声が聞こえることと寂しさの矛盾

大好きな宇賀神先生の声が聞きたくて、その存在を感じたくて、自分の霊感の感度を上げようとしています。

宇賀神先生に関してだけでいいので最高のミディアムになれますように、と日々願っている、とお伝えしました。

その一心の願いが届くのか、少しずつ、少しずつ、何度か、宇賀神先生の気持ちを感じたり、存在を感じたりするようになってきています。

声を聞くと言っても色々なパターンがあります。

例えば、

①明確に声とともに言葉を聞くとき。

このパターンが一番生前の宇賀神先生のカラーに近いものがあります。

まだまだ精緻な感覚を得ているわけではありませんので、私が聞く言葉は短いものが多いですけれど。

別のパターンは、

②先生の考えが言葉を介さずに直接脳の中に流れ込んでくるとき。

言葉を介さずに、もう既に理解した状態になります。

宇賀神先生の思考を直接自分の思考として理解し感じていると言った、そんな風な感じです。

また別のパターンは、

③一足飛びに私の感情が宇賀神先生の言葉を聞いた後の状態になるときです。

何だか訳がわからないけど涙が出たりして、ああきっとこれは宇賀神先生がこう言ってくれたから、それを理解した私はこんな感情を抱いているんだなという風に思います。

①言葉を聞いて、②それを理解して、③こう思った、という段階を一足飛びにしてしまったという感じです。

と、自分で思っているだけですけどね。

明確に声とともに言葉を聞くときも、耳で聞くのではなく、直接脳で聞く感じですから。

見るときもそうですけど、身体の感覚器官を使って見たり聞いたりしているのではなく、脳で直接見たり聞いたりしているような。

すべてすべて、私の頭と心の中の話です。

そしてまだ、複雑な会話まではできていません。

ただ、聞いた言葉の整合性があることが後から分かったりしますと、ああ、本当に声が聞こえていたのかなと嬉しくなります。

そして同時に必ず、とてつもなく寂しくもなります。

矛盾してますけれど。

どうあっても人はやはり生きて側にいてくれて、体温の温かさを感じながら話がしたいのでしょうね。

他愛もない話でいいから。

日がたてばたつほど、会いたいと、より一層思う今日この頃です。

合掌