「胡蝶の夢」という荘子の詩があります。
学校で習った中国の古典文学で、私は荘子の持つ幻想的な世界観が好きでした。
「胡蝶の夢」の詩のなかで、荘周(登場人物の名です)は蝶になった夢を見ました。
その夢があまりにもリアルで、夢から目が覚めたときにどちらが現実でどちらが夢だか分からない、というのです。
夢の中の蝶であった自分が現実で、今の荘周である自分が蝶の夢の中なのではないだろうかと思った、と。
その感覚は、宇賀神先生が佛様の国に旅立たれてから2年たった今でも感じる感覚に似ています。
宇賀神先生の生きていらしたあの時が現実で、今が夢の中なのではないだろうか。
それならばちょっと悪夢みたいだから、早く目が覚めてほしい。
あるいは、生きていらしたあの時は夢でしかなく、今は・・・今は何?
宇賀神先生ご自身は、よく明晰夢をご覧になられました。
寝ているときの夢の中で、自分は夢を見ているという自覚があるのだそうです。
そして夢の中のストーリーを自分の思う通りに展開させられるとおっしゃっていました。
たまに思いがけず悪い夢を見てしまったときは、
「かたきを取ってくる!」
と、もう一度寝なおして、その後自分の思い通りの結末を迎えられる夢を見ておられました。
私はいいなぁ、といつも羨ましくその話をお聞きしていました。
どうしたらそんな風に夢をコントロールできるんだろう。
人間は誰でも毎晩夢を見ていて、「私は夢を見ていない」と思っても、本当はただ覚えていないだけだそうです。
私も布団に入って横になったらあっという間に眠りに落ちて、夢なんてほどんと覚えていません。
ただ、最近はちょっと夢を覚えていることもありますが、あまり楽しい夢ではないような気がいたします。
また、子供の頃の宇賀神先生は学習困難児で、多分ですが今で言うところの発達障害を持っておられ、あろうことか担任の先生には「異常児」の烙印を押されていました。
その頃よく学校の先生に言われていた言葉が、
「宇賀神!夢は寝てから見ろ!」
だそうです。
学校の教科書の表紙に行ったこともないアメリカのハイウェイの写真が載っていて、それをぼーっと眺めているとそのハイウェイの景色が展開していくのだそうです。
自分がまるで車に乗ってそのハイウェイを進んでいるかのように、その先に現れてくる建物の鎧戸のペンキが剥がれて風に揺れている様まで見えてきたんだ、と。
それを「教室にいて目を開けながら眼前に見ていた」とおっしゃるのですから、そりゃあ学校の先生に「夢は寝てから見ろ」って言われてしまいますね。
目を開けたまま寝ているみたいです。
荘子ほど高尚な詩で表したわけではありませんが、私は宇賀神先生のその夢見る力と荘子の「胡蝶の夢」の境地は、どこか相通じるものがあると思っています。
そしてその夢見の力は、その先の霊視や霊感と言った能力にも結びついていくと思っています。
どうせ今の現実がどこか現実味を持たず夢のようにしか感じられないのなら、せめてもっと夢見る力を持てないものだろうか、と願っています。
そうしたら、宇賀神先生が神様や佛様、亡くなった方達ともお話しなさっていたように、私も宇賀神先生ともっとたくさんお話しできるようになるかもしれない。
いえ、その前に、せめて夢の中で宇賀神先生にお会いしたい。
どうせすべてが夢でしかないのならば、せめて。
合掌