今日は氣とか神様佛様とか、そういう話題ではないのですが、宇賀神先生の思い出話をひとつ。
宇賀神先生のお父様は、お若い頃はエリートサラリーマンでした。
戦前の、大阪が「大大阪(だいおおさか)時代」と呼ばれた頃に、栃木県から出てこられ、大阪の缶詰を売る会社にお勤めだったそうです。
数か月ものあいだ中国や当時の朝鮮、台湾に出張に行かれては、大金のお給料を持って帰られたのですって。
まあ、ですが、お父様の人生もまた、宇賀神先生と同じくらい喜劇的?ジェットコースター的!波乱万丈の人生だったようです。
いつかまた、その面白い人生の物語を順を追ってお伝えしたいものですが、今日は、そんなお父様が戦後始められた事業が失敗した後の、宇賀神先生の子供の頃のお話を。
お父様はよくパチンコ屋さんに行っておられたそうです。
その直前にはパチンコ屋さん(当時のスマートボールと言われていた種類)を経営なさっていましたが、その事業が失敗し、それまで裕福だった宇賀神家は一気に貧乏になりました。
その失敗した事業と同じ種類のパチンコ屋さんによく遊びに行かれるなんて、私にはちょっと理解しがたいですが・・・。
とにかく、家計が傾いても、遊興に使うお金は減らされなかったのでしょうか、お父様は毎日のようにパチンコをなさっていたそうです。
宇賀神少年は当時小学校3年生でした。
毎日学校から帰りますと、お父様の遊んでいるパチンコ屋さんに行きます。
そして、
「お父ちゃん、パチンコ玉12個ちょうだい。」
と、頼むのですって。
「こうやって玉を分けるとな、運が逃げるんだよ。」
と、おっしゃりながらも、お父様はいつも12個くださったそうです。
宇賀神少年はそれを持って、景品の交換カウンターに行き、大好きな「明治のチョコレート」に換えてもらったそうです。
それまでの裕福な「おぼっちゃん」暮らしから一転、貧乏で学校の給食費も払ってもらえないような暮らしになってしまった宇賀神少年にとりましては、つらい日々の中のささやかな幸せだったようです。
もちろんその時代は日本国中みんなが貧乏な時代ではございましたし、その中でも更に貧乏だった私の母などからしましたら、「チョコレートを毎日食べられるだけでも贅沢」という感覚だそうです。
ですが、まあ、それまでがお女中さんがついててくださるような裕福な暮らしをしていた宇賀神少年でしたから、その落差にはまた別のつらさもあったかも知れません。
そうして小さい頃大好きだった明治のチョコレートは、大人になられた今でも大好きで、「世界一美味しいチョコレート」とおっしゃっています。
明治の板チョコをこよなく愛する宇賀神先生。
ですが、もちろん他のメーカーさんのチョコレートもやはりお好きで、つい今朝も、お土産にいただいたチョコレートを朝食後のデザートに召し上がりました。
一応も二応も宇賀神先生は糖尿病をお持ちですから、なるべく間食はせず、甘いものをいただくときは朝か昼のお食事と合わせていただきます。
その方が血糖値が乱高下しなくていいんですってね。
食後に緑茶とチョコレート。
最近の定番になってきております。
そして、いまだにチョコレートを、子供のような嬉しそうな顔をして召し上がるのです。
そんな時の宇賀神先生は、私の目にはこんな風に映ります。
これはまだ幼稚園の頃の宇賀神先生です。
先生のご家庭が裕福でいらした頃、栃木県は二荒山神社前の「上野さん」と先生が呼ばれるデパートの、お誂えの服を着て撮影なさったものです。
こんなちっちゃな子供にお誂えだなんて、本当に贅沢な暮らしをなさっていたのですね。
あんまり食べると鼻血がでるよ、って、言ってあげたくなりますね。
と、申しますのも・・・
宇賀神先生が召し上がったあとのテーブルの下には、それこそ子供のように、たいてい食べ物のかけらが落ちています。
当然チョコレートも。
冬は床暖房をつけ、温かくなっております床の上に、チョコレートも。
どうなると思われますか・・・?
( ̄∇ ̄;)
「チョコレート踏まんとってー!」
「それ、伸ばさんとってー!!」
「部屋中に広げて歩かんとってー!!!」
と、ときに叫び、ときに心で泣きながら(T-T)床に溶けたチョコレートを今日も拭き取るワタクシでした。
ぴーちゃん(うちの鳥)が、りんごジュースをまき散らしながら飲むのといい勝負です、ホント。
と、申しますことで、今日はめっちゃ嬉しそうにチョコレートを召し上がる宇賀神先生を見て思い出したエピソードでした♥(^-^)
合掌