“All nature seems to enjoy that Spring has come.”
直訳しますと、「すべての自然が春の訪れを楽しんでるようです。」となります。
なんとも無粋な日本語訳で申し訳ありませんが。
これは大正6年生まれの祖母が、女学校の卒業式に英語で答辞を読んだときの冒頭の一文です。
わが祖母ながらすごいなぁと思いました。
昭和生まれの私の中学、高校の卒業式でも英語で答辞だなんて聞かなかったのに、大正生まれの祖母が英語で、ですって。
ハイカラですねぇ。
外を歩くと、春の気配を感じる今日この頃です。
まさに祖母の答辞のように、周りの自然が春の訪れを喜んでいるのを感じます。
春はよく「萌え出づる春」と言われるように、冬を越した草木が伸びはじめたり花がたくさん咲きはじめたりと、命の芽吹きを感じる季節ですね。
それにともない、やはり草木の「氣」という生命力も一番強く感じやすいように思います。
なんと言うか、萌え「出づる」の文字通り、冬の間は内に秘めていた生命力という氣が、外に向かってまさに出てこようとする気配といいますか。
その、溢れ出ようとする氣をとても強く感じます。
本来でしたらそれはとても素晴らしい春の気配なのですが、
今の私にとりましては同時に涙を誘われる氣でもあります。
今までは宇賀神先生がいない寂しさに泣いていました。
もちろん今でも寂しいですし、悲しいです。
ただ、最近はそれと同時に、宇賀神先生と一緒にいる幸せも感じて泣いているのではと思うようになりました。
つまり、宇賀神先生を失った喪失感と宇賀神先生と一緒にいる幸福感を、同時に感じているような気がするのです。
矛盾していますけれど。
前回の山川草木悉有仏と同じことですが、春の氣の中に宇賀神先生を感じて仕方がないのです。
その春の氣が、結構な密度でもって周りに充満していて、なので結構な密度で宇賀神先生に囲まれているような気がして仕方がないのです。
咲いている梅の花の香の中に宇賀神先生を感じて、神社にいる鳥の鳴き声の中に宇賀神先生を感じます。
暖かい日射しにも、プランターの花にも緑の葉の中にも、宇賀神先生を感じます。
その包み込むような存在感に圧倒されて、私は泣きながら道を歩く羽目になるのです。
道行く人に泣き顔を見られたくないからマスクをして歩くのですが、どちらかというとサングラスが必要ですよね。
涙目を見られないためには。
ですがマスクにサングラスでは完全に怪しすぎて銀行強盗でもするのですかと言われそうですし。
悩ましいところです。
冗談はさておき。
春の氣にこんなに泣く羽目になるとは思いませんでした。
外を歩くのもためらわれます。
まあ、でも悲しいだけの涙でなくなったのはありがたいことと思っています。
私にとっての幸せは、今も以前も宇賀神先生と一緒にいること。
その幸せを再び感じられるようになってきたのですから。
少しずつ、少しずつですが。
「ずっと一緒やで。」
今でも毎日、こう話しかけています。
夜寝るときは、宇賀神先生を抱きしめて寝ています。
泣くときは、宇賀神先生を抱きしめて泣いています。
寝ているお布団に宇賀神先生が最後に着ていらした服を置いているのですが、昨日の夜その服を、宇賀神先生の背中を撫でていたときのように撫でると、その私の手に重ねるように置いてくれた宇賀神先生の手を感じました。
温かい手でした。
また泣いてしまって、翌朝に目が土偶のように腫れませんようにと願いながら寝ました。
私はきっと幸せ者なのでしょう。
これからもずっと、宇賀神先生と一緒にいる幸せの涙を流せますように。
合掌