ぴかぴか光る運の玉 その2 「お諏訪さんに、いただきました。」

昨日お話しました「頭上にぴかぴかと光る運の玉」は、多分ですが、クラウンチャクラの輝きを宇賀神先生がご覧になったものだと思われます。

ですので、「誰にでもあるチャクラ」の輝きなのです。

ただ、その輝きの度合の差が、人によりあるのだと思われます。

 

チャクラという言葉をお聞きになってもピンと来ない方(うちの両親とか)もいらっしゃるかと思われますので、簡単にご説明いたします。

日本でなじみのある言葉ですと、例えば「下丹田」というものがございますね。

あまり「氣」について詳しくない方でも、下丹田と聞かれましたら、何となくのイメージがつかめるかと思われます。

昔から日本で言われている、おへその下あたりの、何だかよく分からないけれど「力が入る場所」として使われてきた場所です。

エネルギーの中枢としての?人体上の場所、と申しますか。

日本で言われております丹田でしたら、上丹田(おでこの真ん中あたり)、中丹田(胸の中心)、下丹田(先述のおへその下)の3か所がございます。

下に行くほど生命力に関する原初的なエネルギーを司り、上に行くほど精神的・霊的なエネルギーに関わりがある、とされています。

 

それが、インドのヨガの世界では、似たようなエネルギーの中枢(=チャクラ)が7か所もあるというのです。

チャクラも身体の中心線を通るように7か所に存在していて、下に行くほど原初的な生命エネルギーに関与し、上に行くほど精神的・霊的なものに関与する、という概念は、日本の丹田と似ています。

そして1番上にございますのが、頭上から少し浮いたところのクラウンチャクラです。

クラウンとは、つまり冠のように、頭の上に頂いている、ということですね。

 

ですので、冒頭でも申し上げましたが、宇賀神先生がご覧になられた「運の光の玉」がクラウンチャクラに該当するのでありましたら、それは誰でも持っているものです。

ただそのクラウンチャクラのエネルギーの強さは、人それぞれになるかと思われます。

やはりエネルギーが強い人は運も強いでしょうし、弱い人は運も弱いのでしょうね。

 

ところが、今日これからお話しようと思います「運の玉」は、昨日のものとは少し違うものも含まれるかも知れません。

前置きが長くなりましたね。

今日のは、宇賀神先生が諏訪大社さまに運の玉を「いただいた」ときのお話です。

 

あれは去年の秋のことです。

宇賀神先生と私は、長野県の諏訪大社さん(お諏訪さん)にお参りに行きました。

例によって例のごとく、温泉とセットで、サンダース号で行きました。

すると、行く途中の車の中で宇賀神先生が、

「お諏訪さんが『来たら運玉をあげる』って言ってる。」

と、急におっしゃいました。

「ええーっ、何、その幸運!」

と、ちょっとびっくりしました。

 

果たして二人でお参りし、その時ちらっと横を見ますと、宇賀神先生が何やら目に見えない玉のようなものを両手でいただいて、それを額のあたりに入れるような動作をなさっていました。

うーん、本当にお諏訪さんに運玉をいただいてらっしゃるのだろうか。

自分の信条として「神様佛様におねだり(お願いごと)はしない。」と決めております私ですが、このときばかりは、ちょーっとばかり、先生のことが羨ましくなりました。

ですので、いつものようにご挨拶申し上げた後、お諏訪さんに話しかけました。

 

「いえ、あのね?

あのですね?

宇賀神先生が貰われたような幸運の玉、ちょっといいなーなんて、思うんですよね。

いえ別にね、欲しいっておねだりするわけじゃないんですけどね。

ちょっと羨ましいなーなんて、思うんですよね。」

と。

 

すると驚いたことに、私はそのとき神様のお返事を聞いてしまったのです!

私は常に神様のお言葉をお聞きできるわけではありません。

本当に、何かの拍子にお言葉をいただけるときと、イメージを見せていただけるときと、そうでないとき(の方が多い)があるのです。

ですがそのときは、はっきりとしたお言葉としてお聞きしたような気がいたしました。

 

私の話しかけにたいして神様は、ありがたいことに

「何を言う。お前こそが『運玉』じゃ!」

と、おっしゃってくださったのです。

 

イメージではなく、はっきりとしたお言葉をお聞きしたこと自体もびっくりしましたが、さらにそのありがたい(有り難い)内容にも驚きました。

ですが、そのとき私に見えた「私の運玉」のイメージは、温かい光ではありましたもののそれほど輝きが強いようには見えず、宇賀神先生にお聞きしていた「ぴかぴか」の輝きからは遠いような気がいたしました。

「ええーっ、ありがとうございます!

ですが・・・ちょっと私のは光が弱いような気がするのですが・・・。」

と申し上げますと、神様は、

 

「だからこそ、『玉磨かざれば光なし』と言うのじゃ!」

 

と、きっぱりとおっしゃいました。

 

Oh, my God・・・!!

 

と、思いましたね。

 

あまりにも当たり前すぎる、正論すぎるお言葉でした。

さすが神様です。

清く、正しく、美しくていらっしゃいます。

 

改めて敬服し、

「おっしゃる通りでございますー!

ありがとうございますー!!」

と、平伏してお礼申し上げました。

 

あのとき宇賀神先生がお諏訪さんに何をいただかれたのかは分かりません。

もしかしたら、普通はなかなか貰えない、とってもいいものだったのかも知れません。

ですがあの時、あの有り難いお言葉をお聞きして、先生のことを羨ましく思うことはなくなりました。

「私こそが運玉。」

「玉磨かざれば光りなし。」

これ以上の指針は必要ないですね。

 

このお言葉を下さったということは、

「磨けよ。」

つまり、

「お修行に励みなさいよ。」

ということです。

つまり、

「磨けば光るのだから。」

と。

 

たとえ今の時点で「前世からの功徳(貯金)の繰り越し」がめちゃくちゃに多くなくても、今世の「磨き」次第でいくらでもぴかぴかになるんだ。

そう思いますと、奮い立つような気持ちになり、勇気がわいてきます。

クラウンチャクラがどうのこうの、ではないのです。

全身で光り輝くような存在になるのです。

 

また、もうひとつ付け加えますならば、お諏訪さんのそのお言葉をお聞きしましたとき、「私」だけが特別な運玉なのではなく、皆一人一人が運玉なんだ、とも思いました。

ですので、どなたも実は幸運の運の玉で、さらに、ご本人がそれを磨くことにより、ますますその輝きは増していくのだと、そう思いました。

いえ、表現がちょっと違いますね。

「私が思った」と申しますよりは、「お聞きして分かった」のです。

私はお諏訪さんにお聞きして、そう分かりました。

 

誰もが皆、ぴかぴかに光る可能性を秘めている「運の玉」。

磨かない手はないですね。

(はやく私も全身で光り輝きたいもんだ( ̄∇ ̄)♥)

 

合掌