指導霊の存在

以前に宇賀神先生が氣というものに関しましては、全くの無師独学でここまでいらした、とお伝えしました。

小学校5年生のときに出会われた「日本ターザン」のたった一言だけを頼りに、この氣の世界を切り開いてこられた、と。

ひとつには今の宇賀神先生ほど氣に熟達された方が周りにいらっしゃらなかった現実もございますし、もうひとつには宇賀神先生が殊勝にも人様に頭を下げて教えを乞うということが難しい性格でいらっしゃる?のもございますね。

 

もちろん氣に関連があると考えられて、民謡から武術武道などの色々は習いに行かれました。

氣は呼吸と関係があるのではと考えられ、小学生のときに民謡を。

武田惣角さんのことを知り、氣と大いに関係のございます合気柔術を。

そのような色々な町中の道場ではもちろん先生方についてご指導を受けられました。

氣というものを体内に取り入れ、それを練り、発揮して使いこなすために必要なものは何かをご自身で調べられて、考えられて、色々と試してこられました。

 

このように、宇賀神先生は氣というものに関しましての「人間の」師匠はいらっしゃらないのですが、実は「人間ではない」師匠は、それこそ軍団のように山のようにいらっしゃいます。

先生はその方達を「指導霊」と呼ばれています。

 

宇賀神先生がおっしゃるには、

「例えば何年も柔道をしていた人が公園を通りかかると、その公園で子供が木に紐をくくりつけて、柔道の打ち込みの練習を一所懸命していたとするだろ?

それを見たら『違う違う、そこはもっとこうして・・・!』とか、思わず教えてあげたくなるじゃないか。

自分の方が先を行く技術や知識を持っていて、一所懸命に練習している人を見たらお節介を焼いて教えてあげたくなるような。

そういう霊が実は一杯いるんだよ。

その霊達が、わしが色々悩んでいると、「それはな、」とか言って教えに来てくれるんだ。

見ず知らずの霊がたくさんな。」

とのことです。

 

ええっ、霊はマイナスの存在だから関わるな、ってあれほど言ってたのに?と思われた方もいらっしゃるかも知れませんが・・・世の中、霊にも色々あるようでして?

ですが、もしかしたらそれは霊ではなく、この世に漂う先人の「思念」かも知れません。

正直なところ、よく分かりません。

ですが、教えてくれる何かの存在があることは確かなようです。

 

宇賀神先生と一緒に暮らしておりますと、突然

「いま後ろ(守護霊団や指導霊のこと)から知らせが入った。」

とかおっしゃることが多いのです。

「その後ろって、今回は誰?」

と尋ねますと、

「たぶんお不動さん。」

などと答えられるときもございますし、

「いや、誰か分からない。」

とおっしゃるときもございます。

たまには

「でも何だかいいかげんな人がいいかげんなこと言ってるな。」

などとおっしゃるときもございます。

 

その正確さも、驚くようなドンピシャリの回答をくださるときも多々ございますし、いやまあ何と嘘っぱち、と言いたくなるようなときも、たまにはございます。

少なくとも、宇賀神先生の横にいて退屈はしませんね。

見えない存在から色々なことを教わるのが日常なのですから。

 

たとえば、私は随分と以前にお琴を習っていたのですが、外の教室に習いに行くきっかけとなったことが、ラジオで偶然「遠藤千晶さん」とおっしゃる方のお琴の演奏をお聞きし、その音色に心魅かれたことでした。

小さいころには母からお琴の手ほどきを少し受けていましたが、ちゃんと先生について習いたいと思って教室を探しました。

梅田のNHKさんの文化教室に素晴らしい先生がおられ、その方の教室に通うことにしました。

その方はかの有名な宮城道雄さんのお弟子さんにあたられる人(宮城派の人)でした。

しばらく習っておりますと、宇賀神先生が急に、

「綾野さんの好きな遠藤千晶さんは宮城会の人だ、って“後ろ”が言ってる。」

と、おっしゃいました。

私は遠藤千晶さんがどのような人なのかは知らなかったのです。

ただ後に偶然ラジオで、遠藤千晶さんのお師匠さん(砂崎知子さん)のお名前だけはお聞きしましたが、その砂崎知子さんのことももちろん分っていませんでした。

「ホントにー?」

と思わず言いましたが、事の真相は分からずじまいでした。

ところがそれからずいぶんたって、私のお琴の先生のご主人さんのお葬式に参列したときに、お花を贈られた方の中に「東京宮城会 砂崎知子」と書かれて遠藤千晶さんのお師匠さんの名前がございました。

遠藤千晶さんのお師匠さんが宮城会の方でしたら、当然遠藤千晶さんも宮城会の方です。

つまり、宇賀神先生が「後ろ」から聞かれたことが本当だったことが、随分たってから判明したのです。

 

そしてお琴を練習しておりました当時、宇賀神先生が

「遠藤千晶さんのことを教えてくれた霊が、綾野さんについてやってもいい(!)って言ってる。」

と、おっしゃいました。

その霊の応援してくれる?気持ちが嬉しく、もちろん二つ返事でお願いしました。

別にその霊が後ろについてくださったとしても、急にお琴が驚くほど上達するわけではありません。

ですがその霊についてもらってから、今まで習ったことがなく初めて聞くような曲でも、どこか遠い記憶で知っているような感覚があったのは不思議でした。

とても繊細ではありますが、その感覚は確かに、指導霊がついてくれてから感じるようになりました。

 

今はもうお琴をやめてしまいましたが、そのときの指導霊の気持ちが嬉しく、今もずっとその霊の「供養」を続けております。

ですが、もうお琴を練習しなくなった私からは、その指導霊は離れてしまったかも知れません。

「一所懸命に打ち込んでいる人に教えてあげたい」というのが指導霊ですから、あり得る話です。

 

皆さまもご経験はないでしょうか?

何かひとつのことに打ち込んでいて、行き詰ったときに、ふと誰かが教えてくれたのでは、というようなひらめきが。

それはもしかしたら指導霊なるものの存在かも知れませんし、皆さまの潜在意識のなせるわざかも知れませんし、もしかしたら奥深くにしまい込んだ知識を思い出しただけかも知れません。

 

うちの母なんかは、縫物をしていてちょっと迷ったあげく、ふと解決方法が分かりますと、

「絶対に(お裁縫がプロの腕前だった)お母ちゃんが教えてくれたんや、て思う。」

と申しております。

その感覚、たぶんホントだと思うよー、と、私はニマニマしながら聞いております。

 

指導霊、何ともありがたい存在ですねぇ。

 

合掌

6件のコメント

  1. 日曜日はありがとうございました。小西恵さんも参加できて喜んでいます。今後とも、よろしくお願い致します。

    1. こちらこそ、ありがとうございました。
      またいらしてくださるのを楽しみにしております!

  2. 宇賀神先生には強力な善のエネルギーが指導霊としてついていらっしゃるのですね。その方々のお力は計り知れないのでしょうね。

    指導霊や守護霊と似たような存在に、カトリックには守護天使がいます。といいましても、私はあまり信じていなかったのですが‥
    以下長くなりますので、お時間のあるときにでも読んでいただけたら幸いです。

    昨日ちょっと不思議な体験をいたしました。前から行きたいと思っていた横浜西方寺さんで、初めて阿字観瞑想に参加できたのです。本当は昨日の朝の時点で体調が万全ではなかったので行くのを取り止めたのですが、急に思い立ってでかけました。

    じつは亡父の実家が、和歌山県の伊都郡にあった関係で、高野山は子供の頃から聞き知っておりました。今年の四月に亡くなった母が生前、毎年夏に帰省するたびに高野山に行きたいと申していたからです。でも昔の女性だから舅たちに遠慮したのか、ついぞお参りできずじまいでした。私もずっとそれを残念に思っておりました。

    そんな母の誕生日が今日6月23日なんですよ。もしかしたら私の守護天使さんが、お母さんのためにも西方寺さんにお参りしておいで~、と背中をおしてくれたのでしょうか。それともお大師様が呼んでくださったのでしょうか?いずれにしても、お陰さまで不思議な安堵感と気持ちのよさに包まれた一日となりました。亡き母への供養にもなったかしら、とおもっております。

    うっかりものの私は、雨もよいの中傘をお寺においたまま帰ってきてしまいました(汗)またいらっしゃい、と言ってくださってるのかしら、などと都合のいい解釈をしております(⌒‐⌒)

    ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

    1. 服部様
      宇賀神先生はいつも、一番いい供養とは故人のことを思い出し、『あの人はこんなだったね』と懐かしむ思いだよ、とおっしゃってます。
      その思いが届くのですって。
      また、故人の子孫が幸せに暮らすことも、何よりの供養だそうです。
      今回のことで、服部様ご自身が安堵感と気持ちのよさに包まれたと感じられましたのでしたら、お母様はそれを何よりお喜びかと思われます。
      とてもよいご命日をお過ごしになられたとお聞きし、私も嬉しく感じました。
      ありがとうございます。

  3. 供養についての貴重なアドバイスをありがとうございます。

    故人にすまない気持ちを持つのではなく、その人にまつわる思出話をしたり幸せな気持ちで毎日を過ごすことが何よりも大切なんですね!

    1. はい、少なくとも私達はそう信じています。
      たとえば「もしも逆の立場だったら?」と考えてみます。
      私には子供がおりませんが、もしも私の死んだあと、可愛い甥っ子や姪っ子が私のことを思い出してくれるときに「あんなことして悪かったなぁ」と、すまない気持ちで思い出してくれるより、「あやのちゃんとはあんな楽しいことをしたなぁ!」と、幸せな気持ちで思い出してくれる方が、よほど嬉しく思います。
      そして何より、甥っ子と姪っ子が幸せに楽しく暮らしてくれている方が、なんの心配もなく成仏できそうですよね!?(^-^)

現在コメントは受け付けていません。