自灯明 法灯明

今日2018年5月29日は満月で、5月の満月は佛教界でもウエサク祭りといわれているのだそうですね。

つい数時間前まで私は知りませんでしたが・・・どんだけ無知なんでしょう(ToT)

お釈迦様にも関わりの深い5月の満月の日、ということで、今日はひとつお釈迦様のお言葉、「自灯明 法灯明」について。

 

自灯明 法灯明(じとうみょう ほうとうみょう)、これは、お釈迦様の遺されたお言葉です。

私も大好きなお言葉です。

意味は、「自らを明かりとなし、佛法を明かりとなして、修行の旅路を歩みなさい」というものです。

 

佛教の世界観では、この世で人生を歩むことは闇路を歩むようなもの、という、ちょっと聞きますとどこか寂しいような怖いような、表現がなされますね。

真言宗の在家さん向けのお経本にも、お大師さんの「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」というご宝号(ごほうごう)を唱える前に、お大師さんに対して

「願わくば無明長夜(むみょうじょうや)の闇路を照らし

二仏中間(にぶつちゅうげん)の我らを導き給え」

と願う一説がございます。

悟りという智慧の目を得ていない私達凡人にとりましては、この世はやっぱり真っ暗闇なのね、ということでしょうか。

 

さて、そのような闇路の世の中を、お釈迦様は二つの明かりを頼りに歩みなさいとおっしゃいました。

「自灯明」と「法灯明」です。

 

まずは「法灯明」のご説明を。

ここでいう法とは、佛法のことです。

つまり、お釈迦様(佛様)の教え、宇宙の真理(法)を頼りにしなさいということです。

ではその真理とはなんでしょう、と尋ねられましても、そんなムズカシーこと私に聞かないで(ToT)って正直申し上げたいですけれど(そんな真理、本当に理解していたら今頃ワタクシはとっくに悟っておりますヨ)。

と、まあ、逃げてばかりもいけませんので。

 

よく言われておりますところでは、代表的なものはお釈迦様の一番初めの3つの悟り(この3つを三法印といいます)、

諸行無常(しょぎょうむじょう)

諸法無我(しょほうむが)

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

これらを発端とする様々な智慧により、心を治めていきます。

 

上記3つは日本ではとても浸透している言葉ですので、今更その意味をお伝えしなくてもいいかとは思われますが、一応。

(と申しますより、私のこのブログより、他のちゃんとした?お坊さんの書いておられるサイトをご覧になられた方が正しい知識を得ていただけるかも知れません(T-T))

 

「諸行無常」は、すべてのものは移り変わり、常態を保ち得ない、ということです。

ン年前に生まれ、今は若く美しいワタクシも!?、やがては年を取り、おばあさんになって、そしていつの日か死に、この世からいなくなります。

 

「諸法無我」は、どんな存在も確固たる実体はない、ということです。

ちょっと難しいですが、たとえばですね。

ここに、このブログを書いております「宇賀神綾野」という人物がおります。

ただいまキーボードを打っている人間ですね。

このキーボードを打っている人間は自分のことを「私」だと思って、確固たる存在としてここにいる、と思っているのですが、実はそうではないんですよ、とお釈迦様はおっしゃっています(多分)。

「私」は、先程の諸行無常のところでも申し上げましたが、常態を保ち得ず、刻一刻と移り変わっている存在で、「この瞬間の私」は「1秒前の私」とも違い、「1秒後の私」とも違う存在です。

しかも、宇賀神先生にとりましては「私」は妻であり、両親にとりましては「私」は娘です。

ある人にとりましては「いい人」かも知れませんし、ある人からは「嫌な人」と思われているかも知れません。

あるいは、昨日までは「仲のよい人」だったかも知れませんが、明日ケンカすれば「悪い人」になります。

「私」をとりまく様々な人々や物事とのご縁の中で、「宇賀神綾野」は形成されていて、しかもそれは刻一刻と移り変わっているのです。

あるようで、無い、確固たる「私」という実体。

それが諸法無我です(多分)。

 

「涅槃寂静」は、涅槃とは悟りの境地を表すそうで、寂静とは悟りにより煩悩が消えて苦がなくなった状態だそうです。

諸行無常や諸法無我の智慧により世の中を見ることができますと、煩悩が消えて、悟りの境地に至るのですとか。

はてさて、そこに到達するのにあと何100万年かかりますやら。

ちょっとしばらくはムリそうです。

 

とにかくですね、これらは佛法、つまり宇宙の真理のほんの一部ではありますが、これら佛法を明かり(法灯明)として頼りにこの闇夜の世界を歩んで行きなさいとお釈迦様はおっしゃっています。

 

そしてもうひとつ。

これが凄いと思うのですが、「自灯明」を頼りに歩んでいきなさい、ともお釈迦様はおっしゃるのです。

自らを明かりとし、と。

これは私の勝手な解釈かも知れませんが、お釈迦様はお釈迦様ご自身(佛様)を崇拝して頼りにしなさいとおっしゃってるんじゃないんですよね。

それぞれが自分自身の心に火をともし、それを頼りにこの闇路を歩んでいきなさいとおっしゃっています。

魂のお修行は、他者に頼るのではなく、自らを頼りとして進んでいくのですって。

 

もちろん現実問題としまして私は宇賀神先生を頼りに生活しておりますが、魂のお修行はまた別の話で、それぞれがそれぞれに歩むしかないそうです。

怖いような、また逆に勇気を得るような心地がいたします。

一人で歩むしかないんだ、という怖さと、歩むしかないということは、私にだって歩んでいけるんだ、という心強さと。

私はこの「自灯明」というお釈迦様のお言葉に、勇気づけられるような心地がいたしますよ。

 

そうそう、その「自灯明」を体感できるお修行の場がお四国さんにございます。

そのご紹介を是非次回に。

私がもう一度行きたいと、ずっと切望しているところです。

 

今日の満月は薄曇りでしたが、見ることができました。

雲の向こうに光っていても、お月さんは綺麗ですね。

太古から人々が太陽や月の美しさに手を合わせてきた気持ちがよく分かりました。

 

合掌

人の思いに国境は無いと。

先日東京に行ったときのことです。

上野駅で、4人連れの外国人のグループの方がいらっしゃいました。

お見受けしたところアジア人ではなく、また、英語やフランス、イタリア語などの、どこかで聞いた言語でもなく、耳慣れない言葉を話しておられました。

 

駅から出ようとホームから1階に降りた宇賀神先生と私に向って、そのうちの一人の女性が英語で「アメ横に行くにはこちらの改札口でいいのですか?」と私に尋ねてこられました。

実はアメ横の場所もよく知らない私は、若かりし頃は東京にも住んだことのある宇賀神先生ならご存じでしょうと、先生に尋ねました。

 

すると先生が、「アメ横ならこっちの改札じゃなく、もう一度ホームに上がって向こう側の階段から降りて改札から出たら、出てすぐのところが商店街の入り口だよ。」と、おっしゃいましたので、そのままその女性にお伝えしました。

「Thank you!」

と、お礼を言われて、その4人連れの方達は私達とは反対の方向へ行かれました。

 

ですが、何だかちょっぴり悪い予感がした私は、改札口まで行ったときに駅員さんに、

「アメ横に行くには、ここではなく向こうの改札口から出るので合ってますか?」

とお尋ねしました。

すると、「いいえ、こちらの改札を出てすぐです。」との答えが!

うっそーん!(ToT)

やっぱり、道が分からないとき、必ず逆方向に行こうとなさる宇賀神先生に尋ねたのが間違いでした!

 

このままじゃ、あの方達は反対側の出口から出て、言葉の通じない外国の土地で道に迷ってしまわれます。

しかも、間違ったことをお教えした私は「ニコニコと親切なフリして大ウソ教えた日本人」ではありませんか!

 

「先生、ちょっとさっきの人達を追っかけてくるわ!!ここで待っててー!」

「分かったー!」

との答えもそこそこに、はしたなく着物でダッシュしました。

まだ改札を出ないでいて~、と願いながら。

 

そして、2階のホームに上がってきょろきょろと探しますと、ありがたいことにまだそこに4人で立ち止まっておられました!

やっぱり、分からなくて迷っておられた感じです。

よかったー!

 

「ごめんなさーい!間違えましたぁー!!」

と、手を振りながら駆け寄りますと、皆さんすごくホッとした、嬉しそうな顔をなさいました。

謝ってから、「やっぱりさっきの改札口なんです!」と、ご説明しますと、すごく喜ばれ、英語を話せない女性の方が、英語を話されたもう一人の女性の方に何やら声をかけられました。

その方がリュックサックを地面に置かれましたので、「いえいえ、今から一緒に改札まで行きましょう。」と、私は申し上げました。

すると、その女性はリュックサックからキーホルダーをひとつ出されて、「これをあなたに。」と、なんとプレゼントしてくださるというのです!

 

そんなー・・・。

私が間違ったことお教えしたからあわてて追いかけただけなのに。

 

辞退しようとそう申し上げたのですが、その4人の方達があまりにも喜んで是非にと差し出されましたので、ありがたく頂戴することにしました。

すると、

「このキーホルダーの中には、ユダヤ教の聖書が入っています。

あなたにたくさんの幸運がくるようにという、お守りです。」

と、おっしゃってくださいました。

 

嬉しい・・・♥

 

たしかに見ますと、キーホルダーの中に本のようなものが入っています。

幸運のお守りですって。

とーっても、嬉しかったです!

 

改札までご一緒しているうちに、その方達がイスラエルからいらしたこと、イスラエルの国は美しいところですよ、などということをお聞きしました。

まだ見たことのない国の美しい景色に思いを馳せ、とても幸せな気持ちになりました。

 

「よい旅を!」

と、言葉をかけ、その方達と改札口を出て別れました。

 

その、いただいたユダヤ教の聖書が入っているというキーホルダーが、こちらです。

keychain
ユダヤ教のお守り

嬉しがって記念撮影なんかしたりして( ̄∇ ̄)

 

お恥ずかしい話、私はユダヤ教のことはよく知りません。

何をよしとし、どんな神さまを崇拝してらっしゃるのか、知りません。

 

ですが、そのユダヤ教のお守りをいただいたとき、ずっと以前にテレビで見たある男性の言葉を思い出しました。

その方はイスラム教を信じている方で、住んでおられる国でシーア派とスンニ派が対立していたのです。

そして、ご自身の息子さんを、反対派の勢力に殺されてしまわれていたのです。

その方がおっしゃるには、息子さんは亡くなる前に、

「お父さん、シーア派とかスンニ派ってなぁに?」と尋ねたことがおありだそうです。

 

「今なら私はこう答えます。

『シーア派もスンニ派も同じだよ。幸せを求める、人の世の悲しみだよ』と。」

その方は、テレビの中で悲しそうに、そうおっしゃっていました。

 

幸せを求める、人の世の悲しみ。

 

息子さんを殺されてしまわれたのに、反対派の信仰を恨むのではなく、

「“同じだよ”と、今なら伝える」と。

とても深く、心に残りました。

 

たしかに、世界中に色んな宗教があり、中には多分、自分の小さな世界しか知らない私からしましたら「それはちょっと受け入れがたいなぁ」と思うような教義もあるのでしょう。

ですが、たとえ教義そのものは理解できなくても、少なくともその神さま(など)を信仰する人の気持ちを理解しようとする人間ではありたいなと思っています。

そのお父様のように、身内を殺されてまでそう思えるかどうかなんて到底分かりませんが(いえいえ、多分ムリ!)、今の時点では、少なくともそう思っています。

 

そして、そのお父様のおっしゃった、「幸せを求める、人の世の悲しみだよ」という言葉を、忘れないでいようと思っています。

ちなみに、キリスト様は「愛」を説かれたそうですし、佛様のお心は「慈悲」なのですねぇ。

「悲」という字が、使われています。

どうしてだと思われますか・・・?

 

異国のお守りをいただいて、ふと、そんなことを思い出したのでした。

遥か海の向こう、大陸の向こうからきたお守り。

間違った道案内をしてしまいあわてて追いかけた私に、喜んでお守りをくださったイスラエルの方の嬉しいお気持ちが込められています。

 

もうそれだけで、とっても幸運でしたよ♥

 

合掌

甘い誘惑。その2

(甘い誘惑。その1のつづき)

三居沢の滝の前で瞑想していた宇賀神先生の目の前に

「我は大日如来なり。我を礼拝(らいはい)せよ。」

というはっきりとした言葉とともに、頭を剃って白衣(僧衣の下に着るもの)を着た、まるでお地蔵さんのような佛さまの影が現れました。

宇賀神先生は思わず頭を下げ、礼拝しようとしました。

 

ちなみに礼拝とは正式には、ひざまづいて額を地面につけ、両手で独特の印を結んで前に差しだし、頭上に佛さまの御足を頂くという、佛さまへの最大の礼をつくすご挨拶の作法です。

 

ところが、ふと、

「あれ?」

と、宇賀神先生は思いました。

そして、その“佛さま”に向って言いました。

「何かおかしいんじゃねーの?」

と。

 

宇賀神先生は続けます。

「大日如来は『無説法』と言われているんじゃなかったか?

宇宙そのものである根本佛(こんぽんぶつ)の大日如来は、いちいち説法して歩かないはずだけど?

・・・さてはお前、大日如来なんかじゃないだろう!」

 

すると、頭を剃った僧形の影がスーッと滝の奥に消え、再び現れた“それ”は、額に丸い鏡のようなものをつけた鉢巻を巻いて、山伏さんのような白装束を着ていました。

宇賀神先生はその瞬間、理解しました。

そして、

「お前はこのお滝場で修行しているうちに滝の上から岩が落ちてきて死んじまった行者崩れだろう!

大日如来のふりをして俺を惑わそうなんざ、一体どういうつもりだ!!」

と、喝破なさいました。

 

すると、再びスーッと姿を消し、今度はそれっきり現れませんでした。

正体を見破られたと思ったのでしょうか。

 

宇賀神先生はその時ひとつのことを理解なさいました。

こうして、人は惑わされるんだ、と。

こうして、不成仏霊は人を惑わすんだ、と。

 

宇賀神先生は常日頃から、

「霊になんか関心を持つんじゃないよ。」

と、おっしゃっています。

「霊はマイナスの存在だからね。」

「だから、プラスの存在の人間に近づき、人間のプラスの氣を取るんだよ。」

「だから、相手にするんじゃないよ。」

と。

 

こうおっしゃるのは、このお滝場での経験がおありだからなのかな、と思います。

 

人には欲があります。

力が欲しい。

お金が欲しい。

地位が欲しい。

名誉が欲しい。

 

その欲に、文字通りの「魔」が差します。

つまり、ときには霊も、人の欲につけ入るのです。

 

お滝場で力を得ようと修行している人に、その同じ場所でお修行に失敗して不成仏霊と成り果てた霊が、まことしやかにありがたい佛さまのフリをして近づいてくるのです。

「お前について、力を貸してやろう。」

と、大概の場合は甘い言葉で、甘い誘惑で、人の欲につけ入るのです。

 

宇賀神先生の霊感は確かで、それが本物の大日如来さまではないと見抜かれました。

でも、それを不成仏霊のウソだと見抜けない人だったら?

力が欲しいという欲につけ込まれ、

「自分は大日如来さまに目をかけられるほど、実はすごい能力を秘めていたんだ!」

と勘違いして。

そう信じてしまって。

その人はどうなると思われますか?

 

そんな風に踊らされた人の末路など、あまり想像したくもありませんが・・・。

宇賀神先生がおっしゃるように、霊が「人間のプラスの氣を欲しがる」のであれば、その人の氣の力も、運氣も、やがては何もかもを吸い取られるでしょう。

それはまるで、寒さで震える人が温かいものにすがって熱を得ようとする時のように、寒い霊(マイナス)は、人の温かい熱(プラス)を奪おうとするのです。

 

「まことしやかに神佛のフリをして近づいてくる霊がいるんですよ。だからあなたの『見た』もの、『聞こえた声』には心をとらわれない方がいいですよ。」

・・・と、つい最近も懇切丁寧に話したのに、聞く耳を持ってくださらなかった人がいました。

このようなお話は、何も宇賀神先生の40年ほど前のこのエピソードに限ったことではないのです。

いっくらでも、今現在でも、腐るほどあります。

私も何人か宇賀神先生のもとにご相談にいらした方達を見ました。

その度に宇賀神先生は

「その声(姿)を信じない方がいいんじゃないかな。それよりもっと人生でやるべき大事なことがあるんじゃないかな。」

と、お伝えしてきたのですが・・・あまり聞いてはいただけませんでしたね。

 

だってやっぱり、

「自分は佛さまに目をかけてもらえた!」

と信じてしまった方は、そのキラキラした喜びに目がくらみ、

「それって佛さまのフリをした、あんまり性質のよくないものだと思いますよ。」

という言葉など、耳に入らないのです。

 

 

それで、このブログのタイトルからも「霊能者」を外すことにしたのです。

「目に見えない世界は、確かにあります。(と、私は信じています。)」

「神さま、佛さまの世界は、本当に素晴らしいです。」

「暗い存在の霊にも、遭遇しました。」

「でもそれは本当にデリケートな世界の話で、本物とウソを見極めるのが難しいです。」

「また、それを利用して、多くの人をだまして搾取しようとする人達もいます。」

「だから、下手にのめりこまない方がいいのです。」

「でも本当に、神さまや佛さまや、氣というものの、素晴らしい世界があるのです。」

「と、以上のことを、私は信じています。」

ということをお伝えしたくて、このブログを始めました。

ですが、一歩間違えれば危うい世界だとも思っておりますので、

「ですのでこのブログも、おとぎ話でも読むように一歩引いたところから楽しんでくださいね♥」

と、お伝えしてきました。

 

それがつい最近も、宇賀神先生も私も「その見えた光には心とらわれない方がいいよ。」とお伝えしたにも関わらず、聞いていただけなかった方がいらっしゃいました。

その人のためを思って、一所懸命お伝えしたつもりだったのに。

これはこれで、「成就しなかったご縁」のひとつだったと諦めるしかないのでしょうか。

私はちょっと悲しかったですが、仕方がないですね。

 

合掌

甘い誘惑。その1

「甘い誘惑」と申しましても、美しい女性からの誘惑の話ではありません。

もちろん、宇賀神先生の大好きなMeijiのチョコレート♥のことでもありません。

いわゆる、浮遊霊とか不成仏霊からの誘惑、とでも申し上げましょうか。

これは今から40年近く前、宇賀神先生が今のお仕事を始められ、まだ仙台にお住まいだった頃のお話です。

 

仙台近郊は自然も豊かで、心静かにお修行するのに適した場所も多いそうです。

いわゆる霊地や聖地、今ではパワースポットとも呼ばれるのでしょうか。

宇賀神先生はそのような場所でお身体の鍛錬や、仏具を持っていって行をなさったり、氣を取り入れて体の中で練る「吐納導引術」(とのうどういんじゅつ)をなさったりと、氣の力を高めるべく、お修行なさっていました。

 

仙台市内でも、滝行もできそうな小さなお滝場やお堂がある場所があり、よく行っておられました。

そのうちのひとつが、先日ご紹介しました三居沢(さんきょざわ)のお不動さんです。

(参照:東北への旅

 

もうちょっと詳しく写真でご紹介しますね。

水力発電所の奥にある、のかな?

まずは入り口。

以前にも載せた写真です。

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三居沢のお不動さん

 

奥に入りますと、お堂が見えてきます。

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三居沢不動尊のお堂

 

そして、お堂をぐるっとまわり込んだ奥に、滝があります。

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三居沢の滝

宇賀神先生の記憶が正しければ、昔は滝の水は一本だったそうです。

地震のためでしょうか?時間の経過で水底の形が変わったためでしょうか?今は二本の滝に分かれています。

また、昔は滝のすぐ近くまで行けたそうですが、今は柵があり、行けなくなっています。

 

滝の奥の岩壁に、お不動さんが彫られていました。

見えますでしょうか?

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滝の奥にお不動さん

このお不動さんも、宇賀神先生の記憶が正しければ、先生がよく行かれていた頃は無かったそうです。

滝の下のいくつかの大きな岩の位置も、変わっているみたいです。

 

ちなみにそのお滝場に、こんなオソロシ気な貼り紙が。

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お滝場の貼り紙

クマ出るんや・・・ヤメテ。( ̄∇ ̄;)

 

4月末の仙台出張に合わせて、どうしても久しぶりに三居沢のお不動さんにお参りしたくなり、この日に行きました。

すると、うっかりしていましたがその日は28日で、「お不動さんの日」でした。

よく28日はお不動さんのご縁日ということで、お祭りなさっているところもございますね。

ここ三居沢でも、お祝いのお祭りが行われたようです。

 

お堂の前でお参りさせていただこうとしておりますと、ありがたいことに

「どうぞ中に上がってお参りください。」

と、お寺さんにお声を掛けていただきました。

宇賀神先生が、

「長年来ていたけど、中に上げてもらったのは初めて。」

と喜んでおられました。

この日はたまたまご縁があったのですねぇ。

とても、嬉しかったです。

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お堂の中にて

五本指のくつ下がキュートな宇賀神先生♥

穴の開いたくつ下でなくてよかった・・・( ̄∇ ̄)

 

 

それで、ですね。

肝心の「甘い誘惑」の話ですが。

今日はちょっと長くなって参りましたので、触りの部分だけを。

(また~!?って言われそう!)

 

 

それは、40年近く前、宇賀神先生がまだ仙台にお住まいだった頃のことです。

その日も、滝のすぐ近くで滝に向かって座り、目を瞑って瞑想しておられました。

ドドドと滝の水が落ちる音が聞こえます。

 

ずいぶんと長い時間、座っておられたようです。

ふいに周りの、滝の水が落ちる音や風の音、小鳥のさえずりも、全ての音が聞こえなくなっていることに気づきました。

あんなに大きかった水の音もどこへやら、あたりが急にシーンと静まり返ったようです。

瞑想の深いところに入っているのかな、と思われた瞬間。

 

とつぜん頭の中で、

「我は大日如来なり。」

という声がはっきりと聞こえたそうです。

 

その声は、

「我は大日如来なり。我を礼拝(らいはい)せよ。」

と、言いました。

 

意識を向けますと、頭を剃って、白衣(お坊さんの黒衣の下に着る白い着物のこと)を着た佛さまのような人?が、宇賀神先生の目に見えました。

もちろん「目」とは、心の目です。

目を瞑っているそのまぶたの中に、その声の主が見えたのだそうです。

あまりにもはっきり聞こえた声と見えた姿に、宇賀神先生は、思わず頭を下げて礼拝しようとしたのですが・・・。

 

(その2につづく。)

 

合掌

タイトル考(宇賀神先生のお仕事について)

今日より、このブログのタイトルをまた変更致しました。

宇賀神先生を表す言葉として、「阿闍梨(あじゃり)」にすることにしました。

先生のお仕事を端的に表す単語がないので、どうしようかと迷った末なのですが。

 

宇賀神先生は高野山(真言宗)で阿闍梨となられましたが、「阿闍梨」と名乗りますと、世間様からは「お葬式や法事などをメインのお仕事にしている人かな?」と思われるかと考え、以前はやめておりました。

事実としましてもお葬式のお仕事をすることはなく、ただ、よほどの事があった方の「成仏」のご依頼は何度か受けたことがございます。

 

また、先生は「氣」という力を用いて人様の痛み苦しみを取り除くことをメインのお仕事になさっておられますが、「気功師」などと言う風にタイトルに名乗りますと、先生のなさっている加持祈祷まで含まれないと考え、それも避けました。

もちろん一番のお得意は、氣の力も下支えとしての「病者加持」です。

目に見えない不思議な力で、人様の病苦を取り除きます。

私も宇賀神先生と暮らしだして早や?15年。

多くの人達の、簡単なものは腰痛や膝痛が治ったり、果てはがんが消えたり、立つのもやっとだった難病の人が社会復帰されたり、などなど、先生が数えきれないほどの奇跡と呼ばれる事象を起こされるのを見てきました。

例をあげますと、きりがないくらいです。

 

宇賀神先生ご自身では、「不動行者」(ふどうぎょうじゃ・お不動さんを信仰なさる行者さん)とも思っておられますが、このように書きますと何やら山伏さんを連想されるかと思い、これも避けておりました。

先生は佛さまだけでなく、ご本名そのままに、神さま(お稲荷さんなど)ともご縁が深く。

 

そして先生は事実、いわゆる「霊的なお仕事」も、必要に応じて受けておられました。

 

そのため以前は、目に見えない不思議な力という意味を込めまして、一番広範囲の名称かと思われます「霊能者」を選んでいたのですが。

ちょっと、ここにきて、この単語はやめた方がいいのかな、誤解の方を多く招くのかな、というように思いが至りまして。

タイトルを変えることにいたしました。

 

一番の大問題は、高い霊能力(多分!)をお持ちでありながら、宇賀神先生が霊の問題に関わられるのが大っ嫌いなのです。

ですので、少々の「霊的なご相談」は、相手になさいません。

「霊に取り憑かれているのか、大病をしたり、色々な人生上の困難にあっているのです」

と、ご相談を受けましても、大概の場合は大した霊でもないと感じられ、

「身体は身体のこととして、まず治していきましょう。」

「霊なんてものは大概はご本人さんの思い込みも多く、それに人生をとらわれるよりは、まずお身体を治して、人生を立て直し、そしたらそのうちに大したことない霊はどこかへいなくなりますよ。」

などとおっしゃいます。

そして、まずは病気を取り除くことに専念なさいます。

 

ときに、よほど「これは大変な霊障だな」と感じられた場合のみ、霊の成仏をお仕事としてお引き受けなさいます。

それは本当に、年に数回、あるか無いかという程度です。

なぜ霊のことを相手になさろうとしないのか?

それは、

「霊はマイナスの存在。

関わっても人生になんの益(プラス)ももたらさない。

だから、そんなマイナスの存在に心とらわれるよりは、無視して生きていた方がいい。」

というのが宇賀神先生の持論だからです。

事実、霊のことを好んで話されたり心とらわれている方で、いい人生を送ってらっしゃるような方には、あまり遭遇いたしません。(いらしたらごめんなさい。)

 

宇賀神先生は、霊に心とらわれることを、ものすごく嫌われます。

やはり、ある意味、目に見えない世界の代表?であるような霊の存在は、どこか魅惑的なのです。

魅惑という字は、魅了されて惑わされる、と書きます。

そのようなものに心とらわれておりますと、文字通り、人生を惑わされます。

たまには宇賀神先生も恐山での怪談話など面白がってなさいますが、ジョークまじりの軽いノリで、という風ですね。

 

まあ、ですが正直なところ、神さまや佛さまも目に見えない存在でいらっしゃるのであって。

その線引き(低級な霊か神佛か、など)、見分けが難しいのも事実です。

なかには神佛のフリをする低級霊もいるくらいですから。

そしてそれにダマされる人も。

だからこそ、触らぬ神に祟りなし、などのことわざが存在いたします。

 

宇賀神先生は、阿闍梨の位とともに高野山から加持祈祷免許もいただいたのですが、その加持祈祷を専らのお仕事となさっています。

お大師さんが願われた「衆生済度」の一助となるべく、励んでおられます。

簡単に申し上げますと、「抜苦与楽」(ばっくよらく)がお仕事です。

つまり、「苦を抜き、楽を与える」という、お経本に書かれております言葉そのものがお仕事です。

 

その「苦」とは。

お釈迦様が一番初めに悟られた「四苦」、つまり、

生、

老、

病、

死、

です。

 

つまり、

「生」:生きることそのもののつらさ、人生上の苦しみ、

「老」:老いていくことによる身体や心の衰えの苦しみ、

「病」:病気、

「死」:死ぬ苦しみ、

を少しでも軽く。

 

宇賀神先生のお力は、人生上の様々な苦を取り除くことまで含まれます。

会社の倒産問題から遺産問題、離婚、などなど、多岐に渡りすぎるくらいのご相談を受けてこられました。

(ちなみに、たま~に「このブログを初めて見て」とご連絡くださる方々がいらっしゃるのですが、宇賀神先生はこと「恋愛問題」に関しましては、不得手ですから!

オジイサマには可憐な乙女心なぞ到底理解できませんよー( ̄∇ ̄;)

乙女の皆さま、恋愛問題につきましては特に、ゆめゆめご連絡くださいませんよう、お願い申し上げます♥)

 

何だかいつもに増してとりとめのない内容ですが、要は宇賀神先生のタイトルが決まらなくて悩んでいたのです。

キャッチコピーって、難しいですね。

いらしてくださるご相談者様にも、

「宇賀神先生のことを他の人に説明なさるときは、どんな人ってご説明なさっていますか?」

と、何人かの方に尋ねてみましたが、

「気功の先生」

「人生のよき相談者」

「仙人」

「不思議な力で治す人」

「いま、自分が生きているのは宇賀神先生のお陰」

「もの凄い先生」

「私、自分の子供が小さい頃には『魔法使いの先生』って説明してました。」

などなど。

 

魔法使い・・・( ̄∇ ̄)♥

 

イイ響きです。

 

ここだけの話、私は小さい頃「魔法使いのお姫様」になりたかったんですよね。

魔女っ子メグちゃんとか、ときめきトゥナイトとか、ドロロン閻魔くんとか、超能力少年バビル二世とか、大好きで見てました。

あ・・・これが分かる方は多分私に近い世代の方です。(再放送のもあったとは思いますが。)

プリキュアが登場しないあたり、時代が知れますね。

 

すみません、話がそれました。

 

結局何が言いたいのかと申しますと、

「だいたい先生の仕事の範囲が広すぎるんだよー。」

ということで?、宇賀神先生のキャッチコピー、募集中です♥

 

合掌

東北への旅(つづき)

仙台での出張のお仕事の後はご縁のある神様や佛様にお参りし、温泉で氣を取る(吐納導引)楽しいお修行の毎日を送っています。

 

前回もご紹介しました、仙台市内の三居沢(さんきょざわ)のお不動さん。

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三居沢の滝

宇賀神先生が40年ほど前、ここのお滝場でもお修行なさいました。

今は柵があり、入れません。

 

 

竹駒神社。

日本三大稲荷のひとつでいらっしゃるとか。

霊験あらたかな、お稲荷さんです。

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竹駒神社

宇賀神先生がここのお狐さんの石像をご覧になり、

「いい彫りだなぁ。大正時代って書いてる。この時代には、こんないい彫りをする職人さんがたくさんいたんだなぁ。」

と、ひとしきり感心なさっていました。

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狐の石像(雄)
female-fox
狐の石像(雌)

私は建物や石像などのよし悪しも分からないのですが、先生はいつも色々なことに関心を示されます。

もちろん、綾小路きみまろさんの歌ではありませんが、「由緒書きの看板を必ず読む中高年」もドンピシャリです。

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竹駒神社の由緒書き

由緒書きには、御祭神として「倉稲魂神 うかのみたまのかみ」と書かれてありました。

うかのみたまのかみ、つまり宇賀神さんはこのような字も使われるのですね。

 

 

ところで、たまたま入った食堂で、「ザ・昭和!」なメニューを発見。

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昭和のハンバーグ・ナポリタン

お味も昭和でした。

なんと申しますか、イマドキの「肉汁がジュワッとしみだすハンバーグ」ではなく、昔懐かしい「ふつうの」?ハンバーグとナポリタン。

美味しかったです。

20代の頃に洋食のコックさんをなさっていた宇賀神先生も、懐かしがられるようなお味でした。

正直なところ、ナポリタンは宇賀神先生の作られるものの方が何十倍も美味しいですけれどね♥

 

そして、ねだってねだってやっと入ってもらえた、これぞ平成のカフェ!

若干不本意の宇賀神先生。(カフェでお茶するより、「居酒屋でお酒」派。)

たしかに、このお店にはかなりミスマッチな存在です。

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森のカフェ

なんだか、森のカフェに迷い込んだ小人さんのようですね。

 

 

今回の旅は、ほとんどを車中泊で過ごしています。

これはここ数日のお宿、「道の駅つちゆ」です。

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道の駅つちゆ

カメラが斜めなのではなく、これくらいの傾斜がございます。

かなり過酷?

遠くに雪をいただいた山が綺麗に見えています。

 

ちなみに今日は朝から霧も出たり、今(23時)はゴォゴォというほどの強い風と雨です。

やはり過酷?

ですが先生は前日に買っておいたファミリーマートさんのおでんを小鍋で温め、サンダース号の中で朝食にいただいたりして、朝からご機嫌さんでした。

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車の中で朝ご飯

 

どちらかと申しますと、私は素敵なホテルや旅館の旅に憧れてはおりますが、このサンダース号で行く旅の開放感は、これはこれで素晴らしく。

20代の頃に父に連れられ、家族で行った登山の旅を思い出します。

山小屋に泊まりながら、アルプスを縦走しました。

あのときの開放感。

大きな大きな宇宙に浮かぶの地球の上の、ケシ粒のような小さな存在の自分。

視界中に広がる山々の中の、こんなちっぽけな存在が「私」なんだぁ、と。

そんな不思議な感覚がなぜか嬉しかったのを覚えています。

 

 

大阪ではとっくに散ってしまった八重桜が綺麗に咲いていたり、雪を眺められたり。

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八重桜

 

日本の自然は豊かで、本当にありがたいです。

 

合掌

東北への旅

出張と、霊地聖地参拝のため、東北に来ています。

サンダース号で大阪から北陸自動車道〜磐越自動車道、東北自動車道を通り宮城県・仙台市まで、なんと走行距離890kmでした。

我ながらよく走ったものです。

しかも、その距離を2日かけて走るはずが1日目の出発が異様に遅くなり、2日目に690km分も走らなきゃならないという、なんとも自殺行為的な出発となりました。

我ながら、よくもそこまでドンクサイ旅にしてしまったものです。

 

それでも日本の春は美しく。

日本列島を北上するにつれて季節をさかのぼるような感覚に、毎年喜びを感じています。

 

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敦賀湾にて

これは大阪を出発して翌朝の、敦賀湾(つるがわん)です。

そう、ここまでしか1日目にたどり着けなかったの。

ですが、朝にとても綺麗な海の青を見られて、ちょっと幸せ。

(でも私の内心はその日のうちに走らなきゃいけない690kmのことで頭がいっぱい。)

 

なんとか仙台でのお仕事に間に合うように到着。

もうかれこれ40年近く宇賀神先生とおつきあいくださっている仙台のT様が、今年も歓待してくださいました。

(元気ドリンクまで!涙がちょちょぎれます。)

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仙台のお弁当

水と空気の美味しいところは、何もかもが本当に美味しいですね!

T様は毎回、宇賀神先生が仙台でお仕事なさるための場所の手配から部屋の準備、後片付けまで、本当に何から何までお世話してくださり、感謝してもしきれないといつも思っております。

T様、本当にいつもいつもありがとうございます。

お身体にご無理のないことを願っております。

 

そういえば、このブログを1年ほど前にスタートさせたのも、ここ仙台での出張の際でした。

(懐かしい記事です→「ご挨拶」「カミングアウト」)

たしか、4月28日でした。

毎月28日はお不動さんのご縁日とされていますね。

なかなか「初めの一歩」を踏み出せない私は、お不動さんのご縁日に合わせて、やっとの思いでブログをスタートさせたのでした。

 

そして今年も宇賀神先生のお気に入りの仙台のホテルに泊まりました。

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ロビーにて朝のコーヒー

ここは宇賀神先生が子供の頃育った家からすぐのところにございます、小さな小さなホテルです。

子供の頃遊んだ公園がそばにあり、毎年しだれ桜が美しいのです。

もちろん、その子供時代の家はもうございませんが、先生はご自身の子供の頃を懐かしんで、いつもこのホテルに泊まられます。

 

この後、宇賀神先生の古い古いご縁のお不動さんにお参りしました。

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三居沢のお不動さん

40年程前、ここで先生はとんでもない声を聞かれました。

そのお話はまた大阪に帰ってからでも。

(と言いつつも、ふと思い出しましたが、氣の噴水のこともまだお話していませんでしたね。ごめんなさい。)

 

旅先で私はハンドルを握ってばかりおりますので、なかなか更新できずに申し訳ありません。

だんだん電池の残りもあやしくなってきました。

車中泊続きのため、充電がムツカシク。(T-T)

あぁ、憧れのノマドワーク、理想は遥か彼方に。

 

合掌

タイトルを変えました。

思うところがございまして、このブログのタイトルを変更いたしました。

 

先日まで「霊能者」とタイトルに入れておりましたのは、宇賀神先生のお持ちの能力、なさっているお仕事が、ひとつの名称に収まりきらなかったため、一番広範囲かと思われる単語を選んでいたためです。

ですがここにきて、そのタイトルはやめた方がいいな、ということに思いが至りまして、変更することにいたしました。

とりあえずは、なんの装飾語もつけずに、宇賀神先生の名前だけにしてみます。

別のいいものを思いつきましたら、再び変えるかも知れません。

もしかしたらGoogle上?、ブログタイトルを変更するのは「不正なサイト」として誤認される可能性があるのかも、と不安にもなりますが、まあ、何らかの不具合が起きましたら、そのときにまた対処を考えます。

 

とりあえず、タイトルを変更いたしましたことを、ここにお知らせいたします。

 

私はまた明日から超!長距離運転に入ります。

サンダース号にて。

また旅先で落ち着きましたら、ブログも更新したいと思います。

目指せ、ノマドワーク♥

 

合掌

氣のシャワーと氣の噴水

さて、今日は東京出張です。

朝早くに家を出て、新幹線に乗っています!

ホームに入ってくる新幹線の写真を撮っておりましたら、「写真撮影は黄色い線の内側でお願いしまーす。」と、駅員さんが放送なさいました。

安心、安全な日本の新幹線♥

ありがたいことです。

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かものはしみたい。

今日は車(サンダース号)でのお出かけではないため、私達の鳥は、昨夜のうちに実家に預けてきました。

ぴーちゃんがいなくて寂しい朝でした(T-T)

 

ぴーちゃんを連れて行った帰り道は、やはり深江のお稲荷さんの前を通りました。

いつもは私1人ですと、夜には鳥居をくぐらず、外からだけお参りいたします。

一応、神社には一般的に夜にはお参りしない方がいいようですから。

夜にお参りするのは、宇賀神先生と一緒のときだけですね。

 

ですので、昨日も鳥居の外からだけご挨拶して通り過ぎようとしましたが・・・お稲荷さんの銀杏の木の「氣」が、あまりにもすごくて。

吸い寄せられるように、中に入ってしまいました。

 

大きなご神木としましては楠と銀杏の2本あるのですが、ちょうど楠の向こうに三日月が綺麗に見えました。

残念ながら、スマホの写真では三日月まで撮りきれないようです。

まん丸でなく、微妙に半月のようには見えますかしら?

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ご神木とお月さま

 

昨日もやはり、ご神木の枝葉の先から、もったいないくらいの氣が溢れていました。

その中でも私が一番気持ちよく感じましたのは、この銀杏の下!

この枝の真下に立ちますと、まるで氣のシャワーが上から降ってくるようでした。

頭の上から降ってくるあまりの気持ちよさに、思わずうっとり。

しばらくの間、じっと佇んでおりました。

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氣のシャワー

まるで身体の外側だけでなく、魂の内側まで綺麗に洗い流してくれるかのような、うるわしすぎる氣のシャワーが降り注いでおりました。

 

その氣のシャワーのことを考えておりますと、もう何年も前になりますが、それは足の下から吹き上げてくるような「氣の噴水」に遭遇したことを思い出しました。

ですので是非そのこともお伝えしたいと思い、今日のタイトルを決めたのですが、正直なところ新幹線の中でのスマホ入力をしておりますと、酔ってまいりました。

相変わらず乗り物にヨワイ私(T-T)

ということで、「氣の噴水」は次回のお楽しみにさせてくださいませ。

 

四天王さんの、お大師さんの錫杖が恋しいです。

(四天王さん)

 

ちなみに、今日はわざわざ車内放送されるほど、富士山が綺麗に見えました♥

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富士山

 

合掌

佛さまから「二足のわらじ」を許されなかったという愛のムチ(別名、不空羂索。) その2

コンクリートミキサー車ごと橋げたに突っ込まれた宇賀神先生。

その橋は当時の国鉄、今で申しますところのJRの貨物線の高架橋ですから、ミキサー車により橋とその上の路盤まで持ちあがってしまっては、「ごめん」では済まされません。

修理費用は・・・期間は・・・保険は効くのでしょうか・・会社は・・・!?

 

宇賀神先生が当時勤めておられたコンクリート会社の社長さんは、

「うちは倒産だー!宇賀神君、なんてことしてくれたんだー!!」

と、電話の向こうで大変な嘆きようでいらしたそうです。

 

そこに、事故の連絡を受け、宇賀神先生のいらっしゃる現場へ宮城県警の警察官がいらっしゃいました。

すると・・・

「ああっ!番長!!」

と、その警察官が叫ばれました。

宇賀神先生もびっくりしてその方の顔を見ますと、

「おおっ、ΟΟでねぇか。」

と、そこにかつて先生が仙台の中学校で番長をしていたときの、まあちょっと言葉が悪いのはお許しいただきたいのですが、いわゆる昔の言葉で申しますところの「子分」の方が警察官となっていらしたのでした。

「なんだ、ΟΟ、警察官になってたのか。」

「そうですよ。でも番長、大変なことになりましたねー。これで線路まで持ちあがってたら、もっとえらいことですよ。」

「そうなんだよー。ボーっとしてたら、こんなことになっちまって。」

 

と、そこへ、今度は国鉄の保線係の人が線路の状況を確かめに駆けつけました。

すると、

「ああっ!番長でねぇの~!!」

と、また、その保線係の方が・・・。

 

なんという偶然でしょうか、事故現場に駆けつけた警察官も国鉄の保線係の人も、お二人とも宇賀神先生の中学校時代の「子分」さんでいらっしゃいました。

「番長~、えらいことですね~。これで線路の路盤が持ち上がってたら・・・。電車は停めてしまうとえらい金がかかるんですよ。」

と、保線係の方がおっしゃり、

「ちょっと、線路を確かめてきます。」

と、橋の上にあがられました。

 

そして、

「うん!大丈夫!線路は持ちあがってない!と、オレは見た!!」

と、なかば強引に?太鼓判を押してくださいました。

 

ギリギリっ、セ~フ!?

 

宇賀神先生、または、先生がお勤めのコンクリート会社は、多大な損害賠償を支払わなくて済みました。

ですが、

「さ、でも番長、『ボーっとしてた』ってことだけど、一応過失として調書はとらないといけないから、県警まで来てくださいね。」

と、警察署まで行き、調書を書いていただき、署名・捺印して・・・

何だかんだでうやむやのうちに「チャラ」になり、帰っきちゃったそうです。

 

ところが、コンクリート会社の所長さんは大変なうろたえようで、

「どうしてくれるんだ、うちは倒産だ!倒産だ!」

と、ずっと嘆かれてたそうです。

宇賀神先生が、

「いや、大丈夫なようにちゃんとしてきましたから。」

と、おっしゃっても、耳に入りません。

「宇賀神君、なんてことしてくれたんだ・・・!」

の、一点張りです。

 

で、皆さま、結論はもうお分かりですよね。

 

宇賀神先生が、ついに、

「それなら、わしはこの会社辞めます。」

と、おっしゃいました。

 

社長さんは、

「そうか!辞めてくれるか!君が辞めてくれるなら、退職金に3か月分の給料を上乗せしよう!」

と、もうそれはそれは大喜びなさったそうです。

ですが、ちょっとここでカッコつけの宇賀神先生は、

「3か月分の上乗せなんていりませんよ。今すぐ辞めます。」

と、あっさり退職してしまわれました。(もらえばよかったのに・・・。)

 

観音経を唱えておりましたときにボーっとなって大きな事故を起こし、

にも関わらず担当の警察官と保線係の人達とのコネ?のお蔭で事なきを得た宇賀神先生は、

こうしてめでたく会社を辞められました。

そして、これはやはり「佛さまの思し召し」と考えられ、一意専心、「佛の道」を進む決意をなさいました。

つまり、お経本にもよく書かれておりますように、「佛道を成ぜん。」と決意なさったのです。

観念したとも言えますでしょうか。

 

さすが、宇賀神先生が「氣」というものの考え方を深く掘り下げ、お修行を始められたときにはじめて出会われた佛さまが、お不動さんでいらっしゃるだけのことはありますね。

信仰とは、惚れて惚れて惚れぬくこと。

お不動さんは、右手に剣を持ち、左手には不空羂索(ふくうけんさく)と呼ばれるひもを持っておられます。

そのひもは、「言うことを聞かない悪人を、ひもで縛って無理やりにでも善なる道に連れ戻す」ためのものだそうです。

 

まさに、佛道にまい進せず二足のわらじを履こうとした宇賀神先生を、お不動さんが無理やり「一意専心」の境地に連れて行かれた、とは言えませんでしょうか。

「お前の行く道はこっちしかないだろう!」

と。

「わき目をふるんじゃない!」

と。

 

なかなかの、愛のムチ(不空羂索)ですね♥

 

とまあ、このようなわけで、宇賀神先生はめでたく「気功師デビュー」なさったのでした。

ですが皆さま、勘違いなさらないでいただきたいのは、このように佛さまからのお導きがあったとしましても、その後の人生が順風満帆だったなんて、あり得ないんですよ。

山あり谷あり、しかもその山は多分普通?よりは高く、その谷も普通よりめちゃ深く、まるでジェットコースターのようでもありました。

 

ただありがたいことに、山のときも谷のときもお不動さんと二人三脚でした。

そして後年、祖神にあたられる天児屋根命(あまこやねのみこと)さまや宇賀神弁財天さまの存在に気づかれましては、三人四脚で佛さまと神さまに両脇をがっちりと(よそ見しないように?)固められ。

ただただ佛さまと神さまのご縁に従って、今を生きておられます。

こんなに両脇から腕も足も組まれてしまっては、多分、このまま先生の寿命が尽きるときまで「よそ見」は許されませんねぇ。

 

ですので、いくらありがたくても、「そんな愛のムチ(不空羂索)なら縛られてみてぇもんだ( ̄∇ ̄)」なんて、ゆめゆめ思われませんように、ネ♥

 

合掌