さて、宇賀神先生が教えてくださった
「どうして(僧侶は)毎日お経を読むのか」
ですが。
ひとつには、佛様が喜ばれるご挨拶になるからだそうです。
お経という単語の「経」という字は、「たて糸」を表します。
経度と緯度の「経」と言えば分かりやすいかと思います。
芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」のように、佛様の国から地上の私たちに垂らされた一本の糸です。
お経とは佛様の言葉で書かれた佛様の智慧なのだそうです。
それを読むことはつまり、
佛様にご挨拶することであり、
佛様を称えることであり、
佛様を喜ばせることであり、
結果として佛様に繋がることになります。
以前の投稿で、「信仰とは、佛様に惚れて惚れて惚れぬくこと。」だと、宇賀神先生に教わったとお伝えしました。
その惚れた相手の佛様の言葉で書かれた経典を読むことで、佛様を称えることによって、佛様を喜ばせたいのです。
毎日好きな人に「おはよう」「愛してる」と言うように、佛様に毎日ご挨拶したいのです。
そうやって毎日佛様にご挨拶することで佛様と繋がれるからこそ、お経はありがたいそうです。
経典そのものが、佛様からの賜りものだと考えられています。
ですので、私たちはお経本を畳などの床に直に置きません。
私たちの足で踏む床に佛様からのいただき物を直に置くことは失礼にあたるので、床に正座して机がないときでも、お経本は必ず布などを敷いた上に置くようにと教わりました。
お経は天から降りてきた一本の糸ですので、佛様に惚れている私たちは蜘蛛の糸に出てくる犍陀多(かんだた)のように、それにすがるのでしょうか。
佛様と繋がりたくて。
好きな人と手をつなぎたいように。
お経の経は「たての糸」。
これが宇賀神先生に教わったことです。
また、もうひとつには、宇賀神先生はあるとき
「お経を読むことを『お勤め』って言うだろ?だから、お経を読むのは坊主の仕事(勤め)なんだよ。」
ともおっしゃいました。
たまごが先かひよこが先か分からないような、答えになっているようななっていないような答えでしたが、なんだか腑に落ちてしまいました。
なぜ読まなければならないのかは分からなくても、あるいはそんなことをごちゃごちゃ考える前に、とりあえずお仕事なんだから毎日読む。
毎日読んでいると、もしかしたら分かることがあるかも知れないし、ないかも知れない。
でも、そんなことを考えなくてもいいから、まずはお仕事なのだから、とりあえず毎日読むものなのだ。
宇賀神先生の単純な答えを聞いて、毎日読んでみよう、そう思いました。
そんな風に宇賀神先生に教わって何年もたった今、やっぱり私はお経を読んでいます。
この頃はどうしても泣いてしまって読めない日や、休んでしまう日もありますが、なるべく毎日読んでいます。
今の私にとってお経を読むことは、好きな人と手をつないでいる時間なので、つまりは佛様と手をつないでいるときであり、宇賀神先生と手をつないでいるときでもあります。
もちろん、読んでないときでも繋がっているのですが、その存在をより色濃く感じられる幸せな時間となっています。
つい先日、家に帰らない日が続き、出先でお経が読めない日が続きました。
久しぶりに家に帰って佛壇の前にすわり、お経本を手に取った瞬間、
「家(あるべき場所)に還ってきた。」
と思いました。
先日お伝えした、
「瞑想っていうのはね、家に帰るようなものなんだ。」
という本の一節が、頭をよぎりました。
お経も、瞑想も、みんな同じところに繋がっているのだと思いました。
信仰しているものによってそれぞれ違う呼び方をするのでしょうけれど、家、阿字のふるさと、兜率天、天国、宇宙などという、還るべき場所につながっているのだと思いました。
あれ、ちょっと言い方が違うかな?
「私たちは本当はいつもそこに繋がっているのに、忘れがちなそのことを、お経を読んだり瞑想したりすることで思い出したいのだ。」
と言う方がしっくりくるかな?
こんな幸せな感覚を味わえることが仕事だなんて、なんていい身分なんでしょう。
明日もまた、おはようって言って、愛してるって言って、手をつなごう。
合掌