昨日は七夕でしたね。
皆さんは何か願い事を短冊に書かれましたか?
小さい頃はそう言えば、「字が上手になりますように」とか書きましたっけ・・・子供心は純粋でしたねぇ。
7月7日・七夕は、宇賀神先生が設立なさった宗教法人 佛仙道光明不動寺(ぶっせんどうこうみょうふどうじ)の創立記念日です。
先生は平成元年に宮城県・仙台市から大阪へ出てこられました。
このブログに載せておりますビデオ「佛仙道そのパワーと魅力」を撮影なさった年ですね。
その年までの約10年間は、宇賀神先生は仙台でこのお仕事をなさっていました。
まだ高野山へも上がらせていただいておりませんでしたから、気功師のような、東北地方で申しますところの“神さん業”のようなことをなさっていて、やはりすでにたくさんの信者さんがおられました。
ですが、宇賀神先生いわく、「自分の力を世に問うてみたかった。」のだそうです。
大勢の信者さんを仙台に残し、大阪へ出てこられることを決意なさいました。
地理的に考えまして、仙台から出られた場合、どうして東京を通り越して大阪まで来られたのかはちょっと不思議ですよね。
それは、先生ご自身が大阪には地縁(ちえん)がある、と思われたからです。
宇賀神先生のご両親は栃木県のご出身ですが、戦前に、まだ大阪が「大大阪(だいおおさか)時代」でありました頃、お父様がこちらに就職なさってきたそうなのです。
しかも住んでおられたところは、今の私たちの自宅から一駅となりの今里というところでした。
先生のお父様は当時は海外へも出張なさるエリートサラリーマンでいらしたそうで、その頃は裕福な生活をなさっていたそうです。
ハイカラなこともお好きで、中之島の中央公会堂のレストランで洋食を召しあがったことや、また、御堂筋のことを「飛行機が離着陸するくらいの大きな通りだった」と、幼い頃の宇賀神先生によく話されていたそうです。
その戦前の大阪暮らしの時代は、お父様にとりまして、一番華やかでお幸せな時代のようでした。
先生はそんなお父様のお話を聞かれ、自然と大阪に憧れを持たれたのでしょうか。
戦争が終わりまして後にお父様は栃木県の宇都宮市に戻られ、そこから仙台へと移り住まれ、宇賀神先生が小学校3年生のころ、お父様は事業に失敗なさいました。
先生は、それまではおあつらえの洋服を着せてもらって、“ねえや”までいらしたお坊ちゃんの暮らしから一転、貧乏な生活になられたそうです。
その落差は、さぞおつらかったと思われます。
ですので、ご両親が一番裕福でお幸せな時代を過ごされた大阪に、もしかしたらご縁があるのではと思われて、宇賀神先生は東京を飛び越えて大阪に出てこられたのですって。
また、明治以降の有名な宗教家は大阪に多かったそうで、もしかしたら宇賀神先生のようなお力を持っておられる方にお会いできるかも知れないと、期待なさったそうです。
驚きますことに、宇賀神先生は大阪に何か“つて”がおありになって来られたわけではありません。
どなたのお知り合いもなく、唐突に大阪に出てこられました。
無謀と申しますか、それともご自分によほどの自信がおありになったのか。
とにかく、お仕事をしなくても3年間は食べるに困らないだけの貯金を持って、大阪に出てこられたそうです。
ちょうど先述のビデオと同じ年の宇賀神先生ですから、若い?パワーに溢れて、怖いものはなかったのでしょうかねぇ。
ですが、大阪に出てこられたお蔭で、高野山へ上がらせていただくご縁も頂戴し、宗教法人も設立でき、今に至ります。
宇賀神先生のご性格とお力でしたら、やはり密教系、しかも真言宗が一番ご縁がありそうですが、これがもし東京でしたら、総本山であります高野山からはとても遠いですものね。
ご縁ともうしますものの妙には、いつもため息をつく思いです。
よくその細い糸をたどって、たどって、ここへ至ったものですね。
ちなみに宇賀神先生が大阪へ出ていらした当時はワタクシは14歳くらいでしょうか?
中学校2年生とおっちゃんですやん・・・その頃出会っておりましたら、恋に落ちなかったかも???
そう考えますと、この結婚はもはや犯罪ですね。
やっぱり、ご縁は妙すぎます。( ̄∇ ̄;)
合掌