“God bless you.”(神様の祝福がありますように。)

宇賀神先生のもとに来られる方達のご相談を垣間見させていただいていますと、お一人お一人の人生という長いドラマの一部を拝見しているようです。

どんなに栄華を極められた方も、ご自身ではどんなに平凡な人生と思われている方も、一つとして同じストーリーはなく、悲喜こもごも、嬉しいことも悲しいこともあるのが人生なのかなぁ、と思われます。

 

ときにそんな方達のお話は、私の心の中に少しの重みをもたらされます。

宇賀神先生は

「感情移入をしないように。それではプロは務まらない。」

と、おっしゃいます。

その通りだと思います。

気持ちを込めることと感情移入することは似て非なるもので、感情移入することでかえっていい結果を生まないことの方が多いような気がいたします。

 

今日も私の大好きな方から、ご相談とまではなさいませんでしたが、あるお話をお聞きしまして、その方のためにお祈りするような気持ちになりました。

その方は、信仰について悩んでおられました。

明日、その方にこの詩をご紹介しようと思います。

私はその方に、心からお幸せになっていただきたいと願っております。

「無名の南軍兵士の祈り」

大きなことを成し遂げるために

力を与えてほしいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

 

より偉大なことが出来るようにと

健康を求めたのに

より良き事ができるようにと病弱を与えられた

 

幸せになろうとして、富を求めたのに

賢明であるようにと、貧困を授かった

 

世の中の人々の称賛を得ようと、

成功を求めたのに

得意にならないようにと、失敗を授かった

 

人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いは全て聞き届けられた

 

神の意にそわぬものであるにも関わらず

心の中で言い表せないものは全て叶えられた

 

私はあらゆる人の中で

最も豊かに祝福されたのだ

数年前、偶然この詩を知りましたが、とても有名なようですね。

宇賀神先生も初めてお知りになったとき、感動して涙を流されていました。

この詩は日常の中で、つい見失ってしまいそうになる何かを思い出させてくれるような気がいたします。

 

もちろんこの詩の中の「神」とは、キリスト教の神様のことですが、ちょっと乱暴な言い方ですが、そんなのはどうでも構わないのです。

日本の八百万(やおよろず)の神様でありましても、キリスト教の神様でありましても、それは人々の信仰する心ですから。

素晴らしいものは素晴らしい。

ありがたいものはありがたい。

シンプルにそう思う人間でありたいと思います。

(と申しますより、複雑になれない単細胞なだけだったりして。)

 

宇賀神先生はお加持なさいますときに、佛さまのご真言を唱えられますが、決してご相談者様に信仰を押しつけることはなさいません。

先生は常々、人様に信仰を押しつけることは、

「小さな親切、大きなお世話」

だとおっしゃっています。

信仰とは、惚れて惚れて惚れぬくこと。

は、宇賀神先生の口ぐせです。

決して人様から「あなたはこの人に惚れなさい」と押しつけられるものではありません。

 

誰かを好きになる気持ちは、人に強制されるものではなく、自分の心の中から自然に湧いてくるもの。

損得勘定は抜きです。

神さまや佛さまを好きになる気持ちも、同じです。

ご利益があるから好きになるのではないですし、どなたを好きになるのも自由です。

 

あ、ちょっと押しつけがましいですか。

私は少なくとも、ご利益があるから好きになるという打算では、神さま佛さまを好きにはなりません。

でも打算で好きになる人もいらっしゃるでしょう。

それすら、自由です。

信仰の自由。

自由とは、「自らに由る」と書きます。

 

私は宇賀神先生の「人に信仰を押しつけない」とのスタンスは、とても素晴らしいと思います。

 

今日も、すべての善き人々の善き幸せが叶いますように。

 

合掌

 

 

追伸:金曜日から3日間、仕事の関係でブログの更新はお休みさせていただきます。

また来週の月曜日に(たぶん遅くなるとは思われますが・・・ごめんなさい。)書きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

・・・あれ、でももう日付が木曜日から金曜日に変わってしまっていますね(^-^;)

早よ寝よ。

2件のコメント

  1. この記事を読ませていただいていると、ふと遠い昔の記憶がよみがえってきました。学校にあがる前だったかもしれません。裏山に榊の木がありました。その枝をとってきて、我が家の神棚の榊立にさし、手を合わせていました。お祈りの作法をしっているわけでもなし、願い事もあるわけでもありません。誰かに言われたわけでもありません。
    日々神棚を目にし、裏山に目がいけば榊の木が、子供心の中に、何かを感じさせるものが・・今にして思えば・・あったのだろうと思います。それは何か恐れ多いもの、子供なりの信仰心が芽生えはじめていたのかもしれません。それが後々の人生にどう影響したのかな・・?
    ふと、考えてみたのです。

    1. 樫内様にいただきましたコメントのことを宇賀神先生にお話しましたところ、
      「わしら(樫内様と先生)は、縄文時代から連綿と続く自然発生的な信仰心を持つ最後の世代かも知れんね。」と、おっしゃいました。
      「榊の木がある裏山自体、もう今の時代にはほとんどの人は持っていないからね。」とも。
      懐かしく美しい光景の思い出をお教えくださり、ありがとうございます。

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