- さて、宇賀神家に多大な現金収入をもたらすようになったその「保血散」の売掛金が鹿沼の郵便局に届く日のことです。
源三郎さんが郵便局に為替(売掛金)が届いたかどうか尋ねますと・・・
「あっ、為替でしたら届きましたが、さきほどお伝さんが来て、受け取られましたよ。」
と、答えられました。
「しまったーーー!!またやられた!!!」
その当時のお金で五百圓(500円)。
今に換算しますと、どのくらいの金額になるのでしょうか、私にはちょっと想像もつかないのですが・・・。
とにかく保血散の売掛金が届く日に、お伝さんはいつの間にやら家を抜け出し郵便局に為替(お金)を受け取りにいき、それを全額持ってドロンするのです。
いったい、どこへ?
それは、当時の人なら一生に一度は行きたかった「お伊勢さん」へ。
しかも、自分のお弟子さん(信者さん)5~6人を引き連れて行かれました。
しかも、2週間ほども!
時代は、今のように新幹線でひとっ飛びに旅行できる平成の世ではありません。
「まず人力車で鹿沼の駅まで行き」、東武電車に乗って行くような時代です。
人力車ですって。
私は博物館か観光地でしか見たことありませんね。
宇賀神本家は裕福な家でしたので、当時はまだ小作人と呼ばれた人から、「ねぇや」(今でいうお女中さん)、人力車の車夫までいらっしゃったそうです。
宇賀神先生のおばあ様のお伝さん、郵便局から500円という大金を持ち出し、5~6人のお弟子さん達とともに、お伊勢さん参りに行かれました。
しかもそれは、一生に一度ではなく、「年に一度か二度」を、何年にも渡ってやってのけたのですって。
たぶん明治の終わり頃か、あるいは大正くらいから、昭和になってすぐくらいの時代までなさったそうです。
宇賀神先生のお父様(お伝さんの子供にあたります)が大正3年のお生まれで、すぐ上のお姉様が明治45年のお生まれです。
その上にさらにお二人の子供さんがいらしたようですが、
「お伝さんはそんな小さな子供を放っておいて、お伊勢さん参りに行ったの?」
と宇賀神先生に尋ねますと、
「家には子守りや家事をしてくれるねぇやも何人かいたから、何の問題もなかったんだろ。」
ですって。
お抱えのお女中さん(兼ベビーシッター)が何人も・・・。
さすが裕福な「ええ氏」は違いますね。
そしてその500円という金額、今の時代に換算しますと一体いくらくらいなのでしょうか?
そのお金は、6~7人の大人が2週間近く、栃木県の鹿沼から三重県のお伊勢さんまで旅をし、豪遊できる(お参りして遊んでお土産を買って帰って来られる)くらいの金額なんですって。
しかも、今の時代のようにお得な新幹線のエクスプレス予約(←東京出張のときに使ってます♥)も無い時代です。
しかもしかも、お伊勢さんでは御師(おし)と呼ばれる、今でいうところのツアーコンダクター兼ツアーガイドさんも雇っておられました。
つきっきりの専用ガイドさん付き × 7人 × 明治~昭和初期の時代 × 鹿沼~伊勢の2週間の豪遊旅、の旅費やいかに。
そんな大金を鮮やかすぎる素早さでお伝さんに持ち逃げされた源三郎さんの怒りたるや。
「伝のヤツ、帰ってきたら手討ちにする!!!」
と、日本刀を振り回し、それはそれは大変な怒りようだったそうです。
宇賀神先生が中学生のときに初めてお父様に連れられて、その鹿沼の宇賀神本家に行かれたことがあるそうです。
そのときお父様が、柱につけられた3つの傷を指さして、
「あれが源三郎さんが振り回した刀で傷つけた刀傷だ。」
と、教えてくださったのですって。
なんちゅう家や( ̄∇ ̄;)
ですが、まあ、お伝さんは本当には「お手討ち」にはならなかったのでしょうね。
だって何回も何回もそうやってお金を持ち逃げしてはお弟子さんを引き連れてお伊勢さんにお参りに行き(豪遊し)、帰って来られたんですもの。
源三郎さんも悔しがって刀を振り回されるくらいでしたら、売掛金をお伝さんが受け取らないよう、何とか手を打てなかったのかと思わなくもありませんが・・・。
それに、お伝さんは生涯、離縁もされませんでした。
現代に比べまして、とてつもなく女性の権利(人権)の低かった時代です。
まして家のお金である、そんな大金を勝手に持ち出して、よく家を追い出されませんでしたね。
宇賀神先生も不思議に思い、お伝さんに「お聞き」したことがあるそうです。
もちろんお伝さんは、宇賀神先生が生まれられる前にはお亡くなりになっていて、先生はお顔もご存じありませんが、まあ、つまり、先生はあの世にいらっしゃるお伝さんにお聞きしたそうです。
宇賀神先生いわく、お伝さんは、
「なあに、ひと芝居打ってやったのさ。
ご祈祷して神がかりになってバッタリ倒れた後、むっくり起き上がり、さも恐ろし気な声で
『我は宇賀の神である。
この女は依代(よりしろ)にもらった!
この女をこの家から追い出してみろ、この家がどうなるか分かっているだろうな!!』
ってな。」
と、おっしゃったのですとか。
・・・アンビリーバブル(ToT)
たしかに、先程も申し上げたように女性の権利が今よりもっと無い時代で、まして信仰の自由も難しいような時代だったのでしょう。
そしてたしかに、古来より依代や巫女、つまり神さまなどのお言葉をお聞きするための媒体となるのは、ほとんどの場合女性でした。
そのことを利用して?、ひと芝居打って、ご自身の信心と、お伊勢参りという名の豪遊旅をやってのけるなんて。
もちろんこのお伝さんのセリフは、宇賀神先生の霊感でお聞きしたものです。
ですがお伝さんが何年にも渡って多大な保血散の売掛金を持ち逃げし、何人ものお弟子さんを連れてお伊勢さん参りをなさり、2週間豪遊して帰ってこられた、というのは、宇賀神先生がお父様やおば様からお聞きした事実ですから。
あの時代に、離縁もされずに。
たぶん、宇賀神先生がお聞きしたようなそれなりのことをなさらないと、お伝さんの信心(と豪遊旅)を押し通すのは難しかったのでは、とは想像にかたくないと思います。
そして、お伝さんは一体、家の敷地内に建てられたお堂でどなたをご本尊に祀り、拝まれていたのでしょうか?
それは、宇賀神先生もお父様にお聞きになったことがないそうです。
その中学生のときにお父様に連れられて本家にいったときには、お堂そのものは残っておりましたが、とても中に入れるような状態ではなかったそうです。
「歩くと床板を踏ん抜く(踏み抜く)ような、ボロボロだった。」
のですって。
もちろん中学生当時は、宇賀神先生も宗教的なことにそんなに興味も持たれなかったでしょうし。
ただ、外からお堂の中をのぞきますと、中は真っ黒にすすけていたのだそうです。
「たぶん、鍋護摩(なべごま)を焚いたんだろうよ。」
と、宇賀神先生はおっしゃいました。
本来でしたらお護摩は正式な壇と火を焚く炉や、それこそ野外では大きな大きなキャンプファイヤーのような四角に組んだ木で火を燃やします。
ですが、民間信仰で山伏さんなどが出先でお護摩を焚かれるときなどは、昔は中華鍋のような形の鉄鍋の中で火を燃やし、炉の代わりにしたそうです。
真言宗にも「風呂敷護摩」と呼ばれるものがあるそうです。
つまり、風呂敷に包んで鍋(炉)を運び、出先でお護摩を焚くという。
今にして思えば、お伝さんのお堂の中が真っ黒にすすけていたのは、そういったお護摩を焚いていたのではないか、と宇賀神先生は思っておられます。
いえ、思っているというより、やはりお伝さんから何か伝わってくるものがあるそうです。
ということで、やっぱり長くなって参りましたので、次回はそこらへんの、お伝さんからの通信にも少し触れたいと思います。
いやはや、おばあちゃんと孫がどっちも霊能者で、生前会ったこともないでしょうに、70年経った今こうしてあの世とこの世で通信しているなんて。
イヤですヨ、ほんと。
凡人にはついていけませんワ♥( ̄∇ ̄;)
合掌