人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その2

これはまだ宇賀神先生が仙台に住んでいらした頃のお話ですから、今から30年以上前のお話になります。

 

先生は当時仙台でも勉強会をなさっていました。

そこに参加してくださってた会員さん達をお連れして、青森県の恐山に行こうということになりました。

恐山は、青森や広くは岩手、秋田にお住まいの人達も信仰なさっている霊山です。

私はあまり詳しくは存じませんが、恐山は「あの世への入り口」と信じられているようです。

宇賀神先生がおっしゃいますには、山の上に「地蔵堂」と申しますお堂があるのですが、恐山を信仰なさっている人達は、亡くなられましたら皆、地蔵堂に行く(地蔵堂を通ってあの世へ行く?)と信じておられるようです。

 

恐山は名前が何だか恐いようですが、実際にも(私にとりましては)恐いところです。

私も10年ほど前に先生と一緒に行ったことがございます。

もちろん人々の信仰なさっている霊山ですから、聖地ではありますが、やはりあの世への入り口でもあり、まだまだ修行の足りない私にとりましてはやはり恐いような気がいたします。

山の上に「賽の河原(さいのかわら)」と呼ばれる場所もございますが、霧もよく出るような山の天気のなか、やはりどこか寂し気で(恐ろし気で)肌寒いような場所でした。

昔の人達はあの景色をご覧になり、賽の河原というものが本当にあるとしたらこんなところなのだろうと思われ、その名前をつけられたのでしょうか。

 

さて、宇賀神先生は当時の仙台の会員さん達をお連れして、「あの世の入り口」を皆さんにご紹介しに恐山へ行かれました。

恐山には宿坊がございますから、皆さんで泊まられたそうです。

夜になり、会員さん達とともに恐山に来る幽霊を見に出かけられました。

 

夜の霧の中、2本の電灯に照らされる道の脇で、皆さんとともに霊が通るのを待たれました。

やはり、さほど霊感のない方でも「見えやすい」環境があるそうです。

白い霧が電灯にボンヤリ照らされておりますと、そこを通る霊も見やすいのですとか。

うーん、と申しますより、恐山でしたらきっとどなたでも見えてしまいますねぇ。

そんなような霊山です。

 

はたして皆で見守っておりますと、白い霧の中、ある時スーッとさらに白いような暗いような影が通ります。

「あっ。」

と、やはり、ほとんどの方が気づかれるそうです。

「先生、今、霊が通りましたよね。」

と、皆さんおっしゃったそうです。

 

それからしばらく見続けておりますと、間隔を空けまして何度か霊の影が通りますのを皆さん目撃なさいました。

ある時などは、一体ではなく三体の影が同時に通ったそうです。

不思議がる皆さんに宇賀神先生は、

「たぶん今のは一家心中だね。」

と、おっしゃいました。

そして、陸奥新報でしたか、他紙でしたかは忘れられましたが、やはり翌日の地元紙に3人の一家心中の記事があったそうです。

 

他にも色々と恐くて楽しい?恐山エピソードを宇賀神先生からお聞きしてはいるのですが、それをお話しいたしますと、本当にただの怪談話になりそうで、この暑い夏にぴったりですね。

以前マスター・スジャンタのお話(本物のテレパシーを使う人)を書いておりましたときも「そんな予感」がしましたら、マスター・スジャンタらしき影がスーッと廊下を通られたのですが、このような怪談話を書いておりますと、また何かが来そうで、・・・って、本当に来るのですからマジでイヤです。(T-T)

まあ、来られましても、皆さん控え目に「来てますよ~」と申しますようなささやかな合図?を送って来られるだけですので、いいのですが。

怪談話をお聞きになりたい方は、ぜひ昼間にお会いしましたときにお尋ねくださいませ。

明るい日中にお話いたしましょうネ。

 

話を本筋に戻します。

 

とにかくこのように、恐山を信仰なさっている人達は、亡くなられますと、恐山へ来られます。

恐山が目的地ではなく、恐山を通ってあの世へ行かれるのかも知れませんが、とにかく来られるのだけは確かなようです。

 

ただそこで、ふと思いますのは、恐山を信仰なさっている人達は確かに来られるようですが、恐山を全く知らない、たとえば大阪人の私などは死んだ後に恐山に行くなんて、思ってもいないのです。

そもそも、宇賀神先生にこのお話をお聞きするまで、「恐山があの世の入り口である霊山」だなんて、全く知らなかったくらいですから。

ですので多分、私は死んでも恐山には行かないと思います。

 

当たり前と申しましたら当たり前かも知れませんが、これはある意味すごいことだとは思いませんか。

人は、その人が生前信じていたように、亡くなった後そこへ行くのです。

恐山へ行くと信じていた人は恐山へ。

信じていなかった人は、またきっと違うところへ。

恐山は、必ずしも地球上の全ての人が亡くなった後に行く(あるいは通過する)ところではないのです。

恐山を信じている人達のみ、行くところなのです。

 

この考え方が間違っていませんでしたら、恐山へ行くと思ってらっしゃる人が亡くなりましたら後に恐山へいかれますように、

たとえば、阿弥陀さまを信仰なさっている人は、阿弥陀さまのお浄土へ、

たとえば、沖縄のニライカナイ(沖縄に伝わります理想郷・楽土)を信じておられる人は、ニライカナイへ、

行くことになるのでしょうか?

 

そしてたとえば、

私はこの墓に入る、と思われた人は、そのお墓に入るのでしょうか?

昨日のお話でご紹介しましたお釈迦さまのお言葉のように。

 

(その3へつづく)

 

合掌