生きとし生けるもの、死せるものすべて

ヴィパッサナー瞑想という言葉をお聞きになったことはありますか?

世の中には色々な種類の瞑想があり、ヴィパッサナー瞑想も有名な瞑想のようです。

 

ヴィパッサナー瞑想の最初は、「今ここ」の状態に気づく、というところから始まります。

今、ここ、この瞬間、に集中する瞑想と申しましょうか。

過去を悔やむことや未来に不安を抱くことはどちらも幻にとらわれるのと同じく意味のないことだという考えのもと、今の自分の実際の身体の動きであったり、心の動きであったり、とにかく今の自分の状態に意識を向けるところから始めます。

(解釈が間違っていたらごめんなさい。)

私は以前このヴィパッサナー瞑想で有名な方の本を読んだことがあるのですが、その本の中でヴィパッサナー瞑想の方法のひとつとして、「幸せを願う」という方法が紹介されていました。

 

最初は「私が幸せでありますように」から始まり、

「私の好きな人が幸せでありますように」に続き、

次はなんと「私の嫌いな人が幸せでありますように」、

そして最後は「生きとし生けるものすべてが幸せでありますように」

というように、段々とその対象の範囲を広げて行く方法だったという記憶がございます。

 

素敵な拡大の仕方だなぁ、と思ったことを覚えています。

 

ところがあるとき、ふと、

「生きとし生けるものすべてというなら、もしかしたら『死せるものすべて』にもその祈りの範囲を広げるのは、あってしかるべきかも?」

と思いました。

もちろんそのお祈りは幸せをお祈りすると申しますよりは、感謝であったりご冥福を祈るものであったりするわけですが。

だって私の人生なり生活なりは、先人達のお陰の上に成り立っているのです。

私の大好きな祖父母だけでなく、会ったことのないご先祖様や、見ず知らずの過去に生きた人達が築いてくださった日本という社会があるお陰で、私はここにこうして安心して暮らしていられます。

ですので、「死せるものすべて」もその範囲に入れる方がいいのかな、とふと思いました。

 

ところが、ひとつひっかかることがありました。

それは、もしかしてそんな風にお祈りすることで、例えば成仏できていない霊たちが「ここなら祈ってもらえるらしい!」などと喜んで?たくさん集まってきたらどうしよう、というものでした。

と申しますのも、ご先祖様のお墓の前で、「お墓参りに来るのも身体的にも難しく、これからは家の方でご供養させていただきますので、こちらにいらしてください。」とおっしゃった方が、その周り中の無縁仏さんにまでついてこられて大変な思いをなさり、宇賀神先生にお祓い(ご祈祷)していいただく、という事件を目撃したからです。

(その時の記事はこちら→霊媒体質の方がご先祖様&その他大勢を呼び寄せてしまったお話。

実害の例をこの目で見てしまっていましたので、そんなえらいことにでもなったらどうしよう、と、正直不安を感じました。

 

このことを宇賀神先生に尋ねますと、

「坊主のくせにそんな情けないことを言ってどうする。そのための護身法(ごしんぼう=真言宗における魔から身を守るための法)があるじゃないか。」

とたしなめられました。(坊主じゃなくて尼さんですが・・・。)

「それに、『有縁無縁諸聖霊等 皆成仏道(うえんむえんしょしょうりょうとう、かいじょうぶつどう)』という言葉があるように、縁の有る無し、命の有る無しに関わらず、すべての霊性の成仏を祈るのは、当たり前のことだ。」

とおっしゃられました。

 

ああ、そうだったのか。

 

いつも不動法という密教の御修法を宇賀神先生がなさるときによくお聞きしておりました「有縁無縁諸聖霊等」というのは、「生きとし生けるもの、死せるものすべて」と同じことだったんだ、と思いました。

耳で聞き、頭で理解していたものが、腑に落ちたような感覚でした。

 

さらに先生は、

「基本的に霊を拝むことによって何かを得ようとか何かをしてもらおうとか思わない限り、霊に憑かれたりしないもんだ。」

ともおっしゃいました。

なかには「霊媒体質」と先生がおっしゃる、関係のない霊までまるで吸い取り紙のように引き寄せてしまう不便な体質の方もおられるそうです。

先の記事の方のように。

ですが、滅多にないそうです。

 

それで私は霊媒体質かどうか、と申しますと、

「そんなことを心配するなんてプロ(のお坊さん、じゃなかった、尼さん)としてなってない。」

とのことでした。

 

(プロかどうかはおいておきまして)多分に私は霊媒体質ではありませんが、宇賀神先生のおっしゃりたいことは、そんなことはどうでもよく、要は私自身に祈る者としての覚悟があるかどうかが問題なだけ、なのでした。

 

覚悟。

 

が、あるかどうか。

 

あとはどうでもいい。

 

のですって。

 

ねぇ。

 

まあ、それ以来は覚悟を決めて?、ふと自分の心に浮かんだお祈りの言葉通り「生きとし生けるものすべて、死せるものすべて」に、感謝のお祈りを捧げております。

私が普段している瞑想はヴィパッサナー瞑想ではありませんが、朝の勤行の際やそのあとに瞑想する時など、この気持ちが自分自身の心の底にあるのを見るようになりました。

 

今日は3月11日でした。

(書いてるうちに昨日になってしまいました・・・今朝も早起きしたのに(T-T)眠すぎる。)

 

朝のお勤めのときに、9年前のこの日に亡くなられた方達のご冥福をお祈りしました。

すると、私の心か魂のどこかがまた何かを感じたのか、涙が出て途中からまともなお経になりませんでした。

その涙はいつもの幸せだけが満ちている涙ではなく、穏やかな愛情や喜びとともに悲しみと無念さも少し混じったような、不思議な感覚でした。

亡くられてでさえ、私達を支えようとしてくださっているような、そんな切実な想いを感じて涙が出ました。

 

瞑想を続けているためかどうかは分かりませんが、こんな風に目に見えない存在の想いを感じることが増えました。

それは神さまであったり佛さまであったり、神佛以外の初めからこの世に実体をもたない存在であったり、亡くなられた方であったりいたします。

亡くなられた後もずっと私達を支えようとしてくださっている方達の想いに感謝しつつ、今日はお祈りいたしました。

 

いつもお見守りくださり、ありがとうございます。

心より、心より感謝申し上げ、ご冥福をお祈りいたしております。

 

合掌

 

 

*申し訳ありません、翌朝に漢字など訂正いたしました。