供養 その2

今日は私の経験から、お供え(供養)につきまして印象深かったエピソードをひとつご紹介したいと思います。

 

私には父方のおばが三人おります。

そのうちの妹二人は、確か40歳代と50歳代の、残念ながら二人ともまだ亡くなるには早すぎる年齢で亡くなってしまいました。

そのうちの一人の叔母には子供がおりませんでしたので、亡くなりましてからわりと早い時期に、私は毎食のお供えに叔母の名前も加えました。

私が生まれてから4歳くらいまで一緒に暮らしておりましたその叔母は、私と私の弟のことを、我が子のように可愛がってくれていました。

 

もう一人の叔母は、私は「Yおばさん」と呼んでおりましたが、子供、つまり私のいとこが二人おりましたので、あえて個別に名前をお唱えしてお供えまではしておりませんでした。

私はいつも松岡家先祖「累代」と、私の実家のご先祖様にお供えしておりますので、その中に入っていただいているという認識をしておりました。

 

ところがあるとき、何のきっかけだったかは忘れてしまいましたが、なぜかやはりYおばさんに対しましても個別に名前をお唱えしてお供えしようと思い、そうするようになりました。

本当に、今となりましては何がきっかけだったのか覚えておりません。

 

Yおばさんにお供えをしだしてからちょうど一週間ほどたちましたときに、私は夢を見ました。

 

夢の中で、私はどこかの病院の廊下のようなところにおりました。

とても明るく、まぶしいくらいの綺麗な世界で、周りには白衣を着たお医者様のような人達がたくさんおられました。

その中で一人、白衣でなく普通の服を着た、目がくりくりっとした可愛い高校生くらいの女の子と私はすれ違いました。

その瞬間はまるでスローモーションのように世界が動きます。

私はその女の子を見て、すごく懐かしいような、悲しく淋しいような、でもやっぱりどこかで会ったことがあるような、不思議な気持ちにとらわれました。

あ、そうだ、この子はYおばさんに似ているんだ、と思い、尋ねてみました。

「すみません。失礼ですが、ΟΟΟΟΟさんという方をご存知ですか?」と。

するとその女の子は何も言わず、ただ黙って首を横に振りました。

「そうですか、失礼しました。」

と、私は言い、お互いの目を見つめ合ったまま、彼女とすれ違いました。

でも彼女が私を見て、私が彼女の目を見る、それがとても切なく、胸にチクンと淡い痛みを伴うような思いでした。

そしてすれ違った彼女の姿を私は振り返って見ました。

 

その瞬間、私は一筋の涙とともに目覚めました。

そして目覚めたとき、その夢で出会った少女はYおばさんの子供で、生まれてすぐに(数日で?)亡くなってしまった私のいとこのKちゃんだと気づきました。

Kちゃんは私と同じ年に生まれました。

同い年のいとこになるはずでした。

ですが、悲しいことに生まれてすぐに亡くなってしまったのです。

私は夢の中で出会った少女がKちゃんの成長した姿だと、なぜか「知って」いました。

 

いつものことですが、この感覚は不思議です。

神様や佛様、お大師さんなど、また、霊でも、およそ目に見えない存在の方に出会った瞬間には、「確信」することがあるのです。

例えばその方がお大師さんであるとか、霊ならばどんな性別でどのくらいの年齢で、とか、その時々により様々な情報を。

1200年もの昔に生きておられたお大師さんに、実際にお会いしたこともないですのに、ましてやお写真もないですのに、見たこともない人に出会ってその人だと分かるなんて、普通はあり得ないと思います。

ですが、「なぜか分からないけれど、でも絶対にそうだと知っている」としか言えないような確信がある、ということが多々あるのです。

 

そして私はこの夢を見て涙とともに目覚めた瞬間には、それがKちゃんだと確信していました。

叔母の名前を尋ねたとき彼女は首を横に振りましたが、絶対にKちゃんだと知ったのです。

ですが、なぜ高校生くらいの年齢で現れたのかはわかりませんでした。

 

宇賀神先生に、夢で成長したKちゃんに会った、と話しますと、先生は

「それは綾野さんがYおばさんの供養をしだしたからじゃないのかな」

と、おっしゃいました。

私がYおばさんにお供えをしだして一週間ほどたっていたときでしたから。

Yおばさんにと送ったお供えが、母親からへその緒を通って胎児に栄養が行くように、Kちゃんに届いたのかも知れない、と先生はおっしゃいました。

 

そんなこともあるのかな、と、とても驚きました。

私が意図した叔母のさらに向こう側のKちゃんにまで、私のお供え物が届いたのでしょうか。

だとしましたら、とても嬉しいこと。

Kちゃんが生まれたのは確か私自身も生まれて数か月後(あるいは前?ごめんなさい、何日違いかは覚えておりません。)のことでしたから、実際には会ったこともないいとこでした。

ですが、叔母の二人の子供、Kちゃんの妹と弟にあたります、私の年下のいとことは小さい頃よく遊びましたから、もしKちゃんが元気に生きていてくれたら、同い年のいとことして仲良く遊んでいたと思います。

 

ですので、もちろんその日から、欠かさずKちゃんにも毎日ちゃんと名前をお唱えしてお供えを届けています。

あれから毎日お供えしていますが、数年前のあの夢以来Kちゃんを見たことはありません。

ですが、私はただただ、ご縁のあったKちゃんにお供えを届けたいと思い、そうしています。

佛教的な世界観で申しますと、「この世は縁によって成り立っている」ようですから、いとこというご縁に従い、また夢に出てきてくれたというご縁に従い、これからも彼女に届けようと思っております。

夢の中で初めて出会った彼女を、私はなぜか好きでしたよ。

血のなせる業(わざ)でしょうか。

 

ただ、彼女が成長した姿で現れたことに対しまして、ひとつ申し上げておきたいことがございます。

これはちょっと、日本には水子供養という言葉のもとに苦しまれた方が多くいらっしゃいますので、大切なこととしてお伝えしておきたいと思います。

そのお話は次回に。

 

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・・・と、申し上げつつ、

また明日から出張などで出かけますので、次回の更新は月曜日くらいになるかも知れません。

お許しくださいませー!

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合掌