今から14年ほど前、宇賀神先生と私が本格的に湯峰温泉に通いだしましたときは、実は宇賀神先生は胃潰瘍で入院しました直後くらいで、糖尿病により片目の視力を失い、さらにもう片方も失いかけてもいて、そしてひどいうつ病状態のときでした。
そのとき先生は、病院で診断を受けたわけではありませんが(先生はあまり病院に行こうとなさいません)、明らかに人格(考え方)まで後ろ向きに変わってしまいましたほど、うつ状態でした。
人生を建設的に前に進めようとする気力もほどんど失われていました。
あまり思い出したくもありませんが、その当時は宇賀神先生がこのまま社会的廃人になってしまうのではと私が怖れてしまいますほど、先生の実情はひどい様子でした。
幸いなことにお加持のお仕事だけは何とか懸命になさっていましたが、長いお付き合いの何人かの方達は先生のご不調に少なからず気づかれていたようです。
先生は顔つきまで変わっているほどでした。
宇賀神先生が常々おっしゃっていましたのは、「自分は“氣・一元論者”だ」ということです。
今までの人生を、「氣」の強さだけで切り開いてきた、と。
まだこの仕事を始めます前に、ご自身で氣を取りそれを錬りながらお修行しておりましたとき、お不動さんに初めてお声を掛けていただきました。
「そこから先へ行こうと思うなら、密教のことも学ばないとな」
とおっしゃられ、宇賀神先生は密教の世界にも進まれました。
ですが、やはり先生のお力の原動力は氣でありますことには変わりはなく、今ももちろん温泉や氣のいい場所に行きましては、瞑想して、氣を取り込みます。
ですので、宇賀神先生が大変な窮地に立たれたました14年前のそのとき、私は宇賀神先生に温泉に通おう、と言いました。
いい温泉地で氣を取り高めるしか、先生のお身体とお心と社会的人生の回復はあり得ないと思ったからです。
ですが私が温泉に行こうと進めましても、先生には自ら行く気力がなく、
「先生は氣さえ取って元気になれたら、人生は何とでも開けるから!」
と、私が半ば強引に連れて行く、という感じでした。
ただ、そんな折に宇賀神先生がある記事で、阪神大震災によりご家族を亡くされてうつ病になられた方が湯峰温泉に通われて回復なさった、ということを知られました。
もしかしたら自分のうつも治るかもしれない、と、先生は湯峰温泉に希望を持たれました。
うつの状態って、大変なものですね。
自分でもこのままでは苦しいという思いを抱えていますのに、その窮地から脱しようという気力がどうしても持てないのです。
普通の元気さを持っているときでしたら少しの努力で這い上がることのできる穴の底に、自ら甘んじてうずくまってしまうような、そんな感じでした。
それが病気というものでしょうか。
宇賀神先生ほどの強い“生き力”をもっておられる方が、こんなにまで肩を落とされるものなのかしらと、不思議でした。
湯峰温泉に通うようになりましたとき、温泉の番台のおじさんが私たちを一目ご覧になるなり、
「この人は小栗判官、あんた照手姫や。」
とおっしゃいました。
心底びっくりしました。
彼にはどうして宇賀神先生が病んでいて、私が半ば無理やり(大八車ではなく当時のパジェロを運転して)先生を連れてきているなんて分かられたのでしょうか。
それ以来、私は彼のことを心の中でひそかに“湯峰の主”と呼んでいます。
正直に申し上げますと、宇賀神先生からまったく“うつの顔”が消えますのには、6年ほどもかかりました。
その間は湯峰温泉に本当に足しげく通いました。
もちろん他の全国の氣の強い温泉でも氣を取り、日本各地の神様や佛様の励ましもいただいて、長い時間がかかりましたが、先生はもとの力強さを取り戻されました。
まさに伝説の中で小栗判官がここ湯峰でよみがえられたように、先生もよみがえられたのです。
ちょっとだけ自慢してもいいでしょうか。
私の父が、宇賀神先生が元気になられてから後に、母やお友達グループの方達とともに湯峰温泉を訪れましたときに、歌を詠んでくれました。
「隻眼の 夫を連れて 湯峰に 通う我が子は 照手姫に似て」
なんて親バカな歌でしょうと照れつつも、本当は涙が出るほど嬉しかったです。
ありがたきは親の愛、ですね。
さて、当の宇賀神先生は、今なんて“喉元過ぎれば熱さを忘れる”のことわざそのままに、
「え、ボクはうつになってたっけ?それってウツ(いつ)のこと?」
なーんて憎たらしい冗談をさも嬉しそうにおっしゃっています。
人にさんざん心配かけといて、ね。( ̄∇ ̄)
ま、元気になってくれましたので、もうそれだけで充分ですけれどね。
明日は引き続き、湯峰温泉のお薬師さまとお不動さまをご紹介したいと思います。
さすが歴史ある温泉地の佛様です。
素晴らしい方々です。
合掌
うつの苦しさを知るものとして、奥様の行動と親御様の素晴らしい歌に感動いたしました。
ありがとうございます。
お心の痛みも、お身体の痛みと同様、他の方からは見えませんものね。
父の歌を褒めてくださいまして、ありがとうございます。