いつもご飯を食べる前に、宇賀神先生はじめ神様や佛様たちにお供えしていると言いました。
宇賀神先生から教わった真言宗のお作法に従って、自分の食べるものをまずお供えして、それからいただきます。
もちろんお勤めの際もお供物をお供えしますが、宇賀神先生がいつもご自身のご飯を食べられる前にお供えなさっていたので、それに習って私もお供えしています。
お供えする先は、ご縁のあった神様、佛様、守護霊様、精霊達(とでも呼べますでしょうか)、ご先祖様や深いご縁のあった方達、そしてもちろん大好きな宇賀神先生です。
お供えとは、つまり供養の一種ととらえています。
厳密には供養と追善供養は違うようですが、すみません、私はごっちゃにしています。
本来は供養は佛教で佛様に対して行うもので、追善供養は亡くなった方に対する弔いのことだそうです。(ネット調べです。)
私にとりましてはどちらも(佛様も、佛様だけでなく神様も、宇賀神先生や自分のご先祖様も)尊い方達ですので、同じようにとらえています。
一緒くたに表現して申し訳ありません。
一緒くたに表現しているとお断りしたうえでお伝えしますが、私は供養のかたちもひとつではないのかなと思っています。
勤行するときのお燈明(ロウソクの明かり)も、香華(お線香)も、飲食(おんじき・食べ物や飲み物のこと)も、佛教ではお供物とされていますよね。
それと同じで、もっと他にも供養のかたちはあるのかなと思っています。
これは私の考えですけれど。
以前に見た映画の話ですが、その映画の中で息子さんを亡くされたおじいさんが全くのボランティアで多くの人の力になっておられました。
映画の終盤の方でそのおじいさんが、
「こうして人助けをすることが、息子の供養になると思ってね。」
とおっしゃいました。
じんわりと、心にしみたのを覚えています。
その映画のおじいさんのように、行為も、もっと言えば生き方も、素晴らしい供養になるのかなと思っています。
宇賀神先生は勉強会で、よくご自身のことを
「神佛のエージェント」
とおっしゃっていました。
私はマザーテレサのこともとても素晴らしい方だと尊敬しているのですが、彼女もご自身のご著書のなかで、自分は
「神様の手の中のちびた鉛筆」
だとおっしゃっていました。
どちらも、神様や佛様を信じてお仕えして、手先となり道具となって御心に従いますということですよね。
生き方そのもので供養をなさっている。
すごいなぁと思います。
供養とはつまり、心を捧げることなのかなと私は思います。
ご飯をお供えしたって、実際の食べ物を神様や佛様や宇賀神先生が食べられるわけではありません。
現物の食べ物は減らないもの。
でも、それなのにお供えしたいと思うのは、つまり、食べてほしいと思う心を捧げているのだと思っています。
喜んでほしいと思う心を捧げているのだと思っています。
愛する神様や佛様、宇賀神先生や皆々様に、信仰心や愛する心、敬う心を、お供物や行為にのせて捧げるのでしょう。
そうしたら、心が届く。
そう思っています。
心は、人間同士のおつきあいでは、何よりも得難いものです。
その心を大好きな神様や佛様、宇賀神先生に、あげたいのです。
今となってはもう、心しかあげられないから。
悲しいなぁ。
そうなんだよ。
今となってはもう、宇賀神先生に、心しか、あげられないんだよ。
心しか。
合掌