宇賀神法(うがじんぼう)とは、神さまの宇賀神さまをお祀りしてお祈りする、一種の儀式儀礼のことを指します。
神さまの宇賀神さまは今でこそ知る人ぞ知る、というような存在ではいらっしゃいますが、古くから民間信仰のなかで人気が高く、崇められてきた神さまです。
その霊験はあらたかでしたのでしょう。
宇賀神さまも、宇賀神さまを頭の上に乗せられた「宇賀神弁財天さま」にしましても、豊穣や福徳を司る神さまで、今風に申しますと「幸せにお金持ちになりますように!」と願う人々に厚く信仰されていた神さまです。
そして、多分に真言宗と天台宗の間の経典に関する問題で?、今現在はややその知名度が低くなられた神さまなのです。
(その理由につきましては後ほど。)
さて、宇賀神先生のおばあ様こと「お伝さん」のお話です。
もともと宇賀神家は、土豪(どごう)の家だったそうです。
宇賀神先生いわく土豪とは、その土地の有力な地侍(じざむらい)のことだそうです。
先生が幼い頃、本家の宇賀神家に訪ねて行かれたときには、まだその表札に「鹿沼市 下奈良部町(しもならぶまち) 士族」と書かれていたそうです。
士族と申しましても、宇賀神家は正式な藩のお侍ではなく、その土地に昔から住んでいる地侍の家でした。
お伝さんが宇賀神家に嫁いで来られる前、明治の初め頃はおろか、もちろん江戸時代にもすでに刀を振り回すような戦もございませんでしたから、地侍と申しましても宇賀神家は広い広い田畑を持ち、当時はまだ小作人と呼ばれた人達を使い、農業に従事しておりました。
その土地ではなかなか裕福な家だったようです。
日本には名字の他に「屋号」というものを持っている家も昔は多かったですが、その本家の宇賀神家の屋号は「油屋」といったそうです。
つまり、油も(なかば商いのような形で)取り扱っている、という家でした。
当時は油はまだまだ高価な時代でしたから、そんな高価な油をたくさん仕入れて周りの人に売ることができるのは、裕福な家の証です。
大阪弁では、そんな土地の裕福な家のことを「ええ氏の家」(=いい家柄)と言いますが、全国的にはどうなんでしょう。
と、以前も別のなにかで「大阪弁では・・・」と書いた単語がございましたが、別の大阪人の方に「ボクその言葉知りませんでした(^-^;)」と言われ、もはや大阪弁かどうかすら怪しくなっております。
「ええ氏」、ご理解いただけることを願うばかりです。
ともかく、宇賀神本家は奈良部という土地ではええ氏だったようです。
そのええ氏の宇賀神さん、あるとき、東京の大学の教授でいらした方を食客としてしばらく家に迎え入れてさしあげていたそうです。
食客とは、もう今ではあまり聞かない言葉ですが、直接知らない人でもご縁を通じてお客様として家に泊めてあげ、ご飯を食べさせ、色々なところに見物に連れていくなど、お世話をしてさしあげるお客様のことを言います。
当時の大学の教授だなんて、よほど超がつくほどのエリートの方だったのでしょうね。
大学そのものができるかできないかの時代ですもの。
それは宇賀神先生のひいおじい様、源三郎さんの時代のことです。
多分、明治の初め頃のことですって。
ちなみに、源三郎さんは江戸時代の天保年間のお生まれです。
その教授の方が、しばらく滞在なさった後、帰られる前に
「これだけお世話になったのですから、何かお礼がしたいが、(たとえばお金になるような)いい情報で必要なことはありませんか?」
と、おっしゃってくださったそうです。
そのとき、宇賀神先生のひいおじい様の源三郎さんは、
「いやいや、百姓仕事は現金にはならねぇもんだから、何もいらねぇ。」
と、断られたそうです。
当時は、ちょっと言い方が乱暴かも知れませんが、お米がお金でもあったような江戸時代の名残がまだまだ色濃く残っている時代でしたから、裕福な家はイコール現金をたくさん持っている家という単純な図式でもありませんでした。
するとその教授、何やら考えられたあと、
「では街に行って、これとこれとこれを買って来てください。」
と、いくつかの材料を買うよう指示なさったそうです。
そして、手に入れたその材料を薬研(やげん)で細かくして分量を測って調合し、ひとつの薬を作られました。
その薬は、
「保血散」(ほけつさん)
と名づけられました。
そして、保血散は女性の貧血に効く薬として売られました。
当時はまだまだ日本全体が貧しい時代でしたから、栄養失調気味の人も多く、ゆえに今より女性の貧血も多かったようです。
その商売を始めた後くらいでしょうか、宇賀神先生のおばあ様の「お伝さん」が、宇賀神家に嫁いでこられました。
お伝さんの旧姓など詳しいことは宇賀神先生もご存じないのですが、とっても変わった人生を送ってらっしゃる宇賀神先生から見ましても「とても変わった人だったよ」と言われる先生のお父様が、さらに「とんでもない人だったよ」と称するような人だったそうです。
宇賀神先生の子供の頃もまだその名残はございましたが、当時はよく山伏さんがそこかしこにおられ、今で言う托鉢ですね、家々を廻っておられたそうです。
当然宇賀神本家にも托鉢に来られたのでしょう。
あるときからお伝さんが急に山伏さんに惚れ込まれ、家の敷地内にお堂まで建ててしまわれました。
そして、たびたび山伏さんに来ていただいては護摩を焚いてもらったり、ついにはご自身でもご祈祷の儀式を行われるようになられました。
別に出家なさったわけでも何でもないですのに、自らご祈祷をし始め、驚いたことにいつの間にやら何人かのお弟子さんまでできてしまったそうです。
ですが不思議なことに、いえ、不思議でもなんでもなく当然の帰結かも知れませんが、お伝さんの信心が効験あらたかでしたのか、保血散は売れ行きがどんどん良くなり、宇賀神家はますます裕福になっていきました。
宇賀神先生のひいおじい様の源三郎さんが望まれたように、現金収入のあるお金持ちになっていったのです。
だからでしょうか、宇賀神先生がお父様からお聞きした記憶によりますと、あまり家人からはお堂まで建てることは歓迎されなかったようですが、誰もお伝さんのことを止めることはできませんでした。
また、さらに、お伝さんには大変困った一面(どころではなく、何面も?)がありました。
宇賀神本家に多大なる現金収入をもたらした保血散ですが、その売上金が郵便局に為替で届く日が近づきますと、お伝さんは何やらそわそわしだすのです。
それを見たお舅さんにあたる源三郎さんもそわそわ、というより、ピリピリ・・・。
さて一体、売上金が届く日に何が起こるのでしょうか?
長くなって参りましたので、続きはまた明日♥
合掌