正直に告白いたします。
もちろん私自身も温泉の中で氣を取るようなイメージを持ち、呼吸しますが、宇賀神先生のように強烈に取れるかと申しますと、多分そうではありません。
宇賀神先生は、ご自身がなさっているお加持や氣功に関しましては、「誰にでもできる」という信念のもと私達に勉強会で教えてくださっています。
ですが、例えますなら、「教えたらきっと誰でもある程度は速く走れるようになるけれど、誰もがオリンピック選手並みに速く走れるわけではない」という個々人の差は、残念ながらございますね。
氣功に関しましても、同じことを感じます。
まずそもそも、持って生まれた氣に差がございます。
これを「先天の氣」と申します。
この先天の氣は両親からいただいたもので、漢方で申しますところの腎氣だそうです。
腎氣とは、正確には腎臓そのものにのみ宿るわけではないようですが、腎臓とは大いに関係あるようです。(すみません、めちゃくちゃ難しい漢方は私はよく分かっておりません。)
腎氣を両親からいただいてこの世に生まれてきて、年とともに減っていき、最後は無くなって文字通り亡くなります。
この腎氣=先天の氣が豊かで力強いと申しますような、恵まれた方がいらっしゃいますね。
先天の氣が強いと、身体が丈夫だったり、また運も強かったりします。
逆にそうではない方もいらっしゃいますね。
ですが、先天の氣がございますなら、「後天の氣」も存在いたします。
後天の氣は、別名「水穀の氣(すいこくのき)」とも呼ばれるそうです。
これは生きていく中で、自分で得ていくものです。
水穀とは、文字通り水と穀物、つまり食べ物を意味します。
申し上げるまでもないですが、私達は他者の命をいただいて生きております。
動物(肉類)にしましても、植物(野菜)にしましても、もともと人間と同じく生きていて、栄養素だけでなく、人間と同じように氣を持っておりました。
やはり新鮮ですとか、農薬や添加物などの薬品を使っていないものの方が、よい氣に溢れているでしょうね。
また、食べ物のほかに後天の氣を得る方法といたしまして、代表的なものは、
*氣功による導引術
*功徳を積む
だと、宇賀神先生はおっしゃっています。
氣功による導引術に関しましては今週ご紹介しました「一番簡単な氣を取る瞑想法」をご参照くださいませ。
お若い頃の宇賀神先生は、もっぱら導引術に専念して今のお力を得られました。
次の「功徳を積む」が、なぜ後天の氣を得るのに大事なのかは分かりづらいかも知れませんが・・・。
今日のお話の中での功徳とは、道徳的な意味の功徳とは少し違い、つまりは「氣を用いて人様の苦しみを取り除くこと」に特化したもの、と捉えてください。
宇賀神先生は、いつも、
「氣はお金と同じ。」
とおっしゃっています。
それは、
「たくさん持っている方が有利。」
というのと同時に、
「使うのは簡単だけど、稼ぐのは大変。」
という意味もあります。
「子供にだってお金は使えるけど、子供にお金は稼げないだろ。」
と、いつもおっしゃっています。
皆様も一般的な気功治療という言葉をお聞きになられますと、「他者の患部に手を当てて氣を入れる」ようなイメージを持たれるかと思われます。
それぐらいポピュラーなイメージですね。
実は、あれは誰でも結構簡単にできてしまうのです。
と、申しますのも、例えば自分のお腹が痛いとき、人は自然とお腹に手を当てますよね。
看護師さんの「看」という字は、「手を目の上に(キリスト様のように)かざして治す」という象形文字からきているそうです。
つまり、太古の昔から、人は本能的に「手を当てて」=「手当て」、治してきました。
ですので本当は、この手当ての力は人間の本能的なもので、誰にでもあるのです。
当然、自分だけでなく他者にだって効きます。
ところが、「氣はお金と同じで、使うのは簡単だけど稼ぐのは難しい」のです。
ですので、「人が痛がっているところに手を当ててあげたら治ってしまった。」と申しますようなときは、つまりは自分の貯金を他者のために使ってしまったときなのです。
氣を貰ったほうの人はお金をもらったのと同じで元気(裕福)になりますが、氣をあげたほうの人はお金を使ったのと同じで貧乏になってしまいます。
よく、「自分は天からの氣を通すパイプ的な存在で、他者には自分の氣を分け与えているのではなく、天からの氣を自分の手を経由させて届けているだけ」と、おっしゃる方もいらっしゃるのですが・・・実際のところは分かりません。
もちろん時には、宇賀神先生も意念としては「天地宇宙の氣を用いて」氣を入れられるようなときもございますが、だれ彼ともなく手を当てて氣を入れておられるわけではありません。
体内の氣を測る測定器などないわけですから、むやみやたらとそのようなことをするのは、ちょっと怖い話です。
先生はお仕事で1日に何人もの方を相手になさるのですから、下手をしましたら、自分の氣(イコール、命の源)を減らしてしまいます。
では何故、そんな氣を減らすかも知れない行為が「功徳を積む」として、氣を増やすための手段となり得ますのか?
宇賀神先生は、いわゆる「気功」に近いことをなさいますとき、ほとんどご自身の氣を使わずに行っておられます。
お金に例えますなら、自分の貯金の利息部分だけを投資し、更にその投資の利益部分のみを使う、というイメージでしょうか?(うーん、そんな生活してみたい。)
そして、反復練習すればするほど、その分野には長けてきますね。
氣を、量ではなく回数・機会として使えばつかうほど、ますます氣に精通し、ますます氣を導引できるようになれます。
ですので、功徳を積む=人様の苦しみを取り除く、をすればするほど、氣を増やすことができる、と宇賀神先生はおっしゃるのです。
人様の苦しみを取り除くことは、佛教の言葉で申しますところの、「抜苦与楽(ばっくよらく)」となります。
つまり、衆生の苦しみを取り除き、安楽を与えるという佛様のお仕事(慈悲)と同じです。
宇賀神先生は、氣の鍛錬をすればするほど、人様のお役に立てて、佛様の抜苦与楽のお仕事のお手伝いもできる、と申しますような、なんとも贅沢な立場にいらっしゃるのです。
「わしは神さん佛さんのエージェントだから。」
と、先生はいつもおっしゃっています。
エージェント、つまり、神様佛様の手先となって働くんだ、と。
いいですね、ジェームズ・ボンドかイーサン・ハントみたいで。
なんだか書いてて羨ましくなってきちゃいました。
合掌