つい先日、宇賀神先生の声を聞きたい聞きたいと願っている私に対して、ある人からとてもありがたいアドバイスをいただきました。
この世界の美しさ、空の青さや日の光の明るさ、自然の山の木々の美しさを心から「ああ、美しい」と感じて喜ぶ、その先に宇賀神先生の言葉が聞こえる瞬間があるのではないか、と。
そしてそれはもちろん、私自身がそう感じることで心慰められて心豊かになり、幸せに生きられることを宇賀神先生が望んでおられることでもあるのでは、ともおっしゃいました。
とても嬉しかったですねぇ。
その通りだと思いました。
悲しみでいっぱいの心で宇賀神先生の声を聞きたい聞きたいと願うのではなく、この世界の美しさに心開いている先に、宇賀神先生の心が届く瞬間もあるのかも知れないと、本当にそう思えました。
どうやら、
「宇賀神先生は一所懸命あやのさんに話しかけているんだけど、なかなか言葉を受け取ってもらえないみたい。」
というのが何人かの人達(いわゆる霊感があると言われている人達)の共通認識で、私自身も薄っすらとそう感じていて、多分真実なのかなと思っています。
ただ、
「じゃあ、宇賀神先生が一所懸命話しかけているのは分かるけど、どうやったらちゃんと受け取れるようになるのよー!」
という思いでいっぱいだったのですが、この悲しみでいっぱいの心が、逆に宇賀神先生の言葉を聞き取れなくしてるのかなと思いました。
よく、「悲しみで『閉ざされた』心」という風に表現しますよね。
たしかに、扉が閉ざされたままでは、お届け物も受け取れないよなぁ、と。
玄関先までせっかく届けてくれてても、扉を開けないことには家の中に入ってきませんよね。
でもね、言い訳したいのだけれど、悲しくて悲しくて仕方がないのですよ。
それは、どうしようもないのですよ。
あるいは、言葉で届くときだけでなく、心が直接届くときもあると思い、私自身もブログでそうお伝えしましたが、
「宇賀神先生がよくそうなさっていたように、言葉で明確に(神様や佛様や宇賀神先生と)話をしたい」
と、こだわるあまり、言葉という媒体でなく心やイメージで届いたときに受け取り拒否していたのかな、とも。
もったいない!
せっかく思いを伝えようとしてくれてたのに。
と、こんなことをぐるぐると考えていて、冒頭の人からのアドバイスに触れたときに、ひとつのことを思い出しました。
宇賀神先生が佛様の世界に帰られてから、あれは去年の初夏のことだったか、いつ頃のことだったか、はっきりと覚えていませんけれど。
ある時期、何もかもが宇賀神先生そのものであるかのように感じられたことがありました。
例えば私はいつも出かける際に玄関のドアを閉めるとき、家に向かって
「お家さん、行ってきます。後をよろしくお願いします。」
と心の中で声をかけて出かけます。
いえ、すみません、本人は正常な49歳の常識的社会人のつもりでおりますよ。
ですが、その一時期、私が「お家さん」と呼んでいる家が、家なんだけどイコール宇賀神先生でもあるような気がしてびっくりしたことがあるのです。
それと同様に、いつも乗る車や他もモノも、果ては宇賀神先生と行った近所の公園の風景(事象)や、そこに飛んでいる虫にも、宇賀神先生を感じて戸惑いました。
「こんなにたくさん、あらゆるものが宇賀神先生であるように感じて、どうすればいいのだろう。やっぱり悲しすぎて頭が混乱しているのかな。」
と本当に自分でも訳が分からなかったです。
とりあえず車さんには、
「車さん(イコール宇賀神先生)、今日も守ってね。よろしくね。」
とダッシュボードをなでなでしながら声をかけて運転してましたが。
でも公園で自分が座っているベンチや景色そのものまでもが宇賀神先生って一体・・・と。
悲しみに絶望していた私にとりましては、よく分からない感覚だと戸惑うばかりでした。
あらゆるところに宇賀神先生を感じたいと思い詰めているのかな、と、ぼんやり思っていました。
それでつい先日、冒頭の人のアドバイスをお聞きしてから、しばらくして「あっ・・・。」と気づきました。
もしかしてあれこそが、あの感覚こそが、宇賀神先生からかつて教わった
山川草木悉有仏(さんせんそうぼくしつうぶつ)
ではないかと。
ネットで検索しますと、
山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)
山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)
などと、また私の記憶とは少し違うように表記されています。
いい加減な記憶ですみません。
言いたいことは同じで(多分)、世の中のあらゆる物や事象のなかに佛様(あるいは佛性(ぶっしょう))が宿っているということなのですが。
あらゆるものの中に宇賀神先生を感じるということは、あらゆるものの中に佛様となられた宇賀神先生を感じるということで、それはつまり、神様佛様を感じることで、あらゆるものの中に神様佛様がいらっしゃるのと同じで・・・ええっと。
いや、いらっしゃると言っても例えば咲きかけている花のつぼみをこじ開けても、かぐや姫のように佛様が出てくる訳ではなくて、佛様の本質、佛性(ぶっしょう)が花の存在そのものに宿っているので、花がイコール佛様だし。
公園で見るいつもの平和な日常の風景、子供が楽しそうに遊んでいる、向こうに座って休んでいる人がいる、雀が木の枝にいる、そんな風景そのものが佛様だから思わずその風景に手を合わせそうになっていたり。
なので自分が座っている公園のベンチも宇賀神先生だから、そのベンチから立ち上がるのは宇賀神先生から離れるみたいで寂しくて、立ち上がり際にベンチをなでなでして「また来るね。」と声をかけて、「でも宇賀神先生は私と一緒に帰るのよ。だってずっと一緒だから。」と同時に思ったり。
でもベンチの宇賀神先生と、私と一緒に帰る宇賀神先生は分裂したのではなく、ぜんぶ繋がっていて、それに帰り着いた先の家も宇賀神先生だから、と。
何だかそんなような、もう自分でも訳の分からない感覚にみまわれた時期がありました。
自分で、
「可哀そうに。ちょっと頭も混乱してるよね。私はそんなにまでして宇賀神先生を感じたいんだなぁ。」
と、自分自身のことを心の中で慰めていました。
ですが、もしかしたら、その感覚が、その感覚こそが、宇賀神先生の教えてくださった「山川草木悉有仏」なのかも知れない。
きっとそうに違いないと、つい先日、気づきました。
その一時期、私は頭が混乱していたのではなく、山川草木悉有仏であるということを、頭で概念を理解するのではなく、自身の心と身体を通して実際の感覚として感じてられていたのかも知れない、そう思いました。
いえ、もしかしたら激しく間違っているかも知れませんが、もうそういうことにしてしまおうというのが今の私の本音です。
山川草木悉有仏
あらゆるものの中に佛様を見い出す
あらゆるものの中に宇賀神先生を見い出す
そしてそれは
私自身の中にも佛様を見い出す
私自身の中にも宇賀神先生を見い出す
ということは、
だから宇賀神先生とずっと一緒にいられてる!
ということなのだ。
そう思っていいんや!
(結局結論をここへ持ってきたい私。)
何か若干、結論にズレが生じてきている気もいたしますが、とにかくこの「山川草木悉有仏」という気づきは私にとりまして大きな大きな気づきとなりました。
もうすみません、きっと今日のこの記事は支離滅裂な文章になっていますよね。
ひとりで勝手に興奮して書いている気がします。
あっ、でもいいか。
「ひとりで勝手に」じゃなくて宇賀神先生も一緒だから。
(やはり結論はここ。)
いえいえ、真面目な話、あらゆるものの中に佛様は宿っておられて、その佛性を見い出したときの世界の美しさよ。
またあの感覚を思い出して、神様佛様、宇賀神先生に囲まれて繋がって私は生かされているのだと、これから先のどの瞬間もそう思って生きていけますように。
合掌