コンタクト

いつものことですが、目に見えない存在を感じたときの感覚は不思議です。

神様や佛様、お大師さんなど、また、霊でも、およそ目に見えない存在の方達に出会った瞬間には、「確信」することがあるのです。

例えばそれがお大師さんであるとか、霊ならばどんな性別でどのくらいの年齢で、とか、その時々により様々な情報を。

「なぜか分からないけれど、でも絶対に知っている」「だって、この目で見たもん!」としか言えないような確信がある、ということが多々あるのです。

 

たとえば、以前お話したことのございます、事故を引き起こされそうになった幽霊船ならぬ幽霊車?(あるいは残留思念の車?)のときなどは、中に乗っている人まで見えておりました。

私の目に映りましたものは、白髪のおじいさん1人と、もう少し年下くらいの女性2人が乗っておられる白い車でした。

 

まあ、それにしましても先日の亀戸の天神さんのお話といい、ますますファンタジー映画のようなお話ばかりになってきております。

ですがこのブログに書いておりますことは私の創作などではなく、本当に見聞きした(と私が感じた)ことなのです。

証明・・・できるといいですのにねぇ。

 

自分は「確かに見た、聞いた」と思っておりましても、証明できないその事柄をこうしてブログで書くことの功罪を時々考えます。

宇賀神先生のお加持の実績(実際にご相談者様の病気が治った、とか願い事が叶った、とか)は現実に起こったこととして書けますが、それすらも因果関係を証明できない、と言われてしまえば「そうですね。」と答えるしかありません。

ただ、それに関わった先生や私、ご依頼くださったご相談者様だけが「先生のお加持により成就した」と確信しているのみです。

 

この「当事者だけが確信している」という感覚がよく表現されておりますのが、「コンタクト」という映画だと私は思います。

ジョディ・フォスターさん主演のハリウッド映画で、私も好きな映画です。

この映画の最後にジョディ・フォスターさんが“その”存在を懸命に訴えるシーンがあるのですが、ものすごく共感しました。

その感覚、その思い、まさに私が感じているものと同じで、この物語の著者であるカール・セーガンさんも神様とかの「目に見えない何か」に出会われたことがあるのでしょうか、とびっくりしました。

もしそうでなく、全くの彼の創作でしたら、ものすごい想像力です。

小説家でいらしたら当然でしょうか?

ノーチラス号を予見なさったジュール・ヴェルヌさんのように?

 

ただの映画としましても面白い作品だと思われますので、もし機会がございましたら是非ご覧になってみてください。

ちなみに、Amazonさんのプライム会員でいらっしゃいますと、今ならタダで見られます♥(プライム会員の年会費が必要ですが。)

 

さきほど、「(科学的に)証明できない事柄を書くことの功罪」と申し上げましたが、それはやはり世の中の霊能者と名乗られる方に、たとえば「お祓いをしないと大変な不幸が起きるよ。」などと脅かされる方が本当に数多くいらっしゃるからです。

請求される金額も数万円から、多いと何百万円(のお墓や壺、祈祷料など)と、尋常ではありません。

そんななか、宇賀神先生だけはそのように脅すようなことはすまいと思われていますが、私がこうして「目に見えない世界があります」と書いていることをご覧になった方が信じてくださり、それにより変に脅すような他の霊能者の言葉を信じてしまわれたらどうしよう、と思います。

 

(またちょっと違う話ですが、多大な恩恵を被っております西洋医療に対して変に拒否反応を起こし、全てを否定されても困ります。

西洋医療は西洋医療でありがたく、宇賀神先生のお加持は先生のお加持でありがたく、相反するものではございません。)

 

そして、たしかに宇賀神先生もお祓いをお引き受けすることはございます。

実際に先生がご依頼の場所に出向かれてお祓いなさる場合は特に、毎日のお加持よりは高額です。

ですが、それは先生が本当に必要だと思われ、かつご相談者様の方から望まれたときのみです。

先生の口から

「このお祓いをしないとあんたに大変な不幸が起きるよ。」

などとおっしゃるセリフをお聞きしたことなど、ただの一度もございません。

 

でもなぜか、先生の

「大丈夫だよ。」

のセリフは信じられなくても、他の霊能者の

「大変な不幸が起きるよ。」

という不安をあおるセリフを信じてしまわれる方が多いのですね。

そりゃあ、「そんなもの見えない」人からなさいましたら、どっちが本当か分からないですものね?

となりますと、不安の方が勝つのでしょうか。

 

私がこうして目に見えない世界についてブログを書くことの功罪。

どうかなるべくでしたら、罪の部分が少なくありますように。

 

これを読んでくださる方々の、

幸せを願われるお気持ちも、

健康を願われるお気持ちも、

死者を悼まれるお気持ちも、

神様佛様を信じなさるお気持ちも、

氣という目に見えない力にワクワクなさるお気持ちも、

心無い人達に踏みにじられることのないよう、願っております。

 

 

***

と、今日のこの記事を宇賀神先生に見ていただきましたら、先生が、

「証明、科学的に証明っていうけど、それを言うなら、地球がものすごいスピードで宇宙を走る?のを誰もその目で見たことないんだよ。」

「だから別に、あえて証明なんてしなくてもいいんだよ。

だって、ある時代から『宗教と科学を分けましょう』ということになって、今までうまくきているんだから。」

「それに、『科学的に証明されてる』って聞くと実際の目で見なくても人は信用するけど、いくらわしが目の前で人の痛みを取り除いても『科学的に証明さてれいない』って、誰も(ご相談者様を除いて?)信用しないんだから。」

と、のたまいました。

確かに計算上、あるいは観測上?証明はされていますが、地球と太陽の引力圏から離れて、地球がものすごいスピードで太陽の周りを回っているのを、実際の目で見た人はいらっしゃいませんねぇ。

また、この説がコペルニクス?ガリレオ・ガリレイ?により唱えられましたときも、現在でしたら当然の常識であるはずのこのことを、当時の人は信じられませんでした。

そして目の前で先生のお力を見た人でさえ、トリック?何かの間違い?と思われる方も少なくないのですもの。

先生の示唆には、二重・三重の観点から、ちょっと考えさせられました。

 

宗教と科学がイコールで結ばれていた中世までの時代と現代。

もちろんイコールで結ばれていた時代にも、功罪はございます。

きっとイコールでない今の時代にも、功罪もあるのでしょう。

ですがデメリット(罪)よりもメリット(功)の方が大きいとして現代の価値観が構成され、現代に生きる私はその恩恵を受けて生活できております。

ありがたい時代だと心から思っております。

 

ただ、はるか以前の、お大師さんが唐に渡られ、密教を日本に持ち帰られた時代などは、密教(宗教)は「最先端の科学」でした。

そんな面白い時代もちょっと見てみたかったな、とも思います。

 

合掌