私は小さい頃は死ぬことが怖かったです。
死ぬ瞬間はものすごく苦しいの?、死んだらどうなるの?、何も無くなるの?、何も無くなるってどんな感じ?、真っ暗?・・・という、誰もが死に対して持つであろう漠然とした恐怖がありました。
子供のときは、大人になった今よりも死に対する恐怖は強いのかなと思います。
やっぱりこの世に生まれて生きた年数がまだまだ少なくて、この先が長くある若い生命だからこそでしょうか。
もちろん大人になった今でも死ぬのが怖くないと言えば嘘になります。
ですが、少なくとも子供のときよりはその恐怖は薄らいでいるような気がいたします。
というのも、あるとき私はこれが死後の世界だと知った世界があったのです。
その死後の世界、死後の境地は言葉で表現するとすれば、それはとても幸せで、温かく優しい光に溢れた、愛と赦しの世界でした。
ちょっとキリスト教的な表現かも知れませんが、本当に「愛と赦し」という表現がぴったりの世界でした。
何を赦されるかと言いますと、私の全存在をすべてありのまま赦される、無条件に丸ごと受け入れてすべて赦してもらえる、そんな境地でした。
その境地には、宇賀神先生と行った四国八十八か所の二十一番札所の太龍寺さんで出会いました、
以前にもこのブログでその太龍寺さんでのことを書いたと思うのですが、ちょっと余りにも久しぶりのブログ稼働でどの記事だったかすぐに思い出せません。
たしかその記事では、私が太龍寺さんで初めて佛様という存在に出会ったことを書いたと思います。
佛様といいますか、多分、お大師さん、つまり弘法大師空海様でいらしたと思っています。
太龍寺さんのお大師堂でお参りさせていだたいたとき、突然、何の前触れもなく涙がとめどもなく流れ出して止まらなくなりました。
それと同時に、それまでに感じたこともないような圧倒的で怒涛のような幸福感に包まれたのでした。
宇賀神先生は、
「心で佛様と相まみえたんだね。」
とおっしゃいました。
私は宇賀神先生のお言葉に、そうか、これが佛様にお会いするということなのかと嬉しく思い、またそのとき同時に、何故かは分かりませんが、これは私が死んだ後に至る世界なんだと思いました。
それは確信とも言える感覚でした。
本能で知っていた感覚、とでも言うのでしょうか。
誰かにあらかじめ教わっていたわけではありませんでしたが、例えば赤ん坊が母親のおっぱいに触れたときに誰に教わったのでなくとも母乳を飲もうとするように、既に本能で知っていたというような感覚でした。
自分でも不思議でした。
そのとき以来、死への恐怖が少し薄らぎました。
死んだらあの幸せな光の世界に行けるのなら、余り怖くはないかな、と。
子供の頃に想像して怖かったような、真っ暗で不気味な世界ではありませんでした。
残念ながら死ぬまでの現世の老いや病気の苦しみは無くなるわけではありませんが、それでも、死んだ後のことは怖くないのだ、と思えました。
そう言えば、臨死体験をした方達のドキュメンタリー番組を見たことがありますが、その番組の中で、一度死の状態になり生き返られた方が、
「あの世にいたとき、こちらの世界に戻りたくないと思った。」
とおっしゃっていました。
「死んだ後の世界があまりにも幸せ過ぎて、戻りたく(生き返りたく)ないと思った。」
と。
私が感じた死後の世界と同じだと思い、嬉しかったです。
あの感覚は間違いではなかったのかと、嬉しかったです。
光に溢れた、愛と赦しの幸福の世界。
誰かに証明できるわけではありませんが、私の心が確信している死後の世界。
宇賀神先生も今そんな境地におられるのかと、そう信じることでいくらか心救われております。
合掌