今日2018年5月29日は満月で、5月の満月は佛教界でもウエサク祭りといわれているのだそうですね。
つい数時間前まで私は知りませんでしたが・・・どんだけ無知なんでしょう(ToT)
お釈迦様にも関わりの深い5月の満月の日、ということで、今日はひとつお釈迦様のお言葉、「自灯明 法灯明」について。
自灯明 法灯明(じとうみょう ほうとうみょう)、これは、お釈迦様の遺されたお言葉です。
私も大好きなお言葉です。
意味は、「自らを明かりとなし、佛法を明かりとなして、修行の旅路を歩みなさい」というものです。
佛教の世界観では、この世で人生を歩むことは闇路を歩むようなもの、という、ちょっと聞きますとどこか寂しいような怖いような、表現がなされますね。
真言宗の在家さん向けのお経本にも、お大師さんの「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」というご宝号(ごほうごう)を唱える前に、お大師さんに対して
「願わくば無明長夜(むみょうじょうや)の闇路を照らし
二仏中間(にぶつちゅうげん)の我らを導き給え」
と願う一説がございます。
悟りという智慧の目を得ていない私達凡人にとりましては、この世はやっぱり真っ暗闇なのね、ということでしょうか。
さて、そのような闇路の世の中を、お釈迦様は二つの明かりを頼りに歩みなさいとおっしゃいました。
「自灯明」と「法灯明」です。
まずは「法灯明」のご説明を。
ここでいう法とは、佛法のことです。
つまり、お釈迦様(佛様)の教え、宇宙の真理(法)を頼りにしなさいということです。
ではその真理とはなんでしょう、と尋ねられましても、そんなムズカシーこと私に聞かないで(ToT)って正直申し上げたいですけれど(そんな真理、本当に理解していたら今頃ワタクシはとっくに悟っておりますヨ)。
と、まあ、逃げてばかりもいけませんので。
よく言われておりますところでは、代表的なものはお釈迦様の一番初めの3つの悟り(この3つを三法印といいます)、
諸行無常(しょぎょうむじょう)
諸法無我(しょほうむが)
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
これらを発端とする様々な智慧により、心を治めていきます。
上記3つは日本ではとても浸透している言葉ですので、今更その意味をお伝えしなくてもいいかとは思われますが、一応。
(と申しますより、私のこのブログより、他のちゃんとした?お坊さんの書いておられるサイトをご覧になられた方が正しい知識を得ていただけるかも知れません(T-T))
「諸行無常」は、すべてのものは移り変わり、常態を保ち得ない、ということです。
ン年前に生まれ、今は若く美しいワタクシも!?、やがては年を取り、おばあさんになって、そしていつの日か死に、この世からいなくなります。
「諸法無我」は、どんな存在も確固たる実体はない、ということです。
ちょっと難しいですが、たとえばですね。
ここに、このブログを書いております「宇賀神綾野」という人物がおります。
ただいまキーボードを打っている人間ですね。
このキーボードを打っている人間は自分のことを「私」だと思って、確固たる存在としてここにいる、と思っているのですが、実はそうではないんですよ、とお釈迦様はおっしゃっています(多分)。
「私」は、先程の諸行無常のところでも申し上げましたが、常態を保ち得ず、刻一刻と移り変わっている存在で、「この瞬間の私」は「1秒前の私」とも違い、「1秒後の私」とも違う存在です。
しかも、宇賀神先生にとりましては「私」は妻であり、両親にとりましては「私」は娘です。
ある人にとりましては「いい人」かも知れませんし、ある人からは「嫌な人」と思われているかも知れません。
あるいは、昨日までは「仲のよい人」だったかも知れませんが、明日ケンカすれば「悪い人」になります。
「私」をとりまく様々な人々や物事とのご縁の中で、「宇賀神綾野」は形成されていて、しかもそれは刻一刻と移り変わっているのです。
あるようで、無い、確固たる「私」という実体。
それが諸法無我です(多分)。
「涅槃寂静」は、涅槃とは悟りの境地を表すそうで、寂静とは悟りにより煩悩が消えて苦がなくなった状態だそうです。
諸行無常や諸法無我の智慧により世の中を見ることができますと、煩悩が消えて、悟りの境地に至るのですとか。
はてさて、そこに到達するのにあと何100万年かかりますやら。
ちょっとしばらくはムリそうです。
とにかくですね、これらは佛法、つまり宇宙の真理のほんの一部ではありますが、これら佛法を明かり(法灯明)として頼りにこの闇夜の世界を歩んで行きなさいとお釈迦様はおっしゃっています。
そしてもうひとつ。
これが凄いと思うのですが、「自灯明」を頼りに歩んでいきなさい、ともお釈迦様はおっしゃるのです。
自らを明かりとし、と。
これは私の勝手な解釈かも知れませんが、お釈迦様はお釈迦様ご自身(佛様)を崇拝して頼りにしなさいとおっしゃってるんじゃないんですよね。
それぞれが自分自身の心に火をともし、それを頼りにこの闇路を歩んでいきなさいとおっしゃっています。
魂のお修行は、他者に頼るのではなく、自らを頼りとして進んでいくのですって。
もちろん現実問題としまして私は宇賀神先生を頼りに生活しておりますが、魂のお修行はまた別の話で、それぞれがそれぞれに歩むしかないそうです。
怖いような、また逆に勇気を得るような心地がいたします。
一人で歩むしかないんだ、という怖さと、歩むしかないということは、私にだって歩んでいけるんだ、という心強さと。
私はこの「自灯明」というお釈迦様のお言葉に、勇気づけられるような心地がいたしますよ。
そうそう、その「自灯明」を体感できるお修行の場がお四国さんにございます。
そのご紹介を是非次回に。
私がもう一度行きたいと、ずっと切望しているところです。
今日の満月は薄曇りでしたが、見ることができました。
雲の向こうに光っていても、お月さんは綺麗ですね。
太古から人々が太陽や月の美しさに手を合わせてきた気持ちがよく分かりました。
合掌