自己愛主義

先週末は湯の峰温泉に湯治に(氣をとりに)行っておりました。

なかなか出先でのブログ更新は私には難しく、ここのところ休みがちで申し訳ありません。

お詫びに?旅先での宇賀神先生の素敵な笑顔の写真を。

 

sake-please
「山の神、お酒をもう一本。」の図

 

この一本指の意味、いつもこのブログを見てくださっている皆様でしたら何のことかお分りになりますでしょうか?

そう、「山の神、お酒をもう一本ちょうだい♥」の指です。

 

あげませんってばv(^-^)v

 

宇賀神先生のいいところは「めげない」ところです。

そしてそれが悪く出ますと「こりない」のですが。

表裏一体ですね。

どんなに私に「お酒は1日1合まで。」ときつく言われましても、めげずに「今日は特別もう一本。」とおねだりなさいます。

 

よく、長所と短所は一本の線上にあるようなもの、と言われますね。

それがシーソーのようにバランスを取っているのですとか。

その人のある一面がシーソーの片方に傾いたときは長所として現れ、もう片方に傾いたときは短所として現われるのですって。

たとえば、「大らか」がある面では「大ざっぱ」となり、「勇敢」が悪くでますと「むこうみず」、となりますように。

 

先程の宇賀神先生の「めげない」というご性格は、本当に素晴らしいといつも思います。

私自身もそんな先生の強さにどれほど救われたことでしょうか。

イヤなこと、つらいこと、不安なこと、人生ですから色々と起こりますけれど、宇賀神先生の

「大丈夫。何の問題も無い!」

というお言葉に、いつも救われる心地がいたします。

「そんな、大丈夫っていう根拠があるの?」

と尋ねましても、

「根拠がなくても『自らを信じる』ことを自信っていうんだ。」

という、やはりいつもの返事がかえってきます。

訳が分かったような、分からないような言葉ですが、「自分を信じる」って、当たり前にできる方にはとても簡単なことかも知れませんが、そうでない大多数?の方達には案外と難しかったりするのかも知れません。

 

自分を信じること。

自分の健康を信じること。

自分の幸せな現在と未来を信じること。

 

言葉にしますと一見簡単なようですが、実際となりますと、つい

「この仕事はうまくいかないんじゃないか。」

「将来大変な病気にかかったり、もっと年を取ると寝たきりになるんじゃないか。」

「老後が心配。」

などという不安が頭をよぎりますものね。

 

宇賀神先生は、よく

「わしは100とハタチまで(つまり120歳まで)生きるからね。」

とおっしゃいます。

そんなに長生きされたら、美人薄命( ̄∇ ̄)で私の方が先にあの世に行きそうですヨ。

ちなみに先生は糖尿病をお持ちですし、脳梗塞もご経験なさいました。

なのにこの自信は一体どこから。

 

普通は、それぞれの心配事に対して色々な対策を講じておき、「備えあれば憂いなし」として少しは不安を和らげる、とするのでしょうが、宇賀神先生の場合はちょっと違います。

「困ったことは、困ったことが起きてから心配しても充分間に合う。(だから先に心配しない。)」

「人生はまず走り出して、こけたところがスタートだ。」

「こけてもタダじゃ絶対起きない。地面に何かいいものが落ちてないか探して拾ってから起き上がるんだ。」

これらの言葉は、宇賀神先生の口ぐせです。

踏まれても踏まれてもめげない雑草のような?強さです。

 

私としましては内心、「まずは『こけない人生』を目指してくれてもいいんじゃ・・・。」とツッコミを入れたいところですが。

(ですが、こんな風に書きますと、「わしはこれでも用心深く物事を進めてるよ。」とも反論されそうですね。)

 

宇賀神先生は、これらを総じて

「わしは『自己愛主義者』だから。」

と、よくおっしゃいます。

 

自分のことが大好き。

自分を信じている。

自分が必ず幸せな人生を歩むと信じている。

 

これらを総じて「自己愛主義」と宇賀神先生はおっしゃいます。

自分が自分のことを好きになれなくてどうするんだ、と。

 

これは、自分のことだけが大事で他者はどうでもいい、というのとは違います。

他者を大事にするためにも、まずは自分を大事にできる人間でないと。

事実、私の目から見てですが、自己愛主義を名乗ってはばからない宇賀神先生は、たくさんの人達の救いとなっておられます。

 

心理学のことはよく分かりませんが、宇賀神先生を横で見ていますと、自分を好きでいることと、幸せな人生を歩む上でめげない強さをもつことは密接に関係しているように思えます。

ときに、と申しますよりほとんどの場合?宇賀神先生の

「絶対、大丈夫!」

という言葉は何の根拠もなかったりするのですが、それでもその言葉に力を得て前に一歩踏み出せる方達がたくさんいらっしゃるのは、宇賀神先生の生き力の強さを感じられ、勇気を得られるからかも知れません。

私はいつも、宇賀神先生からお加持や氣に関することだけでなく、人生を歩む上での考え方もたくさん学びたいと思っています。

先生の底抜けの明るさと自信の源を、私も持ちたいと願ってやみません。

 

ただ、「めげない」強さの源の「自己愛主義」は大いに賛成いたしますが、ときにそれが悪く出る「こりない」は、ちょっとやめてほしいなぁ、とも思います。

「こりない」の代表はもちろん、宇賀神先生の得意技の盗み酒!

結局私にバレて雷を落とされることが多いのですから、少しはこりてくれよー、と日々願っております。

でも・・・こりないんだなぁ、これが。

シーソーのバランスは、難しいようですね?

と申しますより、先生はきっと「これはこれでわしのバランスだから。」とか何とかおっしゃって、改めるおつもりも無いのでしょうねぇ。

あーあ。

 

合掌