先日、お祓い、して参りました。(霊媒体質の方がご先祖様&その他大勢を呼び寄せてしまったお話。)
本来はお祓いとは神道のご祈祷を指すようですが、世間一般で「霊のお祓い」という言い方でよく知られておりますので、今日は便宜上このように書かせていただきます。
最近は出張など、色々と体力を使うことが多く、根性のない私はくたびれ果ててブログの更新も休みがちなことをお許しくださいませ。
今回はいつもの些細な霊を祓うお仕事ではなく、万余を超える数の霊(宇賀神先生談)で、しかも無縁さんだけでなく、なかには有縁のご依頼主様のご先祖様までいらっしゃいました。
そのために必要な佛具一式を持っていき、それが非力な私にはとてつもなく重たかったのです。
宇賀神先生がおっしゃるには、今回のことは、
「ただ数の多い不成仏霊を祓うのとはわけが違うから、わしにしては辛抱強く手順を踏んだもんだよ。」
とのことでした。
霊のなかにはご依頼主様のご先祖様もいらっしゃいましたので、とにかく皆々様に普通に???成仏していただくよう、「手順を踏んだ」そうです。
その手順とは、いわゆる「引導を渡す」ことです。
通常お葬式でお坊さんは亡くなられた方に対して引導を渡される、つまり、あの世へと導かれます。
それを今回、宇賀神先生は、霊媒体質でいらっしゃるご依頼主様が連れて帰られた万余の「有縁無縁の諸精霊」に対して行われたのです。
多分、ご依頼主様は喜んでくださっていたと思われます。
正確には、お祓いの前日に打ち合わせに?お会いしただけでも
「身体が少しラクになりました。」とおっしゃっていました。
ほらね、宇賀神先生に会うだけで、いらぬ霊は逃げていくでしょう?
なにしろ「避雷針」のようなお方ですからね。
ところで、つい最近知って驚いたことがあります。
この、いわゆる「霊のお祓い」を、一番重要な儀式として行う宗教団体があるようなのです。
どうご説明してよいのやら、ちょっと難しいのですが。
端的に申し上げますと、そもそもの信条が「亡者(この場合は、成仏できずにいる死者のこと)をあの世へ送る」ことに重きを置いている宗教のようなのです。
宇賀神先生と私が日常に使っております経典は真言宗の「常用経典」で、真言宗のお坊さんならどなたでも使っておられるものです。
また、宇賀神先生のなさっている加持祈祷(修法)も真言宗の作法にのっとっており、本山に行かれたときにちゃんとお修行なさったものです。
やはり秘密の「密教」ですので、内容は詳しくは申し上げられませんが、宇賀神先生の基本的な考え方としましては、お勤め(お経を読むこと)や修法は、佛様へ通じるご挨拶です。
真言宗で行われております「印(いん)」という作法は、指のヨガとも言われております。
ヨガが最近流行っているようですが、ヨガ(瑜伽)とは本来「つながる」という意味の、インドの古い言葉です。
何につながるのでしょうか?
本来の自分とつながる。
宇宙とつながる。
つまり、私たちにとりましては、佛様につながる、に等しいのです。
佛様は「法身」とも呼び、宇宙の真理そのものです。
真言宗では即身成仏(そくしんじょうぶつ)という概念も唱えられており、私たちは生きておりますこの身このままで佛様になりうるのだ、という意味です。
(私には果てしなく難しいですが。)
ですので、宇賀神先生(と、その教えを受けた私たち)にとりましては、毎日のお勤めは、
佛様へのご挨拶であり、
私たちがこの身このままで佛様とつながり、佛様となり、
宇宙につながり、
そして自分自身ともつながる、
というとても幸せなものです。
真言宗の根本経典の概念は、間違っても先述の某・宗教団体のように「亡者をあの世に送る」ためのものではありません。
そもそも、亡くなった方達の魂を全て「成仏できていない亡者」にしたてあげ、「だからお祓いしてあの世に送ってやらないと」という姿勢そのものが、何だか違う気がします。
たしかに、「迷っているかも知れない」と思うような霊もいるとは思います。
今回は、ですので、珍しく宇賀神先生が「あまたの霊を成仏させる」ための儀式を行われました。
ですが、それは本当に珍しいことです。
たいていは、たとえ霊がいるなと思われましても、
「そんなの大したことないから気にしなくていい。」
とおっしゃいます。
と申しますより、
「いても当たり前かもしれない」し、
「いてもいなくても、どっちでもいいじゃないか?」
「そんな見えもしない不確かで暗いマイナスの世界のものに心とらわれるより、もっと楽しいことのために生きなきゃならん。」
という態度でいらっしゃいます。
実際の今回の件では、ご依頼主様が苦しまれていたのは事実です。
現実的な問題として、今現在の霊障(霊により起こされた不具合)を取り除く、ということが必要でした。
お身体もひどい状態でいらしたわけですから。
何度も申し上げますが、滅多にないことですけどね。
私の知る限り、宇賀神先生が「有縁無縁のあまたの不成仏霊をお祓いする」ためだけの修法をなさったのは、初めてです。
(あとは40年ほど前、私がまだお会いしていないときですが、先生がこのお仕事を始められたばかりの頃に、一度ものすごい体験をなさいました。このお話もいずれまた。)
霊のお祓いのことを考えますときに、「清濁あわせ呑む」という言葉をよく思い出します。
佛様への清らかで純粋な祈りと(清)、
佛様へ祈りの儀式にのっとりながら、霊を祓うことが目的だという何だかおどろおどろしい修法と(濁)。
片方の佛様の祈りの世界だけに生きられましたら、どんなにかすがすがしいことでしょうと思いますが、まだまだ「苦海」に身を沈めております私には、遥か彼方の憧れの世界です。
それとも、「清」と「濁」に物事を分けてしまう私の考え方そのものが、そもそもお修行が足りずに苦海に沈みっぱなしになっている原因なのかも知れません。
早く浮上したいものですね?
今日も何だかちょっと歯切れの悪いような、論点もいまひとつ定まらないような(いつものこと?)、独り言のようなブログで申し訳ありません。
やはり霊のことも、とてもデリケートな問題でもあり、どのようにお話すればいいのか迷うところでもあります。
もしかしたら、「私の不幸は霊障のせいかもしれない、だからお祓いしてもらわないといけない。」と考えておられる方が、「霊なんて気にするもんじゃない」などという宇賀神先生の素っ気ないお言葉をお聞きになられますと、違和感を感じられるかも知れません。
歯切れが悪いくせに変にストレートに書いてしまっておりますこと、ご容赦いただけますよう、お願い申し上げます。
合掌