感応道交(かんのうどうこう)

人が誰かのためを思うとき。

あるいは人の思いが神さま佛さまの御心にかなうものであったとき。

そしてその思いが神さまや佛さまのお慈悲のお心と通じて合い交わえたとき、それを「感応道交(かんのうどうこう)」というのだそうです。

 

先月に私が一人で東京に行った際にたまたま電話がかかってきて、東京にいらっしゃる宇賀神先生の会員さんのワンちゃんの具合がここ2~3日悪いとお聞きして、お加持(氣による施術、とも言えます)に私一人で向かったことを前々回の記事(物語を読むように。)でお話しましたね。

その方の家に向かう途中で、その地域の氏神様だという神さまの前を通りましたので、私は初めてお参りさせていただきました。

それまではお参りしたことはございませんでした。

 

いつも神さまや佛さまにお参りするときのように、

「本日ご縁を持ちましてお参りさせていただき、ありがとうございます。宇賀神綾野と申します。」

と、ご挨拶しました。

そして、もちろん原則通り「お願いはしない」のですが、そのときは、

「これからワンちゃんのお加持をしにまいります。

どうか、あの健気で可愛い小さな命の、助けとなれますように。」

と申し上げました。

 

言葉としましては「助けとなれますように」と、それこそ「神を頼む」ような言葉ではありましたが、私の本心はどちらかというと「宣言」でした。

「必ずや助けとなります」という、決意表明でした。

それは、前回の記事の「宇賀神龍仙、がんばっております!」と同じような、心から信じる神さまや佛さまに対する選手宣誓のようなものでした。

 

そしてお参りが終わり、いつものように鳥居を出たあと振り返って一礼するのですが、そのときに境内のとある場所が目に入り、その瞬間、目頭がじわっと熱くなりました。

「あれ、また何か神さまのお心を感じられたのかな?」

とは思いましたが、鳥居と拝殿の方向の関係で、私はそのとき拝殿の方を見て涙が出たのではありませんでしたので、何だか少し不思議でした。

ですが、お心をいただけたとは思いましたので、もう一度お礼申し上げてその場を後にし、ワンちゃんのお家に向かいました。

 

そのお話を大阪に帰ってから宇賀神先生にいたしますと、

「それを感応道交と言うんだよ。」

と教えてくださいました。

私がワンちゃんを何とか助けたいと思う気持ちが神さまに通じ、神さまの思いと合い交わったときに、私の心がその神さまのお心を感じたのだと。

 

ちょっと嬉しかったですねぇ。

「そっかぁ、神さまと心が通じたのかぁ。」

と思いますと、そしてそれをまた宇賀神先生の口からそんな風に言っていただけますと、なんだか太鼓判を押してもらえたようで嬉しかったです。

 

ちなみに、私がお加持させていただいたワンちゃんですが、その日のうちに元気を回復しました。

2~3日寝床から出てこようとしなかったのが、施術のあと寝床から出てきて、走りだすようになりました。

ご飯も完食するようになりました。

あれ以来1か月ほどたちますが、ずっと元気なようです。

これでしばらくは安心でしょうか。

 

私にもこうしてちょっぴり神さま佛さまのお仕事のお手伝い(お加持)ができて、飼い主さんから涙目で合掌されて感謝されますと、もうそれだけでありがたいなぁと思います。

宇賀神先生の教えを受けだしてから20年以上たちますが、教わっててよかったと思います。

もちろんそれはお加持や気功だけのことではなく、神さま佛さまに相対するときの姿勢や、生きる姿勢そのものも含めて、私は色々なことを学ばせていただいています。

 

そしてワンちゃんのお加持をしに行ったときにお参りした氏神さまですが、後日、宇賀神先生ともお礼参りにまいりました。

そうしましたら、また新たな発見があったのです。

前回に鳥居をくぐって出たときに、境内のある場所が目に入った瞬間涙が出たのですが、その場所に、実は「龍穴(りゅうけつ)」があったのです。

 

龍穴とは、人間でいうところの経絡とツボの関係のように、地球上の氣の流れの上にあるツボのようなものです。

つまり天・地・人の氣のうちの、地の氣がそこから色濃く噴き出しているところなのです。

そして何かただならぬものを感じた昔の人がそこに神さまや佛さまを祀り、現代では神社やお寺になっていたりします。

最近はパワースポットなんていう呼び方もできたりしていて、うまいこと表現するなぁ、と思っています。

 

まさに、地の氣が色濃く出ているところと言う意味では、龍穴こそ本当のパワースポットなのです。

 

宇賀神先生とその氏神さまにお参りしたときに、私一人で来たときには気づかなかった、龍穴に通じる扉を見つけました。

一瞬「閉まっているのかな?」と思いましたが鍵がかかっておらず、誰でも行けるようになっていました。

扉を開けてその空間に足を踏み入れた瞬間、漂う空気が違う、と先生は龍穴にすぐ気づかれたようです。

 

ニブチンの私はその空間に入ってさえ、宇賀神先生に言われるまでまさかそこが龍穴だとは気づかず。

ですが、私の頭は気づかなくても、心と申しますか魂と申しますか、頭ではない私の存在のどこかで何かを感じたから、その龍穴に通じる扉の辺りを目にしたときに涙が出たのですね。

 

不思議なものです。

 

宇賀神先生は「感応道交」とおっしゃいました。

 

地球上のとある箇所で色濃く存在したパワー(力)が、御心を持つ神さま(や佛さま)となり、それを神さまと感じた誰かがそこに神社を建てたのか。

あるいは噴き出すパワーを感じた人間が、そこに何かしらの神さまを祀るための神社を建てたから、パワー(力そのもの)が神さまとなったのか。

その神さまの存在の起源は測りようもございませんが。

 

とにかく、何かが、ある、のです。

 

そしてそのあるものと、私達の心というか魂というか、人間の存在の根源的なところで相通じるものがあるのです。

 

ですがきっとそのあるものとは、実は普遍的に存在していて、ただ私達が気づかずに、あるいはいつもはその存在を忘れてしまっていて、日常生活を送っているだけなのかも知れません。

そしてそれが色濃く出ているところでうっかりと(?)つながったときに、思い出すだけなのかも知れません。

そのうっかりとつながったときの、えも言われぬ幸福感たるや。

いつも流す涙は幸せの涙です。

だから私は神さま佛さま参りをやめられないのかも?

 

またうっかりつながるときが来るといいなーと思いながら、その下心をひた隠しに隠して、私はこれからもまたお参りさせていただくことでしょう。

あぁ、ですが。

神さま佛さまは、なぁんでもお見通し!でしたっけねぇ(T-T)

頭隠してなんとやら。

ヒヨコさんの黄色いアンヨは今日も丸見えでした♥

 

合掌

2件のコメント

  1. 感応道交について、私なりに考えてみました。

    八百万の神がいらっしゃるなか、俗にいうパワースポットに建立された神社(神社にパワーが宿るというのがいいのかもしれませんが)にご縁があってお参りするときも、近くの神社につい立ち寄ってお参りするときも、安易な神頼みではなく、心こめたお参りをすることだと思います。

    自分の心で
    私はこうします。
    私はこうあります。
    と我が心に強く
    思い
    願う
    ことが神の御心に通じ、それが結果として神のお力をいただくことになるものと思います。。

    それが神社にお参りするときの心構えであり、日常生活においての心構えでもあると思います。
    わが身を正し、正直に生きていくことが生涯の幸せをもたらすことになるものと思います。.

    1. 樫内様
      おっしゃる通りです。
      神さまにお参りするときだけでなく、日常生活のなかでも同じ姿勢を保つことが、より豊かな幸せをもたらすと思います。
      樫内様の日々も、より一層お幸せなものとなられますように!

現在コメントは受け付けていません。