「わしが死んだらね、背後霊のようにあやのさんにひっついて、寄ってくる男を追い払うんだ。」
と、何度か宇賀神先生がおっしゃったことがありました。
唐突にそんなことをおっしゃるときが何度かあったのです。
「えっ。そしたら私に再婚の望みナシやん?」
こんな風に二人で笑っていました。
「いや、でも先生が妬くほどモテへんから心配ないって。それに、私が再婚なんかできひんくらいに先生が長生きしてくれたらいいんやんか。少なくとも100歳まで長生きしてよー。そしたら私は74歳やし、それくらいやったら一緒に佛様のところに行ってもいいくらいの歳やんか。」
と。
「それに・・・宇賀神先生がいなくなったら、どうやって生きていく?お金のことじゃなくって。何を人生の喜びとし、何を幸せに思って生きていく?あやのは宇賀神先生が人生のすべてやで。そのすべてを失ったら、どうやって生きていっていいか分からへん。だから絶対長生きしてよ。」
とも、よく言っていました。
そんな会話を何度かしていたとき、あるときふと宇賀神先生が、
「そしたら、わしが死んだら、わしの菩提を弔って・・・高野山の尼寺に入るか?」
と、おっしゃいました。
「あっ、そっかー。佛道かぁ。そやな。私も一応尼僧のはしくれのはしくれやし、佛様の道やったら、こんなにありがたいことないな。それに、それやったらわざわざ高野山に行かんくても、ここ(家)が私の大事なお寺(聖域)やし、宇賀神先生が私の護り本尊さんやし、先生をお祀りしてここで佛様と神様と一緒に暮らすわ。それならちょっとできるかな、どうかな。」
「でもやっぱり、そんなん寂しすぎるから長生きしてよー。」
こんな会話を、笑いながら、心の底から宇賀神先生の長寿を願いながら、二人でしておりました。
そして今。
あのときの宇賀神先生のふとした一言が、どんなに私の生きる支えとなっていることか。
「わしの菩提を弔って」
「高野山の尼寺に」
葬儀のときに、棺の中の宇賀神先生がお花でいっぱいに満たされたとき、まさに優しく美しい佛様の像を見るようでした。
ああ、まさに佛様になられたのだと思いました。
私の、大事な大事な、尊く、それでいて肌が触れるほどにとても近く、楽しくて、限りなく優しくて、温かい、愛する佛様。
宇賀神先生のことを誰よりも誰よりもお護りして生きていこうと思いました。
お寺さんがご本尊様をお護りするように。
そしたら今まで通り二人で一緒に幸せに生きていけるのかもと思いました。
「わしが死んだらね、背後霊のようにあやのさんにひっついて。」
って言ったよね。
たしかに、その言葉通り、なんかひっついてくれてるって、思うようになってきたよ。
信じてるから。
今まであやのに言ってくれたことはすべて実現して、先生の言葉通りになってきたから。
ずっと一緒やで。
合掌