「阿字の子が 阿字のふるさと立ち出でて また立ち帰る 阿字のふるさと」
お大師さん(弘法大師 空海様)を知る方達にとりましては有名な歌です。
一説には、お大師さんが後継者にとまで思われていたお弟子さんを先に亡くされた時に詠まれた歌なのだとか、いえそれは後の通説で事実は違うとか、言われています。
阿字(あじ)とは大日如来様のことで、阿字のふるさととは佛様のおられる世界であり、つまりは命の根源、宇宙の根源そのものを指します。
私たちの命はそのふるさとからこの地球上の世界に生まれ落ちて、死ぬとまた佛様のおられる魂のふるさとに帰るだけ。
だから何も怖れることはない、ということでしょうか。
宇賀神先生はこの歌がお好きでした。
私も好きです。
いいなぁ、と思います。
たしかに死というものに対する本能的な恐怖心が少し薄らぐような気がいたします。
だってふるさとに還るだけですから。
また、少し話は変って、ずいぶんと以前に瞑想に関する本を読んだときにそこに書かれていたことですが、あるとき「瞑想とは?」ということを話し合った会議があったそうです。
多分、瞑想中にはどんなことを思うのかとか考えないようにするのかとか、定義とか具体的な方法とか、何が正しい瞑想なのかとか、それぞれの意見を出し合っていたのだと思います。
ところがその会議で誰かがひと言、
「瞑想っていうのはね、家に帰るようなものなんだ。」
と言われて、そこに居た全員が同意したそうです。
すうっと、腑に落ちる思いがいたします。
家に帰る、それでいいんだ、と。
ひとくちに瞑想と言いましても色々な方法がありますものね。
何だか瞑想が心の健康にもいいらしいと世間で言われていて、瞑想ってどういうふうにするの?みたいに尋ねられたこともあります。
私だって何が正しい瞑想かなんて知りません。
あるいは、「正しい」瞑想法なんてないのかも。
でも方法論より、目を瞑って心静かになれたとき、「ああ、家に帰ってきた」と思えたのなら、それでいいのかもしれませんね。
そうしたら、もしかしたらその先は「ふるさとに帰ってきた」ことと同じで、佛様の世界に通じていて、だからお寺さんでは瞑想するのかもしれません。
ちなみに、宇賀神先生の瞑想法は特殊でした。
どんな風なのかは勉強会に参加なさった方のみぞ知る、ですけれど。
ただ、目を瞑っていてもいなくても、先生はいつでも「お家にいる安心感」のある人でした。
だからいつでも神様や佛様と繋がっていられたのかな?
そんな境地に、なってみたいものです。
合掌