水子供養

先日、日本でよく言われております水子供養につきまして、お伝えしたいことがございますと書きました。

それは、水子供養の名のもとに多額の金額をとられる事態におちいり、苦しまれる人が多い時代があったからです。

たぶん今でもその名残はあるのではないでしょうか。

 

単刀直入に申し上げますと、そもそも「水子供養」などという概念は佛教上のどこの宗派にもありませんでした。

たしか1歳未満で亡くなった子供(中絶や流産などによる死産も含めまして)は、以前は孩子(がいし)と呼ばれていたようですが、そもそも、とくに遺骨もない胎児を供養する概念がなかったのですとか。

 

ところが日本で戦後、海外へ出兵していた兵隊さん達が皆帰国なさったときに、ベビーブームが起きます。

たくさんの女性が妊娠なさるのですが、何しろ日本は焼け野原で今日食べることにも事欠く毎日です。

当然、赤ちゃんが生まれても育てられないと中絶する方達も一度に増えました。

戦後の日本で優生保護法の名のもとに中絶が許されるようになったのです。

 

女性でしたら一度身ごもった子を、まだ形作られていない程の日数でありましても、堕胎することは心に深い傷を負います。

例えばある日、そんな女性が膝を痛めますと、自称・霊媒師や占い師、新興宗教団体が

「あんたの膝には水子がついてるよ!」

などと言って脅かすのです。

そしてその水子の供養と称して多額のお金を取るのです。

「水子があの世でちゃんと育つために」相応の供養をしてあげないといけない、と。

水子があの世で育つなんて、その時代の多くの日本人に植え付けられた体のいい作り話です。

 

ベビーブームの時代背景は、そのまま「水子」扱いされる堕胎された胎児の増加につながりました。

そして、戦後は水子供養で儲けに儲けて大きくなった新興宗教団体の多い時期でもありました。

つまり、詐欺的な水子供養に泣かされる人が多い時代でもあったのです。

 

ですが、ちゃんとした普通のお寺さん?にも「水子地蔵」さんが祀られてたりするではないですか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかも知れません。

正規の佛教でも水子供養は行われているのでは、と。

 

それは逆で、戦後に水子供養の名のもとに多額の金品を騙された方があまりにも多く、見かねた日本の佛教界の苦渋の決断でもありました。

そんな変な新興宗教団体に騙されるよりは、お寺で常識的な供養をなさってはいかがでしょうか、という態度をとられたのです。

以前にも申し上げましたが、お葬式や法事はお釈迦さまの御教え(佛教)とはあまり関係がなく、それは日本の「世俗の習慣」です。

(少しさかのぼりまして、インドで始まった佛教が中国に伝わった時点で、ご先祖を大事にする中国の文化と融合し、先祖供養が佛教に取り入れられたそうです。)

乱暴に申し上げてしまえば、死者を弔うことは、死者を敬い、生きている人の心を慰めるための世俗の儀式でしかありません。

昔からあった普通の?常識的な?お寺さんたちが、時代背景として増えてしまった中絶のため、水子供養を必要とする人々のために、それまで無かった概念を取り入れられました。

水子供養を必要となさったのは、供養の対象である「流された胎児」ではなく、中絶なさった「お母さん」の方だったのです。

 

ですが、それが結局功罪となり、今の時代となりましては、

「ちゃんとしたお寺さんにも水子地蔵さんがあるじゃないか。やっぱり水子供養は必要なんじゃないか。」

と思われる方も少なくないのだと思われます。

ニワトリと卵、どちらが先か分からなくなってしまったのです。

 

ただ、そのような背景を存じておりましても、また、まだまだお伝えしきれていないお釈迦さまの霊に関する様々のお言葉を存じておりましても、私もやはり日本人、先日お話しました、生まれて間もなく亡くなった私の従妹の供養をし続けたいと思っております。

実際には生後数日で亡くなりましたのに、夢の中で出会った彼女は高校生くらいの少女に育っていた、と書きました。

確かに私は彼女に出会った、と思ってはおります。

ですがそれはただ単に私の感性の問題です。

育っていたように思いましたが、それが本当かどうか分かりません。

育っていたことがいいことなのか悪いことなのかも分かりません。

そしてそもそも、その夢で出会ったのが本当かどうかすら、分からないのです。

お釈迦さまの遥か彼方の弟子でありたいと願う私としましては、これらのことは、どうでもいい、どちらでもいいことです。

それにこだわることは、私の修行に何ら寄与しません。

 

ただ、私は人の情として、同い年の従妹として生きるはずだった彼女のために供養しようと思っているだけです。

お釈迦さまも、ご自身の葬儀に関しましては、

「町の人と後世の学者に任せて、お前たち(お弟子さんたちのこと)はサイの角のように道を歩め」

とおっしゃいました。

世俗の習慣である葬儀を、ご自身には必要ないと思われていても、人々の習慣を否定なさることはなかった、と解釈しています。

 

ですので、水子供養をなさりたいと思われるお母さんやお父さんの立場の方のお気持ちを否定するつもりはございません。

人の情として、当然と言えば当然なのでしょうから。

ただ、その思いにつけ込まれるような事態にならないでいただければ、と願っております。

供養や佛教の名のもとに、誤解により不幸な目に合われる方がいらっしゃらないことを願ってやみません。

 

合掌