禅機をZEN CHANCEと誤訳してしまったけれど

今の今まで、思い込んでいた間違いがあったことに気づきました。

前回の記事で「悲しみが心に蓋をして」と書いていたとき、ふとあることを思い出しました。

それは、ある方が宇賀神先生に

「自分の目の前に壁があって、それを乗り越えることができない。」

とご相談なさったときの、宇賀神先生のアドバイスです。

宇賀神先生はそのとき、「禅機(ぜんき)」という言葉を用いてその方にお話しなさったのでした。

その悩まれていた方はアメリカの方で、趣味で油絵を描いておられました。

たくさん絵を描かれていたのですが、とてもとても真面目な方で、絵を描くときに自分の目の前に壁があるようで、それをなかなか乗り越えられずにいると悩んでおられました。

日本語の理解が少々難しいということで、私が通訳代わりにその方に宇賀神先生の言葉をお伝えしました。

宇賀神先生がおっしゃるには、

「壁はあって当たり前なんだ。

家に入ると、自分の周りに壁があるだろ?

でも家に壁があるのは当たり前で、逆にそれが貴方のことを外界から守ってくれていて、だから気にもならない。

当たり前だと思っていると気にならなくなる。

気にすること自体がおかしい、ってなる。

気にならなくなって、あることが普通だったら、それは無いのと同じこと。

とっくに無い、もともと無いんだよ。

『悟り』は見ようとしたら見えない。

悟りにこだわらなくなると、それが悟ったとき。

それを禅機と言う。

今、貴方は禅機に来たのだ。

壁に気づいた今が、壁がとっくに無かったと悟れるときなんだよ。」

私はこのとき初めて禅機という言葉を知り、とっさに「Zen chance」と訳しました。

宇賀神先生のアドバイスをすべて正しく英訳できたかどうかはいまだに不安が残りますが、それでも彼はとても喜んでくださいました。

「この智慧をブログに書くべきだよ!」

とまで喜んでくださいました。

私はその彼の言葉が嬉しくて、何年もたった今でもあの時の彼が目を見開いて喜ばれた様子を覚えております。

とても理知的な方で、しかも現役の頃は国際的な雑誌を出版する会社でご活躍なさっておられた方ですが、その彼が宇賀神先生のアドバイスをとても喜ばれ、この智慧をブログに書くべきだとまで賞賛くださったのです。

今、私自身が心に悲しみの蓋があると感じている今、宇賀神先生のこの言葉が思い出されました。

壁があると思ったときには壁はもう障壁ではなくなっているのと同じように、蓋があると思ったときにはもう既にその蓋は無いも同然なのだとしたら?

あとは蓋が蓋でなくなっていたと、私が気づくかどうかだけだとしたら?

あのときの宇賀神先生のアドバイスが、何年もたった今の私にぴったり当てはまるのだとしたら。

「禅機」

私はその時この言葉を「Zen chance」と訳してしまいました。

ですがこれを「Zen chance」と訳してしまったのは、宇賀神先生がおっしゃった本来の禅機の意味とは少しずれてしまっていたかも知れません。

今日のこの記事を書くために禅機を改めて調べてみますと、広辞苑では「禅者の自在な働き」というように説明されていました。

つまり、禅機とは、「禅(無我の境地)に至る好機」というよりは、「禅(無我の境地)から出る働き」を指すようです。

どうやら機は「きっかけ」ではなく、「心の働き」という意味で使われているようです。

ただ、その時の私のメモには「禅機=悟りに至る(気づく)チャンス」と書かれていて、うーん、私は宇賀神先生の言葉を書きとっていた段階で間違ったのでしょうか。

ですが、やはり本来の意味からしますと、私がchance(チャンス、好機)という言葉を使ってしまったのは、禅機を間違えて英訳してしまったと言わざるを得ません。(ごめんなさい。)

ちょっと、弘法大師空海様がおっしゃった「煩悩即菩提」(煩悩は即ち菩提である)と混同して、「悩み(煩悩)は解決(菩提、悟り)の種」というように解釈したためにchanceという単語を使いました。

宇賀神先生がおっしゃりたかった大体の文脈は正しく伝えられていて、しかもその相手の方は何か目の前が開けたかのように喜ばれ、結果としては良かったとは思うのですが、肝心の禅機の単語訳が違っていました。

英語力以前の問題で、禅機という言葉を知らなかった無知さゆえの間違いであったと悔やまれます。

ただその言い訳をさせていただけるのでしたら、やはり悩み(煩悩)は解決(菩提、悟り)への種には違いありませんから、その悩みに気づいたときは既に解決している(悟っている)と知るchanceなのかも知れません。

いえ・・・やはり言い訳がましいですかね。

この禅機の英訳まちがい問題はさておき、いずれにしましても、今の私が気づくべきことは、

「心を覆う悲しみの蓋は、在ると同時に無いもの。

それは私を守るために必要なものだったのかも知れないし、かと言ってそれに閉じ込められていると気にしなくてもいい。

もう既に蓋に捕らわれていないのだったら、自由自在の境地を楽しんでみては?」

ということでしょうか。

あのとき一所懸命英訳してお伝えしたことが、今になって私に必要な智慧になるとは思いもよりませんでした。

自由自在な心。

宇賀神先生のように、何ものにも捕らわれず、自由自在な心。

あの時の宇賀神先生のアドバイスをかみしめておりますと、悲しみの蓋が溶けていくような心持ちになります。

悲しみの蓋があると思った今が、無いと気づくZen chanceでありますように。

合掌