秋のお出かけ

今月も色々とお出かけして、少々落ち着かない日々を送っております。

今日はそんな旅のアルバムからご紹介させてください。

 

毎月東京にも出張に行っております。

ご縁を得て、華の都TOKYOに毎月出張できるなんて、本当にありがたいと思っております。

しかも、今月は母が習っております日本刺繍の展覧会が東京で開催され、母も出展いたしました。

もちろん、私も見て参りましたよ!

kimono
母の刺繍の着物
embroidery
刺繍

一針一針、気の遠くなるような作業ですね。

私はこの母の「マメ」さのDNAをどこに置き忘れてきたのでしょうか?

華やかな刺繍の展覧会を華やかな銀座で見て、とても楽しい一日でした。

 

 

また、先週は東寺さんにも行ってきました。

秋の特別拝観です。

またしても私一人で行きました。(宇賀神先生はお仕事でした。)

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東寺さんの紅葉

今回は金堂の薬師如来さんにお参りしたときに、また、心で「お会い」できたような、あの不思議な感覚がございました。

お薬師さんの目が暗いお堂の中で両目ともにきらりと光っていて、その目を見た途端に涙が出てまいりました。

もちろんそれは悲しみの涙ではなく、えも言われぬ幸福感による涙なのですが。

宇賀神先生は、

「それを法悦というんだよ。」

と、いつもおっしゃってくださいます。

 

その言葉とともに、お薬師さんの光る目を見ておりましたとき、思い出したことがございました。

キリスト教の精神では「愛」が説かれますが、佛教では「慈悲」の心と言われておりますね。

よく、宇賀神先生は、

「慈悲という言葉のなかに、『慈』という字とともに『悲』という字がどうして使われているのかを考えないといけないね。」

と、おっしゃいます。

 

そんな先生の言葉を思い出しながら、ずっとお薬師さんの前におりました。

 

 

そして、前回のブログ記事でもお伝えしましたが、湯峰温泉にも行ってまいりました。

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湯峰の紅葉

ちょうど私たちが「宿泊」しております駐車場のところの真っ赤な紅葉がとても綺麗でした。

 

ちょっと暗い時間になってしまいましたが、帰る日には熊野本宮大社さんへもお参りいたしましたよ。

日が落ちるのが本当に早くなりましたね。

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素戔嗚尊様

熊野本宮大社さんには4つのご神殿があるのですが、この写真は第3神殿の素戔嗚尊(すさのおのみこと)様です。

そう、いつぞやの「檜皮葺き」のふき替えのときに寄進させていただき、宇賀神先生の名前の書かれた檜皮が、この屋根のなかのどこかに埋もれておりますご神殿です。

お参りさせていただくたびに、「この屋根のなかのどこかに」と思いますと、そしてそれはもしかしたら私たちの寿命より少しは長く残っているかと思いますと、やはり密かに嬉しいですね。

 

と、まあこのように、10月以降はやはり週末ごとに仕事や予定も入り、東奔西走の言葉そのままにありがたい日々を過ごしております。

 

そしていよいよ今週末は宇賀神先生のお寺の忘年会 in 有馬温泉♥です。

ずっと長いこと忘年会の泊まりの翌日は氣のいいところに皆様とともに行ったりなどしておりましたが、数年前の有馬温泉で忘れもしない、翌朝の迎え酒で見事に酔っぱらって立てなくなった宇賀神先生の勇姿を見て、翌日の予定を立てておくことはやめました。

だんだんと、のんびり・ゆるゆる・「いい」加減な会の運営となってきております。

( ̄∇ ̄)

そのかわり?、お宿に早くいらした方は宇賀神先生と一緒に温泉に入られて、氣の簡単な取り方など直接教えてもらってくださいね!

男の人はいいなぁ、という女性会員さんのお声が聞こえてきそうですね。

今年もまたいつものように、とっても楽しい忘年会となりますように!

 

 

と申しますことで、今日は旅のアルバムからのご紹介でした。

 

個人的には東寺さんの紅葉の写真の色合いが綺麗に撮れたのが嬉しかったですし、また、湯峰の紅葉の向こうで、少女のようにはにかむ宇賀神先生の写真なども大好きなのですが、このようなことを申しますと、

「綾野さん、その美的感覚はヘンタイだから誰にも言わない方がいいよ。」

と先生にさとされそうですので、やめておきますネ。

 

皆さまにもお楽しみいただけましたなら、幸いです。

 

合掌

車の神様 その2

地面に落ちた車の影の屋根の部分にちょこんと乗っておられるビリケンさんのような、全身金色に輝く「何かお人形さんのようなもの」が私の目には見えました。

ですが、宇賀神先生の目にはその影は見えなかったそうです。

「わしは車から降りて見てみないと分からん。」

と、おっしゃいました。

 

出雲大社さんの目の前の交差点からほどなくして、参拝者のための駐車場に着き、車を降りました。

宇賀神先生が車の外から屋根を見上げますと、

「うん。わしには銀色の鎧を着た人(神様?)が見える。」

と、おっしゃいました。

逆に、私の目には何も見えませんでした。

ですが、地面に落ちている車の影を見ますと、やはりその屋根の部分にビリケンさんのようなものが金色に輝いて見えました。

 

これも宇賀神先生いわくの「受像機の問題」なのでしょうね。

地面に落ちた影には「ビリケンさんのような全身金色の何か」が見えたけれど、直接屋根の上を見上げても何も見えなかった私。

影では確認できなかったけれど、直に見ると「銀色の鎧を着た人(神様)」が見えた宇賀神先生。

 

不思議なものですが、そのとき私たちの目には、それぞれこのように見えました。

 

「多分、出雲大社の神様に仕える『眷属(けんぞく・従者や使者という意味)』の神様のお一人がついてくださったみたいだ。」

と、宇賀神先生はおっしゃいました。

いったいどうして私たちの車に乗ってくださったのでしょうか?

出雲の神様が遣わして下さったでしょうか、それとも自主的?に乗ってくださったのでしょうか。

いつまで乗ってくださるのでしょうか?

そのときは(いえ、今も)何も分かりませんでしたが、とにかくその神様が車の上に乗ってくださってからは、車道を走ることも車庫入れも、何もかもが怖くなくなりました。

一瞬であの背の高いキャンピングカーに慣れてしまった感覚は、今思い出しましても不思議としか言いようがありません。

 

なぜ急に私たちの車に乗ってくださる気になられたのかに関しましては、宇賀神先生は、

「わしは神様に好かれるからなー♥」

と、のたもうておられます。

真偽のほどはさておき?

 

出雲さんにお参りし、厚く厚く御礼申し上げ、

「お陰様で車が怖くなくなりました。ずっとずっと神様に乗っていていただきたいと願っておりますー!ありがとうございますー!」

と、信条に反して懇願してしまいました。(切実)

 

そして出雲さんを後にして、すぐ近くの博物館に参りました。

たしか「古代出雲歴史博物館」だったと思います。

すると、そこの展示物のなかに、まさに宇賀神先生が見られたお姿と似た、大きな人形(だったと思います。それとも絵だったでしょうか・・・?)が白馬にまたがっていたものがありました。

それは、確か私が弥生人や聖徳太子の少年時代のイメージで記憶しております髪型(みずら、というそうです。ググりました。)をしていたと記憶しています。

そして、頭には金色の小さな冠むりのようなものを付けていました。

 

私にはこの冠むりの金色が何故か「全身金色のビリケンさん」に見えたのか・・・と、己の受像機の拡大解釈ぶりにびっくりしました。

いえいえ、もしかしたら、宇賀神先生の方が縮小解釈?なさっていて私の「ビリケンさん説」が正しいかも知れません・・・って、そんなことないですね、きっと( ̄∇ ̄)

宇賀神先生の見られたものが、より実際に近いのではと思います。

 

あれから、その神様はずっとうちの車(サンダース号)に乗ってくださっています。

もちろんご飯の度にお供えをしておりますためか、どんどん背丈も大きく伸びておられるようです。

初めはビリケンさんの大きさだったのにね?

いまでは白馬にまたがる王子様よろしくご機嫌でサンダース号にまたがっておられ、宇賀神先生が日本全国サンダース号で旅をなさるように、車の神様も結構「白馬での旅」を楽しまれています。

神様いわく、「わしはこの馬(サンダース号のこと)が気に入った。」そうです。

その気になられれば、韋駄天(いだてん)のようにひとっ飛びで全国どこへでも行ける神様にとりましては、白馬ではなく「牛車での旅」だったりして( ̄∇ ̄;)

まあ、それはまたそれで楽し、でしょうか?

 

今でも車に乗り、エンジンスタートするときは、

「神様、今日もよろしくお願いいたします。」

とご挨拶したり、

「神様、今日は神様のお好きな熊野へ参りますよ。」

と、ご報告したりします。

 

逆に、

「たまには里帰りしたい。(出雲に行きたい)」

と、神様がおっしゃるときもございますが、

「そんな・・・貴方様でしたらひとっ飛びでお行きになるでしょう?」

とは口がさけても言えず?

「お望みでしたら、折りを見つけまして、必ず参りましょう。」

とお答えしています。

 

よく「旅は道連れ」と申しますが、こんなに頼もしい道連れは他にはございません。

なかなか車の旅に出かけられないときは、さぞ退屈なさっているのでは、と申し訳なくもあります。

駐車場に停めております車の前を通るたびに、

「また近いうちに旅に出ますから、もう少しご辛抱くださいね。

いつもありがとうございます。」

と、ご挨拶しております。

 

いつも宇賀神先生と二人旅なのですが、不思議と大所帯で旅しているような楽しい感覚がいつもございますのは、車の神様はじめ色々な目に見えない方達が一緒に旅してくださっているからかも知れません。

あ、ぴーちゃんもいましたね♥

と、申しますことで、今日もサンダース号で車の神様やぴーちゃんや、その他大勢?で湯の峰にきております。

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サンダース号の中でおじやを食べる先生

 

***

ずいぶんと長い間ブログの更新ができずに申し訳ありませんでした。

心配してメッセージを下さった名古屋のT様はじめ皆様方、私たちのことを案じてくださりありがとうございます!

皆様の愛♥に支えられ、お陰様で今日も元気に生きております!

 

心より感謝を込めて

 

合掌

車の神様 その1

今までも身近な神様をご紹介しましたが、今日の神様もものすごく個人的?にお世話になっております神様です。

私たちの車「サンダース号」に乗ってくださっている神様です。

宇賀神先生と私はその神様のことを「出雲の神様」とお呼びしています。

出雲の神様との出会いは、私にとりましても衝撃的でした。

 

あれは忘れもしない、新婚1年目♥にサンダース号を買ったときのことです。

 

それまで宇賀神先生はパジェロに乗っておいででした。

先生が片目を失われてからは私がずっと運転しておりましたが、パジェロのオフロード的な感じがすごく好きで、足回りもとても強く、大好きでした。

ところが新婚2か月目にして宇賀神先生が脳梗塞を起こされて、以前にも増して食事療法に気をつけないといけなくなりました。

そうなりますと、先生の大好きな湯治に行く際も、宿に泊まる回数を減らさないといけないようになりました。

それまでもパジェロで車中泊を楽しんでおりましたが、ますます本格的に車中泊しないといけなくなったのです。

もちろん「上げ膳据え膳」のお宿は私としましては大好きなのですが、先生が味が濃くてカロリーも高い宿のお食事を召しあがるのを見ておりますと、宿に泊まることを全然楽しめなくなっている自分に気づきました。

「あんなにお醤油をかけて!」とか思ってしまい、イライラするのです。

 

そんな事情もございまして、ついに宇賀神先生の長年の憧れでした、キャンピングカーを買うことにしました。

 

生まれて初めてキャンピングカーを間近に見たときは、「はたしてこの大きな車を運転できるのだろうか」と不安になりました。

大きいと申しましても、実は車体の前後左右の幅は普通車と同じです。

今まで運転しておりましたパジェロとあまり変わりありません。

ただ、車高が高いだけなのです。

エンジン性能に比べて車体が重いためマニュアル車にしましたが、パジェロもマニュアルでしたので、条件はほぼ同じはずでした。

 

ですが、同じ普通車でも今まで乗り慣れておりました車とは違う車は、車両感覚が取りづらかったり、アクセルやクラッチの感触も違い、私にとりましてはなかなか運転しにくいものでした。

しかも車の後ろ側の住居部分の重量が重く、車高も2.6mと高かったですので重心が高くなり、車体がゆらゆらと揺れて怖かったです。

頭では「今までのパジェロと同じ」と分かっておりましても、実際に乗り始めた頃は交差点の真ん中で右折する際にエンストしてしまったり、まるで仮免許か運転初心者のような有様でした。

道を走っておりましても、運転席側よりも幅が広くて背も高い住居部分が後ろについていると思うだけで感覚がとれなくなり、車線のなかをなんだかフラフラと下手に走っておりました。

 

ですが、慣れるしかありません。

車を買ってそんなに日もたっていなかったと思いますが、遠出することにしました。

宇賀神先生も大好きな出雲大社さんにお参りに行くことにしてのです。

スパルタ方式ですね。

 

出雲さんをご存じの方は思い出していただけるかと思われますが、あそこは神社の方に向ってT字路が突き当たるように道があり、しかも突き当りに向って坂道を上っていきます。

しかも確か、信号もないT字路だったと思います。

車は混んでいて、ノロノロ運転です。

そう、出雲さんの駐車場に入るために、私の苦手な「坂道発進」を繰り返さないといけないのです。

それもパジェロと違い、何度もエンストしてしまう慣れない車で。

もうそれだけで、泣きたい気分でした。

 

案の定、「おおっと!」と、やや後ろに下がりながらも何度か坂道発進をしていたときです、ふいに、スーッと私たちの車列全体が流れ出しました。

「あれ、めっちゃ進む!このまま止まらずに突き当りを右折させてー!」

と、心の中で叫びながらアクセルを踏んでおりますと、本当にそのまま長い距離を止まることなく、突き当りの大社さんまで行けました。

その交差点で左側を見ますと、たまたまテレビ局の大きなカメラとマイクを、大社さんからこちらに向かう方向で数人の方が押しながら横断歩道を渡っておられ、それで左右に通行する車が一時的に止まり、私たちの車列がその恩恵を受けて進むことができたようでした。

しかも私たちから見まして左側の横断歩道を渡っておられましたので、右折するのには何の支障もなかったのです。

翌日はマラソン大会が催される予定だったようで、そのための大きな大きなカメラでした。

 

「うわー。めっちゃラッキーやったなー♥出雲さん、ありがとうございますー!」

と、お礼を申し上げながら出雲さんの目の前を右折し、駐車場の方へ道を走っておりますと、ふと車両感覚が取れている自分に気づきました。

キャンピングカーが怖くなかったのです。

走り方も、フラフラしません。

アクセル、クラッチワークの感覚も、完全に自分のものになっています。

ずっと乗り慣れておりましたパジェロのように、車と自分が一体になったような感覚に、一瞬でなれたのです。

本当に「ある瞬間をさかいに」という表現がぴったりでした。

 

「あれ、なんか急に運転が全然怖くなくなったよ。」

と宇賀神先生に言い、ふと前方の地面を見ますと、自分が運転している車の影の屋根の部分に、「何か」が乗っているのが見えました。

もちろん、本当に目に見えているのではありません。

地面には、車の影しか映っていません。

ですが、それでも私の目にはどうしても車の屋根の上に、なんと「ビリケンさん」のような金色のお人形さんがちょこんと乗っているようにしか見えないのです。

大阪人の方には馴染みの深い、全身が金色に光っているあのビリケンさんです。

ちょっと笑ってしまいそうですが、本当に私の目にはビリケンさんがちょこんと乗っておられるようにしか見えませんでした。

 

びっくりして、そのお姿の可愛らしさに何だか笑いそうになりながらも、宇賀神先生に

「なんかビリケンさんみたいな人が乗ってはるー!」

と言いました。

 

その2につづく

 

合掌

連絡先について。

いつもブログをお読みくださり、ありがとうございます。

お陰様で「ブログ面白く読んでるよ。」などとおっしゃってくださる方も増え、私としましては嬉しい限りです。

 

そんななか、宇賀神先生のとても古いご相談者様(30年以上前にいらしてくださった方など)が、ふとネットで宇賀神先生のお名前を検索してくださり、このブログを発見なさり、ご連絡を試みてくださるというようなことが増えて参りました。

宇賀神先生は何度も引っ越しを繰り返されましたので、以前の住所や電話番号にご連絡いただきましても通じません。

今は東大阪の方に住まいしております。

また、奈良のお寺の方にお手紙くださった方もいらっしゃいますが、普段はお寺の方も留守をしがちですので、保管期限をすぎ、どうやら返送されてしまったようです。

(本日付けで念のための転送手続きをとりましたので、本日以降は大丈夫とは思われますが・・・。)

 

(東京都板橋区付近にお住まいのM様!先日いただいたお手紙を受けそこないました。宇賀神先生の昔のご相談者様でしょうか?もしよろしければ再度下記までご連絡くださいませ!)

 

ですので、以前のご相談者様で今現在の先生に連絡を取る方法が分からない方達のために、このブログ上で連絡先をお伝えすることにしました。

 

現在はテクノロジー(言い方が古いでしょうか?)の発達のお陰で、遠く海外の方ともLINEなどというアプリを使い、ほぼ無料で通話ができます。

しかも遠隔の御祈願に必要なお写真も、エアメールを待たずとも、瞬時にデジタルで送られて参ります。

なんて便利な時代なのでしょう。

悲しいかな、私のアタマが今ひとつアナログで、なかなかこの世界についていけてないのですが。

 

え?宇賀神先生ですか??

私よりもっと前時代的ですよ!

先生のお友達から先生の携帯に来たメールを、私が先生に読んであげて私が「代打」するのです。

「宇賀神先生なら、さもありなん。」

と、先生のお弟子さん(会員さん)でしたら、大いにご納得いただけると思います。

 

と、申しますことで、今現在の宇賀神先生へのご連絡は下記までお願いいたします。

また、ホームボタンの横に「連絡先」の項目としまして、お寺の住所とあわせて記載したページボタンを設けておきますので、いつでもご参照いただけます。

誰でも見ることのできるネット上に載せることは正直ためらわれましたが・・・。

とりあえず私が窓口になります。

基本的に先生はご紹介者様を通じてのみお仕事をお受けしておりますので、何卒よろしくお願いいたします。

 

連絡先 : 050-3442-5210 (宇賀神 綾野)

(IP電話のため、若干つながりにくい場合もあるかも知れません。何卒ご了承くださいませ。)

 

また、メールの代わりとしましては、コメント欄をご利用くださいませ。

コメントとしてニックネームではなく本名と思われるお名前で書いて送ってきてくださる方で、公開をためらわれるような深刻な内容のものや詳細過ぎる内容のものは、ご本人様のプライバシーに配慮し、原則公開しておりません。

そのような方のために「コンタクトフォーム」などという便利なものを設置すればいいのでしょうが、いまだその設定方法が分かりません。

アナログ人間なのです・・・ごめんなさい。(T-T)

しばらくは、コメント欄からご連絡いただくか、お手紙、お電話でお願いいたします。

 

 

合掌

***

追伸:ホームボタンのよこに「連絡先」ボタンを表示させたはずなのですが、なぜかサイト上に出てきません・・・(T-T)どうしてかしら???

申し訳ありません、この問題が解決次第、ボタンが設置できていると思われます。

成功を祈ってやってくださいませー!

***

2019年3月追記

申し訳ありませんが、諸事情により上記の電話を解約いたしました。

ご了承くださいませ。

宇賀神先生の財産

昨日は宇賀神先生の奈良のお寺で勉強会をしました。

月に一度開催しています。

何のための勉強会かと申しますと、「宇賀神先生のように氣でもって色々なことができるようになる」ための勉強会です。

勉強会は仙台に住んでおられた時から開催なさっていましたが、大阪に平成元年に出てこられてからだけでももう30年近く、この勉強会を続けておられます。

 

宇賀神先生の勉強会では、うちのお寺の会員になっていただき、最低10回の「一般の部」の勉強会へのご参加を経たあと、ようやく直伝(じきでん)講習会と私たちが呼んでおります特別な講習会にご参加いただき、テストを受け、法要にご参加いただきます。

もちろん希望者のみです。

そうして直伝講習会を受けられた方のみ、「では一体どうやって宇賀神先生のように氣を用いることができるのか」といった、実質的な勉強会にご参加いただけます。

言うなれば、直伝講習会以降が本当のスタートラインです。

そして今週末には、年に一度の直伝講習会を開催します。

 

宇賀神先生のお加持のお仕事も、勉強会へのご参加も、基本的にご紹介者様を通じてしかお受けしていません。

やはり、全くご存じない方が来られましても、そもそも求めておられることと宇賀神先生がご提供できることが違いますので、このシステムのままの方がいいような気がしています。

 

ところで先程、「一般の部の勉強会」と「宇賀神先生のように氣でもって色々ができるようになるための勉強会」と申し上げましたが、それはまさに佛教で申しますところの「密教(みっきょう)と顕教(けんきょう)の違い」と同じです。

顕教とは、「佛様の」教えです。

密教とは、「佛様になる」教えです。

 

「佛様の教え」の顕教では、「佛様はこうおっしゃった」などという佛様の智慧(真理)を学びます。

それがちょうど、先生の勉強会では一般の部の勉強会にあたります。

氣に関すること、佛様のこと、など色々をお伝えしています。

 

次に「佛様になる教え」の密教ですが、日本の密教には私たちの真言宗と、天台宗がございます。(顕教はそれ以外です。)

天台宗のことはあまり詳しくはありませんのでここではお伝えできませんが、真言宗では、「この身このままで今すぐ佛様になれる」という意味の「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」が唱えられております。

三密加持力(さんみつかじりき)を用いれば、この身このままで佛様になり得ると言われております。

三密加持力とは、身・口・意(しん・く・い)の3つの力、

即ち、

印(身)・ご真言(口)・観想=心の働き(意)

のことです。

この3つの力を用いますと、今すぐに佛様となり、その力を使えるようになるのです。(多分!)

 

宇賀神先生の勉強会で直伝まで取られた方は、その後実際に氣を用いる方法を学ばれます。

やはり一番多いのは病気平癒のお加持に沿ったことを学ばれますが、お仕事上もお仕事上でなくても、大いに活用なさっている方達がたくさんおられます。

 

たとえば、

「ゴッドハンド」と呼ばれるまでになられた柔道整復師さんとか、

「鍼を使わずに治していただけるとお聞きしたのですが」と患者さんに言われた鍼灸師さんとか、

なんの医学的知識もお持ちでないのにご自身のお母様をあわや透析の危機から救われた「普通の主婦」の方とか。

皆さんそれぞれに伝説?( ̄∇ ̄)をお持ちです。

 

今現在もうちのお寺に通ってくださっている直伝者の方達は、もうほとんどの方が20年前後のおつき合いの方達ですので、気心も知れたうえ、しかも宇賀神先生のことをとても大事に思ってくださっています。

宇賀神先生もそんな方達に対して、氣について教えられることをとても楽しんでおられます。

また勉強会の後の2次会、つまり、先生の大好きな「飲み会♥」では、鬼嫁が皆さんの手前猫をかぶっておりますのをいいことに、とても楽しく(1合以上)飲んだり食べたり、和気あいあいと楽しんでおられます。

 

本当に長いこと宇賀神先生についてきてくださっている方達ばかりですから、先生もとてもリラックスしてお酒を飲まれます。

昨日も2次会の後、皆さんとお別れしてから道を歩いておりますと、ふいに先生が

「わしは財産と呼ばれるものは築けなかったけど、あの『人』達こそ財産だなぁ。

わしは会員さん達には恵まれたなぁ。」

と、しみじみとおっしゃいました。

何だかちょっと、胸がジーンとしましたね。

いえね、日本銀行発行のチケットによる財産♥( ̄∇ ̄)も築いていただきたいものですけれどね、「人」が財産、それは、何物にも代えがたく有り難いものです。

「そっかぁ。ほんまやなぁ。よかったなぁ。ありがたいなぁ。」

と、上機嫌に酔っぱらっておられた先生にお返事しました。

 

宇賀神先生が子供の頃、「異常児」の烙印を押されてしまわれたお話を少ししたことがございます。

今も、どなたにでも円満な人当たりだとは言い難いご性格をなさっています。

ひとつの物事にものすごく長けてみたり、とても大きな心で人のことを安心させてみたり、またヘンに短気ですぐ怒りをあらわにしてみたり。

その才能だけでなく、ご性格まで「でこぼこ」なのですが、今おつき合いさせていただいております長年の会員さん達は、皆さんそこのところもよく呑み込んでくださっていて、本当にありがたいと思っております。

会員さん達や、長年のおつきあいのご相談者様まで、皆さん方は先生のことをとても大事にしてくださいます。

 

奈良の会員さん達、仙台で一番長いことお世話になっております方達、そして先生のことを頼ってくださるご相談者様方、いつもいつもありがとうございます。

宇賀神先生は昨日も、とても気持ちよくお酒をいただけたようです。

 

合掌

氣を取るときのちょっとしたアドバイス。

宇賀神先生と私はよく温泉などの「氣」のいいところに行き、氣を取る(導引する)瞑想をいたします。

と、このブログでよく書いておりますためか、先生のお弟子さん達が

「このあいだ、ブログで見たΟΟに行っていきましたよ!」

とご報告くださることが増えました。

ありがとうございます♥( ̄∇ ̄)

なんだかとっても嬉しいです。

 

そんななか、

「ちょっと呼吸とともに氣を導引するようにしてみたんですけど、うまくいかなくて。

息が吸えなくなっちゃったんです。」

とおっしゃるようなご質問をいただきました。

その方は、お釈迦様の仏舎利塔のところで導引術をなさろうとして、いまひとつうまくいかなかったのだそうです。

 

宇賀神先生は、

「それはね。『お釈迦様の氣をいただこう』と思うからだよ。」

とおっしゃいました。

「お釈迦様は、『執着から離れる』ことを唱えられた方だからね。

『氣が欲しい』っていう執着心でしてもうまくいかないんだな。」

「そうではなくて、『氣に触れて氣を味わう』とか、『氣を楽しむ』と思ったらいいんじゃないかな。」

と、教えてくださいました。

 

微妙な心構えの差ですけれどね。

ですが、このほんの少しの考え方の差が結構大事だったりします。

何だかうなづけてしまいました。

 

このご質問をくださった方もとても感受性が豊かでいらっしゃいますよね。

ちゃんと?お釈迦様の前では氣(息)が「吸えない」だなんて。

そんなことしようと思うのは「欲張りなことだからダメよ♥」っていうサインを、ご自身ではご存じなくてもちゃんと受け止められたのですから( ̄∇ ̄)

普通でしたらそんなサインには気づかず、

「せっかく来たのだから目いっぱい氣を取って帰ろう!」

と、無理やり取り込もうとしちゃいますよね。

 

世の中には色々とおもしろい方達がいらっしゃるものです。

 

ちなみに、先月東京出張に参りましたときに、私は初めて参りました、氣のいいところがございましたのでご紹介します。

tokyo-station
東京駅
the-path
皇居へと続く道

 

東京にお住まいの方でしたら、ここがどこかお分かりになりますでしょうか?

そう、ちょうど東京駅の真ん前から、皇居へと続く道です。

同じ場所に立ち、東(駅)に向って撮った写真と、西(皇居)に向って撮った写真です。

さすが天海僧正がお造りになったという、江戸という名の一大風水都市の「氣の終着点」ですね。

東京駅から皇居の方に向って、広い広い道幅よりも大きな氣の流れの中にいるような感じがいたしました。

とても気持ち良かったです。

 

宇賀神先生と日本全国色々なところへ参りますと、普通の観光とは違う「氣」の視点でその土地を見ることができ、とても楽しいです。

その代わり普通の観光はあまりしませんが。

デート♥で行くところは、いつも氣のいいところか神社仏閣、古い町並み、博物館、温泉。

間違ってもディズニーランドや表参道などのオシャレそうな街へは連れていってくださらない先生です。

「カフェに行きたい?わしはコーヒー1杯でそんなに粘れん。」

と、フラレております( ̄∇ ̄;)

 

そうそう、その日は嬉しい出会いもありました。

皇居のお堀の白鳥です。

「ここの白鳥は人間の言葉が分かるの?さすが東京!?」

って、とてもびっくりしました。

だって白鳥に「こっちおいでー♥」って呼ぶと来てくれたのですもの。

swan
東京の白鳥

ただ、すぐにそのカラクリが判明しました。

気がつくと、白鳥の向こう側に「コイなどにエサを与えないでください」の看板が。

人々がこの近辺で白鳥にも食べ物をあげていたのですね。

さすがトウキョウです。

白鳥もタダ者ではありませんでした。

 

合掌

本当に珍しいことに、霊のお祓い(佛教的には成仏)をしてきました。

先日、お祓い、して参りました。(霊媒体質の方がご先祖様&その他大勢を呼び寄せてしまったお話

本来はお祓いとは神道のご祈祷を指すようですが、世間一般で「霊のお祓い」という言い方でよく知られておりますので、今日は便宜上このように書かせていただきます。

最近は出張など、色々と体力を使うことが多く、根性のない私はくたびれ果ててブログの更新も休みがちなことをお許しくださいませ。

今回はいつもの些細な霊を祓うお仕事ではなく、万余を超える数の霊(宇賀神先生談)で、しかも無縁さんだけでなく、なかには有縁のご依頼主様のご先祖様までいらっしゃいました。

そのために必要な佛具一式を持っていき、それが非力な私にはとてつもなく重たかったのです。

 

宇賀神先生がおっしゃるには、今回のことは、

「ただ数の多い不成仏霊を祓うのとはわけが違うから、わしにしては辛抱強く手順を踏んだもんだよ。」

とのことでした。

霊のなかにはご依頼主様のご先祖様もいらっしゃいましたので、とにかく皆々様に普通に???成仏していただくよう、「手順を踏んだ」そうです。

その手順とは、いわゆる「引導を渡す」ことです。

通常お葬式でお坊さんは亡くなられた方に対して引導を渡される、つまり、あの世へと導かれます。

それを今回、宇賀神先生は、霊媒体質でいらっしゃるご依頼主様が連れて帰られた万余の「有縁無縁の諸精霊」に対して行われたのです。

 

多分、ご依頼主様は喜んでくださっていたと思われます。

正確には、お祓いの前日に打ち合わせに?お会いしただけでも

「身体が少しラクになりました。」とおっしゃっていました。

ほらね、宇賀神先生に会うだけで、いらぬ霊は逃げていくでしょう?

なにしろ「避雷針」のようなお方ですからね。

 

ところで、つい最近知って驚いたことがあります。

この、いわゆる「霊のお祓い」を、一番重要な儀式として行う宗教団体があるようなのです。

どうご説明してよいのやら、ちょっと難しいのですが。

端的に申し上げますと、そもそもの信条が「亡者(この場合は、成仏できずにいる死者のこと)をあの世へ送る」ことに重きを置いている宗教のようなのです。

 

宇賀神先生と私が日常に使っております経典は真言宗の「常用経典」で、真言宗のお坊さんならどなたでも使っておられるものです。

また、宇賀神先生のなさっている加持祈祷(修法)も真言宗の作法にのっとっており、本山に行かれたときにちゃんとお修行なさったものです。

やはり秘密の「密教」ですので、内容は詳しくは申し上げられませんが、宇賀神先生の基本的な考え方としましては、お勤め(お経を読むこと)や修法は、佛様へ通じるご挨拶です。

 

真言宗で行われております「印(いん)」という作法は、指のヨガとも言われております。

ヨガが最近流行っているようですが、ヨガ(瑜伽)とは本来「つながる」という意味の、インドの古い言葉です。

 

何につながるのでしょうか?

 

本来の自分とつながる。

宇宙とつながる。

つまり、私たちにとりましては、佛様につながる、に等しいのです。

佛様は「法身」とも呼び、宇宙の真理そのものです。

真言宗では即身成仏(そくしんじょうぶつ)という概念も唱えられており、私たちは生きておりますこの身このままで佛様になりうるのだ、という意味です。

(私には果てしなく難しいですが。)

 

ですので、宇賀神先生(と、その教えを受けた私たち)にとりましては、毎日のお勤めは、

佛様へのご挨拶であり、

私たちがこの身このままで佛様とつながり、佛様となり、

宇宙につながり、

そして自分自身ともつながる、

というとても幸せなものです。

 

真言宗の根本経典の概念は、間違っても先述の某・宗教団体のように「亡者をあの世に送る」ためのものではありません。

そもそも、亡くなった方達の魂を全て「成仏できていない亡者」にしたてあげ、「だからお祓いしてあの世に送ってやらないと」という姿勢そのものが、何だか違う気がします。

 

たしかに、「迷っているかも知れない」と思うような霊もいるとは思います。

今回は、ですので、珍しく宇賀神先生が「あまたの霊を成仏させる」ための儀式を行われました。

ですが、それは本当に珍しいことです。

たいていは、たとえ霊がいるなと思われましても、

「そんなの大したことないから気にしなくていい。」

とおっしゃいます。

と申しますより、

「いても当たり前かもしれない」し、

「いてもいなくても、どっちでもいいじゃないか?」

「そんな見えもしない不確かで暗いマイナスの世界のものに心とらわれるより、もっと楽しいことのために生きなきゃならん。」

という態度でいらっしゃいます。

 

実際の今回の件では、ご依頼主様が苦しまれていたのは事実です。

現実的な問題として、今現在の霊障(霊により起こされた不具合)を取り除く、ということが必要でした。

お身体もひどい状態でいらしたわけですから。

何度も申し上げますが、滅多にないことですけどね。

私の知る限り、宇賀神先生が「有縁無縁のあまたの不成仏霊をお祓いする」ためだけの修法をなさったのは、初めてです。

(あとは40年ほど前、私がまだお会いしていないときですが、先生がこのお仕事を始められたばかりの頃に、一度ものすごい体験をなさいました。このお話もいずれまた。)

 

霊のお祓いのことを考えますときに、「清濁あわせ呑む」という言葉をよく思い出します。

佛様への清らかで純粋な祈りと(清)、

佛様へ祈りの儀式にのっとりながら、霊を祓うことが目的だという何だかおどろおどろしい修法と(濁)。

片方の佛様の祈りの世界だけに生きられましたら、どんなにかすがすがしいことでしょうと思いますが、まだまだ「苦海」に身を沈めております私には、遥か彼方の憧れの世界です。

それとも、「清」と「濁」に物事を分けてしまう私の考え方そのものが、そもそもお修行が足りずに苦海に沈みっぱなしになっている原因なのかも知れません。

早く浮上したいものですね?

 

今日も何だかちょっと歯切れの悪いような、論点もいまひとつ定まらないような(いつものこと?)、独り言のようなブログで申し訳ありません。

やはり霊のことも、とてもデリケートな問題でもあり、どのようにお話すればいいのか迷うところでもあります。

もしかしたら、「私の不幸は霊障のせいかもしれない、だからお祓いしてもらわないといけない。」と考えておられる方が、「霊なんて気にするもんじゃない」などという宇賀神先生の素っ気ないお言葉をお聞きになられますと、違和感を感じられるかも知れません。

歯切れが悪いくせに変にストレートに書いてしまっておりますこと、ご容赦いただけますよう、お願い申し上げます。

 

合掌

霊媒体質の方がご先祖様&その他大勢を呼び寄せてしまったお話。

宇賀神先生のご相談者様のなかには、結構「霊媒体質」の方がいらっしゃいます。

先生のおっしゃる霊媒体質とは、霊が見えるだけでなく、霊に憑かれやすい人のことです。

霊に憑かれてしまいますと、ご本人様となさいましてはお身体の具合まで悪くなられたり、やはり苦しいことが多いようです。

先生は「霊媒しやすいのはその人の体質なんだよ。」

とおっしゃいます。

つまり、コントロールできるものではない、と。

 

この場合、宇賀神先生のようにもともとの素質に加えてお修行なさった結果、レベルの低い?霊だけでなく、神様や佛様とも通じられるのは霊媒体質とは言いません。

それはもはや「神通力」ですね。

読んで字の如く、神様に心が通じる力、または、神様にも通じる(準じる)力、です。

宇賀神先生に関しましては、霊にとりつかれてしんどい思いをなさる、などということは見たことがございません。

 

そうではなく、自分の意思とは無関係なところで、それこそ有縁無縁の諸聖霊等(うえんむえんのしょしょうりょうとう)、つまり、自分にご縁のあるご先祖様などだけではなく、そこらへん?に浮遊している霊とも通じてしまい、ついて(憑いて)こられてしんどい思いをしてしまう方のことを、霊媒体質と申し上げております。

悪い病気は治せても、弱い体質は治しにくいように、霊媒体質も治すのは難しいようです。

体質ですから仕方がないですね、としか申し上げようがないそうです。

その方には、対処法しかありません、とお伝えしています。

つまり体質を根本から変えるのではなく、表面上起きている症状をなくする(たとえば今憑いている霊を祓う、とか、身体のつらい部分を治す、など。)しか方法がないのです。

 

代表的な方法は

無視する、

いい匂いのお香を焚く、

塗香をつける、

護身法(ごしんぼう・真言宗の、身を護るための方法)を組む、

宇賀神先生に会う?

などですね。

 

最後の宇賀神先生に会う、と申しますのは、たいていの霊は先生を怖がって逃げてしまうそうです。

まるで避雷針のようなお方。( ̄∇ ̄)

 

また逆に、霊媒体質になろうと思ってなれるものでも、あんまりないようです。

ただ、霊の世界に興味を持ち、関わりたいと思われていると、そのような体質に近づくかも知れません。

ですが、そうなられましても何の得もないございません。

人に見えないものが見える、とお聞きしますと、何だか特殊な能力でちょっとすごいような気がいたしますが、実際は人生にマイナスを持ち込むことの方が多く、プラスに作用することは、あまりお聞きしたことがありませんね。

ほとんどの霊媒体質の方は、次元の低い?霊はよく見えても、天のいと高きところにおわします神佛はなかなか見えないものです。

しかも憑かれてしまいますと、身体の具合は悪くなり、当然、運気も落ちます。

 

宇賀神先生がいつも、

「霊はマイナスの存在だから。

だから見ないように。見ても無視するように。

こちらから見えて、気にすると、向こう(霊)からも見えて嬉しがって寄ってくるからね。

『誰も気づいてくれないのに、オレのことが見えるのかー?』って、嬉しがって、ついて(憑いて)くるからね。

ついてこられても生きている人間のプラスのエネルギーを吸い取られるだけで、何もいいことがないから。

霊はマイナスの存在だからね、人間のプラスのエネルギーが欲しいんだよ。」

と、おっしゃるのは、このためです。

 

ところが今月のはじめ頃、宇賀神先生の以前からのご相談者様で、この霊媒体質の方が、ご自宅からはとても遠いご先祖様のお墓参りに行かれたときに、

「もう年齢も高くなり、今後はこうしてお墓参りも難しいと思います。

つきましては、私が死ぬまでは私の自宅のほうで毎朝供養させていただきますから、どうか、ΟΟ家先祖代々の諸精霊、自宅の方へお越しください。」

ということをお伝えなさったそうです。

 

さあ、それからが大変。

 

なぜか、ΟΟ家のご先祖様だけでなく、それを聞きつけた「有縁無縁の諸精霊」までついて(憑いて)きてしまいました。

「あの人についていったら供養してくれるらしいってー!」

とでも思われたのでしょうか?

呼ばれてもないのに、ご縁のない方達までついてきてしまったようです。

 

その方は、普段から神様ともお話なさっていらっしゃいますが、それ以来、とんでもなく具合を悪くなさいました。

今のところ、宇賀神先生が「霊的なボディガード」をその方のところへ送り、お守りしているようですが、いかんせん、憑いてきた霊の数が多すぎるようです。

しかも、その方に関係のない霊たちだけでありましたら、片っ端からボディーガードが切り捨てて?いけばいいのですが、なかにはその方のご先祖様もいらっしゃるのです。

私は、

「どうして?『霊が殺される』というのは、つまり霊にとってはあの世に成仏するってことで、霊としても助かるんじゃないの?だから片っ端から切り捨てていけばいいんじゃないの?」

と、先生にお尋ねしましたが、どうもそんな単純な問題ではないようなのです。

 

実際どのような違いがあるのか私には分かりませんが、霊魂をあの世に成仏させるのと、やっつける?のは、微妙に違うようです。

あの世のことは、私にはまだよく分かりません。

たぶん死んだらイヤでもわかるのでしょうけれど。

 

ですが、とにかく、今そのご相談者様はお墓参りに行かれてから2週間近くも苦しんでおいでで、

「近いうちのご予約時にお会いするまで、なんとか耐えておきます。」

と、おっしゃっています。

宇賀神先生も、

「実際に(ご相談者様に)会うまでは、これ以上の対処はできないね。」

と、おっしゃっています。

 

ですので、次回お会いするときのために、これから私はその

「ご縁のない霊だけを選別して取り除き、祓う」

ための道具作りをいたします。

 

宇賀神先生に、

「色々な人の参考になるから、この道具の写真をブログに載せるのはどう?」

とお尋ねしますと、一言のもとに却下されました。

いわく、

「坊主はその修法(すほう=行法・ぎょうぼう。加持祈祷のこと。)の内容は間違っても公開しないもんだ。」

ですって。

 

まあ、秘「密」の密教ですからね。

皆さま、何卒お許しくださいませ。

なんだか触りだけをお話して肝心なところをお見せしない映画の予告編のような内容になってしまいましたが、世の中にはこんなこともあるんだなぁ、と思っていただけましたら幸いです。

 

「さわらぬ神にたたりなし」

と、言われますね。

昔の人は、どうして真実をご存じなのでしょうか。

霊も、あんまりさわらない方がいいみたいです、というお話でした。

 

合掌

人の欲

先日、うちの近くの白龍大神さま(白龍さん)のお話をこのブログでご紹介いたしました。

その次の日に白龍さんにご報告かたがたお参りに行きますと、と申しますより、お参りに行く前から、白龍さんの喜ばれているお気持ちが伝わってきていました。

「嬉しい」というお気持ち(念波?)が、白龍さんから届いているのが離れていても分かるのです。

とっても可愛らしい神様ですから、子供のように喜んでくださっているのが、ひしひしと伝わってきました。

「やっとボクのことを紹介してくれたか!」

といったところでしょうか?

 

そんな風に素敵な白龍さんなのですが、とてもとても残念なことに、その白龍さんのところに設置されておりますお賽銭箱が、ちょくちょく壊されております。

金属性の細長い筒が地面から直接立っていて、それがお賽銭箱なのですが、その足元の扉はほぼ半開きになっており、鍵もあまり機能していないようです。

近所のお店の人が、

「お賽銭箱はよく荒らされているみたいです。」

と、おっしゃっていました。

 

本当に悲しいことですが、

「神様にも人間の欲は止められないよ」

というお言葉を、深江のお稲荷さんから宇賀神先生がお聞きになったことがございます。

それは以前、うちの車(サンダース号)が、車上荒らしにあったときのことでした。

 

じつは、サンダース号には、とある神様が乗ってくださっています。

私はこの神様のお陰で、サンダース号を乗りこなせる?ようになりました。

ですが、そんな神様が乗ってらっしゃるサンダース号でさえ、車上荒らしにあいました。

そのときに、深江のお稲荷さんが、さっきのお言葉を宇賀神先生におっしゃったのです。

「だって『賽銭ドロボウ』という言葉が存在するだろう?

神にも、人間の欲はとめられないんだよ。」

とのことでした。

 

なんとも悲しいことですね。

ですが、ドロボウをするような心も現実として人間の中に存在します。

良し悪しは別として。

 

そうかと思えば。

また別の日に白龍さんにお参りに行きますと、前にタクシーが停まっていて、どうやら運転手さんらしき人が白龍さんのところのお掃除をなさっているようでした。

もしかして白龍さんのお守をなさっている方かなと思いまして、縁起などお聞きしたいと思い、思い切って声を掛けてみました。

すると、その方はなんとボランティアで、自主的に

「散らかって汚れていたらここの神さんが気の毒で。」

と、縁もゆかりもないけれどお掃除するようになられたのですって。

 

お賽銭箱の鍵が壊されていて、お金を入れても壊れた扉からコロコロと硬貨が転がって出てきてしまい、お賽銭をどこに入れたものか迷うのです、とお話しますと、

「そうなんですわ。

ここはよう荒らされてましてね。

この間も若い子らが鍵壊してるの僕見ましたわ。

万が一お賽銭がこぼれてたら、僕がいつも掃除するときに、ここの神さんの持ち主さんにだけ分かるようなところに隠しとくんです。

ここの持ち主さんは、時々遠くからタクシーで来てお世話したはるみたいですわ。」

と、その方はおっしゃいました。

 

奇特な方がいらっしゃるのですねぇ。

私は、

「お陰様で、気持ちよくお参りさせていただいております。ありがとうございます。」

と、感謝の気持ちをお伝えしました。

 

ドロボウをするのも人間の自然な心の働き(の一部)でしたら、

この運転手さんのように、神様のお掃除を全くのボランティア精神からなさるのもまた、人間の自然な心の働き(奇特な人の)なのですね。

時代劇の「鬼平犯科帳」で、鬼の平蔵様がおっしゃった、

「人間ってなァな、不思議なもんだな。

いいことをしながら悪いことをし、

悪いことをしながらいいことをするんだ。」

というセリフを思い出してしまいました。

 

宇賀神先生はこのことを、

「人間は、偉くなくもない。」

という風におっしゃっています。

ちょっと変わった国語の表現ですが。

 

また、宇賀神先生は、

「神様は、人に拝まれてこそお力を得られる。

人に拝まれなくなった神様は、段々とお力もなくなるんだよ。」

と、おっしゃいます。

 

なかには、地質学的な巨大なエネルギー(例えば日本列島を横断するような断層のエネルギー)から生まれた神様もいらして、そのような存在の方達は、もしかしましたら拝まれなくても大きなお力をお持ちだとは思います。

ですが、少なくとも、この白龍さんのような存在の神様は、人に拝まれれば拝まれるほどお力も増すようですね。

逆に、忘れ去られてしまった神社の神様などは、悲しいことになります。

 

白龍さんは本当に小さな祠の神様ですが、あんな奇特な運転手さんがお掃除していらしゃいますし、実は隠れファンが多い神様なのかも知れません。

と、またこのようなことを書いておりますと、白龍さんの

「えっへん!」

という得意げなご様子が見えてきますよ。

また明日、ご報告かたがたお参りに行かないといけませんね?

ぴかぴかの100円玉、お財布の中にあるかどうか確かめなくっちゃ。

 

合掌

 

SPIRITUAL(スピリチュアル)は案外身近なところに。

ここ数日の台風は、かなり勢力が強かったようですね。

大変な思いをされました方達に、心からお見舞い申し上げます。

 

先週末は台風の予兆のなか何とか予定をキャンセルすることなく、宇賀神先生と両親とともに乗鞍高原温泉に行っておりました。

先生の大好きな硫黄泉の温泉で、曇り空ではありましたが、紅葉もとっても綺麗でした。

どちらかと申しますと、紅葉もずいぶんと進みすぎているくらいでした。

やはり長野県の高原ですからね、大阪に比べますとずいぶん季節が早いようです。

 

今日はそんな旅のアルバムから。

わたくし個人としましては、実はとっても公開をためらってしまう、宇賀神先生の「雪ん子じいさん」の一枚を。

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雪ん子じいさん

 

宇賀神先生が着ていらっしゃるの、お分かりになりますでしょうか?

「はんてん(半纏)」ですよー!

「綿入れ半纏」とも言いますでしょうか?

先生は、

「はんてんこそ『湯治の正装』だ!」

と主張してはばからないのです。

 

ですが、途中のサービスエリアもお食事処も、みんなこのスタイルで闊歩なさるのですから、ちょっと驚きです。

たしかに私は、あまり身なりばかりを気になさる男性より、「中身が大事」な先生が大好きなのですが、いくらなんでも「はんてん」はねぇ。

これは家着でしょう。

相変わらず我が道を行く宇賀神先生です。

ま、カワイイ♥から許します!?

 

また、とっても小さなことですが、今回は素敵な体験もしました。

皆さまは「雪虫」をご存じでしょうか?

私はずっと以前、図書館の子供向けの絵本のコーナーで偶然、「雪虫のふしぎ」とか何とか、そのような題名の本を見かけて知ったのですが。

まるで雪のような、真っ白の綿に似た毛のようなものを身にまとっている虫です。

しかもとても小さい虫ですので、飛ぶ様も風に乗ってまるで雪が舞うようなのですって。

 

今回の旅行で、その本物の雪虫に初めて会いました。

たしかに雪のようにふわふわと舞い、知識でしか知らなかった私でも、一目で雪虫と分かりましたよ。

そしてなんと嬉しいことに、私はその雪虫と心が通じてしまいました。

 

乗鞍高原で喫茶店に入ろうとしたときのことです。

もしかしてこのふわふわと飛んでいる白い虫は雪虫かな?と思った私は、着物の袖をそっと前に出して雪虫に声をかけました。

「ここにとまりー。」と。

そうしましたら、ホントにそこにとまってくれたのです。

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袖にとまってくれた雪虫

 

本当にとまってくれるとは思わなかったですので、あわててスマホをカバンから出して撮影しますと、今度はなんと、パッと羽を広げてポーズを取ってくれました!

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羽を広げてポーズを取ってくれた雪虫

 

そして羽を広げたままじっとそこにいて、写真撮影のモデルを務めてくれていました。

「えーっ、ポーズ取ってくれたん?めっちゃ嬉しいー!ありがとう♥」

と、雪虫にずっと話しかけながら写真を何枚も撮りました。

雪虫は、じっと袖にとまっていてくれました。

 

すごくすごく嬉しくて、胸のあたりがふわぁっと温かくなりました。

虫と心が通じた、なんて思ったのは生まれて初めてです。

しかも、実は私は大の虫嫌いなのです。

蝶々やトンボでさえ、見ている分にはいいのですが、内心「近くに来ないでねー!」と懇願しています。

私が太刀打ちできますのは、蚊の大きさまでですね(T-T)

雪虫がとても小さかったというのもあるのでしょうが、とにかく怖くなく接することができました。(でもやっぱり直接はよう触りません。)

 

そして、ひとしきり撮影した後、

「来てくれてありがとう。もう帰りやー。」

と伝えますと、ふわーっと飛んでいきました。

全てのタイミングで、まるで私の言葉を理解してくれているようでした。

 

どんなにか、どんなにか嬉しかったことでしょう。

 

宇賀神先生がこのことを、

「一寸の虫にも五分の魂、って言うんだなぁ。」

とおっしゃいました。

 

以前にご相談者様に、家で羽化させた蝶々とまるで気持ちが通じたようなことがあった、というお話をお聞きしたことがございました。

その女性は蝶々を芋虫のときから育てて、まだ小さかった子供さんお二人と羽化する瞬間を見守っていたのですって。

やがて時間をかけてさなぎから蝶々となって出てきますと、ふわっと飛び立ち、まず子供さんお二人の手にそれぞれとまりました。

そして次にそのご相談者様のところへ蝶々が来たのですが、その方は「手にとまられるのはイヤだな。」と思われたそうなのです。

すると、蝶々はその方の気持ちを察したかのように、手ではなく肩にとまってくれたのですって。

「なんで私が手にとまられたらイヤやっていうのが蝶々に分かったんやろ、と不思議やったよ。」

蝶々は、まるで皆に「ありがとう」と伝えてくれたようでした。

そして、そのまま外に出られるようにと開けていた窓から、飛んで出ていったそうです。

「わたし涙が出たわ。」

と、その方はおっしゃいました。

 

それがもし犬とか鳥(ぴーちゃん♥)とかでしたら、人間の思うことも理解してくれるでしょうと思いますが、果たして虫の小さな脳みそで「心が通じる」なんて、本当にあるのかなぁ、と憧れを持ってそのお話をお聞きしていました。

ですが、今回、その憧れが現実となって私の身に起こりました。

「心が通じた」

と、思ってしまったのです。

今思い出しましても心がポッと温かくなる嬉しい出来事でした。

 

もしかしましたら、虫と心が通じただなんて申しますと、ヘンな目で見る人もいらっしゃるでしょうね?

いえ、そもそも私自身が虫は怖かったですので、先述のご相談者さまのお話をお聞きするまで考えたくもありませんでした。

ですがもしかしましたら、虫を飼ったことがおありになる方でしたら、

「そんなこともあったよ。」

と、思われる方もいらっしゃるかも知れません。

 

だって日々の世話をしなかった虫とでさえ、心が通じたと思える出来事があったのですもの。

毎日世話をした方にでしたら、おおいにあり得ることですね。

 

世間でよく言われております「スピリチュアル的」な出来事や考え方は、案外身近に存在するのでは、と思うのです。

(スピリチュアル的とは、宗教的・精神的・超自然的な、魂の、などという意味で使われております。)

なにも大上段に構えた大げさな奇跡ばかりがスピリチュアル的なのではなく、もっと身近に、もっと当たり前に身の周りに起こっている様々なことが、すでに「スピリチュアル的(な奇跡)」なのかも知れませんね。

と申しますより、スピリット抜きで生きることを考える方が難しいのではないでしょうか。

 

私には、「雪ん子じいさん」の存在自体が、すでに「スピリチュアル的」ですよ。

だって、あの「湯治の正装」のセンスなんてまさに・・・奇跡的でしょう?( ̄∇ ̄)

 

雪虫は、「雪を呼ぶ虫」と言われているそうです。

この虫が舞いはじめますと、もうすぐ雪が降ると知られているのですって。

乗鞍が紅葉の美しい季節を経て、真っ白な雪の世界に包まれますのも、そう遠くないようです。

 

合掌