人は自分が思ったようになる。死後でさえも。(たぶん) その1

いつもこのブログページを書き上げましたら宇賀神先生にチェックしていただいているのですが、昨日の記事をご覧になった先生が、「このことも追記しておいて」とおっしゃったお話がございます。

それは、お釈迦さまとお釈迦さまのお弟子さんでいらっしゃいますアナンとの説話です。

 

アナン、またはアーナンダはお釈迦さまのお弟子さんの中でも「多聞第一(たもんだいいち)」と言われ、いつもお釈迦さまのそばにおられ、数多くのお弟子さん達の中でもお釈迦さまのお話を一番聞かれた方です。

ですのでお釈迦さまが亡くなられた後、お経の編纂をすることになりましたとき、必ずアナンに「これはお釈迦さまのお言葉として正しいかどうか」と申しますことを尋ねたそうです。

 

そのアナンがあるとき、お釈迦さまとの遊行の旅の途中で、道の脇にお墓を見つけられました。

お墓と申しましても紀元前の北インドのことですから、簡素な土饅頭に石が載っておりました程度でしょうか?

とにかくお墓をご覧になり、アナンはお釈迦さまにこう尋ねられました。

 

「このお墓の中に亡くなった人(の霊)は、いるのですか?」

と。

 

するとお釈迦さまは、こう答えられたそうです。

「あるという墓にはあって、ないという墓にはない。」

と。

 

お釈迦さまのこのお言葉を聞き、アナンは悟られたのですとか。

 

・・・いえ、ワタクシはさっぱり悟れないのですけどね。(^-^;)

一体どうしましたらお釈迦さまのこの簡素すぎるお言葉から悟れるのでしょうかと思わなくもないですが、とにかくアナンは悟られたそうです。

 

宇賀神先生がおっしゃいますには、

「自分は死んだらこの墓にいる、と思って死んだ人はそこに留まるし、自分は死んだら天に帰る、と思って死んだ人はこんな小さな墓には留まらない。

つまり、そんないい加減であやふやな霊(の在り方)などに心とらわれず、お修行に励みなさい、とお釈迦さまはおっしゃりたかったのだろうと思うよ。

お釈迦さまは霊の存在を否定なさった、というのが公式見解?で、雑多のことに心とらわれず、執着せず、ただただ『サイの角のようにただ独り(修行の道を)歩め』とおっしゃっていた、というのが通説だな。」

とのことです。

 

お釈迦さまの直接のお言葉は、有名なものですと「スッタニパータ」や「ダンマパダ・法句経(ほっくきょう)」と呼ばれ、岩波文庫からも「ブッダのことば」や「ブッダの真理のことば」などが出版されているようです。

(正直に申し上げます!私は全部読んで“いません”。ごめんなさーい!)

とても簡素なお言葉の羅列ですが、多分にその真意は、凡人の私には到底理解できないほど奥深いものなのでしょうと思います。

きっと色々な解釈がなされ、偉い学者さま達はそれぞれに主張なさり、それは時に相反するものであるとも思われます。

 

ですので、これはあくまでも“宇賀神先生の”解釈です。

 

宇賀神先生は、このお釈迦さまのお言葉を、

「死んだ後の霊はここにいるのかいないのか、との問いも答えも何ら真理(佛法)を導きだすものではない。

そのようなことはどうでもよいことだ。

そのようなことに心とらわれず、一心に修行しなさい。」

というふうに解釈なさいました。

 

お釈迦さまのお言葉の「その先の真意」が、宇賀神先生の解釈通りでありましても、それをお聞きしましても残念ながら、私はいまだ悟りには至っておりませんが・・・。(もちろん宇賀神先生もネ( ̄∇ ̄))

ですが、「あるという墓にはあって、ないという墓にはない」との文字通りのことに関しましては、実感したことがございます。

つまり、人は生前に自分が行きたいと思っていたところに亡くなった後行くのでは、と思うようなことです。

昨日お伝えしました私の実祖父のことのみでなく、他の例を鑑みましても。

 

(その2につづく)

 

合掌