昨日はミディアムのお話をしました。
そして最後に
「(宇賀神先生以外の)他は怖いからあんまり見たくないです。」
と書きましたが、目で見えない世界に心のフォーカス(焦点)をあてていますと、多かれ少なかれその世界(の住人)とつながりやすくなるのかなと思います。
なんだか実感としてそういう機会が増えてきている気がします。
とは言え、目で見えない世界なんて、分からないですよね。
それが本当かどうか。
もしかしてただの思い込みかもしれません。
そもそも、そんなものがあるのかどうか。
そもそも無いのなら、求めるだけばかみたいなのか、どうか。
同じことは「氣」にもあてはまりましょうか。
氣なんてものは存在しない、そんなので人の病気が治るはずがない、と思われている方には、氣の議論そのものがばかばかしくて時間のムダと思われるでしょうね。
ですが、その氣を実際に体感した人なら。
その氣で実際に病気を治されてしまった人なら。
目に見えない氣はもはや架空のものではなく、自身の目ではとらえられなくても、「氣は存在する。(と思います。)」としか言いようがないでしょう。
だってそれで治っちゃったんだもん、と。
氣の話でしたら、実際の効果のあるなしで存在の是非は問えるのかなと思います。
ただ、私の、目に見えない世界の住人とのお話はというと、宇賀神先生との対話も含めて、申し訳ありません、証明のしようもないです。
私の知らない細かなことまで知覚できるほど鋭い感覚を持ち合わせていませんし。
ぼんやりとしたファンタジー(夢物語)としか言いようがありません。
そもそも、自分自身、本当に見たのか聞いたのかすら分かりません。
ただただ自分で、見たと思う、聞いたと思う、と信じてるだけです。
以前に何度か宇賀神先生に尋ねたことがありました。
テレビなどで有名な霊能者さんが出てお話しなさっているのを見たときに、
「この人は本当に神様とかが見えたり聞こえたりしてるのかな?」
と。
宇賀神先生の答えは、
「そんなの誰にも分かんねぇよ。」
でした。
宇賀神先生はわりと自信満々というか、ご自身でもいわく自己愛主義者というか、
「根拠なく自分を信じることを自信という。」
と言ってはばからないお人でした。
ですが、ことお仕事となりますと、ずっと以前にこのブログにも書いたことがあると思いますが、
「薄氷を踏むように」慎重に、
というスタンスでいらっしゃいました。
ですのでもしかして
「そんなの誰にも分かんねぇよ。」
というのは、本人にすら本当かどうか分からないのでは、ということなのかなぁと思います。
だからこそ慎重に、という意味で。
また、もうひとつ、このような目に見えない世界のことに足を踏み入れるときに気をつけることとして、宇賀神先生から
「旗印を明らかにする」
と教わりました。
つまり、自分は神様・佛様の側に立つ者です、という立場を心に定めること。
間違っても「魔が差す」の「魔」の側に立たないこと。
そして、旗印を明らかにしたからには、その反対側の勢力の妨害から身を護る手段をとること。
つまり、真言宗では護身法を組むこと、お勤めをすること(勤行)。
と、教わりました。
私はこれらのことを忘れないように心がけています。
薄氷を踏むように
旗印を明らかにする
護身法を組むこと
勤行
宇賀神先生のこの教えのお陰か、今のところ見えたり聞こえたりするものは、至極個人的な、とても平和で穏やかな、心温かく、ときに微笑みとともに心慰めてくれるような優しいものばかりです。
宇賀神先生はもちろんのこと、先生以外の声を聞いても、皆とても優しい存在ばかり。
こんなに温かい心で包んでもらっていいのかなぁ、本当かなぁ、本当だったら嬉しいなぁ、と思っています。
もしかしてこの幸せは私の脳内お花畑をそのまんま投影しているだけかも、と思うくらいです。
そして今までに何度か遭遇したことのある、いわゆる不成仏霊や残留思念などと呼ばれるような、あまり関わりあいたくない存在には、幸いなことに最近は会っていません。
心のフォーカス(焦点)を、それらマイナスの存在よりはプラスの存在に当てていられてるようです。
生きている人間の世界と同じで、どこに自分の心のフォーカスを合わせて生きていくのか、ということは大事だと思います。
世の中にはいい人も、悪い(と私が感じる)人もいると思います。
そして私は私にとっていい人とだけおつきあいしたい。
それと同じで、いい(と感じる)存在も悪い(と感じる)存在もあるこの世界で、私はいい存在とだけおつきあいしたいと願っています。
つまり、神様とか佛様とか、心優しい精霊(とでも呼べばいいのでしょうか)とか、亡くなった愛する人とか。
そちらの方に、心のフォーカスを合わせていきたい。
どうせ人は100%の物事を知覚できないのですから、その狭い狭い自分の視野で何を見たいのか。
どうせなら、愛するもの、美しいもの、愛に溢れたもの、心地よいもの、を見たいと願っています。
それ以外はアウトオブ眼中(古い?)です。
でも・・・まぁ、こうして好き勝手言ってることをお許しくださいね。
これは私の心の世界の話ですから。
こうまでして宇賀神先生と一緒にいられないと、どうしていいか分からないのですよ。
どなたに迷惑をかけているわけでもなし(多分)、このブログで好き勝手言ってるだけで、こんな夢の世界に生きて心を慰めている人間が一人この世に存在しているだけですから、お許しいただきたいと思っています。
というより、もう自分で勝手に許してます。
はい。
すみません。
なんだかちょっと、言い訳がましいですね。
申し訳ありません。
ここら辺のスタンスの説明は私自身にとりましても難しいのです。
宇賀神先生のなかで、霊を語る人に対する線引きの仕方というか、可否の定め方というか。
気に入らないスタンスを取られた方を、即座に破門なさったこともありましたから。
紙一重の、一瞬のご判断でした。
それを私が文字で明確に説明するのは、正直ちょっと難しいなと感じています。
これはもう長いこと宇賀神先生と一緒にいて、何をよしとし、何を不可となさったかを、自然に吸収した人でないと分からない感覚かもしれません。
合掌