お経の経は「たての糸」 その1

「どうしてお坊さんは毎日お経を読むの?」

と、宇賀神先生に尋ねたことがあります。

「どうして私たち僧侶は毎日読まなければならないの?」

と。

何だか、どうして毎日読まなければならないかをちゃんと理解しないことには読む気になれなかったんですよね。

すみません、罰当たりな尼僧のはしくれ(の、はしくれ)で。

ですが、約2650年前、佛教の始まりの始まりのお釈迦さまの時代には、今現在の日本で読まれているお経は存在していなかったのです。

私は真言宗で出家させていただき、お大師さんのことは心の底から敬愛して信仰しています。

そのお大師さんが唐の国から命懸けで持って帰ってこられた経典を、今現在の私たちが読ませていただいているとも知っています。

ですが、この経典がお釈迦さまの時代には無かったものだとも、知っています。

なんなら、日本中の古典的宗派のお経を網羅した、何百ページにも渡る辞書のように分厚い経典の辞典のような本を半ば眠りに落ちながら読破したこともありますが、各宗派でそれぞれ言ってることが微妙に違いました。

まして、こんなこと言うのも何ですが、そこに載っていた真言宗の経典なんか「一体どこから急に降って湧いてきたの?」と言いたくなるような、他宗派からは全くかけ離れた突拍子もないものでした。

いえ、私はお大師さんを敬愛しているのですよ、心の底から。

心底惚れ込んでいると言ってもいいくらいです。

それでも、真言宗の経典のまったく毛色の違う様子には、違和感を覚えるくらいでした。

そんな違和感すら覚えるような経典も、日本中の宗派のバラバラの経典も、元はお釈迦さまの始められた佛教が出発点のはずで、なのに今はこんなに違っていて。

もちろん佛教そのものが小乗佛教から大乗佛教に変わった後に日本に伝わっていますので、他の東南アジアの国に伝わる小乗佛教とも全く違うでしょうし。

たしかに、お釈迦さまの時代くらいには、短い偈のようなものを唱えていたとは聞いたことがあります。(間違っていたらごめんなさい。)

お釈迦さまのおっしゃったことを、短い偈のような形にして皆で唱えていたとかいないとか。

スッタニパータとか、そんな風な偈を。

なのに、こんなにも好き勝手に進化?してしまった経典、お経を、どうして私たち僧侶は毎日読まなければならないのか?

素朴に、疑問に思っていました。

自分自身で納得しないことにはどうにもなかなか先に進めない性格の私は、宇賀神先生に何度か尋ねたことがありました。

「どうしてお坊さんは(尼僧さんは)毎日お経を読まないといけないの?」

と。

それに対する宇賀神先生のお答えは、単純にして明快なものでした。

さて、その宇賀神先生のお答えとは。

この続きは次回に。

すみません、特に最近は持続力も乏しく、以前のような長い文章が書けなくなってきました。

書きたい気持ちはたくさんたくさんあるものの、体力に合わせてちょっとずつ進めたいと思います。

何やかやの用事が立て込んでて時間の調整がうまくできないことも、あります。

ごめんなさい。

また明日、よろしくお願いします。

合掌