起きない。地面に何かいいものが落ちてないか探して拾ってから起き上がるんだ。」

これらの言葉は、宇賀神先生の口ぐせです。

踏まれても踏まれてもめげない雑草のような?強さです。

 

私としましては内心、「まずは『こけない人生』を目指してくれてもいいんじゃ・・・。」とツッコミを入れたいところですが。

(ですが、こんな風に書きますと、「わしはこれでも用心深く物事を進めてるよ。」とも反論されそうですね。)

 

宇賀神先生は、これらを総じて

「わしは『自己愛主義者』だから。」

と、よくおっしゃいます。

 

自分のことが大好き。

自分を信じている。

自分が必ず幸せな人生を歩むと信じている。

 

これらを総じて「自己愛主義」と宇賀神先生はおっしゃいます。

自分が自分のことを好きになれなくてどうするんだ、と。

 

これは、自分のことだけが大事で他者はどうでもいい、というのとは違います。

他者を大事にするためにも、まずは自分を大事にできる人間でないと。

事実、私の目から見てですが、自己愛主義を名乗ってはばからない宇賀神先生は、たくさんの人達の救いとなっておられます。

 

心理学のことはよく分かりませんが、宇賀神先生を横で見ていますと、自分を好きでいることと、幸せな人生を歩む上でめげない強さをもつことは密接に関係しているように思えます。

ときに、と申しますよりほとんどの場合?宇賀神先生の

「絶対、大丈夫!」

という言葉は何の根拠もなかったりするのですが、それでもその言葉に力を得て前に一歩踏み出せる方達がたくさんいらっしゃるのは、宇賀神先生の生き力の強さを感じられ、勇気を得られるからかも知れません。

私はいつも、宇賀神先生からお加持や氣に関することだけでなく、人生を歩む上での考え方もたくさん学びたいと思っています。

先生の底抜けの明るさと自信の源を、私も持ちたいと願ってやみません。

 

ただ、「めげない」強さの源の「自己愛主義」は大いに賛成いたしますが、ときにそれが悪く出る「こりない」は、ちょっとやめてほしいなぁ、とも思います。

「こりない」の代表はもちろん、宇賀神先生の得意技の盗み酒!

結局私にバレて雷を落とされることが多いのですから、少しはこりてくれよー、と日々願っております。

でも・・・こりないんだなぁ、これが。

シーソーのバランスは、難しいようですね?

と申しますより、先生はきっと「これはこれでわしのバランスだから。」とか何とかおっしゃって、改めるおつもりも無いのでしょうねぇ。

あーあ。

 

合掌

サイン

ずいぶんとご無沙汰しており、申し訳ありませんでした。

お釈迦様にお会いしに行ってから後、何かとばたばたしております。

やっぱりちょっと、この落ち着きの無さは年末まで続きそうです。

いえいえ、私が超多忙人間なのではなく、超のんびり人間のために物事がなかなか片づかないからなのですよ、念のため。

ちなみに宇賀神先生が私につけたアダ名は「トロ子」です♥

私の父は現役の会社員時代に「スピーディー松岡」と異名をとるほど仕事が早い人でした。

その名残は今もあり、いまだに何でもスピーディーにこなします。

そんな父のDNAを一体どこに置き忘れてきたのか、対照的な私を見て宇賀神先生は、

「“スピーディー松岡”の娘がどうして“スローリー綾野”なんだ~( ̄∇ ̄)」

といつも笑います。

 

と、そのようなことはさておき。

 

つい昨日のことです。

朝のお勤め(お経を読むこと)の後、いつものように私は瞑目しておりました。

瞑想と申しますほど大したことをしているのではありません。

ただ、お経を読んでいい気持ちになったときにしばらく目をつぶり、色々な考えが浮かんでは消え、することを楽しんでいるのです。

以前このブログでもお伝えしましたが、「笹の小舟を折って流すように」、自分の中の考えが浮かんできては消えていくのを、見るとはなしに見ています。

 

そのような時間の中、昨日はふと

「あ、東寺さんで今たしか秋の特別公開を開催しているな。」

と思い出しました。

今年の春に東寺さんにお参りしました(密厳国土)ときに衝撃を受けました、あの特別公開の秋版です。

それを思った瞬間、うちのお仏壇の下の引き戸(お線香などを入れております)が、風もごさいませんのに「カタン」と音を立てました。

朝は寒いので窓を開けておりませんでしたし、1時間程そこに座っていてその間は物音もしませんでした。

 

「ああ、これはサインかな。」

と思いました。

お大師さんが

「おいでよ。」

とおっしゃってくださっているのかな、と。

 

このことを宇賀神先生にお伝えしますと、

「きっとそうかもね。」

とおっしゃいました。

「でも、どうしてお大師さんは『見に来てほしい』と思われるのかな。」

と尋ねますと、

「そりゃ、お大師さんがお若い頃に人生の燃えるような情熱のありったけを込めた世界を、見てほしいんだろうよ。」

ですって。

 

妙に納得してしまいました。

「人生の燃えるような情熱のありったけ」ねぇ。

たしかに、今となりましては、東寺さんや高野山、お四国さんなどで私が感じたお大師さんは、それこそ佛様のような大きな大きな存在でした。

生きていた人間としてのパーソナリティは感じられず、人格というような範疇を超えて、例えて申しますならば無色透明な佛様としての存在感、とでも申しましょうか。

どうも私の稚拙な言葉では表現しきれませんが、とにかく深遠な存在でいらっしゃいました。

ですが、そのようなお大師さんも、平安時代には一人の人間として実在しておられたのですものね。

 

燃えるような情熱。

 

もちろんそれだけではなく、素晴らしい才能と命運と財力にも恵まれていらしたのですが。

お大師さんは膨大な密教の体系を、たった700日ほどで唐より持ち帰られました。

本当は20年間?は唐から帰って来てはダメだという遣唐使の制度のもと、海を越えて唐へ渡られたのですが、お大師さんは勝手に2年程で日本へ帰ってこられました。

もう全て必要なもの(密教の全体系)を得た、となさって。

背景には、恵果阿闍梨(けいかあじゃり・密教の第7祖。お大師さんに全てを教えられた師僧さん)に、

「唐ではやがて密教も佛教も滅びる。早く日本に密教を持ち帰りなさい。」

と言われたこともございます。

 

ですが、それもこれも全て天才的な頭脳なくしてはできなかったことでしょうが、これらを支えたものは、

「情熱」

なのですね。

燃えるような思いが、1人の人間に、信じられないような偉業をなさしめたのでしょう。

 

燃えるような思い。

 

私は、持っているだろうか?

(ちょっとしんどいとブログ更新も怠るくらいですからねぇ(^-^;))

 

お大師さんのその思いは、1200年以上たった今でもこの世界に息づいています。

 

東寺さんの建物群の中に「観智院」(かんちいん)という、もともと密教教学を教えるために建てられた建物があるのですが、そこに一歩足を踏み入れますと、その場に存在する空気の違いを感じられますよ。

この春に参りましたときも、私は建物に入るだけでまた涙が出て止まらなかったほどです。

完全にアヤシイ人でしたね。

観智院の中に飾られておりました宮本武蔵の描いた二幅の絵など、アウトオブ眼中で素通りしました。

私は絵が大好きで、宮本武蔵の有名な百舌鳥の絵なんかすごく素敵だと思うのですが、あの日ばかりは、あの観智院の空間そのものに圧倒されて、彼の絵を見る余裕はございませんでした。

それぐらい、1200年たった今でも、お大師さんの情熱をひしひしと感じられる空間でした。

唐で学んでこられた密教を、日本で教え広め、密厳国土を今ここに現す、というお大師さんの情熱を。

 

やっぱり、お大師さんにお会いしに行きたいですねぇ。

 

サインなどというものは、往々にして本人の思い込みということもあるようです。

物事を都合よく解釈してしまうのです。(まさに「あるある!」ですね。)

ですが、昨日の物音がお大師さんの「おいでよ。」というサインでありましても、そうでなくても、そのようなことはどうでもいいことです。

私はただただお大師さんが大好きで、だからお会いしに行きたいと思うのです。

あのお方の情熱に触れたい。

息吹を感じたい。

 

うーん、やっぱり、行ーこうっと!

 

今年も東寺さんで11月25日まで秋の特別公開をなさっているようです。

皆様もぜひ、お大師さんにお会いしに行かれてみてはいかがでしょうか?

 

合掌

真正仏舎利(しんしょうぶっしゃり)

昨日は急きょ、うちから片道100kmちょっとの姫路まで行って参りました。

このお方に会いに、です。

2600年程前に生きておられた、佛教の始祖、お釈迦様です。

まずは宇賀神先生の記念撮影を。

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仏舎利塔にて

 

姫路駅から2kmほどのところに名古山霊苑という墓地がございまして、その中に仏舎利塔(ぶっしゃりとう)、つまり、お釈迦様のご遺骨が納めれられている塔がございます。

そこへ宇賀神先生とお客様をお連れして、月曜日に急きょサンダース号で行くことになったのです。

 

世界中に仏舎利塔と呼ばれるものは沢山あるのですが、その中でもこの姫路の仏舎利は「真正仏舎利」、つまり正真正銘お釈迦様のご遺骨ですよ、とお墨付きのものです。

と申しますのも、あるとき世界中の仏舎利塔の中の「お釈迦様のご遺骨」とされております骨を計算しましたら、なんとお釈迦様は体重が象2頭分を超えるほどの巨人になってしまい、やはり本物と偽物が混在していると分かりました。

そこで色々と歴史などを調べて多分に本物のお釈迦様のご遺骨です、と証明されたものが「真正仏舎利」と言われております。

 

日本ではその真正仏舎利は2か所に祀られているようでして、ひとつは名古屋の日泰寺さん、そしてもうひとつはこの姫路の名古山霊苑です。

ただ、常時見えるところにご遺骨が入れられた御厨子が安置されておりますのは、この姫路の名古山霊苑です。

つまり、何とも幸運なことに、いつでもお釈迦様にお会いできるのです。

 

仏舎利塔が安置されております建物の中も、それはそれは美しくまばゆいばかりに装飾されておりますし、仏舎利塔そのものも金色に輝いております。

昨日もお見せしましたが、あまりにも美しいのでもう一度。

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仏舎利塔

 

ところで、なぜ宇賀神先生はお釈迦様のことを「人類最強の男」と呼ばれますのか。

それは、仏舎利塔の前に行きますと、今でもありありとそのパワーを感じるからです。

(宇賀神先生に「世界最強」じゃなくて「人類最強」にちゃんと訂正しておいてよ、と言われました。どう違うんだろう・・・。)

とくに、宇賀神先生が「一番感じられる」というお薦めのポイントに立ちますと、ふわーっと後ろに押されてしまいますような、素晴らしいお力を感じられます。

宇賀神先生がそのようなポイントをちゃーんと見つけられるのは、さすがだなぁと思います。

 

ですが落ち着いて考えますと、お釈迦様は2500年ほども前に亡くなられた方ですよね。

(諸説ございますが、2600年ほど前にお生まれになり、80歳くらいまで生きられたそうです。)

そのお力が今もありありと感じられるほどだなんて、すごすぎると思いませんか?

仏典には、お釈迦様が生きていらした頃、お釈迦様の周り50km以内には争い事が起きなかったと書かれているそうですが、納得できるような気がいたします。

 

ちなみに、お葬式のお焼香のときなどに読まれます舎利礼文(しゃりらいもん)というお経は、

「もともと舎利、つまりお釈迦様のご遺骨を礼拝するのが大乗仏教の始まりだった、ということを表している」

と宇賀神先生はおっしゃいます。

2500年ほどの昔から、人々はお釈迦様のご遺骨を「ありがたい」と拝んでこられたのですね。

 

いやもうホントに、ありがたいですよ。

多分にとても小さなお骨のかけらなのでしょうけれど、もうそれだけでも素晴らしい存在です。

手を合わせ目を瞑りますと、あたり一面金色の世界でした。

とても優しく美しい金色の世界。

亡くなられた後2500年ほどたった今でも、お釈迦様から柔らかく波打つような何かが流れてきます。

金色っていうと何か人間の欲の対象の「金」とかを想像しますけど、そのような金色とは違う、とてつもなく優しく美しい金色の光でした。

 

姫路の名古山霊苑は、姫路駅から車で5分ほどです。

しかも拝観料はたったの200円。

申し訳ないくらいです。

たった200円で「人類最強の男」にお会いできるのですから、皆さまもぜひ一度お行きになってくださいませ。

そしてぜひお釈迦様の存在に触れられてください。

お釈迦様にお会いなさり、お心に静寂が訪れましたら、何よりです。

 

「心に静寂」・・・と書きながら、それを一番必要としておりますのは他でもない、ワタクシなのですが( ̄∇ ̄;)

ここは正直に告白しておきますネ!

だって、ねぇ、昨日なぜか急に「姫路に行こう!」とかいうことになってしまい、中国自動車道(高速道路)に乗りましたらまさかの事故渋滞。

しかも11km!

お仕事のある宇賀神先生を乗せ、お客様を乗せ、「帰りがもしかして間に合わなかったらどうしよう、絶体絶命のピーンチ♠」と、内心めちゃくちゃ焦っておりました。

宇賀神先生は相変わらずの

「絶対大丈夫だから!何の問題も無い!」

との予言?をなさっていましたが。

 

帰りは宇賀神先生にもお客様とともに姫路から新大阪まで新幹線に乗っていただき、私だけ車で帰ることにして、それで何とかお仕事に間に合いました。(先生の予言通り?)

大阪にお住まいの方はお分かりになると思いますが、夕方の中国自動車道の宝塚あたり~阪神高速池田線の大阪方面行きは、必ず混みますからね。

「トラベルの語源はトラブル」だと言われておりますのが、身にしみてよーぅく分かりました。

私にとりましては、ハラハラドキドキの大冒険映画の日でしたね!

今度はもうちょっとゆっくりと余裕のある日に行き、大冒険映画ではなく、お釈迦様との逢瀬を心行くまで楽しむロマンス映画の日にしたいものです♥

 

合掌

「世界最強の男」

stupa

今日は、もんのすごーい弾丸旅行(弾丸のように飛んでいく旅行)で、宇賀神先生いわくの「世界最強の男」に会いに行きました。

そのお方がこちら。

金色にまばゆい世界におわします。

さて、そのお方とは?

詳しくは明日。

今日はさすがに疲れすぎて、もう寝ます。

アクセル踏んだら車は勝手に進んでくれるのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。

せめて、「世界最強」のお方の金色の夢を見よう。

 

合掌

ここ数年の宇賀神先生の実績

今日は色々と文章を書くのをやめにしまして、ここ数年の宇賀神先生のお加持の実績を羅列することにしました。

「実績」ですから、以下に書くことは多かれ少なかれの成果があったものです。

 

まず、ご病気・けがなどの「病者加持」及び「氣による治病法」の実績から。

 

*がん(スキルス性がん、胃がん、肺がん、大腸がんなど様々。全く消えてしまったものもあれば、小さくなっていたものもある。)

*大腸ポリープ(消えてしまった。)

*うつ病(死ぬことばかりを考えていたうつ病の方が、元気になられた、など。)

*パニック症候群(発作が起きなくなった。)

*ミトコンドリア心筋症(難病のため病気が完治することはないが、心臓を含む全身の筋力の低下により歩くこともままならなかった方が、社会復帰(職場復帰)なさった。)

*間質性肺炎(難病のため病気が完治することはないが、病院から言われた寿命よりはるかに長生きされ、かつ日々の生活の質(QOL)の高い状態で過ごされた。)

*圧迫骨折(寝返りも容易にうてなかった方が、全くの痛み無く生活できるようになった。しかも何人かの圧迫骨折の方の中で、お一人は地球の裏側にいらっしゃるときに遠隔のご祈願により痛みがほぼ無くなり、無事帰国なさった。)

*小脳変性症(難病のため病気が完治することはないが、病気の進行の速度がゆっくりになり、かつ日々の生活の質も高い状態で過ごされた。)

*甲状腺機能(亢進、減退)(正常な状態に戻り、全く生活に支障がなくなった。)

*膠原病(難病のため病気が完治することはないが、痛みが軽減し身体の動かしやすさが増し、生活の質が劇的にあがった。)

*リウマチ(痛みが減り、関節の動かしやすさが増し、生活の質があがった。)

*腰痛(痛みがなくなった。)

*膝痛(痛みがなくなった。)

*腱鞘炎(痛みがなくなった。)

*めまい(季節によりめまいが頻繁に起きていたのが、起きにくくなった。また、起きてもお加持によりすぐにめまいが収まった。)

*難聴(片方の耳が40年以上全く聞こえなかったが、たった1回のお加持により聞こえるようになった、など。)

*アトピー性皮膚炎(数か月かけてよくなり、ひどく再発することがなくなった。)

*喘息(ご高齢の方の喘息がおさまった。また、何かの加減でぶりかえされても、すぐにおさまるようになった。

私の咳喘息は治った。)

*更年期障害(不定愁訴がおさまった。)

*小人症(背が伸びた。)

*ぎっくり腰

*坐骨神経痛

*五十肩

*左右の足の長さの差があるのを揃えた

*小児まひ(病気そのものを完全に無くすことはできないが、身体を本人の意思通り動かしやすくなり、生活の質があがった。)

*腎臓を透析から免れさせた

*頻尿

*血便が出て死にそうになっていた小鳥を回復させた。

*犬の股関節の調整(歩き方が変だったのが、普通に歩けるようになった。)

*不妊(なかなか子供ができなかった人が妊娠した。)

*白内障(視界のにごりがとれてよく見えるようになった。)

*緑内障(眼圧が下がった。)

*くも膜下出血(階段から落ちて外傷性くも膜下出血になり、意識不明だった人の意識が回復した。)

*脳梗塞(脳梗塞になられた方が、後遺症なしに回復した。)

*白杖をついておられるほど目の悪い方の視力の回復

*腰椎のヘルニア

*頸椎のヘルニア

*ED

etc.

 

 

次は霊的なこと・他ご相談に応える「加持祈祷」により成就したもの。

 

*佛像への御魂入れ

*山の神様にお移りいただく(山の中の工事で、3人の工事員の方が事故により亡くなられたため、祠のあった山の神様にお鎮まりいただくべくご祈祷し、安全なところへお移りいただいた。)

*呪詛返し(他者の呪いから守る。これは今も現在進行形。今はほとんど呪いをかけている人からの念が来なくなったとご相談者様が喜ばれている。)

*自殺者のご供養・成仏(佛教的には自殺者は浮かばれないため、供養し、無常林の地獄から佛様の御国へお送りした。)

*恨みを残して亡くなられたであろう方のご供養・成仏(過失による交通事故の加害者のご家族から、亡くなられた被害者の方のご供養を頼まれた。被害者の方にも何割かの過失もあった案件。ご供養したためか、被害者のご家族から損害賠償請求もなかった。)

*お仏壇への御魂入れ(引っ越しにより新しくお仏壇をしつらえた方からのご依頼。)

*お店を建てるためのお祓い(商売繁盛を願って。)

*会社を倒産から免れさせた

*不動産が売れるためのご祈願

*円滑な遺産相続

*就職のご祈願

*取り憑いた霊のお祓い(変わりどころでは、「犬神憑き」なんてのもありました。)

*因縁の解除(のための200人を超える方々のご供養)

*漁船の大漁祈願

etc.

 

 

これらは、宇賀神先生のお仕事のほんの一部です。

ご予約表を見て今日の記事を書いているわけではありませんので、私の頭に思い浮かぶままにいくつか書きだしてみました。

なんと申しますか、こうして一部を書きだしているだけでも、節操のないほどの広範囲のお仕事です。

しかも、たとえばお身体に関しましても、病苦ひとつだけを取り去るのではなく、それにより派生する身体中の不具合を取り去ります。

ご依頼者様によりましては、人生上の不具合?まで、ご相談に応じることもございます。

宇賀神先生は氣のお力や御祈願のお力もさることながら、ヘンに豊富な人生経験や優しいお人柄で、本当にありとあらゆるご依頼を受けておられます。

 

そのため、(全く話が変わりますが、)ブログランキングに登録したいとかねてから思っているのですが、どのカテゴリーに入れればいいのかずっと迷っております。

結局ブログを始めて5か月(月日がたつのは早いですねー!)たった今も登録せずにおります。

気功、だけでもないですし、

お寺(真言宗)、と申しましてもお葬式などしているイメージで、かなり違いますし、

霊能者っていう項目はなく、似たような霊界・霊視とかはあるのですが、なんだか暗くてちょっと範囲もずれているような気がしますし、もしあったとしましても、それだけには収まらない・・・?(タイトルはこれですが)

スピリチュアル、にしては宇賀神先生が力強すぎますし、

やはりここは、どれでもない「超能力」か・・・?(私は昔、『超能力少年バビル二世』が大好きでした。)

迷いに迷っております。

そうですね、今週末うちに泊まりにいらしてくださるY君とAさんに一緒に考えてもらいますか!

と申しますことで、この場をお借りしてお二方、頼みましたよーv( ̄∇ ̄)v

(来週になりましても登録されておりませんでしたら、彼らが非協力的だったということですね、とプレッシャーをかけておこう♥)

 

合掌

「お気をつけて」と“水難の相”

宇賀神先生は決して「悪い霊がついているからお祓いしないといけない」などという脅かし方はなさらない、と先日お伝えしました。

逆に、面白いことに、うちに来てくださったご相談者様のお加持をなさるときに、「(そのご相談者様に憑いていた霊が)ついでに取れてしまった」というパターンはよくございます。

宇賀神先生はよく、「霊がわしの方を怖がって逃げていくんだよ。」と笑いながらおっしゃいます。

 

あるときなど、お加持を終えられたご相談者様が玄関先で、

「ありがとうございました。お陰様で身体がすっきりしました。」

とおっしゃりながら、肩に乗ったホコリをサッサッと払うような格好をなさいました。

その方は腫瘍を患い、うちに来ておられました。

すると宇賀神先生は笑いながら、

「貴方の今のそのジェスチャーは『身体言語(しんたいげんご)』と言って、本人が意識しないところで身体がしゃべってんだよ。

さっき『身内にがんで亡くなった人がいる』って言ってたよね。

その人がちょっと憑いてたのが落ちたんだよ。

ふつう『身体がすっきりした』って、肩のホコリを落とすような格好をする人はいない。

つまり、肩に乗っかってた霊が落ちて軽くなったのを、貴方の頭(理性)は知らなくても、心や身体は分かってたんだな。」

とおっしゃいました。

その方は

「ええーっ!」

と、びっくり仰天でした。

と申しますのも、実は「もしかしてがんで亡くなった姉が自分の病気に関わっていたら」と、内心とても不安に思われていたのだそうです。

 

宇賀神先生の日常は、本当にまんがのように面白くて退屈しません。

普通でしたらオドロオドロしい「霊が憑く」などという出来事も、何だか笑い話になってしまいます。

お陰様で私は安心して楽しく暮らしております。

 

ただ、もし本当にその人に「危ないな」と思われますような兆候が表れておりましたら、そんな危険なことにならないよう注意喚起をなさることもございます。

それが

「お気をつけて」

という言葉です。

「えっ、そんな日常的な言葉で?」と思われた方、実はこれが世に言う「言葉の魔力」なのですよ。

「言霊(ことだま)」とも申しますよね。

 

あるとき、宇賀神先生のもとへ来てくださったご相談者様のお顔に、よくない人相が現れておりました。

先生は人相もご覧になられますから。

先生は、

「あんた、水難の相が出てるよ。気をつけなね。」

と、その方におっしゃいました。

するとその方は笑いながら、

「先生~、うちの近くには海も川もありませんよ。水難なんて起こるようなところじゃないですってば。」

と、おっしゃったそうです。

 

宇賀神先生は、

「いや、それでもいいから。

わしが『気をつけて。』と言ったことに、あんたは『はい。』って言うんだよ。

すると、あんたは分からなくても、あんたを守ってる守護霊がそれを聞いて気をつけるからね。

そしたら大難が中難、中難が小難、小難が無難、になるからね。」

とお伝えなさいました。

 

宇賀神先生の「水難の相」のお言葉を信じられないまま、ただ先生のお言葉通りに「はい」とだけ返事をなさって笑いながら帰られたそのご相談者様から、数日後お電話がかかってきました。

 

「先生~、今私どこだか分かる~?」

「ええ?分かんねーよ?」

「病院!私、入院してるの~!」

とのことでした。

その方が入院なさった訳とは。

 

その女性は当時お一人暮らしで、ちょくちょくご近所のスナックにカラオケをしに行っておられました。

カラオケの帰り際のことです。

そのスナックは車道に面しており、お店から道路に出る手前には水の流れている溝がございました。

お酒を飲んでカラオケを歌われて、すっかり上機嫌で帰ろうとなさったその方は、酔っておられたためうっかりと溝に片方の足を踏み入れ、「あっ!」と思ったらもう片方の足も溝にはまってしまい、あろうことかそのまま両足のすねの骨をボキッと折る形で前に倒れてしまったのです。

次の瞬間、倒れ込んだ頭のすぐ上ぎりぎりのところをダンプカーがザァッと通っていきました。

文字通り「間一髪」、頭をダンプカーにひかれずに済んだとのことでした。

 

その女性は、宇賀神先生のおっしゃった「大難が中難、中難が小難、小難が無難」になりました、と感謝なさいました。

水難の相も、まさにその通りでした、と。

海でもなく川でもなく、まさか溝の水だったなんて。

 

宇賀神先生のたったひとことが、その女性の難を軽減させたと思っております。

両足の骨折も大変と言えば大変ですが、その女性にとりましては、

「もしかしたら命を落とすところだったかも知れないのを、骨折だけで済んだ」

と、思われたのではないでしょうか。

ですからこそ、先生に感謝してお電話くださったのです。

 

宇賀神先生の勉強会でこのお話をお聞きしましてから、言葉って力があるんだなぁ、と思うようになりました。

もしかしたら、宇賀神先生のお言葉だからこそ、その女性の守護霊まで届いたのかも知れません。

ですが、今となりましては、いやしくも私も真言宗の出家であります。

真「言」宗ですから。

言葉には魔力がある、と思えなくてどうしましょう。

たとえそれが密教上のご真言でなくても、日本には古くから言霊信仰(ことだましんこう)もございます。

やはり、言葉には不思議な力があるのでしょう。

 

ですので、宇賀神先生も私も、ご相談者様がお帰りになられるときは、心掛けて

「お気をつけて。」

と申し上げます。

おろそかに申し上げたことは一度もございません。

ただただ、ご無事にお帰りくださいますようにと、願いを込めて、申し上げております。

 

合掌

コンタクト

いつものことですが、目に見えない存在を感じたときの感覚は不思議です。

神様や佛様、お大師さんなど、また、霊でも、およそ目に見えない存在の方達に出会った瞬間には、「確信」することがあるのです。

例えばそれがお大師さんであるとか、霊ならばどんな性別でどのくらいの年齢で、とか、その時々により様々な情報を。

「なぜか分からないけれど、でも絶対に知っている」「だって、この目で見たもん!」としか言えないような確信がある、ということが多々あるのです。

 

たとえば、以前お話したことのございます、事故を引き起こされそうになった幽霊船ならぬ幽霊車?(あるいは残留思念の車?)のときなどは、中に乗っている人まで見えておりました。

私の目に映りましたものは、白髪のおじいさん1人と、もう少し年下くらいの女性2人が乗っておられる白い車でした。

 

まあ、それにしましても先日の亀戸の天神さんのお話といい、ますますファンタジー映画のようなお話ばかりになってきております。

ですがこのブログに書いておりますことは私の創作などではなく、本当に見聞きした(と私が感じた)ことなのです。

証明・・・できるといいですのにねぇ。

 

自分は「確かに見た、聞いた」と思っておりましても、証明できないその事柄をこうしてブログで書くことの功罪を時々考えます。

宇賀神先生のお加持の実績(実際にご相談者様の病気が治った、とか願い事が叶った、とか)は現実に起こったこととして書けますが、それすらも因果関係を証明できない、と言われてしまえば「そうですね。」と答えるしかありません。

ただ、それに関わった先生や私、ご依頼くださったご相談者様だけが「先生のお加持により成就した」と確信しているのみです。

 

この「当事者だけが確信している」という感覚がよく表現されておりますのが、「コンタクト」という映画だと私は思います。

ジョディ・フォスターさん主演のハリウッド映画で、私も好きな映画です。

この映画の最後にジョディ・フォスターさんが“その”存在を懸命に訴えるシーンがあるのですが、ものすごく共感しました。

その感覚、その思い、まさに私が感じているものと同じで、この物語の著者であるカール・セーガンさんも神様とかの「目に見えない何か」に出会われたことがあるのでしょうか、とびっくりしました。

もしそうでなく、全くの彼の創作でしたら、ものすごい想像力です。

小説家でいらしたら当然でしょうか?

ノーチラス号を予見なさったジュール・ヴェルヌさんのように?

 

ただの映画としましても面白い作品だと思われますので、もし機会がございましたら是非ご覧になってみてください。

ちなみに、Amazonさんのプライム会員でいらっしゃいますと、今ならタダで見られます♥(プライム会員の年会費が必要ですが。)

 

さきほど、「(科学的に)証明できない事柄を書くことの功罪」と申し上げましたが、それはやはり世の中の霊能者と名乗られる方に、たとえば「お祓いをしないと大変な不幸が起きるよ。」などと脅かされる方が本当に数多くいらっしゃるからです。

請求される金額も数万円から、多いと何百万円(のお墓や壺、祈祷料など)と、尋常ではありません。

そんななか、宇賀神先生だけはそのように脅すようなことはすまいと思われていますが、私がこうして「目に見えない世界があります」と書いていることをご覧になった方が信じてくださり、それにより変に脅すような他の霊能者の言葉を信じてしまわれたらどうしよう、と思います。

 

(またちょっと違う話ですが、多大な恩恵を被っております西洋医療に対して変に拒否反応を起こし、全てを否定されても困ります。

西洋医療は西洋医療でありがたく、宇賀神先生のお加持は先生のお加持でありがたく、相反するものではございません。)

 

そして、たしかに宇賀神先生もお祓いをお引き受けすることはございます。

実際に先生がご依頼の場所に出向かれてお祓いなさる場合は特に、毎日のお加持よりは高額です。

ですが、それは先生が本当に必要だと思われ、かつご相談者様の方から望まれたときのみです。

先生の口から

「このお祓いをしないとあんたに大変な不幸が起きるよ。」

などとおっしゃるセリフをお聞きしたことなど、ただの一度もございません。

 

でもなぜか、先生の

「大丈夫だよ。」

のセリフは信じられなくても、他の霊能者の

「大変な不幸が起きるよ。」

という不安をあおるセリフを信じてしまわれる方が多いのですね。

そりゃあ、「そんなもの見えない」人からなさいましたら、どっちが本当か分からないですものね?

となりますと、不安の方が勝つのでしょうか。

 

私がこうして目に見えない世界についてブログを書くことの功罪。

どうかなるべくでしたら、罪の部分が少なくありますように。

 

これを読んでくださる方々の、

幸せを願われるお気持ちも、

健康を願われるお気持ちも、

死者を悼まれるお気持ちも、

神様佛様を信じなさるお気持ちも、

氣という目に見えない力にワクワクなさるお気持ちも、

心無い人達に踏みにじられることのないよう、願っております。

 

 

***

と、今日のこの記事を宇賀神先生に見ていただきましたら、先生が、

「証明、科学的に証明っていうけど、それを言うなら、地球がものすごいスピードで宇宙を走る?のを誰もその目で見たことないんだよ。」

「だから別に、あえて証明なんてしなくてもいいんだよ。

だって、ある時代から『宗教と科学を分けましょう』ということになって、今までうまくきているんだから。」

「それに、『科学的に証明されてる』って聞くと実際の目で見なくても人は信用するけど、いくらわしが目の前で人の痛みを取り除いても『科学的に証明さてれいない』って、誰も(ご相談者様を除いて?)信用しないんだから。」

と、のたまいました。

確かに計算上、あるいは観測上?証明はされていますが、地球と太陽の引力圏から離れて、地球がものすごいスピードで太陽の周りを回っているのを、実際の目で見た人はいらっしゃいませんねぇ。

また、この説がコペルニクス?ガリレオ・ガリレイ?により唱えられましたときも、現在でしたら当然の常識であるはずのこのことを、当時の人は信じられませんでした。

そして目の前で先生のお力を見た人でさえ、トリック?何かの間違い?と思われる方も少なくないのですもの。

先生の示唆には、二重・三重の観点から、ちょっと考えさせられました。

 

宗教と科学がイコールで結ばれていた中世までの時代と現代。

もちろんイコールで結ばれていた時代にも、功罪はございます。

きっとイコールでない今の時代にも、功罪もあるのでしょう。

ですがデメリット(罪)よりもメリット(功)の方が大きいとして現代の価値観が構成され、現代に生きる私はその恩恵を受けて生活できております。

ありがたい時代だと心から思っております。

 

ただ、はるか以前の、お大師さんが唐に渡られ、密教を日本に持ち帰られた時代などは、密教(宗教)は「最先端の科学」でした。

そんな面白い時代もちょっと見てみたかったな、とも思います。

 

合掌

「祀り上げ」と亀戸の天神さま

「まつり上げる」という言葉をお聞きになったことはございますか?

通常は、誰かを何かの高い地位にヨイショと持ちあげて、その座につかせることを指すのでしょうけれど。

この言葉は、神様の世界でも、「祀り上げる」として使われることがあるようです。

 

皆さまは「天神さま」をご存じでしょうか?

よく学問の神様として尊ばれていらっしゃいます。

東京では、「亀戸の天神さん」が有名でいらっしゃるのですってね。

宇賀神先生と私も2度ばかりお参りさせていただきました。

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亀戸の天神さん遠景

 

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亀戸の天神さんにて

 

とてもよいお参りをさせていただきました。

 

ですが、実は私は天神さんが怖かったのです。

と申しますのも、天神さんは、生前?は菅原道真公(すがわらのみちざねこう)でした。

『東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』

の句は有名ですね。

学校の歴史で習われたかと思われますが、菅原道真公は平安時代に京の都から九州の大宰府に左遷され、そのことを嘆き悲しんで、恨みを残して亡くなられたのです。

そしてその恨みのため、道真公は亡くなったあと怨霊となり、京の都に災いをもたらしたのでした。

 

道真公のたたりにより平安京は荒れ、どうにもその魂が鎮まらないと、ついに打った手が「神様として祀り上げる」というものでした。

やんちゃな子も「キミは今日から学級委員長だ!」と言われますと、思わず委員長としてがんばってしまいますように、怨霊も、「これからは神様としてこちらにお鎮まりくださいませ」と言われますと、「じゃあ守ってあげようか」となるのでしょうか。

とにかく、たたりがひどかった菅原道真公も、学問の神様(天神さま)としてお祀りされますと、たたらなくなられたそうです。

 

私はこのお話を宇賀神先生からお聞きしていましたが、たとえ今は神様として祀られていらしても、以前は怨霊として怖れられていた菅原道真公は、私にとりましてはちょっとコワイ神様でした。

 

ところが、この写真を撮った1か月前の東京出張の折りに、亀戸の天神さんに初めてお参りさせていただいたとき、とても気持ちのいいお参りができたのです。

何と申しますか、拝殿の前で手を合わせますと、スーッと気持ちのいい「氣」が身体の中を通るのを感じました。

「あんまり怖くないかも・・・?

やっぱり、もう怨霊などではなく、神様なのかなぁ。」

と思いながらお礼申しあげ、天神さんを後にして、宇賀神先生と、すぐ近くのお店でご飯をいただくことにしました。

 

私も宇賀神先生と同じように、お食事をいただく前には色々とご縁のあった神様や佛様などにお供えをするのですが、思いがけずそのとき天神さんが、

「“当然”私にもくれるよね。」

と、出てこられました。

「うわー、またはっきりとしたお言葉をお聞きしてしまったよー。」

と、ありがたく嬉しいながらも、やはりまだどこか怖い思いがございましたので、

「では、さしあたり今日だけ・・・。」

と、最後に天神さんのお名前もお唱えして、お供えをいたしました。

 

そしてそのまま宇賀神先生とご飯を食べておりましたら、私は新幹線の疲れが出て、ご飯の途中にテーブルでウトウトしてしまいました。

そうしましたらそのとき、とってもいい夢を見たのです。

びっくりして目が覚めて、宇賀神先生に「こんな夢見たー!」と内容をお伝えしますと、その夢に出てきたものは、福や富を象徴するものだということでした。

そして先生が、

「実は天神さんは学問の神様として有名だけど、裕福な富の神様でもあるからね。」

とおっしゃいました。

「道真公は大宰府に『左遷された』と言われているけれど、その当時、大宰府は中国との貿易で潤っていたんだ。

つまり、お金には不自由しない地位につけていたんだな。

左遷と言っても、ずいぶん恵まれた地位だったんだよ。」

と。

 

えっ、富の神様・・・?( ̄∇ ̄)♥

 

そうなん?

(それならそうと、早く言ってくれればいいのに。)

 

と申しますことで、「さしあたり」どころか、その日から欠かさず天神さんにお供えをするようになったワタクシでございました。

それって打算?って、聞かないでネ。

いえ、だって、とっても気持ちのいいお参りをさせていただいてありがたかったですし、いい夢まで見せていただいて、何より神様の方から「当然私にもくれるよね。」とご請求いただきましたから♥

 

・・・と、言い訳はさておき、

神様は、やはりそれぞれのカラーと申しますか、ほんの少しではございますが、それぞれのご性格の違い?を感じます。

あのとき宇賀神先生に、

「天神さんがスーッと厳かな雰囲気で出てこられた。」

とお伝えしますと、

「やっぱり平安時代の貴族だったからね。」

とのことでした。

だから上品でいらしたんだ、と妙に納得してしまいました。

 

そしてこの「祀り上げ」は、確かに有効な手段なのでしょう。

 

世間では奥さんのことを「山の神」と申しますよね。

宇賀神先生も私のことを、山の神、っていうのです。

それって、「鬼嫁がコワイから祀り上げちゃおう。」という、歴史的に効果が証明されている有効な手段を使われていただけなんだ・・・ということに、今気づきました。

もうちょっと優しくしてあげなくっちゃね?

 

合掌