私は、ときどき逃げます。
なんだかとっても悲しくて、鬱々として押しつぶされるような感覚にとらわれたとき、私は逃げることにしています。
お酒を飲める方はこういうとき、お酒に逃げられるのでしょうね。
いいなぁ、酔える人は。
私はお酒は一滴もダメで、飲むと吐き気がして心臓が苦しくなって、全然気持ちよく酔えません。
もちろんタバコも吸わず、私の嗜好品と言えばコーヒーとか・・・ですが、コーヒーをがぶ飲みしても気分が晴れるものでもないですし、あまり助けにはなりませんねぇ。
ただ、最近はありがたいことに音楽や映画もそれなりに楽しめるようになってきました。
ですので、つらくて何もする気が起きないときは音楽を聞いたりとかして、頭をぼーっとさせて何も考えないようにしています。
色々ごちゃごちゃと考えるから余計にしんどいのですよね。
しんどいのは、後悔が多いからです。
宇賀神先生にもっとこうしてあげればよかった、こんなこと言うんじゃなかった、もっともっと一緒に時間を過ごすはずだったのに、と。
悔やまれることはキリがありません。
その後悔をひとつひとつ挙げていっては自分を責めます。
以前は宇賀神先生の患者さんのご遺族の方に対して、亡くされたご家族を大事に思ってよく尽くされた方ほど後悔が多く嘆かれるものと感じておりました。
そしてまったく同じ事をかかりつけ医の奥様が私に言われて慰めてくださいましたが、やはり自分のこととなりますととてもそうは思えず、自分のことを責めてばかりいました。
ですがあるとき母から、
「どうしてそんなに自分のことを責めてばかり。」
と言われ、また別の方からは
「悲しむのはいいけど、自分のこと責めたらあかんよ。」
と言われました。
自分のことを責めて「ばかり」いることに気づき、それはやはり宇賀神先生の望まれることでもないはずと思い、少しずつ改めてきました。
私に至らなかったことが多くても、優しい宇賀神先生は私が自責の念に駆られているよりは、幸せに笑っていることを望まれるでしょう。
生きていてくださったときも、ずっとそうでしたから。
ですので、最近はそうやってまた何だか自分のことを責めたりしてしんどくなりそうなときや、あるいは何もなくても悲しく落ち込んでしまって浮上できそうにないときは、音楽や映画を見て、わざとぼーっとして時間を過ごします。
自分自身のつらい考えから気をそらすのです。
そしてさらに、ちょっとヘンな話ですが、自分のことをカピバラ扱いします。
このブログでは恥ずかしくて書いたことありませんでしたが、去年の夏頃から両親や近しく思う方に対してのメールで、私自身のことをカピバラと称しております。
なぜカピバラかって、あるとき早期FIREを達成なさった方がKindle本でご自身のことをカピバラのような生活を送っている、とおっしゃっていて、私はそれを真似しだしたのです。
その方は早期退職ができるくらい存分に働かれた後の無職の人生ですので、私とはまるで立場が違いますが、それでも私自身が「無為徒食」と思ってなんだか申し訳なく思っておりましたので、働かずにぼーっと生きている自分のことをカピバラと称することで幾分かは気持ちが軽くなっておりました。
カピバラって可愛いですよね。
でもよくよく見ますと顔は可愛いというより何だかぶちゃいくだったりして。
哲学したり鋭く物事を考えている風でなく、温泉につかったりして、のほほーんと生きているみたいで。
およそ生産効率などという言葉とはまったく無縁の世界を生きているようなカピバラに例えることで、心救われておりました。
実際のところはカピバラは人気者だそうで、生産効率とは無縁だなどと書きますとカピバラに対して失礼かも知れません。
可愛くのほほーんと生きているだけで動物園にお客さんを集めてお仕事しているだなんて、もしかしたら人間の私よりよっぽど働き者かも。
何はともあれ、自分のことをカピバラに例えますと幾分かは気持ちが軽くなっておりました。
早朝に野球の練習に行く甥っ子の送迎を頼まれたときも、「カピバラタクシー」と称したりして、なかなか皆にも楽しんでもらえている名称でした。
そうやってカピバラに逃げるのも、私にとりましてはまたひとつのいい手段なのです。
逃げるのって、大事と思います。
いつもいつも全身全霊でこのつらさを受け止めておりましたら、いつか心が壊れてしまいそうです。
もちろん、初めの頃はこうはいきませんでした。
それこそ、悲しみや嘆き、喪失感、孤独、自責の念といったものがものすごい重圧となって全身に重くのしかかり、どこにも逃げることはできませんでした。
今は、今も、もちろんそれらの重圧はありますが、ときどき音楽などに心を逃がせられるようになりました。
そうやって一瞬でも肩の荷を下ろしますと、またそれを担ぐことになりましても押しつぶされるような感覚が少しましになるのです。
カピバラとして、機嫌よく生きていけるのです。
ここ数日もカピバラは悲しみという動物園からとん走しておりました。
どうにもこうにも、何故だか朝起きたときから悲しくて、なぁんにもやる気が起きなくて。
こんなときは動物園からとん走するに限ります。
そして昔好きだった音楽を聞いたり、アマゾン・プライムでドラマや映画を見たりして、頭をわざとぼーっとさせます。
あっ、そうか。
ぼーっとしているのではなくて、瞑想していることにいたしましょう。
そうです。
カピバラはここ数日瞑想に励んでおりました。
音楽を聞きながらじっと目を閉じておりますと、瞼の内側に綺麗な光が色をともなって見えてきます。
これは立派な瞑想だということにしておきましょう。
その光の向こうに、何か自分より大きな存在に通じていくものがあるはずですから。
そしてしばらく瞑想したら、カピバラはまた動物園に戻ってきました。
優しい宇賀神先生という飼育員さんのいる動物園に戻ってきました。
カピバラは優しい飼育員さんに抱っこされて安心して、夢見心地になりました。
そしたらその飼育員さんが、
「カピバラのしていたのは瞑想ではなくて迷走だよ。だってとん走してたんだから。」
と、からかうように言いました。
びっくりして目を見開くカピバラ。
最近、「あの世からの冗談」の記事を書いたとき以降、宇賀神先生が何だか笑わせようとしてくださっているような気配を感じております。
私は宇賀神先生のことを思って泣きたいのに、ねぇ。
宇賀神先生は私に、そんなに笑っていてほしいの?
合掌