先月の東京出張の折に、仏手柑(ぶっしゅかん)という、とてもおめでたい名前の、花のような柑橘類に出会いました。
銀座の「懐食 みちば」さんに、とても綺麗に飾られていました。
宇賀神先生の奥に見えますでしょうか?
ちょうど下向きに小さい子供の手が開いているような、黄色い、花のような形の実です。
あまりの珍しさに、先生も思わず喜ばれて「蓮華印(れんげいん)」を。
蓮華印とは、密教の印(手の形)のひとつで、その名の通り、蓮の花を意味します。
またまた身内を褒めるのもなんですが、この写真の宇賀神先生から優しく溢れてくる「氣」は、なんとも言えませんね。
先生の手の蓮華印から氣を感じられます。
(え?私だけ??)
蓮はお釈迦様の愛されたお花です。
よく佛具にも表現されていますし、佛像や佛画にも、佛様とともに描かれていますね。
ちょっと話が横に逸れますが、なぜお釈迦様が蓮の花を愛されたかご存じでしょうか?
それは、蓮の花が泥の中から生えているのに、どういう訳かひとつも泥をつけておらず、清浄(しょうじょう)な存在だからだそうです。
苦海に生まれ落ち、生きている人間も、かくありたい、と思われたのでしょうか。
あるいは、いろいろな世間の泥にまみれた人でありましても、その人の中に存在する佛性は、蓮の花のように美しいとご覧になられたからでしょうか。
お釈迦様のご真意は私などには測りかねますが、このことを初めて宇賀神先生に教えていただいたときは、とても感銘を受けたことを覚えています。
「ほんまやー!」って。
あの泥を、蓮の花はどうやって落としてきたのでしょうね?
ところで先の仏手柑、みちばさんのお店にとても大事に飾られていましたが、いくつかございました盆栽などの飾り物の中のひとつでした。
はじめ私は、仏手柑がそこにあるということにすら、全く気づいておりませんでした。
まぁ、悲しいかな、「花より団子( ̄∇ ̄)♥」な人間なのです。
ところが、その日ご一緒くださった、私が勝手に「銀座の“美しい女(ひと)”」と心の中でお呼びしております方が、真っ先に見つけられました。
「あそこにね、とても綺麗な花がありますね。」
と。
そこでお店の方にお尋ねして、仏手柑という名前を教えていただいたのです。
ですが内心、本気で盆栽などアウトオブ眼中だった(まるで眼中になかった)ワタクシは、とても驚きました。
だって、その方は、あまり視力もよい方ではいらっしゃらないのです。
眼鏡をかけないと、テレビの字が見えないとおっしゃっていました。
私は、当然のことながらそんなの余裕で見えます。
ですが、私より視力の悪いその方は、美しいもの、素晴らしいものを見る「視力」を、私などとは比べものにならないくらいお持ちでした。
そのとき、私は「お目が高い」という言葉を思い出しました。
「お目が高いって、この人のようなことを言うんだなぁ」と、つくづく思いまして、そのような人とお知り合いになれたことをとても幸せに感じました。
みちばさんではゆっくりした時間にお食事をいただきましたので、お食事が終わる頃には周りの席がとても空いてきました。
ですので、お店の方にご無理申し上げ、食後のコーヒーを是非とも仏手柑の前のテーブルに移動してそこでいただけませんか、とお願いしてみました。
すると快く承諾くださり、さっそくテーブルを移して、綺麗な仏手柑を間近に眺めながらコーヒーをいただきました。
宇賀神先生は仏手柑を背に座られました。
ご一緒くださった方は、花(実)と先生を見られるようにと、仏手柑を正面にご覧になるように座られました。
そして、先程の写真の蓮華印を結ばれた先生を笑いながらご覧になり、
「私にとっては宇賀神阿闍梨の手も、佛の手ですよ。」
と、おっしゃってくださいました。
先生の、人の痛み苦しみを癒す手は佛の手だと、おっしゃってくださいました。
この方は、難病を患われているのです。
佛の手だなんてとても畏れ多いことではありますが、「お目が高い」この方に、そんな風に言われて、私は本当に本当に嬉しかったです。
その日は12月の、クリスマスやお正月を前に輝きを増してきた銀座の街で、美しい女(ひと)と美しい花(実)を愛でながら、内心とても幸せな時間に浸っておりました。
ただ、「佛の手」に関しまして、大阪人のワタクシとしましてはどうしても話したいちっちゃな面白(?)エピソードがあり、「せめて少しは笑いを取らないと!」という大阪人根性がウズウズするのですが・・・。
ですが、今日のところは、この美しい方の余韻に浸りながら筆を置きたいと思います。
またいつか、あの素敵な時間に身を置けたら、と願わずにはいられません。
合掌