神泉苑(しんせんえん)というお寺さんが京都にあります。
お大師さん(弘法大師空海様)が勅命を受けて雨乞いのご祈祷をなさったことで有名なお寺さんです。
その際、お大師さんは善女龍王様という佛様を勧請なさり、見事日照りの続いた日本に雨を降らせられたのですとか。
以来、神泉苑のお池には善女龍王様がお住まいになられるそうです。
私は以前からこの善女龍王様に少なからぬご縁を感じていて、善女龍王様が祀られている神泉苑に宇賀神先生と行こう!という話になったとき、とても嬉しかったです。
しかも人に聞いた話では、神泉苑には善女龍王様のお守りが売られていて、そのお守りを胸に、ひとつだけ願い事をしながら池の橋を渡ると願いが叶う、とされているのですとか。
なんと、公然と「お願い事をしてもいい」と、お寺さんの方からオファーなさっているだなんて!
もう絶対に行きたいと思いました。
宇賀神先生の勉強会ではいつも、
「神様や佛様にお参りしたときにはお願い事はしない。ありがとうございますという感謝を伝えるんだよ。」
と教わっておりました。
神社仏閣へのお参りは、いつもいつも「お礼参り」というスタンスであるように、と。
長年そう教わっていた私にとりましては、神様佛様へのお願い事はある種のタブーのような気がしていました。
そんな、自分の小欲からくるような欲張りなことを神様や佛様に言ってはダメ、と。
たとえ家族の幸せを願うにしても、もしかしたらそれも自身の小欲であるかもしれないと、不謹慎なような気がしていました。
もちろん欲張りな願いは山ほどあるのですが、それをお願いしたい気持ちはぐっとこらえて、お参りの際はいつもいつも「ありがとうございます。」とお伝えするようにしていました。
なのに、神泉苑では、お寺さんの方から「お願い事をしてもいいですよ」の許可が出ているなんて!
これは千載一遇のチャンスとばかりに、たったひとつだけ許されるお願い事は何にしようかと、頭の中で妄想を膨らませていました。
でも、このときだったのではないかなと思います。
この、神泉苑にお参りさせていただいたとき。
お参りする前だったか、後だったかは忘れましたけど。
宇賀神先生に尋ねました。
お寺さん直々の許可のもと、宇賀神先生は何をお願いするの?、と。
すると宇賀神先生は答えられました。
「これだけよくしてもらってて、これ以上何を望む?」
と。
「え・・・っ。」と、ちょっと私は一瞬雷に打たれたような、ショックを受けました。
おばかな私はそのとき初めて本当に理解したのです。
勉強会で教わった「神様佛様にお願い事はしない」というのは、タブーとかルールとか、神様佛様に対するマナーとか、そんな問題じゃないんだと。
宇賀神先生の素直な心からくる、ただただ素直な心からくる、感謝の表れなんだ、と。
そして宇賀神先生は、本当に素直な、幼い子供のように純粋な心で、神様佛様と繋がっておられるのだと。
私たちが得度させていただいた真言宗には加持祈祷というものがあります。
儀式儀礼を行い、それにより願いを成就させるという。
お大師さんが神泉苑でなさった雨乞いのためのご祈祷もまさにそうですよね。
それはもうプロとして、成就させなければいけない(佛様に願いをお聞き届けいただきたい)と思うわけです。
もちろんお大師さんの場合は人々のためという大欲のもとに行われたのですが。
私のような自身の取るに足らない小欲のためでなく。
宇賀神先生も真言宗の阿闍梨となられ、加持祈祷もなさいますし、私も少しくは宇賀神先生から加持祈祷を習いました。
そのお作法のなかで佛様に(願いなどを心に持って)ご祈祷することと、お参りして佛様にお会いするときにお願い事はしないとの区別とでもいうのでしょうか、どう折り合いをつけるのかが、何だかモヤモヤしてよく分からなかったのです。
いえ、今でもやっぱり分かってないのですが、どうも、こう、お願い事をしないことと加持祈祷をすることとの折り合いをモヤモヤ考えること自体が見当違いなのかも知れない思いました。
宇賀神先生のようにただただ素直に、純粋な心で、生かされていることやご縁に対する感謝の気持ちでもって神様佛様にお会いすること。
ごちゃごちゃ考えず、ただそれだけでいいのだ、と。
それこそが大事なことなのだと。
その素直さや純粋さが、神様佛様が一番お喜びになるところなのかも知れません。
宇賀神先生のようにありたいと、心から思います。
合掌