「佛教」って、何のことか分かりますか?
それは、今から2500年(諸説あり)ほど前に北インドあたりのシャカ国の王子様としてお生まれになりました、ゴータマ・シッダールタという男性が、国を捨て地位を捨て家族さえも捨てて出家なさり、修行の末に菩提樹の下で瞑想なさって開かれた悟りの知恵の御教えです。
(簡単でとても分かりやすいお釈迦さまの伝記は、手塚治虫さんの描かれたマンガ「ブッダ」です。宇賀神先生も大好きです!一度図書館で借りてみてくださいー。)
私たちが「お釈迦さま」とお呼びするのは、国の名前が由来です。
「ブッダ(仏陀)」というのは「覚者」、つまり悟りを得て目覚めた者、という意味です。
2500年もの歴史がありますと様々な変遷を経ますので、日本も含めましていくつかの国に佛教は伝わっていますが、果たして全く正しくお釈迦さまの御教えが伝っているかどうかは分かりません。
正直に告白致しますが、私たちも大好きな弘法大師 空海さまが唐から持ち帰られた真言密教、これに含まれる考え方(の一部)など、お釈迦さまがご覧になられたら
「ボクそんなん言うてへんよ」
とおっしゃるかも、と心配しております。
さらに申し上げますと、今の日本人は当たり前のようにお寺さんにお参りして仏像向かってお祈りしていますが(もちろん私たちもしています)、お釈迦さまはそのようなことをせよ、とは一言もおっしゃっていません。
現代では比較的タイなどに伝わる、いわゆる上座部の佛教がお釈迦さまの御教えに近いと言われています。
ですが、そうは申しましても、日本に伝わっていますお釈迦さまの御教えも、色々と知っていきますと人生をラクに生きる考え方を教わります。
例えば、
一切皆苦(いっさいかいく)
・・・あれ?
ラクどころか、いきなり「全ては苦しみである」?
そうです、よく「四苦八苦」といいますが、これは佛教の言葉で、基本的な4+4=8つの苦しみが人生にはある、とおっしゃるのです。
一番最初の4つが、
生老病死
と言われています。
老いること、病気すること、死ぬこと、は分かりますが、生きることも苦しみであるってねぇ。
と、何だか暗い教えのようですが、そうではなく、苦を苦としてそのまま受け入れて諦めること。
佛教でいう諦めるとは「明らめる」と言う意味で、物事の真理を明らかにすることです。
例えば、年をとるのはつらいもの、ですが、人間は誰もが等しく年をとり、病気にもなり、誰一人の例外もなくいずれは死ぬ、と知りますと、「ああ、そういうものか」と諦めの境地に立てます。
「それはそういうものなんだね」「それで当然なんだね」という「あたりまえ」をあたりまえとして受け入れられると、心が少しラクになります。
・・・とかなんとか言いながら、どうしたら若さとビボーを保てるかと往生際悪くジタバタしているのが誰かとは、口が裂けても言えません。
てなことはさておき、
宇賀神先生はもちろんお釈迦さまの御教えもよくご存じで、この世をラクに生きる達人です。
自称「街中仙人」とはよく言ったもの。
いつもふらふらと楽し気に街を歩いていらっしゃいます。
そして、「誰の例外もなく人は老い、病気をし、やがて死ぬ」として、ヘンに教祖様ぶらず、ご自身の病気につきましても皆さまにお伝えしています。
確かに以前言われたことがあるそうです、特に人様の病気を治す(病苦を取り除く)お仕事もなさっているわけですから、「先生のような立場に立つ人は自分の病気を公表しないほうがいい」と。
ですが宇賀神先生は、お釈迦さまの御教えにもとづき、あたりまえのことをあたりまえとして正直に生きたいとおっしゃっています。
だからこんなににこやかに生きていらっしゃるのですねぇ。
これは私の宝物の写真です。
宝物の写真、いっぱいありますけど、独り占めしたい気持ちをグッとこらえて、皆さまにもおすそ分け♥
明日は宇賀神先生が出会われた、あたりまえのことをあたりまえに言わないと苦しい目に合いますよ、という笑っちゃいけないインドの聖者さまの例えをお話したいと思います。
合掌